千早城の戦い

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千早城の戦い
Chihaya Castle13.jpg
『大楠公一代絵巻』(千早城内でわら人形を作っている光景)/楠妣庵観音寺蔵
戦争元弘の乱
年月日1333年(元弘3年、正慶2年)2月22-2月29
場所千早城
結果楠木軍の勝利
交戦勢力
楠木正成 鎌倉幕府
指揮官
楠木正成
楠木正季
平野将監
名越宗教
安東円光
阿蘇治時
長崎高貞
大仏家時
工藤高影
戦力
1000人 100万人
損害
不明 不明
元弘の乱

千早城の戦いちはやじょうのたたかい)は、1332年(元弘2年、正慶元年)、後醍醐天皇倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦千早城上赤坂城下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城

概要[編集]

1331年(元弘元年、元徳3年)に倒幕計画が発覚すると、後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、楠木正成は河内赤坂において呼応した(元弘の乱)。鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧し、後醍醐天皇を隠岐島で流し、関係者も処罰されたが、正成は翌年にも千早城に拠り抵抗を続けた。

幕府方は、上下赤坂城を落とした後、楠木正成の1,000人の兵が守る千早城を大軍で包囲した。古典『太平記』は幕府方の兵力を「100万」と記している。わずか1,000人の兵でも正成が抵抗を続けられたのは、石や丸太を崖から落としたり、鎌倉側の兵に油をかけ火を放った、などの奇策を使ったからだといわれる。また、この情勢を見た地元の土豪などが、正成の軍に味方し、幕府軍を挟み撃ちするような状態になったからでもあるという。

幕府は有力御家人足利尊氏新田義貞の離反を契機に滅亡し、楠木氏は後醍醐天皇が開始した建武の新政においても重用された。

評価[編集]

赤坂・千早攻防戦では、楠木正成軍と鎌倉幕府の兵数が500対20万、1000対100万と『太平記』には記されている。しかし、『赤坂・千早城の戦い』では「誇張があるだろう。特に幕府軍の数はあやしい。『二十万、百万』ではなく『数万、十万』ぐらいが妥当なところだろう」とされており、『太平記』の誇張を指摘している。

源平以来、馬上弓矢をとって戦っていたが、徐々にそのスタイルは廃れていき、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては市街戦山岳戦が中心の戦となっていった。そうなると徒立ちや弓矢で戦う、徒歩斬撃戦に騎馬隊が続くというのが主流になってきた。しかし、山上に築かれた城への攻撃となると、馬は有効に使用できない。この戦い以前は、本格的な攻城戦は数が少なく、山城への攻撃となるとこの合戦が初めてに近い。籠城側は、弓を射かけ、石や木を投げつけるのに対して、攻城側は城壁を目指しひたすら攻め登るか、水の手を切るか兵糧攻めによる持久戦しかなかった。そのため、城内に水源があった千早城は鎌倉幕府軍に対して落城することはなかった[1]

戦場跡へのアクセス[編集]

金剛登山口の有料駐車場
千早城復元模型/千早赤阪村立郷土資料館

参考文献[編集]

  • 小学館『赤坂・千早城の戦い』戦乱の日本史33、小学館、2008年9月、22-25頁。

脚注[編集]

  1. ^ この「水資源の保全」について、黒田俊雄は『日本の歴史8 蒙古襲来』で「昨今の東京都の水道局も手本にすべき」と書いている(中公文庫改版 ISBN 978-4122044661、506-507p)。底本が発行された1965年当時の上水道の状況(渇水・断水など)がうかがわれる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]