震電

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
震電
米軍の命令により外観のみ修復した試作1号機(1945年撮影)
概要
用途 局地戦闘機
乗員 1 名
初飛行 1945年8月3日
運用開始 運用に至らず
メーカー 九州飛行機株式会社
海軍航空技術廠
寸法
全長 9.76m
全幅 11.114m
全高 3.55m
主翼面積 20.50m2
重量
空虚 3,525kg
運用 4,950kg
最大離陸 5,272kg
滑走距離
離陸 560m
着陸 580m
動力
エンジン 三菱重工業
ハ-43-42(MK9D改)
星形複列18気筒
(燃料噴射式・延長軸・強制空冷・フルカン接手過給機)
出力 2130HP
1590kW
性能(計画値)
最大速度 750km/h
高度8,700m時
巡航速度 425km/h
航続距離 1000~2000km
(装備によって変化)
実用上昇限度 12000m
上昇率 750m/min
武装
機関銃 五式 30mm 固定機銃一型乙(機銃一門あたり弾丸60発携行、発射速度は毎秒6発から9発) ×4
訓練用 7.9mm 固定機銃×2 写真銃×1
爆弾 60kg×4
30 kg×4
いずれか or 混載
その他

震電(しんでん)は第二次世界大戦末期、日本海軍が開発していた単発単座の試作局地戦闘機である。機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した独特の機体形状は“前翼型(他にも先尾翼型、エンテ型などの呼称があるが本項では便宜上「前翼型」の表現に統一する)”と呼ばれるもので、B-29迎撃の切り札として期待された秋水のバックアップ的な意味で開発が進められていた。1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に数度の試験飛行を行った所で終戦。実戦には間に合わなかった。略符号J7W1[1]

概要[編集]

当時、液冷エンジンの量産や排気タービンといった高高度飛行に不可欠な工業生産力や技術を欠いていた日本は、高度10,000mをおよそ570km/hで進攻してくるアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機を迎撃できる戦闘機を多く持っていなかった。またB-29に対しては、従来以上の重武装で臨まないと撃墜には至らないことも判明していたが、前部にエンジンとプロペラのある単発単座戦闘機では、それだけの重武装が配せなかった[2]。切り札として最有力だったのはドイツのロケット戦闘機メッサーシュミットMe163の国産化であったが、後部にエンジンとプロペラ、前部に重武装を配備し、最大速度400ノット(約740km/h)以上を目標として開発された震電もまたその「代機」として位置づけられた。

実戦での戦術としては、震電の快速を活かしB-29の前方に展開、高度12,000mから30mm機銃4門を斉射。更に速力差を活かし再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うという手法が計画されていた[3]

形式[編集]

  • 動力:単発、推進式(プッシャ)
  • プロペラ:VDM 定速、6翅(量産型では4翅に簡略化予定)
  • プロペラ直径:3.40m
  • 主翼:低翼、単葉
  • 動翼:前翼型式
  • 構造:全金属製、応力外皮構造、主翼・層流翼型、前翼・開閉式スロット翼
  • 降着装置:引き込み脚、前輪式

技術的特徴[編集]

推進式プロペラ 
直径を増さずに高空での大馬力を活かすため、6翅のプロペラが採用された。しかしながら可変ピッチ機構の複雑さから、量産型では直径はそのままにブレード一枚辺りの面積を5割り増しにした幅広の4翅プロペラへ変更する予定であった。
プロペラ離脱装置 
震電は推進式のため、プロペラは操縦席の後方に位置しており、緊急脱出の際にパイロットがプロペラに巻き込まれる恐れがあった。そこで試作2号機からはハブ内に火薬爆破式のプロペラ離脱装置を備える予定であった。
生産性に対する工夫 
その後の量産化を考慮して、生産性を重視した構造・工法の採用も特徴的であり、以下のような工夫が見られた。
  1. プレス機による外板成型
  2. スポット溶接の一部採用
  3. 厚板応力外皮構造の採用による、リベット打ち工数の大幅削減
3. は彩雲に倣ったものである。彩雲は厚板を採用することで零戦の1/2以下のリベット本数で組み立てられている。

性能[編集]

性能諸元に関する計画値は別表に記載する通りである。実際の試飛行では水平飛行中に最大速度293.5km/hを記録しているが、これは降着装置(脚)を出したままの状態であったにも関わらず、プロペラのカウンタートルクを相殺しきれず右に傾いたままの飛行となり、操縦性に難が見られた。また飛行中、常に機首が下がり気味だったという報告もあり、フル装備での重心次第では、バラストを追加せなばならなかったもしれず、そうなると速度を下げる要因となったかもしれない。前翼式・推進式プロペラは、アメリカ陸軍が先立ってXP-55戦闘機という試験機でテストをしているが、やはり飛行安定性に問題があり、結局性能不良で開発中止されている。コンピューターを使ったシミュレーションでは「真っ直ぐ飛ぶことは非常に困難」との結果が出ている。

その特異な形状[4]と、目指した性能が非常に高かったことから、もしこの機体が実戦に間に合っていたら、という『if』は多く、架空戦記などにおいても「震電」がよく出てくるが、現実には、上記の飛行安定性のほか、

  1. 長大な三本の降着装置、及び重武装のため単発単座戦闘機としては重く、要求値の速度、高度が出せたか疑問が残る。
  2. 戦争末期における日本の大馬力エンジンに共通する問題であるが、搭載するハ43エンジンも信頼できるものとは言えなかった。(同じエンジンを搭載するキ83でも不具合が報告されている)。
  3. 強制冷却ファンをエンジン後部につけてはいるが、冷却空気を従来の空冷エンジン機のように正面からではなく、両サイドの空気取り入れ口から取り入れて、エンジンを効果的に冷却できたのかの疑問がある。(エンジンの正面面積以外に冷却空気取り入れ口を設けているので空気抵抗が増大していることもマイナス点)
  4. プロペラへの動力伝達には、雷電以上の長さの延長軸を使っているが、回転数をあげたとき雷電でも問題になった震動が発生した可能性がある。
  5. 推進式プロペラによって、自機のプロペラ後流によって発生する揚力が得られないことは、離着陸性能の低下要因となる。(地上姿勢での迎え角は同形式のXP-55よりも大きくなっているため、離着陸時に揚力を稼ぐには有利な形状となっているが)
  6. 降着装置が非常に長くなってしまい、構造的に脆弱である。(中翼形式のため同じく脚が長い紫電でも、この点が問題視されている)
  7. 離着陸時の速度が高いため、整備された長大な滑走路が必要であり、当時の日本の国情にあっていない(前輪式降着装置は、従来の尾輪式より、高速での離着陸に有利であるが、上記のとおり長すぎるので安定面と強度面で疑問が残る)。

と問題点が多く指摘できる。 開発途上であり、動力の全開テストすら行われなかった機体のため、憶測の域を出ない部分もあるが、当時の日本の技術力、物資不足を鑑みると、問題のほうが多く予想されることは否めない。

現存する機体[編集]

終戦時、1号機は蓆田飛行場の格納庫に保管されていたが、敗戦に憤慨した現場の人間により風防などが破壊された。その後、日本を占領下に置いた連合国軍の命令により復元、連合国軍の1国であるアメリカ軍によりアメリカへ運ばれた。設計図や資料は海軍の命令で焼却していたが、九州飛行機本社以外の分工場に保管されていたものが残っており、これも英訳してアメリカ軍に引き渡された。また組み立て途中の2、3号機と十数号機までの部品類も焼却された。唯一現存する機体はアメリカ本土で秘密裏に試験飛行が行われた後、国立航空宇宙博物館の復元施設であるポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて分解状態のまま保存された。なお、搭乗したアメリカ人パイロットは「この機体が実用化されなくて良かった」と述べ、「F4UやP-51よりも高速」と主張していたという。

開発経緯[編集]

構想と研究[編集]

震電のスケールモデル

1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬少佐(当時大尉)は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想。研究を行っていた。

前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃して、かわりに主翼の前に(水平な)小翼をつけた形態の飛行機を指す。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、同じ重量の武装であれば機体をより小型にすることが可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、というのがその基本理論であった[3]

日本では初となる前翼型戦闘機の試みであったが、当時の各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な例として米国のXP-55 アセンダー、イタリアのアンブロシーニS.S.4(de:Ambrosini S.S.4)、英国のマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった[5]。しかし、米国新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた[3]

1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた[6]。既に米国爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機を選定した。

開発[編集]

震電を再現したCG
九州飛行機 J7W 震電 運用想像CG

1944年(昭和19年)5月、B-29の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島種子島熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった[7]

1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のB-29来襲。震電開発チームは撃墜機を実地見学。

1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。同氏所見をもとに多量生産的見地にたった改造図面の作成に着手。

1944年12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。

1945年(昭和20年)3月、大刀洗飛行場への爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。

1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。

1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。

ジェット化構想[編集]

震電には将来ジェット化する構想があったと言われており、ゲームや架空戦記においてジェット機となった震電がよく登場するが、元来レシプロ機で、それも試験機がテスト飛行にこぎつけただけの戦闘機が、メッサーシュミット Me262のコピーである橘花の目途も立たぬうちから[8]、ジェット化へ向けての具体的計画が出ることなど現実離れの感が否めない。震電のジェット改良機をJ7W2「震電改」という名で呼んでいる出版物も見られるが、実際にはその様な名称の機体が企図された記録はなく、これは想像の産物である。そもそも推進方式がまったく違うのであるから、仮に震電の前翼型形態を元にジェット戦闘機ができたとしても、それは震電とは別設計の機体となっていたはずである。

ただ実現可能かは別にして、ジェット化が夢見られたことは当時にもあったようで、元九州飛行機設計部第1設計課副課長、清原邦武の証言もある。清原は航空雑誌への寄稿[9]で以下のように述べている。

1944年6月5日、空技廠で開かれた『試製「震電」計画要求書研究会』上かその後の指示で、空技廠発動機部員より「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ。」というのがあった。
震電に取付けるのは地上静止推力900kg、ほぼ3,000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう。ただし離陸補助ロケットが必要だが、これは過荷重としたいということだった。
石川島芝浦タービンで試作中のネ-130ジェットエンジンだったようだ。いよいよトモエ戦時代も終るなと思った。
「震電」の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている。
結局、これは実現しなかったが、中島飛行機で設計された双発ジェット攻撃機「橘花」は九州飛行機でも試作し、1号機がほとんど完成したときに終戦となった。

清原邦武「九州飛行機が作った前翼式の快速戦闘機 18試局地戦闘機“震電”」付録・海軍航空本部『試製「震電」計画要求書』(抜粋)の解説より [9]

しかし実際に製造された震電についてはジェット化を考慮して設計されたという具体的な記録がない。また、震電の動力艤装班主任を務めた西村三男もジェット化の話があったことは認めているが、実現に向けては「具体的には何ら進んでいなかった」とも証言している。

また、搭載予定であった当時試作中のジェットエンジン、ネ-130の開発の進行状況も終戦近くにようやく全力試験にとりかかった段階であり、実際に運用できる状況でなかったと言う。

原因として、その前身であるネ-20は様々な致命的欠陥[10]を抱えており、この欠陥の結果設計時全力運転でわずか15時間[11]と非常に耐久寿命が短い状態であったが、当時J7W1と並行して開発されていた橘花の試飛行時でもこの欠陥が露呈しており、解決には向かっていなかったという。 この欠陥はネ-20のみでなく開発中のネ-130にも起こっており、もちろん震電に搭載できる状況では無かった。

更に言えば、戦争末期の日本には最早ジェットエンジンに必要不可欠な耐熱金属を作るための希少金属(ニッケル、クロム等)がほぼ枯渇しており、よく言われる排気タービンもこの資源不足による耐熱性の高い代替金属の開発が一つの大きな壁となっていた。従って、仮に試作エンジンが完成したとしても量産はほぼ不可能であったと考えられる[12]

登場作品[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ Wはメーカーの九州飛行機の親会社である渡邊鉄工所(現・ 渡辺鉄工株式会社)の頭文字から。すでにKは川西航空機が採用。軍用機の命名規則 (日本)より。
  2. ^ 高空飛行性能があった陸軍の液冷戦闘機飛燕でも、B-29には体当たり攻撃で臨んでいる。
  3. ^ a b c 九州地方局で放映された対談番組内における鶴野正敬の談話による。
  4. ^ 当時の話であり、現在のホームビルダーの小型機の設計としては前翼型はそれなりに普及している。また空冷エンジンによる推進式プロペラ・リアエンジン形式は、後のB-36爆撃機で実用化されている
  5. ^ 実際には、自然界にもシャロヴィプテリクス(Sharovipteryx)という小型飛行爬虫類の古代生物が存在する。
  6. ^ 本人談話によれば、「(グライダーで)30cm浮いたら(試作機開発を)やる」という冗談めいた話も受けていたという。
  7. ^ 九州地方局で放映された対談番組内における清原邦武の談話による。
  8. ^ 初飛行は橘花のほうが震電よりあと(四日違い)である。
  9. ^ a b 清原邦武「九州飛行機が作った前翼式の快速戦闘機 18試局地戦闘機“震電”」付録・海軍航空本部『試製「震電」計画要求書』(抜粋)の解説より(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4-87357-049-2 p51、初出:酣燈社『航空情報』1955年2月号)
  10. ^ タービン翼取付部の熱による膨張、変形に伴うサージング及びディスクの破断、タービン軸受の焼付きなど。ネ-20のタービン翼は溶接で取り付けられていた為、この部分から亀裂が入り、タービンブレードの損傷・飛散・出力低下につながったと言う。
  11. ^ ジェットエンジン生みの親、ホイットルの造った初期のエンジンでさえ500~700時間の耐久時間があった
  12. ^ 前間孝則『ジェットエンジンに取り憑かれた男』より。

参考文献[編集]

前翼型戦闘機「震電」 p277-p331
  • 碇義朗 ほか『日本の軍事テクノロジー 技術者たちの太平洋戦争』(光人社NF文庫、2001年) ISBN 4-7698-2323-1
碇義朗『究極のレシプロ機「震電」開発物語』 p7-p36
  • 野原茂『日本陸海軍試作/計画機 1924~1945』(グリーンアロー出版社、1999年) ISBN 4-7663-3292-X p234-p241
九州飛行機『試製震電計画説明書』の全文
  • 渡辺洋二『埋もれた蒼穹 個人としての航空戦史』(文春ネスコ、2004年) ISBN 4-89036-199-5
第七章 「震電」の周辺 p127-p146 〔初出:文林堂『航空ファン』2003年6月号 No.606 p79-p83〕
  • 松葉稔 作図・解説『航空機の原点 精密図面を読む9 日本海軍戦闘機編』(酣燈社、2005年) ISBN 4-87357-158-8 p132-p139
  • 鶴野正敬 写真提供、秋本実 解説「本土決戦用/異形の高速局戦「震電」全機影」
潮書房『』1994年10月号 No.582 p35-p47

関連項目[編集]

外部リンク[編集]