桜井駅の別れ
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桜井駅の別れ(さくらいのえき の わかれ)とは、1336年(建武3年)の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅(旧字体:櫻井の驛)で交わされたという、楠木正成・正行父子の今生の別れ。今日では略して桜井の別れともいう。
古典文学『太平記』の名場面のひとつ。天皇への忠誠を伝える美談として、戦前までは国語や修身の教科書に必ず載っていた逸話で、昔の日本人なら誰でも知っていた有名な話だった。
「駅」(驛)とは宿場のこと。桜井の駅は現在の大阪府島本町にあたる。
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[編集] 概要
[編集] 伝承
『太平記』によると、「桜井の駅の別れ」のあらましは次の通り。
建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。
[編集] 考証
戦後になって皇国史観が否定され、歴史の自由な考証ができるようになると、この「桜井の駅の別れ」にもさまざまな説があげられるようになった。
正行の当時の年齢はすでに20歳前後だったいう説は古くからあり、近年にも作家の井沢元彦が著書[1]において、忠臣を称える宋学の立場から正行の年齢を11歳に設定にしたという説を展開している。また桜井駅の別れそのものを創作とする向もあり、早くも明治初年に重野安繹がこれを唱えている。

