王朗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王朗(おうろう、?-228年)は、中国後漢末から三国時代の政治家。元の景興。子には王粛らがいる。司馬炎の外曾祖父に当たる(王朗の孫娘の王元姫司馬昭に嫁いで、司馬炎と司馬攸らを産んだ)。

[編集] 経歴

徐州東海郡の人。最初は徐州刺史の陶謙に仕えていたが、時の皇帝に奉った上奏文を高く評価されて、会稽の太守に任命された。孫策が会稽に攻めて来ると、皇帝から任された城を守るべきだと考え、逃亡を勧める虞翻の意見を退け防戦するが、大敗し捕らえられた。

捕らえられた王朗は孫策に降伏しなかったが、教養深く謙虚な人物であったため処刑せずに許された。一族を抱え困窮したが、道義に基づく行為は目立っていた。

後に曹操に召し出されて重職を歴任し、曹丕が帝位につくと司空に任じられた。明帝の時代に司徒となる。王朗は政務に当たって寛容を旨とし、民の負担を軽くして人口を増やすことや、王宮の経費節減を行うことなどを上奏している。

228年11月に死去。諡号は成侯。

三国志演義』では、228年、曹真の軍師として76歳の高齢を押して出陣し、諸葛亮に論戦を挑んで敗北、そのショックから死去している。もちろんこの話はフィクションであるが、劉備が死去した直後、諸葛亮に降伏勧告の手紙を送り、無視されたという記述が正史にある。また、旧知の許靖にも同様の手紙を送ったが、そのころ許靖が亡くなっており、やはり返事は出されなかったようである。なお、正史には、享年は記されていない。

世説新語』徳行篇では、一度助けた男を見捨てようとして、華歆にたしなめられ、そのことから世間で華歆に劣ると見られたというエピソードがある。