菅野直

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菅野直
1921年9月23日 - 1945年8月1日?
Naoshi Kanno.jpg
渾名 「ブルドッグ」
「イエローファイター」
「菅野デストロイヤー」
生誕 日本の旗 大日本帝国 朝鮮竜口
死没 日本の旗 大日本帝国 屋久島近海
軍歴 1941年 - 1945年
最終階級 海軍中佐
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菅野 直(かんの なおし、1921年9月23日 - 1945年8月1日?)は、太平洋戦争期の日本海軍戦闘機搭乗員。宮城県伊具郡枝野村(現角田市)出身[注釈 1]海軍兵学校70期、第38期飛行学生。最終階級は中佐。戦闘機搭乗員 ・戦闘機隊隊長として活躍した。

生涯[編集]

幼少-中学[編集]

菅野直は警察署長だった父親と厳しい母親の元、菅野家の次男として生まれた。優等生であった兄を尊敬し仲が良く喧嘩はしなかった。母の代わりに7つ上の姉を慕っており中学1年まで添い寝してもらっていた。幼少のころは兄や姉には従順であったが外では明るく喧嘩が強いガキ大将であった[2]。兄がいじめられると敵打ちに向かう強気な一面も持ち合わせていた[3]。7,8歳のころに近所の猛犬と格闘になり最後にナイフでつき殺したこともあった[4]

角田中学校へは一番の成績で入学した[5]。中学に入っても喧嘩は強く、やることも奇抜であったという[6]。中学では、石川啄木に傾倒して短歌を詠むことを好み、同級生と文学サークルまで作るほどの文学少年となった。また当時河北新報の文芸欄に短歌を投稿し入選した事もあった[7]。当時の同級生もどちらかというと文系男子(軟派)であったと話す[8]。中学4年の時、受験勉強に励んでいたが家の経済的な事情から、自分は軍に入るから兄は大学へ進学するべきだと譲った[9]

海軍士官に[編集]

1938年12月、海軍兵学校へ入校(70期)。1943年2月、第38期飛行学生。飛行学生を卒業後に戦闘機専修となり、大分海軍航空隊で教育を受ける。

訓練中の模擬空戦で、他の者たちは教官に後ろを簡単に取られたが、岩下邦雄教官との模擬空戦で、菅野は負けず嫌いからぶつかるほどぐいぐい接近し、岩下が危険と判断して緩めた隙に岩下の後ろを取った[10]。岩下は、菅野は兵学校ではおとなしく目立たない男だったが、訓練時の印象から乱暴なイメージが残っていると話す[11]。まだ垂直旋回を訓練中のころに教科書を読んで勝手に宙返りをやっていた[12]。射撃の成績も優秀ではあったがあまりにも標的に接近するため周囲は危険を感じたという。また着陸禁止の場所に着陸し機体が転覆したことがあったが、とっさの判断で体をさばいて脱出し無事であった。飛行学生の時だけで、着陸の際に飛行機を4、5機は壊したという。菅野の破天荒ぶりは他の航空隊にまで広まり、「菅野デストロイヤー」という渾名がついていた[13]

菅野は飛行学生時代の写真の裏に「stant(スタント)ハ終ワッタ」と書いている[14]

南方戦線[編集]

1944年4月第343海軍航空隊(初代、通称「隼」部隊)分隊長として南洋に進出。菅野は24機を連れ木更津からテニアンへ空輸任務へ向かったが途中、はぐれて不時着した機体があり、報告などを済ませた後に1機で捜索に向かった。小林中尉が誰か連れて行くことを勧めると列機が気にかかって見張りに集中できないと答えたという。小林は「ろくでもない指揮官も多かったが、菅野は稀にみる立派な指揮官であった。」と話す[15]。パラオでは大型重爆攻撃機を迎撃する日々を送り、菅野は対大型爆撃機戦法を考案した[16]

1944年7月10日343空解隊後に第201海軍航空隊戦闘306飛行隊の分隊長を任ぜられる。菅野は部下を訓練で猛烈にしごくが、それ以外は自由にさせていた。部下の笠井智一らが喧嘩した際、喧嘩の相手が憲兵隊長であり、当事者を差し出すように言われたが菅野は「そんなやつは知らん、部下は渡さない」とそれを断った[17]。しかし、再三訪れて来るため、菅野は部下を連れヤップ島に移動し派遣隊として7月10日から23日までアメリカ陸軍爆撃機B-24迎撃任務に当たる。派遣隊は撃墜17機(不確実9)撃破46機の戦果を上げて1航艦司令長官から表彰を受けた[18]。この戦闘では零戦を駆りB-24の垂直尾翼に乗機の主翼を引っ掛けて吹き飛ばし撃墜。また、一度に二機のB-24を撃墜したこともある。ここでも対大型重爆攻撃機の戦法が用いられ効果を発揮した[19]。部下の松尾、富田がB29に体当たりした際には菅野の進言もあり、1945年2月1日、両隊員の2階級特進が認められている[20]

菅野は内地に長く帰っておらず戦地勤務が最も長かったこともあり、201空が受領する零戦52型のテストのため群馬県太田市中島飛行機小泉製作所へ向かうように命令される。菅野は「それではもうすぐ始まるであろう大きな戦いに間に合わないかもしれない」と抗議するが、認められなかった。内地の製作所に着き待たされると、前線が欲する機体が並んでいるのに技術者が安穏としている様を見て腹を立てて棒で殴ったという[21]。内地で受領した零戦をフィリピンへ持ち帰る際、基地を間違え着陸しそこの司令に叱責された為、菅野はエンジンを全開にしてプロペラの風圧で指揮所のテントを吹き飛ばし去って行ったという[22]

菅野が内地に行っている間、1944年10月レイテ沖海戦において最初の特別攻撃隊の隊長として菅野と海軍兵学校同期で201空301飛行隊分隊長関行男大尉神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として任命された。神風特攻隊を編成した201空副長・玉井浅一中佐は選考の際「菅野がいればな・・・」と言っていた[23]。菅野は関の特攻出撃を聞くと「自分がいれば関のところをとるんだったんだがなあ…」と寂しげに呟いたという。また再三特攻に志願したが、その技量の高さから直掩、制空に必要なため認められなかった[24]。しかしセブに飛行機を空輸し帰る際、部下から特攻隊員を出すように言われたが断固として拒否し、部下を出すくらいなら自分がいくと言って諦めさせた。本人の意思を伴わない特攻を嫌ったとされる[25]

帰還すると第2神風特攻隊忠勇隊の援護任務に志願する。201空飛行長・中島正へ特攻戦果を報告すると「戦果が大きすぎる何か勘違いしていないか、レイテへ行って本当に体当たりをしたのか、本当に目撃したのか。」などと言われた。その言いぐさに菅野は怒り腰の拳銃をそのまま5発、床に発砲した。他の隊員たちもあの言いぐさはないと憤っていた。菅野自身の右足親指を銃弾がかすめたが、発砲は暴発の扱いで済んだ[26]。酒で特攻の憂さ晴らしをしていると搭乗員宿舎に司令部から「やかましい」と苦情が来たが、菅野は「明日の命も分からない搭乗員に何を言う」と怒鳴り黙らせたこともあった[27]。菅野は特攻機の直掩・戦果確認を務める際はわれわれも特攻精神でいくと、自身と部下が落下傘を装備することを禁止した[28]

前線基地のセブ島に着陸した際、機体不足の現地部隊に零戦を取られる。中攻でマニラへ帰還することになるが、P-38に襲われ「もう駄目です、皆さん、諦めてください」と中攻操縦士が告げると菅野分隊長が「どけ、俺がやる」と経験のない中攻操縦を交代し敵機の追撃を振り切りルバング島へ不時着、脱出直後中攻は爆破された[29]ルバング島で救援の到着するまでの数日間、原住民に対して「俺は日本のプリンス菅野だ」と名乗り原住民の敬愛を集め、島の王様の様に過ごした[30]

菅野ら17人は次の任地への異動が決まったが、玉井中佐が「特攻を行う」と招集をかけた。他が向かおうとするので菅野は「移動が決まったんだ、もう行く必要はない」と引き留め、輸送機の手配を進めてフィリピンを後にした[31]。内地に帰還した菅野は新たに編成された第252海軍航空隊に編入され、桜花 (航空機)の直掩任務を与えられる。しかし桜花を搬送していた輸送船が沈没したこともあり取りやめとなった[32]

第343海軍航空隊[編集]

343空時代の菅野の愛機、A15号機

1944年末に開隊する2代目第343海軍航空隊(通称「剣」部隊)の戦闘301飛行隊「新選組」隊長に着任。剣部隊司令は源田実。剣部隊は司令の着想で編成された部隊であり、最新の紫電改を装備、編隊空戦の徹底、通信の強化といったことから、菅野を含む隊員達は翌年初より猛特訓を受けることになる。剣部隊という名称は菅野と八木隆次の命名(公募によって選出、景品の万年筆は加藤種男に譲った)。[33]。菅野は剣部隊の3人の隊長の中で一番若く、やんちゃで豪気であった[34]。菅野は自らの紫電改に敵をひきつけるため黄色のストライプ模様を描いた。他の隊長もそれに倣った。山田良市によれば色は白であったという[35]

菅野は源田司令を慕っており源田司令も菅野ら隊員を大切にしていた。菅野と隊員らが海軍クラブで騒いでいるとやかましいと何度も文句を言ってくる者がいるので、菅野は「何がやかましい」と襖を開けると少将と何人かの佐官参謀がいた。他の者が青くなる中、菅野はテーブルの料理を蹴飛ばしその上に座り込んだ。少将が「もういいだろ、帰れよ」と嗜めたため帰るが、翌日その少将が基地で源田司令と談笑しており、源田は菅野らを見ると「お前ら昨日は元気が良かったそうじゃの」と声をかけただけでその件は問題にならなかった[36]。また、菅野が宮崎勇を連れ無断外出をして温泉へ行った際、源田司令と温泉ではち合わせたことがあった。無断外出は明らかな違反行為で小さくなった2人に対し、司令は「温泉はいいのう、気をつけて帰れよ」と声をかけ咎めることもなく、菅野は「さすがオヤジ(源田司令の隊内での愛称)だ」と感心した様子だったという[37]

菅野の隊の撃墜王杉田庄一は菅野を慕っており菅野の悪口を言うものがいれば殴りかかって行った[38]。杉田が戦死した時、菅野は誰が見ても分かるほど落ち込んでいたという[39]。源田司令は菅野に杉田に劣らない僚機を迎えると約束したが難航し、菅野も気を使い「もういいですよ」と言ったが、司令はそれでは菅野も近く死んでしまうと感じており武藤金義が編入されることになった。武藤は司令に「私が来たからには菅野は死なせません」と約束し、その約束を守り抜いたが戦死した[40]

343空(剣部隊)に所属してからは特攻へは行かないと周囲に話していた。フィリピンで特攻を指揮していた中島正が343空副長に着任した際に343空も特攻へ使われるのかと不安が漂ったが、菅野が源田司令に働きかけて中島を早々に転任させている[41]

343空の初陣である3月19日松山上空戦では敵機1機を撃墜直後に自身も撃墜され、顔にやけどを負い落下傘降下し電線に引っ掛かり助かるが、敵と間違われ地元民に鎌で追っかけまわされたという[42]。大型爆撃機 B29の迎撃任務にあっては菅野の考案した対大型爆撃機の戦法が効果を発揮し部下と共に多数を撃墜、敵から恐れられた[43]。しかしその戦法の高い危険性から林隊長、鴛淵隊長からは賛意を得られなかった[44]

最後の戦闘[編集]

1945年8月1日九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊迎撃のため、隊長菅野以下紫電改20数機は大村基地を出撃した。屋久島近くに達すると島の西方にB-24の一団を発見し敵上方より急降下に入った。菅野はこの日、愛機の「343-A-15」号機ではなく「343-A-01」号機での出撃であった。

この戦闘で菅野から戦闘第301飛行隊所属堀光雄飛曹長の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と入電が入った。これを聞いた堀が自機のはるか下方を水平に飛ぶ菅野機を発見し即座に近づいたところ左翼日の丸の右脇に大きな破孔を発見した。すぐさま戦闘を中止し菅野機の護衛に回ったが、菅野は敵の攻撃に向かうように再三指示した。堀がそれでも護衛から離れないので菅野は拳を突き付けて見せ、堀は攻撃に戻った。堀はその瞬間にそれまで怒りの形相であった菅野の表情が和らいだのを見たという。菅野から「空戦ヤメ、全機アツマレ」と入電があったため、堀は菅野がいると思われる空域へ向かうが、途中再び「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」と入電がされる。菅野機は空のどこにも見つからなかった。燃料の続く限りの捜索、海軍基地、陸軍飛行場にも菅野の行方を探ったが見つかることはなかった。この日の戦闘で菅野機を含む3機が未帰還となった。

同日のアメリカ軍の戦闘記録によると当のB-24の一団は敵機撃墜0と報告している。近隣空域でP-51の一団が陸軍疾風と空戦し4機撃墜を報告しており、日本に同空域での疾風戦闘記録がないため、機体、戦果の誤認から343空のこの戦闘とも考えられる。志賀淑雄の8月10日付見認証書には菅野の戦死を「1015 高度6千メートル優位より6機のP51の奇襲を受け壮烈なる戦死を遂げたり」と記載されている。しかし最後に菅野を見た堀光雄はP51を見ていない。菅野は撃墜なのか自爆なのかなどは戦後も不明のままである[45]

菅野の行方も生死も不明のまま終戦を迎えた。9月20日源田は菅野を空戦での戦死として二階級特進を具申し、8月1日の戦死と正式に認定され中佐に昇進した[46]

遺品として存命中に愛用していた財布が靖国神社の遊就館に展示されている。

人物[編集]

菅野は敵を見つけると列機に構わず突っ込んで行く人であった[47]。空戦では故障機に乗った部下をかばいながら戦うこともあり[48]、常に最前線で戦い危ういところへ参入し列機を逃がす間、自身は最後までそこへとどまった[49]。菅野は南方戦線において個人撃墜破30機、343空において個人撃墜18機・協同撃墜24機を記録、計72機撃墜を全軍布告された[50]

菅野は階級や権威で従えようとすれば反発し、放任すれば軽蔑されるため扱いの難しい人物だったとされる。しかし菅野は343空司令源田実大佐には心服しており反骨者の菅野が腐ることなく抜群の働きができたのは源田のように戦闘以外で寛容な指揮官の下であったためだろうと菅野の同期友人は戦後語っている[51]。源田も菅野を気に入っておりいなくなった時は弟を失ったように感じたという[52]。また剣部隊の3人の隊長(菅野、鴛淵孝林喜重)は兄弟のように仲が良かった。菅野は林と我慢比べをしB29空襲下で退避せず談笑していたこともある[53]。部下思いの人で怪我をしたものに対して弟に対するように気遣い、怪我が治るまで復帰を認めなかった[54]

中学時代の友人は、戦後菅野の活躍を聞くと彼らしいと思う反面、その通りだがもっと別の、早熟な文学少年としての本来の志は文学にあったように思う、中学時代に彼が熱く語った石川啄木に重なると語る[55]。他にも343空の菅野は酒に強く態度が荒く、中学とのギャップに驚いたという者もいる[56]。343空隊員と親しい今井琴子夫人によれば、菅野は「俺にカアちゃん(嫁)を見つけてくれよ」「ゆっくり落ち着ける家庭がほしいな」と言っていたことがあるという。相手はいくらでも見つかったが、菅野には自分がいつ死ぬか分からないので、残す妻を作るわけにもいかないという気持ちもあり葛藤しているようであったという[57]。中学の級友への手紙には「君のように大学で研究に没頭できる生活が羨ましい、戦争が終わったら俺もそういう静かな生活を送りたい」と書いている[58]

源田実司令によれば勇猛果敢で戦術眼もあり、戦闘技量も抜群で343空(剣部隊)を編成する時真っ先に頭に浮かんだ人物である」と話している[59]。品川淳大尉(343空整備分隊長)は菅野の着任した際の印象として「傲岸不遜、上級者を上級者と見做さない異色さがあった」と話している[60]。田中弘中尉(2番機)によれば「頭も腕もいい、短気な面があるがさっぱりしている」。田村恒春によれば「闘志だけでなく緻密。空戦がうまく気風もよくて遊びも豪快」。桜井栄一郎上飛曹によれば「気さくで階級にこだわらない人」[61]

エピソード[編集]

  • フィリピンで敵機銃弾を受けた際、大腿部からの摘出手術で麻酔なしで臨むと希望したが痛みから途中で一時中止してもらい瞑想し気合を入れると、えぐり出し縫合を終えるまで表情を変えず一言も発しなかったという[62]
  • 実戦経験のない松村正二大尉が分隊長として横須賀で訓練中の343空(剣部隊)301飛行隊に配属された際には「挨拶代わりに古いパイロットを殴れ」と言った。戦地を経験した部下が多いため、松村がなめられないようにと思ってのアドバイスであった[63]
  • 菅野の遺言で残したものはほぼ焼却されたが中学3年3学期から海軍兵学校合格まで(1937年1月1日-1938年11月9日)の日記が残っている[64]。1938年9月14日「ナポレオンが僕の興味を沸き立たせないのは、彼はもののあわれを知らない唯物論者であるからだ」など早熟な感性からの視点がうかがえる[65]
  • 大型重爆攻撃機の邀撃には直上方より行けというのが菅野の戦法だった。前方高度差を1000メートル以上取り、背転し真っ逆さまに垂直で敵編隊に突っ込み死角となる真上から攻める。しかし敵との衝突を避けるため尾部を通っているとそこに弾幕を準備されたため、主翼前方を抜けることにした。敵銃座から射撃されない位置だが衝突の危険が高く、高い反射神経と恐怖に打ち勝つ精神力が求められる攻撃であった。この方法で部下と何機も落とし、菅野の機体の黄色のストライプ模様から米軍パイロット達の間では「イエローファイター」と渾名され怖れられていたという[66]。またこの戦法は同期の森岡寛に菅野から伝授され、302空で訓練され1944年11月からの迎撃戦で威力を発揮した[67]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 生誕地は父の赴任先である現北朝鮮平壌に近い竜口。両親ともに宮城県角田近辺の人で、菅野直が物心ついてから育った地でもあることから宮城県角田が出身地とされる[1]

出典[編集]

  1. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p35-36
  2. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p40-41
  3. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p25
  4. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫p362
  5. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p22-23
  6. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p45
  7. ^ 豊田穣『新蒼空の器 大空のサムライ七人の生涯』光人社 40頁
  8. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p22-25
  9. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p77
  10. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p264-267
  11. ^ 丸編『最強戦闘機紫電改』光人社p170
  12. ^ 御田重宝『特攻』講談社229頁
  13. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p268-272
  14. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫前書き
  15. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p276
  16. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p280-282
  17. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p284-285
  18. ^ 神立尚紀『零戦最後の証言〈2〉大空に戦ったゼロファイターたちの風貌』光人社NF文庫p402-403
  19. ^ 豊田穣『新蒼空の器 大空のサムライ七人の生涯』光人社 11-16頁
  20. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p288、神立尚紀『零戦最後の証言〈2〉大空に戦ったゼロファイターたちの風貌』光人社NF文庫p402-403
  21. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p301-306
  22. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p19-20
  23. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p297
  24. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p303-304
  25. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p328
  26. ^ 零戦搭乗員の会『零戦かく戦えり』文春ネスコp334、森史郎『特攻とは何か』文春新書p185-190
  27. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p20
  28. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p316
  29. ^ 神立尚紀『零戦最後の証言〈2〉大空に戦ったゼロファイターたちの風貌』光人社NF文庫p409
  30. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p321
  31. ^ 森史郎『特攻とは何か』文春新書254-255頁
  32. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社164頁
  33. ^ 渡辺洋二『決戦の蒼空へ―日本戦闘機列伝』文春文庫p132、ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング55-56頁
  34. ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』光人社NF文庫p218
  35. ^ ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング214頁
  36. ^ 宮崎勇『還って来た紫電改―紫電改戦闘機隊物語』光人社NF文庫219-220頁、碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p20-21
  37. ^ 宮崎勇『還って来た紫電改―紫電改戦闘機隊物語』光人社NF文庫280頁
  38. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社179頁
  39. ^ 宮崎勇『還って来た紫電改―紫電改戦闘機隊物語』光人社NF文庫258頁
  40. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫352-353、360頁
  41. ^ ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング211頁
  42. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社165頁
  43. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社169、176-177頁
  44. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p407-408
  45. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p30
  46. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社180-181頁
  47. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社170頁
  48. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p315-316
  49. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫363-364頁
  50. ^ 全軍布告第214号
  51. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社178-179頁
  52. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫364頁
  53. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫346-347頁
  54. ^ 渡辺洋二『決戦の蒼空へ―日本戦闘機列伝』文春文庫p130-132
  55. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p23-24
  56. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p26
  57. ^ 宮崎勇『還って来た紫電改―紫電改戦闘機隊物語』光人社NF文庫225頁
  58. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p307
  59. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫361-362頁
  60. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社178頁
  61. ^ 渡辺洋二『決戦の蒼空へ―日本戦闘機列伝』文春文庫p130
  62. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p19-20
  63. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社179頁
  64. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p24
  65. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社180-181頁
  66. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社169、176-177頁
  67. ^ 碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p283

参考文献[編集]

  • 碇 義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯
(光人社、1991年) ISBN 4-7698-0588-8
(光人社NF文庫、2007年) ISBN 978-4-7698-2542-5
  • 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫
  • ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング

関連項目[編集]

  • 紫電改のタカ:キャラクターの一人として実名で描かれている。ただし、実際の菅野の年齢や容貌、性格は、作中の菅野よりは、主人公である滝城太郎に近い。
  • ドリフターズ (漫画):謎の失踪の直後、異世界に召喚されたという設定で登場している。