プリンス・セダン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
プリンス・セダン
AISH型/AMSH型
(諸元はAISH-II型のもの)[1]
プリンス・セダンAISH-I型
Prince Sedan AISH 1952.jpg
プリンス・セダンAISH-V型
1956 Prince Sedan AISH-V.jpg
販売期間 1952年(昭和27年)-1957年(昭和32年)
設計統括 日村卓也
乗車定員 6
ボディタイプ セダン
エンジン FG4A
最高出力 45ps/4000rpm
最大トルク 10.0kgm/2000rpm
変速機 4速MT(2速以上シンクロ
駆動方式 FR
サスペンション
全長 4290mm
全幅 1655mm
全高 1632mm
ホイールベース 2460mm
車両重量 1254kg
先代 たまセニアEMS-49-III型
後継 プリンス・スカイラインALSI型
プラットフォーム 梯子型フレーム
-自動車のスペック表-

プリンス・セダンPrince Sedan)はプリンス自動車工業たま自動車)が1952年(昭和27年)3月から、1957年(昭和32年)4月まで製造・販売していた乗用車である。型式はAISH型。

なお、1956年(昭和31年)4月には、前輪独立懸架の「プリンス・セダン・スペシャル」(型式はAMSH型)も追加発売されている。[2][3]

概要[編集]

電気自動車メーカーであったたま自動車が1952年3月、初のガソリン自動車として販売を開始。その年の皇太子(今上天皇)の立太子の礼にちなんで、同時発売のAFTF型トラックと共に「プリンス」を名乗った、1,500cc級の4ドアセダンである。皇太子にも献上された。後に社名もプリンスを名乗るようになる。エンジン開発・製造は旧中島飛行機系の富士精密工業によるもの。

当時のたま自動車の設計スタッフは僅か10名程度であり、技術課の課長は田中次郎、そしてその下で具体的にプリンス・セダンの設計を取りまとめたのは、課長代理の日村卓也である。[3]

なお、日村は、桜井眞一郎がたま自動車に採用された時の直属上司である。[4]

後継車種はスカイラインである。

年譜[編集]

プリンス・セダンが発売されるまでに、旧立川飛行機の流れを汲む「たま自動車」(旧たま電気自動車)では、終戦後のガソリン統制のために、各種電気自動車を製造・販売してきた。 ところが、1950年(昭和25年)6月25日勃発の朝鮮戦争により、GHQによるガソリンの統制が解除され、比較的容易に購入出来るようになり、逆にバッテリー原料の一つである鉛の価格が、最終的には約10倍に高騰した。[3]

このため、電気自動車は無意味な存在となり、たま電気自動車ではガソリン・エンジン車の製造・販売に活路を見出す事となった。その結果生まれたのが、このプリンス・セダン(AISH型)と、同時発売のプリンス・トラック(AFTF型)である。 終戦後からの、たま自動車(社名は立川飛行機→東京電気自動車→たま電気自動車→たま自動車→プリンス自動車工業と変遷)がプリンス・セダンを発売し、スカイラインモデルチェンジするまでの略歴は、以下の通りである。[2][3]

なお、最終的に1966年(昭和41年)の8月に、日産自動車に吸収合併されたプリンス自動車工業のもう一つの源流である中島飛行機系の富士精密工業の、プリンス自動車工業(旧たま自動車)との合併前の年譜については、ここでは大幅に省略した。


  • 1946年(昭和21年)11月 - 立川飛行機(株)、電気自動車試作完成(EOT-46型) ※オオタ号トラックのボディ、シャシーにモーターとバッテリーを搭載したもの。
  • 1946年(昭和21年)12月 - 電気自動車部門、立川飛行機と分離し、高速機関工業府中工場として活動開始
  • 1947年(昭和22年)4月 - 電気自動車正式トラック、「たま」EOT-47型1号車完成
  • 1947年(昭和22年)6月30日 - 東京電気自動車(株)設立
  • 1947年(昭和22年)8月 - 電気自動車「たま」E4S-47型乗用車発表
  • 1948年(昭和23年)3月25日~30日 - 自動車技術会電気自動車性能試験で、「たま」が総合成績第一位
  • 1948年(昭和23年)6月 - 電気自動車「たまジュニア」E4S-48型乗用車完成
  • 1948年(昭和23年)9月 - 電気自動車「たまセニア」EMS-48型乗用車完成
  • 1948年(昭和23年)10月17日 - 第二回電気自動車性能試験にて、「たまセニア」総合成績第一位
  • 1949年(昭和24年)2月、石橋正二郎、東京電気自動車(株)に出資、会長となる
  • 1949年(昭和24年)11月30日 - 東京電気自動車(株)、たま電気自動車(株)と改称
  • 1950年(昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争勃発
  • 1950年(昭和25年)9月 - たま電気自動車(株)と富士精密工業(株)、自動車用ガソリンエンジン開発交渉開始
  • 1950年(昭和25年)11月 - たま電気自動車(株)と富士精密工業(株)、エンジン開発交渉成立
  • 1951年(昭和26年)4月 - 石橋正二郎、富士精密工業(株)の経営権を獲得し、会長となる
  • 1951年(昭和26年)5月 - たま電気自動車(株)、高速機関工業(株)と提携、仕掛り中の電気自動車の車体にオオタのエンジンを載せ、オオタ・ブランドで販売する事となる
  • 1951年(昭和26年)6月 - 電気自動車の生産中止
  • 1951年(昭和26年)10月 - 富士精密工業(株)、4気筒OHV1500ccエンジン「FG4A型」完成(このエンジンは年々改良が加えられ、最終的には「G1型」と呼称されて1968年(昭和43年)まで、スカイライン等のプリンス車に使用される)
  • 1951年(昭和26年)11月 - たま電気自動車(株)、富士精密製FG4A型エンジン搭載のトラックAFTF型試作車完成
  • 1951年(昭和26年)11月 - たま電気自動車(株)、たま自動車(株)と改称
  • 1952年(昭和27年)2月15日 - たま自動車(株)、ガソリン乗用車AISH型試作車完成、試験走行もそこそこに、僅か8日後には運輸省の認証試験を受ける(しかも、試作2号車は後日東京工業大学に公用車として販売してしまう程の無謀さであった)
  • 1952年(昭和27年)3月7日~9日 - 東京京橋ブリヂストンビルにて、プリンス・セダンAISH型とプリンス・トラックAFTF型の発表展示会開催
昭和27(1952)年3月、東京京橋ブリヂストン・ビルにおける、プリンス車の発表展示会にて、たま自動車(株)首脳陣。左から、外山保(専務。元立川飛行機試作工場長)、鈴木里一郎(社長)、石橋正二郎(会長。ブリヂストン社長)、石橋幹一郎(常務。正二郎の長男)。


  • 1952年(昭和27年)8月 - プリンス・セダンとトラック、富士登山キャンペーン。それぞれ2台ずつで河口湖のホテルを出発し、富士山五合目まで1時間20分、海抜2400mまでの道なき道をトラブル無しで走破
昭和27(1952)年8月、たま自動車(株)による、プリンス・セダンAISH型(前方2台)とプリンス・トラックAFTF型(後方2台)の富士登山キャンペーンにて。


  • 1952年(昭和27年)11月 - たま自動車(株)、プリンス自動車工業(株)と改称
  • 1953年(昭和28年)4月 - プリンス・ピックアップ(貨客兼用車)AFPB型発売
  • 1953年(昭和28年)6月 - プリンス・セダンAISH-II型、プリンス・トラックAFTF-III型発売
  • 1953年(昭和28年)11月 - プリンス自動車工業(株)とプリンス車のエンジンを供給していた富士精密工業(株)、合併契約(1対1の対等合併ではあるが、富士精密を存続会社とする)
  • 1953年(昭和28年)12月 - 通産省主催の第一回乗用車性能試験に参加、
  • 1954年(昭和29年)4月10日 - プリンス自動車工業(株)と富士精密工業(株)、合併(ここで一旦、「プリンス自動車工業」の社名は消える)
  • 1954年(昭和29年)6月 - プリンス・セダンを皇太子(今上天皇)に献上
昭和29年(1954年)、皇太子明仁親王(今上天皇)と妹君の清宮貴子内親王、皇太子のプリンス・セダンAISH-II型とともに。


  • 1954年(昭和29年)11月 - プリンス・セダンAISH-III型、プリンス・トラックAFTF-IV型発売
  • 1955年(昭和30年)1月 - プリンス・セダンAISH-IV型発売
  • 1955年(昭和30年)4月1日 - キャブオーバー・トラックAKTG-I型発売
  • 1955年(昭和30年)10月 - プリンス・セダン・デラックスAISH-V型発売
  • 1956年(昭和31年)3月 - 前輪ダブルウィッシュボーン式独立懸架プリンス・セダン・スペシャルAMSH型発表
  • 1956年(昭和31年)4月20日 - 第三回自動車ショウに、大型乗用車BNSJ型出品
  • 1956年(昭和31年)6月 - プリンス・コマーシャル・バンAIVE-I型発売
  • 1956年(昭和31年)7月 - プリンス・トラックAFTF-VI型、キャブオーバー・トラックAKTG-III型発表
  • 1957年(昭和32年)4月24日 - プリンス・スカイラインALSI型発表

派生型(コマーシャルバンとコマーシャルピックアップ)[編集]

1956年(昭和31年)6月、プリンス・セダンを基にした商用車である、プリンス・コマーシャルバン(AIVE-I型)プリンス・コマーシャルピックアップ(AIPC-I型)が発売された。[2][3]

ここでの「ピックアップ」とは、日産ダットサン・トラックの車種の呼称と同様、前後2列の座席を持つトラックを指す、ダブルピックアップの事である。

これらは、それまで発売されていたプリンス・ライトバン(AFVB型)や、プリンス・ピックアップ(AFPB型)が、プリンス・トラック(AFTF型)を基にしたトラック・ベースの車両であるのとは違い、純然たる乗用車(セダンAISH型)ベースのライトバンとトラックである。

乗用車ベースの商用車としては、他社でも既に、日産のダットサン110型セダンを基にしたダットサン・トラック120系(1955年=昭和30年1月発売)や、トヨタトヨペット・マスター(RR型)を基にした初代トヨペット・マスターラインRR10系(1955年=昭和30年12月発売)が登場していた。

コマーシャルバンAIVE型と、コマーシャルピックアップAIPC型は、初代スカイラインALSI型の派生型で商用車版であるスカイウェイ・ライトバン(ALVG型)と、同じくピックアップ(ALPE型)に、1959年(昭和34年)4月に交代した。つまり、プリンスとしては、初代スカイラインALSI型が先代プリンス・セダンと交代してから2年間近く、乗用車ベースの商用車に限っては、プリンス・セダンを基にしたライトバンとピックアップが継続販売されていた事になる。[3]よって、プリンス・セダン系列の車両は、延べ7年間の命脈を保った事になる。

逸話[編集]

コラムシフトのシャフト折れ多発と対策[編集]

1952年(昭和27年)10月に、後にスカイラインの開発責任者となる桜井眞一郎がたま自動車に入社したが、最初に上司(設計課長代理)の日村卓也から命ぜられた仕事は、プリンス・セダンのコラムシフトのシャフトの設計変更だった。

その頃、プリンス・セダンのコラムシフトのシャフトが折れる不具合が多発していた。

日村は、折れるのは強度不足のせいだから、シャフトを太くすればいいと主張し、新人で部下の桜井は、細くしてしなりを持たせればいいと主張。

両者は譲らず、しかも課長代理と新人では当然後者が引き下がるべきところではあったが、桜井は、自分で分析して出した結論に自信を持っていたので、もし自分が間違っていたのならクビになってもいいやと開き直る事にし、細い対策品を作って試したところ、ピタリとシャフト折れの不具合は止んだ。

これにより、元々桜井を「将来モノになるだろう」とふんでいた日村は、益々桜井を認めるようになったという。[5]

桜井は生前、プリンス時代の最も尊敬する上司として、中川良一と、日村の二名を挙げていた。[4]

タクシーの板ばねのゴム製ブッシュ破損多発と対策[編集]

プリンス・セダンAISH型のタクシー車両群。

1952年(昭和27年)11月に、日本交通で大量にプリンス・セダンを採用した。[6]

すると、サスペンションのばねのゴム製ブッシュ(たま/プリンスの会長の石橋正二郎が社主であったブリヂストン製)が破れるという不具合が多発した。

そこで、入社後、設計課長代理日村卓也からサスペンション担当を命ぜられていた桜井眞一郎は、毎日のように市谷の日本交通のタクシーの溜まり場に行き、タクシーの運転手らに叱られながら部品交換を行った。

桜井は、上手にブッシュを抜ける工具まで自作して対応したが、根本的な対策をするために、自らゴムの勉強を開始した。

桜井は四日市市の東海護謨工業(現東海ゴム工業)に毎月一回夜行列車で通い、同社の小林雄二という人物に話を持ち掛け、二年間二人とも無報酬で研究し、何とか破れないラバー(ゴム)・ブッシュを完成させ、それが自動車の防振技術に寄与する事となった。(当初東海ゴムではブリヂストンに対する気兼ねがあったが、これを機に、プリンスは東海ゴムにだけはゴム部品を発注出来る事になったという。)[4]

出典[編集]

  1. ^ プリンス・セダン AISH-II型(自動車技術会公式サイトより)
  2. ^ a b c 荻友会編 『「プリンス」荻窪の思い出 - II』 私家版 1997年11月16日刊
  3. ^ a b c d e f 桂木洋二著 『プリンス自動車の光芒』 2003年10月22日 グランプリ出版刊 ISBN 4-87687-251-1
  4. ^ a b c 桜井眞一郎著『スカイラインとともに』神奈川新聞社 2006年4月 ISBN 978-4876453740
  5. ^ 芸文ムック 第536号 『ノスタルジックヒーロー別冊 プリンス&スカイライン』 2006年12月30日 芸文社 ISBN 4-87465-837-7
  6. ^ 日本交通公式サイト 沿革ページ

外部リンク[編集]