クリメント・ヴォロシーロフ
| クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ Климент Єфремович Ворошилов |
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| 1881年1月23日 - 1969年12月2日 | |
クリメント・ヴォロシーロフ(1937年) |
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| 生誕地 | ドニプロペトロウシク |
| 死没地 | モスクワ |
| 軍歴 | 1903年 — 1960年 |
| 最終階級 | ソ連邦元帥 |
| 廟 | クレムリン城壁共同墓地(en) |
| 署名 | |
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クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ
Климент Єфремович Ворошилов |
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| 任期 1953年3月15日 – 1960年5月7日 |
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| 前任者 | ニコライ・シュヴェルニク |
| 後任者 | レオニード・ブレジネフ |
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| 任期 1940年5月7日 – 1946年3月15日 |
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| 総理 | ヴャチェスラフ・モロトフ ヨシフ・スターリン |
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| 任期 1946年3月19日 – 1953年3月15日 |
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| 総理 | ヨシフ・スターリン |
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| 任期 1925年11月6日 – 1934年6月20日 |
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| 前任者 | ミハイル・フルンゼ |
| 後任者 | 「国防人民委員部」に改編 |
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| 任期 1934年6月20日 – 1940年5月7日 |
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| 総理 | ヴャチェスラフ・モロトフ |
| 後任者 | セミョーン・チモシェンコ |
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| 出生 | 1881年1月23日 |
| 死亡 | 1969年12月2日(88歳) |
| 国籍 | ウクライナ人 |
| 政党 | ロシア社会民主労働党 ロシア共産党(ボリシェヴィキ派) ソビエト連邦共産党 |
クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ(ロシア語: Климент Ефремович Ворошиловクリミェーント・イフリェーマヴィチュ・ヴァラシーラフ、1881年1月23日(グレゴリオ暦2月4日) - 1969年12月2日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家、ソ連邦元帥、ソ連国防大臣、国家元首に当たる最高会議幹部会議長を歴任した。ソ連邦英雄(2度)。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1881年1月23日、ロシア帝国時代のウクライナのヴェルフニェー・エカテリーノスラフ県にて、ロシア人の鉄道労働者の家庭に生まれる[1]。工場で働いていたが、1896年、ストライキに参加したことで解雇され、ストライキを扇動したために逮捕されるも釈放。1905年にボリシェヴィキに入党し、ストックホルムで開かれたロシア社会民主労働党第4回大会に代表として出席する。このとき、ウラジーミル・レーニンやヨシフ・スターリンと知り合う。1907年には、ロンドンの第5回大会にも出席し、ミハイル・フルンゼ、ミハイル・カリーニンらとも知り合う。同年に逮捕され、アルハゲリスク県に追放されるも1913年に恩赦となった。
[編集] ロシア革命と内戦
1917年ロシア革命が勃発すると、ルガンスク会議議長に選出される。同年11月、チェーカーの仕事に移ったフェリックス・ジェルジンスキーに代わって、ソビエト臨時政府であるペトログラードソビエト(Petrograd Soviet)委員となる。ロシア革命におけるヴォロシーロフは、内政問題に携わるウクライナ人による臨時政府および政治将校の一員であった。
1918年、第1ルガンスク社会主義パルチザン支隊を編成。この後、程なくして第5ウクライナ軍司令官に任命されたが、ドイツ軍とクラスノフのコサック軍に敗れる。その後、第10軍を編成し、ツァーリツィン(のちのスターリングラード)防衛を組織化する。この間に、スターリンと緊密な関係を築くことになった。ヴォロシーロフは、軍事会議でスターリンを擁護することで知られていた。しかしながら、スターリンがツァーリツィンから去ると、ヴォロシーロフはレフ・トロツキーによって罷免された(トロツキーは、「ヴォロシーロフとは、フィクションである」と評した(Ворошилов есть фикция))。
ロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争でのヴォロシーロフは、南部前線における指揮官として採用された。スターリンとともに政治将校として勤務していたヴォロシーロフは、主に南ロシアの農民から成る第一騎兵軍の士気に対する責任を負った[2]。コーマロウの戦争(Battle of Komarów)での大敗や、騎兵隊の階級内での残忍な反ユダヤ主義的暴力の規則的な勃発は、政治将校としてのヴォロシーロフの努力では防ぐことができなかった[3]。
[編集] 大粛清
その後、ウクライナ・ソビエト共和国内務人民委員に任命。1921年、クロンシュタットの反乱の鎮圧に参加し、党中央委員に選出される。1921年~1924年まで北カフカーズ軍管区司令官を務める。1925年、ミハイル・フルンゼが死去し、後任の陸海軍人民委員、ソ連軍事革命評議会議長に就任し、翌1926年には政治局員となった。
スターリンの確かなおべっか使いとして、1930年代の大粛清ではいわばスターリンの執行者として中心的な役割を果たす。スターリンによってそうするよう求められると、ヴォロシーロフ自身の軍の同僚と部下たちの多くを告発した。また、ヴォロシーロフの軍における威勢の強大化は、元帥のミハイル・トゥハチェフスキーの粛清と表裏一体であった。ヴォロシーロフは、ミハイル・オストロフスキーのような追放された元ソビエト将校・外交官がソ連に自発的に戻るよう親書を書いたりさえしており、彼らを「当局から懲罰を科される危機にはない」と安心させた(実際には懲罰が科された)[4]。
[編集] 国防人民委員と解任
1934年、国防人民委員(国防相)に就任し、翌1935年にはソ連邦元帥の称号を得た。1939年11月から1940年1月まで冬戦争(第1次ソ・芬戦争)でソ連軍を指揮するが、フィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられ、多くの死傷者を出した。この責任を取る形で40年3月、国防人民委員を解任された。冬戦争の失態から、ニキータ・フルシチョフはヴォロシーロフに対して低い評価をしており、後年「赤軍の大きな溜壺」(biggest bag of shit in the army)と酷評している。
[編集] 独ソ戦
1941年、独ソ戦(大祖国戦争)が開始されるとヴォロシーロフは、国家防衛委員会および大本営のメンバーとなり、スターリンを補佐した。また、北西方面軍司令官に任命され、各地戦線に派遣された。ヴォロシーロフは、個人的に見れば相当な勇将ではあったものの、圧倒的な機動力を有するドイツ機甲部隊に対してピストルなどの小火器をもって対抗するという類のものでしかなく、結局、ドイツ軍によるレニングラード包囲を許す結果をもたらし、北西方面軍司令官を解任された。しかしながらこの失態にもかかわらず、ヴォロシーロフはスターリンの年来の昔なじみという立場から、独ソ戦当初に敗北したという不名誉は不問に付された。
[編集] 戦後
終戦後の1945年から1947年までハンガリーに駐留し、ハンガリー第二共和国の成立と同国の共産化を指揮した。
1952年、党幹部会(政治局を改称)員となる。1953年、スターリンが死去したことにより、ソ連に大きな変化がもたらされる。ヴォロシーロフは、ソ連共産党第一書記となったフルシチョフと、首相となったゲオルギー・マレンコフによって、国家元首である最高会議幹部会議長に選出された。この三者は、スターリンの死の直後にラヴレンチー・ベリヤの逮捕を共謀していた。1956年、第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を開始すると、ヴォロシーロフは、一時的にマレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラーザリ・カガノーヴィチら、旧スターリン派(いわゆる「反党グループ」に加わり、フルシチョフ攻撃に走った。しかし、1957年6月、フルシチョフが権力闘争に勝利すると、ヴォロシーロフはフルシチョフ側に寝返った。
1960年5月7日、ソ連最高会議はヴォロシーロフの「引退の要請」を受けて、これを承認し、後任の最高会議幹部会議長にレオニード・ブレジネフを選出した。7月16日、党中央委員会はヴォロシーロフを党幹部会員から解任した。1961年10月の第22回党大会はヴォロシーロフを中央委員に選出しなかった。これにより、ヴォロシーロフは年金生活に入った。ヴォロシーロフ引退の直前の挿話として以下のようなことが残されている。ある日、中央委員会の夕食会に出席したヴォロシーロフは、他の出席者から無視された。この冷遇から自らの解任が既に決定されていると悟ったヴォロシーロフは、解任を先取りし、「引退」を表明したと言われる。
フルシチョフの失脚後、党第一書記(後に書記長)となったブレジネフによって、ヴォロシーロフは1966年に中央委員に返り咲いた。1968年にはソ連邦英雄の称号を受賞した(2回目)。
1969年12月2日、ヴォロシーロフはモスクワで死去した。
[編集] 顕彰
第二次世界大戦で使用された重戦車であるKVシリーズ(KV-1、KV-2、KV-85)は、ヴォロシーロフにちなんで名付けられたものである。1935年、ウクライナと極東の都市が彼にちなみヴォロシロフグラードおよびヴォロシロフ(それぞれ1950年代後半に、ルハーンスィク、ウスリースクに改称)と命名された。また、モスクワのソ連軍機甲軍大学にも、ヴォロシーロフの名称が冠された。
[編集] その他
妻はユダヤ籍を持つホルダ・ダヴィードヴナ・ホルプマン(1887年~1959年)。ヴォロシーロフとの結婚前に正教に改宗の上で、エカチェリーナに改名している。1917年ボリシェビキ党員になり、レーニン博物館副館長職として勤務した。一方で自分たちは子をもうけず、フルンゼの息子チムールとピョートル,娘タチヤーナ、更に孫子のクリムとヴァロージャを育てた。
日本でも良く知られている、1934年にグーセフにより作詞されたポーリュシカ・ポーレでは10番中7番の歌詞に、国防部門で重要な地位に就いたばかりのヴォロシーロフの名が登場する。
[編集] 著作物
- 『スターリン作戦論』
[編集] 脚注
- ^ http://www.warheroes.ru/hero/hero.asp?Hero_id=1089
- ^ Brown, Stephen. "Communists and the Red Cavalry: The Political Education of the Konarmiia in the Russian Civil War, 1918-20" The Slavonic and East European Review, Vol. 73, No. 1 (Jan., 1995), p. 88
- ^ Barmine, Alexander, One Who Survived, New York: G.P. Putnam (1945), footnote, p. 21
- ^ Barmine, Alexander, One Who Survived, New York: G.P. Putnam (1945), footnote, p. 21
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