文欽

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文 欽(ぶん きん、? - 257年)は、中国三国時代軍人仲若。父は文稷、子は文鴦文虎がいる。譙国譙県出身。

目次

[編集] 経歴

[編集] 魏の勇将

父の文稷は曹操に仕えて武人として功績があった。文欽は曹爽と同じ村の出身で、父と同じく武勇に優れていた。魏諷の反乱に連座し処罰されそうになるが、父の功績に免じて許された。

魏では曹叡(明帝)の没後に曹芳を補佐し実権を握った曹爽の寵愛を受けて出世したものの、人望がなく周囲に憎まれていた。揚州刺史諸葛誕の指揮下にあったとき、王基は諸葛誕に対し、文欽には辺境を任せるべきではないと進言している。諸葛誕は文欽を嫌っていたが、そのまま手元においていた。曹爽の没落後も辺境にあり、後に揚州刺史・前将軍となった。

253年諸葛恪が大軍を率いて侵攻してきた際には、諸葛誕に代わって上司となっていた毋丘倹や合肥新城の守将の張特らと共にこれを迎撃した。数ヶ月の間、諸葛恪は張特らが守る合肥新城を力攻めにしたが、攻め落とす事が出来ないばかりか、疫病により多くの兵士が死去した。魏の太尉司馬孚が20万の兵を率いて東征すると、7月、諸葛恪は合肥新城の包囲を解いて撤退した。[1]

[編集] 反逆

しかし、曹爽亡き後の不安定な立場は変わらず、同じく司馬師の専横に不安を覚えていた毋丘倹と共に255年に反乱を起こした。楽嘉の戦いでは子の文鴦が奮戦し司馬師を追い詰めるが、文欽自身は道に迷うという失態を演じたため敗れた。元曹爽の部下の尹大目は司馬師の病状が悪化したことを文欽にそれとなく伝えようとしたが、文欽はそれに気付くことはできず、呉に亡命し、毋丘倹に呼応するため北上していた呉の軍と合流、そのまま呉に亡命する。

呉においても文欽の人望のなさは変わらず、呉の武将である朱異らと仲が悪く、常に疎まれていたらしい。ただし、呉の実権を握る孫峻孫綝には信任され、仮節・鎮北大将軍幽州・譙侯に任命され、同じく魏よりの降将である唐咨と共に呂拠追討の任にあたっている。

257年、毋丘倹に代わり揚州の都督に復帰していた諸葛誕が司馬昭を討つため反乱を起こすと、呉の将軍全端全懌・唐咨とともに諸葛誕の援軍に行き、魏軍の包囲を突破し、諸葛誕と共に寿春城に立て籠もった。しかし諸葛誕とは、魏にいた頃から仲が悪かったため、作戦をめぐって意見が対立し、最終的には怒った諸葛誕によって殺害されてしまった。その死は魏の人達を喜ばせたが、子の文鴦・文虎が直後に魏に帰順し諸葛誕攻めに加担したため、遺骸の収容と故郷への埋葬が許された。

[編集] 脚註

  1. ^晋書』景帝紀によれば、司馬師は文欽に精鋭を率いて呉軍の退路を押さえさせ、毌丘倹をその後詰めにまわした。退路を失うことを恐れた諸葛恪は退却しようとしたが、そこへ文欽が撃って出たため、呉軍は敗北を喫した。
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