震電

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九州 J7W 震電

 戦後、連合国軍の命令により外観のみ修復した震電

 戦後、連合国軍の命令により外観のみ修復した震電

震電(しんでん)は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つため「異端の翼」と呼ばれた。最高速度400ノット(約740 km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号J7W

歴史[編集]

研究開発[編集]

1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬技術大尉は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想し、研究を行っていた[1]。また、1943年(昭和18年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は、零戦が既に敵から十分研究されているであろうと考え、零戦とは別に異なる画期的な戦闘機を求めて高速戦闘機を模索していたが、技術的に提案する知識がなかった。しかし、同じ考えを持つ鶴野の存在によって、震電の開発が動き出した[2]

前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃し主翼の前に水平小翼を設置した形態の飛行機である。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、前翼自体も揚力を発生させることから(通常機の水平尾翼は下向きに揚力を発生させる)、主翼をコンパクトにすることが出来、全体的に機体をより小型にすることが可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、というのがその基本理論であった[3]

初となる前翼型戦闘機の試みであったが、陸軍は1943年に満州飛行機に対し九九式襲撃機の後継機となる推進式を採用したキ98の試作指示を行っていた。ただしキ98は双胴であり空戦より襲撃機(攻撃機)としての能力が重視され、研究機としての性格も強かった。後に試作機整理の対象となり計画は中止された。

当時は各国でも単胴前翼機の試作は行われていた。代表的な例としてイタリアのアンブロシーニ SS.4英語版、アメリカのXP-55 アセンダー、イギリスのマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった[注釈 1]。しかし、欧米の新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた[3]

実験用小型滑空機MXY6

1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1,000 m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた[注釈 2]。既に高高度爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機が選定され、空技廠からは鶴野らが技術指導のため同社へ出向した[注釈 3]

要求性能を決定する際、用兵者側から空戦フラップの装備を要求する声があったが、航空技術廠飛行機部、科学部はその効果を疑問視して巴戦を避け、アメリカ軍のP-51やP-38と同じく高速性を生かした一撃離脱戦法をとる意見であった。軍令部参謀の源田実中佐からも「400ノット以上の高速戦闘機が欲しいからこれをやるのであり、あまり付帯要求を出しすぎて速度が落ちるようなことがあってはならぬ」という指導的意見があり、鶴野は要求性能をまとめられた[6]

海軍では1943年に雷電が初飛行していたが一部の問題が解決されておらず生産数は少なかった。このほかに1939年頃から雷電の後継機として、ハ43を採用した推進式の局地戦闘機閃電の計画が存在し三菱重工業で開発が行われていた。閃電は最高速度750 km/h以上、上昇力は高度8,000 mまで10分、武装は30 mm機銃2挺と20 mm機銃2挺、爆弾を2個搭載という要求を満たすため、機体形状はスウェーデンのサーブ 21のような単発中翼双胴を予定していた。三菱にとって開発経験の無い機体だったことから問題対処に時間がかかっている間に震電の計画に見通しが付いたため、機種整理の対象となり1944年7月に試作中止となった。

試作[編集]

1944年(昭和19年)5月、連合軍の大型爆撃機の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島種子島熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった[3]

1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のアメリカ軍のボーイングB-29来襲。開発班は撃墜機を実地見学。

1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6,000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。指導により大量生産を考慮した改造図面の作成に着手。

1944年12月から1945年(昭和20年)4月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ43-42」エンジンの開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、断続的に行われたアメリカ軍のB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。

1945年3月、大刀洗飛行場へのアメリカ軍のB-29の空爆爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。

1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。(量産機では主脚の接地位置をうしろにずらし、垂直尾翼の下に車輪は付けない予定であった)

1945年8月3日、九州飛行機テストパイロット操縦の試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとって部品を取り寄せている最中に終戦となった。

特徴[編集]

後部のプロペラ

最大速度400ノット(約740km/h)以上目標として開発されたため、機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した前翼型(エンテ型[注釈 4]の設計とするなど、速度性能を追求した設計となった。

日本軍では戦闘機には空戦能力を要求しており、多くのパイロットも一式戦闘機五式戦闘機のような自身の技量を発揮できる運動性の高い機体を好み、一撃離脱戦法が前提の四式戦闘機は不評であった。大戦中期からは欧米機の高速化により速度を重視した機体も開発されるようになったが、液冷エンジンを搭載した高速機として開発された三式戦闘機にも格闘性能を要求し、開発側も局地戦の雷電空戦フラップを装備するなど設計段階で配慮していた。しかし震電では格闘性能を切り捨て対爆撃機に特化した設計となった。

実戦での戦術としては、速力を生かしB-29の前方に展開、高度12,000 mから30 mm機銃4門を斉射しつつ、護衛の戦闘機を速力で振り切り再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うとされた[3]

ただしアメリカ軍は1945年11月から計画していたダウンフォール作戦(日本本土上陸作戦)において爆撃機の護衛を新型のP-51H(1945年2月3日初飛行)に統一する予定であり、現に対日戦終結の時点で370機を軍に引き渡していた[8][9]。最高速度は784Km/h[10]で、震電の要求値740km/hを上回っている。

動力[編集]

エンジンには三菱のハ43-42を選定した。ハ43は金星を元に設計された空冷複列星型18気筒エンジンで、高回転化・高ブースト圧化によって離昇出力2,130馬力を発揮した。過給機はギア結合の1段目とフルカン継手式の無段階変速の2段目を持つ2段過給機を備えているが、将来的にはクラッチ結合ギアによる1段3速過給機をもつハ43-44に載せ替える予定だった。この変更はフルカン継手に必要な大容量の潤滑油タンクと油冷却器を不要とするためである。[11]

プロペラ軸減速筐の前に長さ900 mmの延長軸を持ち、減速筐の先には地上運転時の冷却強化として強制冷却ファンがある[注釈 5]。長い延長軸を持つためにエンジン架は特殊なものが考案され、「飛行中ノ荷重ニヨリ発動機本体ト減速筐トノ間ニ相対的ノ撓ミヲ全然又ハ極メテ少量シカ生ゼザル」[13]ようになっており、またエンジン・プロペラの負荷は全て主翼桁に直接かかる構造になっている。エンジンカウルのうち最後端の強制冷却ファンの周辺はエンジンに直接装着されており、ファンとダクトの隙間を少なくしている。エンジン排気のうち45 %は油冷却器の後方に、22 %はエンジンカウル内部に噴出して誘導冷却に、36 %はロケット排気管として利用した。[14][15][11]

エンジン冷却用の空気取入口は胴体左右、翼根前方と風防スライドレール終端を結ぶ傾斜した平べったい形状となっている[注釈 6]。カウルフラップはこの入口の直前にあり、スポイラー状に開閉して入口面積を調整する方式である。

エンジン後方左右にある油冷却器には独立した取入口があり、単排気管を左右各4本ずつ出口直前に配置して噴流で押し流すとともに吸入効率も高めているが、試験飛行で油温が過昇したため空気取入口の改修が予定されていた[17]

プロペラには住友金属製造のVDM油圧式可変ピッチプロペラが採用され、フルフェザリングが可能。当初は6翅プロペラであったが、生産性および効率の点から4、または5号機以後は4翅プロペラに変更される予定だった。直径は3.4 m。なお脱出時の操縦者の安全のため、減速筐取付ボルトに火薬を仕込んで電気着火で爆砕、冷却ファンとプロペラを機体から分離する機構が予定されていた(1号機には間に合わず非搭載)。[15][11]

燃料タンクは総ゴムの積層品[注釈 7]で胴体内に400リットル、両翼に各200リットルの計800リットル。さらに200リットル落下増槽2個を両翼下に懸架することができた。また耐蝕アルミ製のメタノールタンクが両翼の燃料タンクの外側に75リットルずつ内蔵されていた。[15][11]

胴体[編集]

操縦席背後の防火壁を境目に、前方が胴体、後方がエンジンカウルである。

一般に前翼式は胴体が短く、摩擦抵抗[注釈 8]の指標となる機体表面積を縮小できる点で有利とされるが、震電はカウル内に長い流路を内包しており表面積の削減には成功していない[注釈 9]

胴体容積は有効活用され、30 mm機銃4挺、弾倉、撃ち殻受け、訓練用機銃、救命筏、蓄電池、前脚などが納まっている。これらの出し入れのため多くの開口部が必要で、軽量化に有利[20]応力外皮構造には出来ず特殊な構造で強度を確保している。中でも機銃や弾倉の脱着パネル(ネジ止め)は裏にビード板をスポット溶接され、強度を負担するよう設計されたが[21]、脱着パネルに応力を負担させるには工夫を要し[22][23]、また脱着できない応力外板に比べ荷重伝達に限界があるため、高負荷時に応力の一部を負担するに留まる[注釈 10]

機銃取付部は強力な発射反動を受け止めるため中心線上に橋桁状の補強が施されている。また操縦席側面の外板は強度部材ではなく、強度は内部のプレートガーダー様の箱型の構造が担っている[24]。この構造材と外板の間にロッドやワイヤー、配線を設置することで、外側からこれらを装着・点検することができ生産性・整備性を向上させている[25]。結果的に操縦席部分の横幅は106センチとなり[26]三式戦闘機の84センチよりも太い。後方視界は特に要求が無いせいか考慮された形跡もない。

輸送の便の為、震電の機体は胴体防火壁直後で胴体と主翼・エンジン部に分割することができる。これらの結合は防火壁下端と主翼前桁前端の1点と、左右1対の防火壁中ほどと主翼主桁を結ぶロッドの計3点で行われる。[27]

[編集]

主翼は前縁で20度の後退角を持つが遷音速飛行を意識した物ではない。本来、震電の飛行速度域(高亜音速以下)では後退翼よりも直線翼の方が優れた特性を持つが、震電の場合は主翼とプロペラの位置が重なってしまうため、両者を離す目的で後退翼と延長軸が採用されている[28][29][30]

主翼は生産性向上のため従来機とまったく異なる構造をとっている。前桁・主桁・後桁の3本桁を軸に6本の力骨が翼断面方向に配され、強度部材である外板を沈頭ネジ止めするもので、従来のような多数の小骨を用いない。外板は2枚張り合わせ構造で、外板にプレス成型によってビード加工した「板格子」をスポット溶接したもの。このため専用の翼組立工場でなくプレス工場で主翼を完成させることができた。なお、主桁にエンジンが干渉するため試作機では中央部の主桁を凹ませて70 mm低くする措置をとっていたが、生産性のため量産機ではエンジンを持ち上げて凹みをなくす予定だった。[27]

方向舵をもつ側翼(垂直安定板)は2本桁式の構造で、ボルト1本で主翼に取り付けられる。前翼スラットと昇降舵兼フラップをもつ前翼は小型かつ薄翼でありながら複雑な機構を内部に収めるため、構造としては2本桁式であるものの上面外板の厚さを5 mmとするなど特殊な構造をとっている。昇降舵方向舵補助翼は、震電が過去にないほど高速かつ高翼面荷重であることから従来の帆布張りをやめてジュラルミン張りの全金属製とした。また主翼と前翼のフラップは当初の構想ではそれぞれ別の油圧シリンダで駆動するものだったが、震電では前後のフラップ作動角に差が生じると事故に繋がるため、実際の設計では主翼からロッドを伸ばして主翼フラップ用の油圧シリンダで前翼フラップも駆動するようになっている。自動空戦フラップには紫電改と同じ方式のものを用いている。[25]

降着装置[編集]

前輪式の降着装置を持つ。プロペラが機体後部にある上、離陸滑走距離の要求から地上静止角を5度上向きとしたために主脚・前脚は長いものになった。主脚は艦上偵察機「彩雲」の主脚と共通化する計画もあったが、結局独自の脚が必要と判断され[31]、タイヤサイズ(直径725x幅200)以外に互換性は無い[注釈 11]。前脚は陸上偵察機 試製「景雲」から自動求心装置やシミー防止ダンパーなどを流用している。なお前脚が前上方に引き込まれるのは油圧系故障時に自重と風圧で引き出せるようにしたためで、主脚との前後距離が短くなるため安定性が心配されたが1号機の試験では問題はなかった。[27]

しかしその後、地上滑走試験中に機首が上がり過ぎてプロペラと側翼が地面に接触する事故があり、地上での主輪位置を後方に10cm移動する改修を3号機以降から実施する予定だった[33]

前輪式は尾輪式に比べ離着陸操作が容易な反面、爆弾穴を埋め戻したような荒れた路面には尾輪式の方が強く、前輪で跳ねた小石がプロペラを傷つければ飛行性能に響くため、運用できる滑走路は限られる[34][35][36]

武装・防弾[編集]

主武装として五式三十粍固定機銃を4挺機首に搭載する(3度上向きに固定)。装弾数は各60発。重量はトータルで475kg(砲280kg+弾195kg)となる。弾倉は交換式かつすべて共通で、胴体側面から作業することができた。自機のプロペラが損傷するのを避けるため、射撃後の装弾子と薬莢は機外に放出せずに鉄板の内張りを付けたジュラルミン製の箱に溜め込む方式[26]をとるが、他の多くの戦闘機は空中で投棄しており、箱を含め重量で不利益となる。また訓練用として7.9 mm機銃2挺、または写真銃1挺を機首に搭載することができた。爆撃兵装としては各種の60 kg(6番)爆弾ならびに1 kg爆弾を主翼下に4発まで搭載可能。弾体制止(爆弾押さえ)は翼に内蔵され、簡単なバネ仕掛けによって爆弾投下後に勝手に格納されるようになっていた。[13][37]

防弾装備として燃料タンクは上記の如くゴムによる自動防漏となっており、自動消火装置も装備されていた。弾倉前面には16 mm厚の防弾鋼板が配置され、弾倉と操縦者を防護しているが上部は30 mm機銃の銃身が通るため穴が開いている。風防正面には70 mm厚の特殊防弾ガラスが装着された。[27]

試験飛行[編集]

3回の試飛行ではエンジンは全開にせず、降着装置(脚)を出したままの状態であるが、水平飛行中に最大速度293.5 km/hを記録している。しかしプロペラのカウンタートルクを相殺しきれず右に傾いたままの飛行となり、これがまず調整の大きな課題と目された[注釈 12]。また機首が下がり気味であったこと、及び油温の上昇なども報告されている。ただし雷電で問題になった延長軸の震動はとりあえず低速では起こらず、方向安定の方はきわめて良好であった[38]

空力特性の複雑化[編集]

  1. 後退翼は直線翼に比べ揚力分布が外翼側で大きく内翼側で小さい[39][40]。これは通常の計算方法[41]で求まる空力平均翼弦位置より実際の空力平均翼弦が外側(後退翼なので後方)にずれる事を意味し[42]、バランスを取るには前翼の揚力が不足する。この点、飛行試験で確認された機首下げ傾向と一致し、設計の参考にされたK-16滑空機(直線翼)、MXY6(後退角浅く、馬力不足のため自力では水平飛行もできない[43])、震電風洞模型(レイノルズ数が小さい)では実態をはかりかねた可能性がある。対策として前翼の取付角を1度から3度に変更する事が決まっていたが、前翼機の安全な失速特性、「主翼より先に前翼が失速するので自然に機首が下がり失速から回復する」[44]の代償として、主翼の方は失速までに幾分の余裕があり最大揚力係数に潜在能力を残していても前翼の失速と同時にそれは生かされず切り捨てられる欠点があり、前翼のプラス2度の取付角変更で失速迎角到達が早まる分、主翼の潜在能力をより多く捨てる結果を招く。
  2. 震電のフラップは主翼(スプリット)と前翼(スロテッド)の両方に装備され連動[45]で作動するが、試験飛行の結果を受け「フラップ角35度に統一」(前/主翼)されており、零戦の60度(スプリット)、P51の50度(スロテッド)と比較して浅い角度しか取れない。これは昇降舵の「引き舵」が効く余地を残すため(前翼)、フラップ位置が機体重心から遠く[注釈 13]機首下げ[46][47]になるため(主翼)で、揚力係数の高いフラップ(ファウラーやダブルスロテッドなど)の採用は困難である事を示している[48][49][注釈 14] この欠点は離着陸滑走距離のみならず最高速度の指標となる翼面馬力向上[50]の足かせとなる[注釈 15]。なお、主翼のスプリットフラップは展開時に剥離乱流が発生し[46]、プロペラの効率が落ちるので本来は推進式プロペラ機には向かない[51]
  3. エンテ機の避けられない宿命として主翼は前翼によって乱され、流速も落ちた流れの中にあり、翼端渦と吹き下ろし[52]は主翼の効率を恒常的に低下させる。それと同時に昇降舵の操作でも煽りを受け主翼迎え角(=揚力)が変動するので縦安定が過敏になりやすい[53]。もちろん乱流の影響は主翼内側に限定されるが、翼端の迎え角が相対的に高くなり、後退翼でもある震電は翼端失速を起こしやすくなる。この傾向を改善するため[54]、震電の主翼取付角は翼根、中央翼、翼端でそれぞれ0度、3度、0度とバラバラで[55]、通常の尾翼機が全翼幅に渡って理想的な迎え角で揚力を稼ぐのに対し揚抗比で不利である[注釈 16]
量産までの試作機改修計画 [56]
  • ~2号機
    1. 右傾対策用操舵系補正機構組込
    2. 前翼取付角度1度→3度
    3. フラップ動作角度35度
    4. 潤滑油冷却器空気取入口改修
  • 3号機
    1. プロペラ接地事故対策として主脚取付位置10 cm後退
    2. 臨時で取り付けていた側翼車輪廃止
    3. 発動機変更 ハ43-43に伴い過給器用空気取入口右のみ
    4. 機銃搭載
  • 4号機~
    1. 面積150 %の4翅プロペラに換装(甲案:直径3.4 m 乙案:直径3.5 m)
  • 8号機~
    1. 発動機変更 ハ43-44でフルカン接手廃止
    2. 潤滑油減少に伴うタンク小型化で重心位置が変わる為後部胴体延長
  • 量産機
    1. 主翼桁の生産性向上のため発動機マウント10 cm上げ、カウル形状変更

スペック[編集]

制式名称 震電
機体略号 J7W1
乗員 1名
全幅 11.114 m
全長 9.76 m
全高 3.55 m、3.92 m
主翼面積 20.50 m2
翼面荷重 241.5 kg/2
自重 3,525 kg、3,465 kg
正規全備重量 4,950 kg
発動機 三菱重工業
ハ43-42(MK9D改)
星形複列18気筒
(燃料噴射式・延長軸・強制空冷・流体継手搭載の過給機)
出力 2,130 HP
1,590 kW
最高速度 750 km/h(計画値)
高度8,700 m時
巡航速度 425 km/h
航続距離 1,000~2,000 km
(装備で変動)
実用上昇限度 12,000 m
上昇率 750 m/min
最大離陸 5,272 kg
離陸滑走距離 560 m
着陸滑走距離 580 m
武装 五式30 mm固定機銃一型乙(機銃一門あたり弾丸60発携行、発射速度は毎秒6発から9発)×4
訓練用7.9 mm固定機銃×2または写真銃×1
爆装 60 kg×4
30 kg×4
  • 動力:単発、推進式(プッシャ)
  • プロペラ:VDM社の定速6翅(量産型では4翅に簡略化予定)
  • プロペラ直径:3.40 m
  • 主翼:低翼、単葉
  • 動翼:前翼型式
  • 構造:全金属製、主翼・層流翼型、前翼・開閉式スロット翼
  • 降着装置:引き込み脚、前輪式

ジェット機化[編集]

震電には「震電改」(略符号J7W2)として将来ジェット化する構想があったという説がある[57]。この震電のジェット化構想説の根拠は、元九州飛行機設計部第1設計課副課長清原邦武の航空雑誌への寄稿である。

清原は寄稿で「1944年6月5日、空技廠で開かれた『試製「震電」計画要求書研究会』上かその後の指示で、空技廠発動機部員より「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ。」というのがあった。震電に取付けるのは地上静止推力900kg、ほぼ3,000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう。ただし離陸補助ロケットが必要だが、これは過荷重としたいということだった。石川島芝浦タービンで試作中のネ130ジェットエンジンだったようだ。いよいよトモエ戦時代も終るなと思った。「震電」の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている。結局、これは実現しなかったが、中島飛行機で設計された双発ジェット攻撃機「橘花」は九州飛行機でも試作し、1号機がほとんど完成したときに終戦となった。」[58]と証言している。

しかし、その他には震電についてはジェット化を考慮して設計された具体的な記録が見つかっていない。また、震電の動力艤装班主任を務めた西村三男もジェット化の話があったことは認めているが、実現に向けては「具体的には何ら進んでいなかった」とも証言している。搭載予定であった当時試作中のジェットエンジン、ネ130の開発の進行状況も終戦近くにようやく全力試験にとりかかった段階であり、実際に運用できる状況でなかった。

原因として、その前身であるネ20は様々な致命的欠陥[注釈 17]を抱えており、この欠陥の結果設計時全力運転でわずか15時間[注釈 18]と非常に耐久寿命が短い状態であったが、当時震電と並行して開発されていた橘花の試験飛行時でもこの欠陥が露呈しており、解決には向かっていなかったという。この欠陥はネ20のみでなく開発中のネ130にも起こっており、もちろん震電に搭載できる状況では無かった。

更に言えば、戦争末期の日本には最早ジェットエンジンに必要不可欠な耐熱金属を作るための希少金属(ニッケル、クロムなど)がほぼ枯渇しており、よく言われる排気タービンもこの資源不足による耐熱性の高い代替金属の開発が一つの大きな壁となっていた。従って、仮に試作エンジンが完成したとしても量産はほぼ不可能であったと考えられる[59]

現存機・レプリカ[編集]

現存する1号機の前部
大刀洗平和記念館の実物大模型

終戦時、設計図や資料、及び組み立て途中の2、3号機と十数号機までの部品類が海軍の命令で焼却されたが、1号機は蓆田飛行場の格納庫に保管された。のち連合国軍の命令により、破壊された風防などが復元され(敗戦に憤慨した工員が破壊したといわれている)、さらに飛行させてみよという命令も出たがこれは果たせなかった。

1号機は昭和20年10月に船便にてアメリカへ研究のために運ばれた。また九州飛行機本社以外の分工場に保管されていた資料類も英訳してアメリカ軍に引き渡された。1号機は国立航空宇宙博物館の復元施設であるポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて分解状態のまま保存されていたが、2017年現在はスティーブン F. ユードバー=ハジー・センター(国立航空宇宙博物館別館)で操縦席から前の部分のみが展示されている[60][61]

2023年公開の映画『ゴジラ-1.0』の撮影のために制作された実物大のレプリカが、2022年7月から福岡県朝倉郡にある大刀洗平和記念館に展示されている[62][63]。史実と異なり少数が極秘に実戦配備されていたといった劇中の設定を反映し、尾翼下の車輪が無い、圧縮空気式の射出座席が装備されているなど実機との相違点がある。

登場作品[編集]

本機は試作機でありながら、ネームバリュー・人気度ともに抜群に高いため、多数のフィクション作品に登場する。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 実際には、自然界にもシャロヴィプテリクス(Sharovipteryx)という小型飛行爬虫類の古代生物が存在する。また現代のトビイカは完全に前翼型の飛行可能な生物である
  2. ^ 本人談話によれば、「(グライダーで)30 cm浮いたら(試作機開発を)やる」という冗談めいた話も受けていたという。
  3. ^ 空力の研究、実験の大半は空技廠が担当した[4]。とされる一方、清原邦武によれば空技廠の図面は基礎設計の域を出ておらず、イチから九州飛行機でやり直したという[5]
  4. ^ 「先尾翼機」(せんびよくき)という呼び名もされるが、「尾翼は本来、飛行に必要な揚力を生み出しているわけではないので、このような機体形状に対し、尾翼が前にあると言う意味の“先尾翼”という呼び名は適切ではない」[7]という意見もある。
  5. ^ なお、強制冷却ファンをエンジンの後に置く場合はエンジンの前に置く場合よりも効率が低下する。[12]
  6. ^ F-86が高迎角での流入量を確保するため空気取入口の上部を突出させたのとは対照的である。P-51のような境界層分離もなく流速が遅い境界層流を丸飲みしている。[16]
  7. ^ 内側からカネビアン、加硫ゴム、スポンジゴム6層で厚さは倉持 (1972)によれば20.6 mm、清原 (1972)によれば22 mm。
  8. ^ 迎角が小さい時の有害抗力は摩擦抗力の占める割合が大きい。空力的に洗練された機体ほどその傾向が強い。(形状抵抗や干渉抵抗を減らす努力が払われているため)[18]
  9. ^ 抗力係数は機体の総表面積を元に算出される[19]
  10. ^ 仮に脱着不可の応力外板を取り去れば自重に耐えられず変形や座屈の心配があるが、点検パネルでそれは許されない
  11. ^ ブレーキ以外、彩雲と共通とする資料もあるが図面比較では震電の方が約20cm長く緩衝部を繋ぐトルクアームの形状も異なる[32]
  12. ^ トルク対策として沈む側の翼端を延ばした例がある、マッキ MC.202/205 は右翼に対して左翼が約20cm長い
  13. ^ 前翼が揚力を稼ぐ分、主翼は後方へ移設されている
  14. ^ 偵察機彩雲は親子式ファウラーフラップ、連動エルロンを装備しているが重心後方の揚力が増すため強い機首下げ状態になる。これを打ち消すため水平安定板の角度を空中で切り替える機構を持つ
  15. ^ より良いフラップをより大角度で使えるなら翼面積を縮小し翼面馬力を高める事が可能
  16. ^ 揚抗比/迎角グラフ直線を描く揚力係数は迎角3度幅の帯域とその中央値がトータルで等しいのに対し、曲線を描く抗力係数は相殺されずに微増する。
  17. ^ タービン翼取付部の熱による膨張、変形に伴うサージング及びディスクの破断、タービン軸受の焼付きなど。ネ20のタービン翼は溶接で取り付けられていた為、この部分から亀裂が入り、タービンブレードの損傷・飛散・出力低下につながったと言う。
  18. ^ ジェットエンジン生みの親、ホイットルの造った初期のエンジンでさえ500〜700時間の耐久時間があった。

出典[編集]

  1. ^ 零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』
  2. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫237-241、250-251頁
  3. ^ a b c d あの時わたしは… B29を迎撃せよ ~幻の戦闘機・震電~ (テレビ番組). NHK福岡放送局. ISBN 9784812442692
  4. ^ 文春文庫 異端の空 渡辺洋二 P294
  5. ^ 酣燈社 知られざる軍用機開発 上巻 P49
  6. ^ 零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』550頁、海空会『海鷲の航跡』287頁
  7. ^ 震電開発者の鶴野正敬氏談 文林堂「世界の傑作機」1982年版No.129震電特集号
  8. ^ 文林堂 航空ファン別冊No52 P-51ムスタング P106
  9. ^ デルタ出版 ミリタリーエアクラフトNo033 P-51ムスタング(1) P33
  10. ^ モデルアート社 モデルアート臨時増刊No401 P-51 MUSTANG P75
  11. ^ a b c d 倉持 1978, p. 31.
  12. ^ 知られざる軍用機開発 上巻 P.56
  13. ^ a b 「試製震電 計画説明書」九州飛行機、1944年8月7日。野原 (1999), pp. 240–241掲載。
  14. ^ 鶴野 1978, p. 13.
  15. ^ a b c 清原 1978, p. 18.
  16. ^ 潮書房 丸増刊号 F-86セイバー グラフ特集 P6
  17. ^ 「試製「震電」1号機試験飛行記録」九州飛行機、世界の傑作機No.102(1978年10月)51頁掲載。
  18. ^ 養賢堂 飛行機設計論 P286
  19. ^ 養賢堂 飛行機設計論 P286
  20. ^ 光人社 空飛ぶうつわ 佐貫亦男 P159
  21. ^ 文春文庫 異端の空 渡辺洋二 P.299
  22. ^ 光人社NF文庫 疾風 航空技術の戦い 碇義朗 P.88~P.90
  23. ^ 光人社NF文庫 陸軍試作機物語 刈谷正意 P.268
  24. ^ 知られざる軍用機開発 上巻 P.49
  25. ^ a b 清原 1978, pp. 16–17.
  26. ^ a b 文春文庫 異端の空 渡辺洋二 P300
  27. ^ a b c d 清原 1978, p. 17.
  28. ^ 文春文庫 異端の空 渡辺洋二 P302
  29. ^ 酣燈社 知られざる軍用機開発 上巻 P56~P57
  30. ^ 養賢堂 飛行機設計論 山名正夫 中口博 P70
  31. ^ 文春文庫 異端の空 渡辺洋二 P308
  32. ^ 酣燈社 精密図面を読む【2】 P83、酣燈社 精密図面を読む【3】 P83
  33. ^ 文春文庫 異端の空 渡辺洋二 P318~P319
  34. ^ 日本航空技術協会 航空工学講座 飛行機構造 鳥養鶴雄 久世紳二 P160
  35. ^ 日本航空技術協会 飛行機の構造設計 鳥養鶴雄 久世紳二 P217
  36. ^ 日本航空技術協会 新航空工学講座 プロペラ 中村資朗 P40、P130
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  38. ^ 『異端の空』前翼型戦闘機「震電」渡辺洋二 文春文庫
  39. ^ 養賢堂 飛行機設計論 P68~P69
  40. ^ 酣燈社 飛行機の安定と操縦性 内藤一郎 P129~P130
  41. ^ 養賢堂 飛行機設計論 P70~P71
  42. ^ 養賢堂 飛行機設計論 P72
  43. ^ 文林堂 世界の傑作機 1978年 No102 震電 P41
  44. ^ 酣燈社 知られざる軍用機開発 上巻 P53
  45. ^ 酣燈社 知られざる軍用機開発 上巻 P.50
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  49. ^ 日本航空技術協会 飛行力学の実際 内藤子生 P144
  50. ^ 飛行力学の実際 P.73~74 内藤子生
  51. ^ 地人書館 航空工学概論 田中幸正 P19
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  54. ^ 文春文庫 異端の空 渡辺洋二 P.303
  55. ^ 精密図面を読む【2】P.82
  56. ^ 月刊丸 2011年8月号. 潮書房光人新社. (2011/6/27) 
  57. ^ 田中勝利秋本実『大空の覇者 甦る太平洋戦争の日本の軍用機165』(1999年、ISBN 978-4062690584)171頁
  58. ^ 清原邦武「九州飛行機が作った前翼式の快速戦闘機 18試局地戦闘機“震電”」付録・海軍航空本部『試製「震電」計画要求書』(抜粋)の解説より引用(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4-87357-049-2 p51、初出:酣燈社『航空情報』1955年2月号)。
  59. ^ 前間孝則『ジェットエンジンに取り憑かれた男』
  60. ^ 取材:青木謙知「米国立航空宇宙博物館ウドバー・ヘイジー・センターの米日独機」『航空ファン』第66巻第3号(2017年3月号) 文林堂
  61. ^ 【いまも飛ぶ大戦機】“幻”の「震電」と「橘花」 米国に現存する日独軍決戦兵器(1/2ページ) - 産経新聞
  62. ^ 渡辺純子「『震電』実物大模型登場 福岡にゆかり、幻の戦闘機 筑前・大刀洗平和記念館【西部】」『朝日新聞西部夕刊』、2022年7月7日、11面。(オンライン版記事:渡辺純子 (2022年7月7日). “幻の戦闘機「震電」のレプリカ 福岡・筑前町の大刀洗平和記念館に”. 朝日新聞デジタル. 2022年7月14日閲覧。
  63. ^ 情報解禁!! - 大刀洗平和記念館”. 大刀洗平和記念館 (2023年11月15日). 2023年11月15日閲覧。

参考文献[編集]

  • 渡辺洋二『異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録』(文春文庫、2000年) ISBN 4-16-724909-X
    • 前翼型戦闘機「震電」 p277-p331
  • 碇義朗 ほか『日本の軍事テクノロジー 技術者たちの太平洋戦争』(光人社NF文庫、2001年) ISBN 4-7698-2323-1
    • 碇義朗『究極のレシプロ機「震電」開発物語』 p7-p36
  • 野原茂『世界の軍用機史 8 日本陸海軍 試作/計画機 1924~1945』グリーンアロー出版社、1999年9月、234-241頁。ISBN 4-7663-3292-X 240-241頁に九州飛行機作成の「試製震電 計画説明書」の全文掲載。
  • 渡辺洋二『埋もれた蒼穹 個人としての航空戦史』(文春ネスコ、2004年) ISBN 4-89036-199-5
    • 第七章 「震電」の周辺 p127-p146 〔初出:文林堂『航空ファン』2003年6月号 No.606 p79-p83〕
  • 松葉稔 作図・解説『航空機の原点 精密図面を読む9 日本海軍戦闘機編』(酣燈社、2005年) ISBN 4-87357-158-8 p132-p139
  • 鶴野正敬 写真提供、秋本実 解説「本土決戦用/異形の高速局戦「震電」全機影」
    • 潮書房『』1994年10月号 No.582 p35-p47
  • 鶴野正敬「前翼型戦闘機の誕生」『世界の傑作機 No.102 特集 九州飛行機 海軍試作局地戦闘機 震電』、文林堂、11-13頁、1978年10月。 
  • 清原邦武「十八試局地戦闘機「震電」」『世界の傑作機 No.102 特集 九州飛行機 海軍試作局地戦闘機 震電』、文林堂、14-18,39頁、1978年10月。 
  • 倉持勝郎「「震電」の発動機」『世界の傑作機 No.102 特集 九州飛行機 海軍試作局地戦闘機 震電』、文林堂、31頁、1978年10月。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]