楠木正行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
 
楠木正行
楠木正行像.JPG
楠木正行石像(大阪府大東市飯盛山
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日
改名 多聞丸(幼名)→正之(初名)→正行
別名 小楠公
戒名 文光寺霊山升龍仙海
墓所 宝筐院
官位 検非違使尉、左衛門少尉従五位下、摂津守、河内守贈従三位贈従二位
主君 後醍醐天皇
氏族 楠木氏
父母 父:楠木正成、母:久子南江正忠の娘)
兄弟 正行正時正儀
富士義勝の娘
多聞丸正綱池田教正(諸説あり)

楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代武将楠木正成嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。初名は正之(まさより、まさこれ)と伝わる。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦った。

妖怪を退治する楠木正行(楊洲周延『東絵画夜競』)

生涯[編集]

生い立ち[編集]

生年については明確な史料が存在しない。『太平記』には父との「桜井の別れ」の当時は11歳であったとあることから嘉暦元年(1326年)とも推測されているが、これは多くの史家が疑問視している。『太平記』の記述を疑って正行の生年をもう少し遡らせる説も古くからあるが、明確な史料が存在しない以上推測の域を出ない[1]

正成の長男として河内国に生まれた。幼名は多聞丸。幼少の時、河内往生院などで学び武芸を身に付けた。延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ父の首級が届き衝撃のあまり仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したという[2]

正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦った。正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。足利幕府の山名時氏細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。

四條畷の戦い[編集]

正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利側の高師直師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害した(享年に関しては諸説がある)。

先に住吉浜にて足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられている。

かねてより死を覚悟しており、後村上天皇よりの弁内侍賜嫁を辞退している。そのとき詠んだ歌が

「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」

である。

この合戦に赴く際、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったことも有名である。決戦を前に正行は弟・正時や和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いた。しかし決死の覚悟は強く参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記してその奥に辞世を書き付け自らの遺髪を奉納したという。

かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる

地の利を失っては勝ち目が薄い。家督は弟の正儀が継いだ。

その後[編集]

明治維新尊王思想の模範とされ、その誠忠・純孝・正義によるとして明治9年(1876年)に従三位追贈された。明治22年(1889年)には殉節地の地元有志等による正行を初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが容れられ別格官幣社として社号を与えられ、翌明治23年(1890年)に社殿が竣功し正行を主祭神とする四條畷神社が創建された。さらに明治30年(1897年)には従二位追贈された。

墓所[編集]

  • 京都市右京区の善入山宝筐院に墓(首塚)がある。また正行の敵方であった足利幕府2代将軍・足利義詮は遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」とあり、遺言どおり正行の墓(五輪石塔)の隣に義詮の墓(宝筐印塔)は建てられた。
  • 大阪府東大阪市六万寺町の往生院六萬寺にも墓があり、こちらには胴体が葬られている。
  • 大阪府四條畷市雁屋南町にもがあり、こちらには巨大な楠が植えられている。
  • 京都府宇治市六地蔵柿ノ木町正行寺(首塚)
  • 大阪府東大阪市山手町にも首塚がある。
  • 鹿児島県薩摩川内市上甑町付近にも甑島墓所がある。

脚注[編集]

  1. ^ 正行の生年は元亨3年(1323年)や正中元年(1324年)、または嘉暦元年(1326年)の諸説があるが確証はない。延元元年/建武3年(1336年)に父・正成と桜井で別れた時、すでに正行は左衛門少尉の官職を賜っており元服を迎えた後だったと、明治初年に学者の重野安繹はこれを唱えている。さらに作家の井沢元彦が著書『逆説の日本史』第7巻「中世王権編 太平記と南北朝の謎」において、忠臣を称える宋学の立場から正行の年齢を11歳に設定にしたという説を展開している。結論として正行の当時の年齢は既に青年というべき20歳前後だった見解があり、桜井の別れそのものが疑問視なされている(桜井の別れを参照)。
  2. ^ 『太平記』のみの記述。『梅松論』には一切記されていない。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]