武藤金義

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武藤 金義
1916年8月18日 - 1945年7月24日
Kaneyoshi Mutoh.jpg
渾名 「空の宮本武蔵」「ムトキンさん」
死没地 豊後水道
軍歴 1935年6月1日-1945年7月24日
最終階級 中尉

武藤 金義(むとう かねよし、1916年8月18日 - 1945年7月24日)は、大日本帝国海軍所属のエース・パイロット

[編集] 経歴

1916年(大正5年)、愛知県に生まれる。1935年(昭和10年)6月1日、呉海兵団に入団、駆逐艦浦波に乗艦。半年後の1935年(昭和10年)12月23日、第32期操縦練習生に採用され、翌年、1936年(昭和11年)7月に卒業。大村航空隊での延長教育を経て、1937年(昭和12年)10月、日中戦争開始で上海に進出中の第一三航空隊に配属される。同年12月4日に南京上空で、中華民国国軍I-16戦闘機1機を撃墜したのが初戦果。初撃墜直後の12月12日に、同じく中国大陸で展開中の第一二航空隊に異動したが、そのまま南京南昌漢口攻撃等で活躍を続ける。武藤は中国大陸で中華民国機を合計5機撃墜し、日中戦争における撃墜王となる。

太平洋戦争開戦時は第三航空隊に所属。 1941年12月8日フィリピンのクラークフィールド飛行場攻撃時には飛行隊長横山保大尉の2番機を務める。

1942年4月からは元山海軍航空隊第二五二航空隊)に所属し基幹搭乗員として新人の練成にあたるとともに、ラバウル、ソロモン航空戦を戦い抜いた。

1943年からは横須賀海軍航空隊で教官として新人の訓練や新型航空機のテストパイロットをしていた。同年10月21日、妻の喜代子と結婚。 1944年6月八幡空襲部隊の一員として硫黄島に進出。同僚の坂井三郎少尉らと共に米海軍第58任務部隊の空母艦上機のグラマンF6F戦闘機群と迎撃戦を迎えた。

1945年2月17日厚木基地上空に大量に飛来したグラマン編隊の一部12機にオレンジ塗装の試作紫電単機で挑み、2機撃墜の戦果を挙げた。この戦闘は基地からも見え、まるで一乗寺下り松の決闘を思わせることから「空の宮本武蔵」との異名を取ることとなった。

同年6月末、坂井三郎少尉との交換という形で第三四三航空隊戦闘301飛行隊に異動。4月15日に戦死した杉田庄一上飛曹の代わりとして菅野直大尉の護衛役となることが期待された。

1945年7月24日呉軍港空襲のため200機のアメリカ軍艦載機が来襲。これを迎撃するため、20機の僚機とともに大村から出撃し、武藤は激戦の中で消息を絶った。(この日は指揮官鴛淵孝大尉など6名が行方不明となっている)。戦死認定後、中尉に昇進。

彼の死について坂井三郎は、彼が自分の身代わりになって死んだのではないかと終生気に病んでいたという。

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