ハンガリー王国 (1920-1946)

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ハンガリー王国
Magyar Királyság
ハンガリー・ソビエト共和国 1920年 - 1946年 ハンガリー第二共和国
ハンガリー王国の国旗 ハンガリー王国の国章
国旗 国章
国の標語: Regnum Mariae Patrona Hungariae
:マリアの王国、ハンガリーの保護者 )
国歌: 賛称(神よ、マジャール人を祝福し給え)
ハンガリー王国の位置
黄色が1920年当時の領土。黄緑が1941年までに獲得した領土
公用語 マジャール語
首都 ブダペスト
摂政
1944年10月15日以降首相
1920年3月1日 - 1944年10月15日 ホルティ・ミクローシュ
1944年10月15日 - 1945年3月28日 サーラシ・フェレンツ(首相)
1945年3月28日 - 1945年11月4日 ダールノキ・ミクローシュ・ベーラ(臨時政府首相)
1945年11月4日 - 1946年2月1日 ティルディ・ゾルターン(臨時政府首相)
変遷
ハンガリー・ソビエト共和国の打倒 1919年8月6日
王政復古 1920年3月1日
矢十字党のクーデター 1944年10月15日
矢十字党政府の崩壊 1945年3月18日
ハンガリー第二共和国の成立 1946年2月1日
通貨 コロナ( - 1925年)
ペンゲー(1925年 - )

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、ハンガリー語:Magyar Királyság)は、中央ヨーロッパハンガリーを中心とする地域に、第一次世界大戦直後から第二次世界大戦直後まで存在した「王国」。ただし国王は終始空位であり、1919年のハンガリー革命で成立したハンガリー・ソビエト共和国を打倒したホルティ・ミクローシュが1944年まで摂政として統治した。枢軸国として第二次世界大戦に参戦したが、大戦末期に矢十字党のクーデターが発生し、ナチス・ドイツの傀儡政権となった。矢十字党の政府はソ連軍によって崩壊したが、王国は1946年のハンガリー第二共和国の成立まで形式上存在した。首都はブダペスト

政体[編集]

1918年以前のハンガリー王国オーストリア=ハンガリー帝国を構成する国家の一つであり、ハプスブルク家の君主がオーストリア皇帝と同時にハンガリー王に即位し、ハンガリー政府を統治する構造であった。

長い伝統を持つハンガリー王国は、聖イシュトヴァーンの王冠の地と呼ばれる地域の統治権を理念上保有していた。第一次世界大戦後の混乱によりスロバキアトランシルヴァニア等を占領されたハンガリーは、失った領土の統治権を主張するためにも「ハンガリー王国」の名を掲げる必要があった。

しかしハプスブルク家の人物をハンガリー王として戴くことは、国内にも反発が強かった上に、ハプスブルク帝国の復活を怖れる協商国や周辺国の反発を招いた。このため、国王が不在のまま王国という形態を取り、議会によって指名された摂政が統治するという政体となった。

歴史[編集]

ハンガリー革命戦争[編集]

オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦で敗れ、ハプスブルク家の権威は失墜した。1918年11月16日、ハンガリー初の共和制国家であるハンガリー民主共和国 (enは帝国からの独立を宣言した。しかし、その直後から北部ハンガリー(スロバキアカルパティア・ルテニア)をチェコスロバキア軍が、トランシルヴァニアルーマニア王国が占拠していた。社会民主党系の大統領カーロイ・ミハーイ(en)は不安定な国内でハンガリー共産党の伸長を押さえきれず、一時は連立を組んだものの、1919年3月にはクン・ベーラらがハンガリー革命を起こし、ハンガリー・ソビエト共和国を成立させた。

クンのソビエト政府は国内で赤色テロ (Red Terror (Hungary)を起こし、さらにスロバキアの回復を目指してチェコスロバキアに攻撃をしかけた。このため保守的なハンガリー人、フランスやルーマニアといった周辺国の支持も失った。4月にはルーマニアがハンガリーに侵入し、ハンガリー・ルーマニア戦争が発生した。

6月、オーストリア=ハンガリー海軍艦隊司令官であったホルティ・ミクローシュがハンガリー国民軍を率いて全土で蜂起した。8月にはルーマニア軍がブダペストを占拠し、ハンガリー・ソビエト政府は崩壊した。

王国成立[編集]

ブダペストに入城した国民軍は新政府の準備を行った。しかし国民軍が「Homo Regius」として擁立したオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストはハプスブルク家の一員であったため[1]協商国やルーマニアの了解を得られなかった。

ヨーゼフは10月23日に退位したが、ハンガリー国内には王政復古論が高まっていた。1920年2月には国民投票により王政復古が正式に決定された。

1920年3月1日、ハンガリー王国の成立が宣言された。しかし、王を選ぶことは出来なかったため、ハンガリー議会によってホルティが摂政として指名された。

1920年6月4日、トリアノン条約が締結され、ハンガリー王国の正式な境界が決定された。ハンガリーはトランシルヴァニア、スロバキア、ヴォイヴォディナなど領土の大半を失い、そのため失地回復を求める右派がハンガリー国内で勢力を伸長させた。

ホルティの統治[編集]

カール1世の復帰運動[編集]

1921年3月、オーストリア=ハンガリー帝国の最後の皇帝であったカール1世がハンガリーに入り、帝国復活のためホルティに対してオーストリアへの侵攻を要求した。10月には軍勢を率いてハンガリーに入り、ブダペストに入城しようとした。しかしハプスブルク帝国の復活を怖れる小協商諸国が動員をかけるなど圧力をかけ、ホルティやベトレン・イシュトヴァーン首相らが戦争の危険を説いた。このためカールは復位を断念し、ポルトガルマデイラ島に亡命した。

この危機を乗り越えたホルティの政権は安定し、ベトレンは以降10年間ハンガリーの首相を務めた。

ゲンベシュ政権[編集]

ハンガリーの民族主義者にとって、トリアノン条約で奪われた領土の奪還は悲願であり、目標であった。このためハンガリーではゲンベシュ・ジュラを代表とする人種防衛党のようなファシストが台頭し、政権を動かすようになった。ハンガリーは未回収のイタリア問題を唱えるイタリア王国と対ユーゴスラビア関係では利害が一致していた。また、1933年にドイツで成立したナチス政権も第一次世界大戦以前の領土を回復することを狙っており、特に対チェコスロバキアで利害が一致していた。

1927年4月5日、ハンガリーはイタリアと友好条約を結び、連携を深めた。1932年に首相に就任したゲンベシュは、ドイツ・イタリア・ハンガリー3国同盟を目指し、当時オーストリア問題を巡って衝突していたドイツとイタリアの関係を改善させた。これは後のベルリン・ローマ枢軸を生み出す元となった。

反ユダヤ風潮の高まり[編集]

人種防衛党といった右派政党は早くからユダヤ人の排斥を唱えていた。しかし人種防衛党から首相となったゲンベシュも特に反ユダヤ政策を取ることはなかった。しかしゲンベシュの死後に首相となったダラーニ・カールマーンの権力基盤は弱く、台頭する国民の意思党等の右派政党に配慮せざるを得ず、いくつかの職種におけるユダヤ人の比率を20%までに押さえる法律を制定した。しかしユダヤ人排斥を唱える国民の意思党の攻撃はやまず、ダラーニは1937年に国民の意思党を解散させた。

その後、1938年5月14日にイムレーディ・ベーラが首相となった。イムレーディもゲンベシュの政策を引き継ぎ、独伊への接近政策を強めた。右派の台頭は強まり、1939年2月、イムレーディの先祖がユダヤ人であることが暴露され、辞職に追い込まれた。跡を継いだテレキ・パール首相の元で6月に行われた総選挙では、国民の意思党が再結党した矢十字党が第二党へと躍進している。

チェコスロバキア問題[編集]

1938年、ドイツ人が多く住むチェコスロバキア西部のズデーテン地方をめぐる問題が発生した。ズデーテン・ドイツ人党が主張した自治要求は、やがてドイツによる併合要求へと変化していった。この危機に介入したイギリスのネヴィル・チェンバレン首相は、チェコスロバキア側からズデーテンを割譲させることで問題を解決しようとした。しかしかねてからスロバキアとカルパティア・ルテニアの奪回を狙っていたハンガリーはこの機に便乗し、チェコスロバキア政府にスロバキアとカルパティア・ルテニアの割譲を求めた。

これらの問題は9月30日にミュンヘン会談で討議され、ドイツはズデーテンを獲得し、ハンガリーの要求地域は住民投票によって解決することが定められた。しかしハンガリーはこれに不服であり、10月13日に軍を動員してチェコスロバキア政府に圧力を掛けた。このためドイツが仲介に入り、11月2日、ウィーンにおいてカルパティア・ルテニアとスロバキア南部をハンガリーに割譲する合意が出来た(第一次ウィーン裁定)。しかし両地域では民族運動が活発化し、チェコスロバキアからの割譲は行われなかった。

1939年3月14日、ドイツの援護を受けたヨゼフ・ティソスロバキア共和国の独立を宣言した。同日、カルパティア・ルテニアでもカルパト・ウクライナ共和国が独立した。これを見たただちにハンガリーはカルパト・ウクライナに侵攻した。ハンガリー軍の脅威に対抗できないチェコスロバキア政府は、ドイツに救援を要請したが逆に恫喝され、ドイツへの併合を受け入れざるを得なかった(ベーメン・メーレン保護領)。

ハンガリー軍は3日でカルパト・ウクライナ全土を占領し、併合した。次の目標はスロバキア全土であり、3月23日にスロバキアに侵攻した(スロバキア・ハンガリー戦争)。しかしスロバキアを保護国化していたドイツの仲介によって停戦となり、ハンガリーは第一次ウィーン裁定で定められた南部スロバキアのみを獲得した。

第二次世界大戦[編集]

第二次世界大戦勃発後の1940年11月20日、ハンガリーは日独伊三国同盟に加入した。また12月にはテレキ・パール首相の働きかけでユーゴスラビア王国と友好条約を結び、枢軸国と接近させた。その甲斐もあり、ユーゴスラビアは1941年3月25日には三国同盟に加入した。しかし2日後ユーゴスラビアでクーデターが起こり、親独派の摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチの政府が倒れた。これに激怒したヒトラーは独ソ戦の背後を固めるためにユーゴスラビアに侵攻する計画を立てた。ドイツはハンガリーに軍の通行権を要求し、代償としていくつかの領土を割譲することを約束した。ユーゴスラビアとドイツの板ばさみになったテレキ首相は侵攻に反対したが止められず、4月3日に自殺した。後継首相には右派のバールドッシ・ラースローが就任し、積極的な親独路線を推し進めた。ドイツ軍がユーゴスラビアを解体すると、ハンガリーは東部ヴォイヴォディナバラニャバチュカメジムリェプレクムリェを獲得し、占領下に置いた。

1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソビエト連邦に侵攻した。ハンガリーはすぐに参戦することはなかったが、ドイツの圧力を受け続けていた。6月27日、ハンガリーは前日にスロバキアのコシツェがソ連軍によって空爆されたとして、ソ連に宣戦布告した。ただしこの空爆は、ドイツとハンガリーによる偽りの出来事であったという推測も唱えられている[2]

独ソ戦においてハンガリー軍は有力な同盟軍としてドイツ軍をサポートした。また、しかし戦局が悪化するとハンガリー軍の損耗も増し、特にスターリングラード攻防戦では、ハンガリー第2軍が壊滅するなどの大打撃を受けた。ホルティはドイツに失望し、ドイツと距離を取り始めた。まず1942年2月24日には矢十字党を禁止した。そして3月9日にはバールドッシを解任して保守派のカーロイ・ミクローシュ(en:Miklós Kállay)を首相に据えた。カーロイは極秘に枢軸国からの離脱を検討し、イギリス・アメリカと交渉を行い始めた。

しかし、カーロイの接触を感知したドイツは1944年3月22日に『マルガレーテI作戦』(Operation Margarethe I)を発動し、ハンガリー全土を占領下に置いた。カーロイは解任され、親独派のストーヤイ・デメが首相となった。ホルティは王宮に軟禁された状態となり、外部との接触を制限された。

ホルティの退位[編集]

しかし、ソ連軍がハンガリー国境地帯に迫ると、ホルティは再び連合国との講和交渉に動き出した。8月29日、ホルティはストーヤイを解任し、親英米派のラカトシュ・ゲーザを首相に据えた。9月9日、ソ連軍は要衝ズクラ峠を突破した。翌日の閣議でホルティは「戦争の継続は不可能になった」「休戦状権を打診する段階に到達した」[3]と発言し、閣僚全員が同意した。9月15日、ホルティはイタリア駐屯のイギリス軍に使節を送り、和平交渉を申し入れたが、イギリスはソ連軍と交渉するべきと拒否した。しかし、これらの行動はドイツ側に筒抜けであった。ヒトラーはホルティの排除と矢十字党によるハンガリー政府掌握を決意し、クーデター作戦パンツァーファウスト作戦の発動を準備した。10月8日、モスクワでハンガリー使節団はソ連外相モロトフと面会し、ドイツへの即時宣戦布告を条件とする休戦が合意された。

10月15日、ホルティの息子オットー・スコルツェニー率いる特殊部隊に拉致され、マウトハウゼン強制収容所に連行された。午後1時、ホルティの休戦宣言がラジオ局で放送されたが、ドイツ側からの最後通告を受けた参謀総長ヴェレシュ・ヤーノシュ大将により、直後に取り消しの放送と、矢十字党による政権掌握の放送がなされた。ブダペスト市内はバッハ=ツェレウスキー親衛隊大将率いるドイツ軍と矢十字党員によって制圧され、ブダ宮殿も独軍部隊によって抱囲された。ホルティは退位宣言と矢十字党指導者サーラシ・フェレンツを首相および国家指導者(Nemzetvezető)に指名することを強要された。ホルティはドイツに亡命し、サーラシの矢十字党政府がハンガリーを掌握した。

矢十字党政府[編集]

政権を握ったサーラシはハンガリー国の成立を宣言し、ソ連軍との抗戦を続けた。1944年10月29日からブダペストに対する攻撃が始まった(ブダペスト包囲戦)。しかし1945年2月にブダペストは陥落、ハンガリー国内の大部分もソ連軍によって制圧され、矢十字党政府は西部国境地帯で抗戦を続けるにとどまった。1945年5月8日にドイツが降伏すると、矢十字党の政府も解散された。

臨時政府と王国の消滅[編集]

1944年12月21日、ソ連軍の支援の下デブレツェンハンガリー共産党独立小農業者党国家農民党ハンガリー社会民主党が共同しハンガリー臨時国民政府を樹立した。ハンガリー第1軍司令官であったダールノキ・ミクローシュ・ベーラが首相となったが、大統領や国王といった元首は設置されなかった。臨時政府においてハンガリーのほぼ全土を支配したソ連軍の影響力は強大であった。

終戦後の1945年9月、独立小農業者党のティルディ・ゾルターンが首相となった。11月、ハンガリー全土で選挙が行われた。独立小農業者党は57%の票を獲得し、共産党は17%の票を獲得するにとどまった。しかしハンガリー駐在ソ連軍司令官クリメント・ヴォロシーロフは小農業者党単独政府成立を拒否し、共産党員を重要なポストにつける連立政府を成立させた。議会では共和制導入が議決され、ティルディが大統領、ナジ・フェレンツが首相に指名された。

1946年2月1日、ハンガリー第二共和国が成立しハンガリー王国は消滅したが、ハンガリー第二共和国も1949年にはハンガリー勤労者党一党独裁体制である社会主義国家ハンガリー人民共和国en)に取って代わられ、他の東欧諸国と同様にソ連の衛星国となった。

経済[編集]

莫大な賠償金を科せられたハンガリーは激しいインフレーションに見舞われた。ハンガリー・コロナの価値は暴落し、国内経済は不安定となった。このため1927年にはコロナに代わる通貨としてペンゲーが導入された。当時ペンゲーは東ヨーロッパで最も安定した通貨とされた。しかし1929年に発生した世界恐慌で、ハンガリー経済は再び危機的な状態に見舞われた。

その後、世界恐慌から脱したドイツと関係を深めることで、ハンガリーの経済は立ち直りを見せた。以降1945年までハンガリーの経済はドイツに深く依存していくことになる。ドイツに依存しすぎた経済はドイツの降伏によって破綻し、臨時政府期には壊滅的なインフレーションが起こった。アドーペンゲーが導入されたがインフレは収まらず、8月1日に第二共和国下でフォリントが導入されるまで続いた。

戦争犯罪[編集]

ハンガリー軍はトランシルヴァニアやユーゴスラヴィア占領地にて、いくつかの虐殺事件を起こしおり、戦後の社会主義政権下で旧軍の関係者が訴追されている。例えば、ユーゴスラビア北部のノヴィ・サド村では、シャーンドル・ケピロ(Sandor Kepiro)憲兵大尉率いる部隊が2日間にわたって1000人以上のユダヤ人セルビア人の住民を虐殺したこと等が知られている。

ホロコースト[編集]

連行されるユダヤ人。1944年10月、ブダペスト

第二次大戦直前までハンガリーの反ユダヤ政策はドイツほど徹底したものではなかった。しかし1940年には若いユダヤ人男性に軍需工場での労役期間を義務づける法律が制定された。また1941年8月にはユダヤ人との結婚や性交渉を禁止する法律「第3のユダヤ人法」が出されている。

第二次世界大戦勃発後、ドイツはユダヤ人をドイツ国内に移送することを繰り返し要求した。このため1941年7月にはカルパティア・ルテニアから18000人のユダヤ人がドイツ側に移送されている。また1941年にウクライナで発生したカミャネチ=ポジリシキィの虐殺では16000人のハンガリー系ユダヤ人が虐殺された[4]

マルガレーテI作戦後に政権を握ったストーヤイ首相は積極的なユダヤ人迫害を開始した。ドイツ国内と同じようにダビデの星の紋章をユダヤ人に身につけさせ、ユダヤ人商店を閉鎖してドイツ国内に移送させた。しかしハンガリー国内で移送されたユダヤ人が「処理」されている噂が強まり、1944年7月25日にはユダヤ人移送は中止された。しかしこの移送中止は、親衛隊全国指導者ヒムラーが、ハンガリーユダヤ人と武器を交換させる計画を立てていたためで、連合国側に拒否されている[5]

ホルティ失脚後の矢十字党政権下では、ユダヤ人狩りが本格化された。ドイツからアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐が派遣され、ユダヤ人の収容所移送が本格化された。1941年の時点でハンガリー国内には80万人のユダヤ人がいたが、戦後には20万人となっている。この間のブダペストでユダヤ人を救出しようとした人物がスウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグである。ワレンバーグはユダヤ人にスウェーデンの保護証書を出すことで10万人のユダヤ人を救ったとされている。

脚注[編集]

  1. ^ ヨーゼフ・アウグスト大公はオーストリア皇帝フランツ1世の弟でハンガリー副王であったヨーゼフ・アントン大公の孫で、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の又従弟であった。また、妻アウグステはフランツ・ヨーゼフ1世の次女ギーゼラの娘であった。
  2. ^ "New Twist to an Old Riddle: The Bombing of Kassa (Košice), June 26, 1941". The Journal of Modern History (The University of Chicago Press) 2 (44).
  3. ^ 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
  4. ^ accessed 6 Jan 08
  5. ^ この間、318人のユダヤ人がドイツからスイスに移送されている。児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』(文春文庫)7巻 P453-454

関連項目[編集]