ヴャチェスラフ・モロトフ

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ロシア人の政治家
ヴャチェスラフ・モロトフ
Вячеслав Молотов
Molotov.bra.jpg
生年月日 1890年3月9日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国キーロフ州ノリンスク市(Советск)
没年月日 1986年11月8日(96歳)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of Russian SFSR.svg ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
所属政党 ロシア社会民主労働党
ロシア共産党(ボリシェヴィキ
ソビエト連邦共産党
配偶者 ポリーナ・ジェムチュジナЖемчужина, Полина мёновна
サイン Vyacheslav Molotov Signature 1944.png

在任期間 1930年12月19日 - 1941年5月6日

在任期間 1939年5月3日 - 1946年3月15日
在任期間 1946年3月19日 - 1949年3月4日
在任期間 1953年3月5日 - 1956年6月1日
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ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフロシア語: Вячеслав Михайлович Молотовラテン文字表記の例:Vyacheslav Mikhailovich Molotovヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ1890年3月9日ユリウス暦2月25日) - 1986年11月8日)は、ソビエト連邦政治家革命家。ソビエト連邦首相、外相。第二次世界大戦前後の時代を通じてヨシフ・スターリンの片腕としてソ連の外交を主導した。「モロトフ」はペンネームであり、本名はヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンВячеслав Михайлович Скрябин)。作曲家アレクサンドル・スクリャービンとは直接の血縁関係はない[1]

1930年代以降唯一、スターリンに対して革命時代の愛称「コーバ」を使うことの許された人物であり、スターリンも彼のことを「モロトシヴィリ」「モロトシュテイン」といったあだ名で呼んだ。妻はユダヤ人の仕立屋の娘であり、ウクライナ共産党の書記や交通人民委員を務めたポリーナ・ジェムチュジナru:Жемчужина, Полина Семёновна)。孫にKGB長官の補佐官を務めた政治評論家ヴャチェスラフ・ニコノフがいる。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1890年3月9日ロシア帝国時代のビヤトカ県ノリンスククカルカ村で生まれた。父親は領地管理人、母親は裕福な商人という裕福な家庭に育った。1906年ロシア社会民主労働党に入党し、ボリシェヴィキのメンバーとなった。1909年カザン工業学校在学中に逮捕され、ボログダ流刑となる。1911年、刑期を終えてペテルブルク高等専門学校に入学した後、再びイルクーツク県に流刑された。1912年に創刊された党機関紙プラウダには編集書記として参加し、この頃から「モロトフ」の名を使い始める。モロトフはロシア語で「ハンマー」という意味であり、かつてはアレクサンドル・パルヴスも偽名として用いていた。このほか「ジャージャ」(伯父)や「ミハイロフ」というペンネームも用いた。

ロシア革命[編集]

1914年末にはアレクサンドル・シリャプニコフらと指導的活動組織「1915年ボリシェヴィキ集団」を結成する。1915年にイルクーツクから脱走し、地下活動に入る。1916年秋頃にはシリャプニコフらとペトログラードに潜伏し、ボリシェヴィキの国内組織である「党中央委員会ロシア・ビューロー」のメンバーとなった。1917年二月革命ではロシア臨時政府の支持に反対したため、しばらく党中央のメンバーから外された。しかしウラジーミル・レーニンが反臨時政府の立場を明確にするとふたたび中央に復帰し、急進的な革命を主張するようになった。十月革命ではペトログラード・ソビエト軍事委員会委員を務め、次いで北ロシア、ヴォルガドネツ各地方で宣伝活動を行った。1919年末にはニジニ・ノヴゴロド県ソビエト執行委員会議長に就任した。

中央委員会[編集]

ヨシフ・スターリン(中央)、クリメント・ヴォロシーロフ(右)とともに(1937年当時)

1921年には党中央委員会書記局筆頭書記になり、政治局員候補となる。この年、モロトフはウクライナの党書記であったポリーナ・ジェムチュジナと結婚した。翌1922年、レーニンは書記局の強化のためにソビエト連邦共産党書記長のポストを新設し、スターリンを書記長に任命した。以降の党内闘争ではモロトフはスターリン派として活動し、レフ・トロツキーアレクセイ・ルイコフといった政敵の排除に大きな役割を果たした。1926年には正式に政治局員となる。以降もスターリン路線の忠実な支持者であり、コルホーズによる農業集団化や大粛清でも大きな役割を果たした。1930年には人民委員会議議長(首相)に就任し、以降11年間にわたってその座を占め続けた。

また、グリゴリー・ジノヴィエフの失脚にともない1927年にはコミンテルン執行委員会幹部会メンバーに選出され、1929年ニコライ・ブハーリン失脚以後は、コミンテルンの事実上の指導者となった。

モロトフ外交[編集]

独ソ不可侵条約に調印するモロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとヨシフ・スターリン)
1940年11月、訪独し、ドイツの首脳と会談するモロトフ

1939年5月、ナチス・ドイツとの融和のためヒトラーの歓心を買おうと企図したスターリンによってユダヤ人であったマクシム・リトヴィノフ外務人民委員(外相)が解任された。モロトフは外務人民委員を兼務し、以降10年にわたってソビエト連邦における外交の長として活動することになる。一方、ユダヤ人であった妻のポリーナも交通人民委員を解任されている。8月には独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させ、これに基づいた9月のポーランド侵攻第二次世界大戦の口火を切った。この協定にはポーランドの分割とバルト三国ソ連による併合を取り決めた秘密議定書が付属しており、モロトフはこれにもサインしている。また、ポーランド侵攻後に起きたポーランド軍将校の虐殺(カティンの森事件)には政治局の一員として賛成している。

1939年11月、カレリアの領有権をめぐってフィンランドとの冬戦争が勃発した。スターリンとモロトフは開戦に積極的であり、オットー・クーシネンを首班とするフィンランド民主共和国の樹立を目論んでいた[1]。また、ソ連空軍はフィンランドの市街地を空爆した。フィンランド政府がこれに抗議すると、モロトフは「ソ連機は(民間人を攻撃しているのではなく)空からパンを投下しているのだ」と発言した。以後、フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾のことを『モロトフのパン籠』と呼ぶようになった。さらにフィンランド軍は、対戦車兵器として用いた火炎瓶に『モロトフ・カクテル』とあだ名をつけ、『パン』への『返礼』とした。冬戦争ではフィンランドに領土割譲要求を呑ませることに成功し勝利したが、小国フィンランド相手に多大な損害を出し苦戦したソ連の威信は大いに傷つき、国際連盟からも追放された。

1940年11月にベルリンを訪問し、ヒトラー、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相らと会談し、融和方針を確認した。11月13日、イギリス空軍による爆撃があったため防空壕に避難し会談を続けたが、リッベントロップがイギリスの敗北は必至と言ったところ、モロトフは「いま上空を飛んで爆弾を落としているのはどこの飛行機か」と応酬した[2]。リッベントロップはやや面食らったがすぐに冷静さを取り戻し、日独伊三国同盟にソ連を加えて四国同盟にする計画を説明し始めたという[2]。この提案にスターリンも含めて同意したが、ドイツの最終的な返答はバルバロッサ作戦であった。

1941年5月、スターリンに首相職を譲り、自らは外相専任となりソ連外交を指揮した。日本松岡洋右外相と日ソ中立条約に調印する。6月22日にドイツ軍が侵攻し独ソ戦が勃発した。ミコヤンの回想によると、6月30日ラヴレンチー・ベリヤの提案でソ連国家防衛委員会が組織されることが決まった。ミコヤンが議長としてスターリンの名をあげると、モロトフは「スターリンはここ2日ほど脱力状態にある」と説明したという。また、ベリヤの回想ではスターリンの不在時にソ連国家防衛委員会の設立を提案したのはモロトフであるとしている。この時期、スターリンは独ソ戦勃発に動揺したため指導力が弱まり、ニコライ・ヴォズネセンスキーはモロトフに権力掌握をすすめたという[3]。ミコヤンによるとスターリンの別荘を訪れたモロトフは「逮捕される表情」を示したという[1]

7月になるとスターリンは現場に復帰しソビエト連邦軍最高総司令官および国家防衛委員会議長となった。モロトフは国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐した。海外ではスターリンの忠実な部下として知られており、「モール」(ボスの情婦)のあだ名で呼ばれた。

戦時中から戦後にかけてアメリカイギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、戦後の共産圏の基礎を作った。

戦後[編集]

第二次世界大戦終了後の1945年10月に、スターリンは最初の発作を起こし、休養を余儀なくされた。そのためこの時期はモロトフが代理で政務を扱った。外国の新聞では後継者を巡る報道が行われ、モロトフに対するスターリンの警戒心は高まった。12月始め、復帰したスターリンはモロトフ批判を政治局で行った。政治局に対外委員会が設立され、外務人民委員部の役割とモロトフの権限は縮小された。外務人民委員代理にはアンドレイ・ヴィシンスキーが就任し、モロトフと対立する場面もあった。

1946年12月にはソビエト連邦科学アカデミーから「マルクス・レーニン学」の名誉会員に推挙された。しかしスターリンから「私はアカデミー会員だが、お前は名誉会員だ。賛成か」と電報が届いたため、辞退せざるを得なかった。スターリンは独裁を強め、ベリヤやジダーノフといった側近を重用した。モロトフやミコヤンといった古参幹部は遠ざけられ、粛清の危険が迫っていた。

1949年1月、ポリーナは逮捕され、党を除名された上でカザフに流刑された。当時スターリンはイスラエルの建国やソビエト・ユダヤ人共和国設立をめぐってユダヤ人への警戒心を強めており、モロトフの妻の粛清はイスラエル大使ゴルダ・メイアヘブライ語で会話したことが直接の引き金になったという。モロトフは妻の処分決定時には棄権したが、のちにそのことについて自己批判せざるを得なかった。3月には外務人民委員を解任され、第一副首相となった。しかし第一副首相は閑職であり、幹部会のメンバーからも外された。

モロトフ自身もヒステリーの症状で口が開かず、薬を飲むのにも苦労したほどであった。後に「あと1年スターリンが生きていたら無事ではすまなかっただろう」と語っている[1]

1953年3月5日、スターリンが死亡した。指導部ともつながりのある作家コンスタンチン・シーモノフen:Konstantin Simonov)の観察によると、モロトフは「スターリンの死を心から悼んだ唯一の政治局員」だったという[1]

スターリンの死後[編集]

スターリンの死は新たな政治状況を作り出した。その日のうちにモロトフは外相に復帰した。またポリーナは収容所から解放され、その後も多くの囚人が釈放された。しかし改革に舵を切ったベリヤと対立し、ニキータ・フルシチョフの提案するベリヤの逮捕と処刑に積極的に賛成した。ドミトリー・シェピーロフの回想ではフルシチョフがベリヤの解任をほのめかした際には「除去するだけでいいのか」と答えたという。

しかしその後の集団指導体制の中で、スターリン主義に固執するモロトフら保守派は孤立を深めていった。1956年2月にフルシチョフがスターリン批判を行い、非スターリン化をすすめるとモロトフらは反発した。またスターリンの故郷グルジアで暴動が発生し、「モロトフを首相に」というスローガンが唱えられた。またモロトフはユーゴスラビアとの関係正常化に反対してフルシチョフと対立し、9月に外相を解任された。10月にはハンガリーで政変が起こり、ハンガリー動乱が発生した。モロトフは軍事介入に賛成し、融和を唱えるミコヤンと対立した。

1957年6月、幹部会においてゲオルギー・マレンコフラーザリ・カガノーヴィチらとともにフルシチョフ解任の動議を提出した。しかし書記局と軍の支持を得ていたフルシチョフは中央委員会で逆襲を行った。モロトフら反フルシチョフ派は「反党グループ」であるとして政治局員から解任され、モロトフ自身は駐モンゴル大使に左遷された。(反党グループ事件)。この動議は反党グループと呼ばれた人々も賛成票を投じざるを得なかったが、モロトフは棄権した。しかし反対派の多くが自己批判や謝罪を行う中、モロトフだけは意見を変えなかった。

その後、中ソ対立でモンゴルの重要性が高まると、モロトフは1960年国際原子力機関ソ連代表に左遷された。しかしフルシチョフに体制批判の書簡を送ったことで、1961年10月の党大会で「モロトフとその同類の頑迷派」は激しく批判された。モロトフは共産党から除名され、年金生活に入った。

晩年[編集]

モロトフは晩年をモスクワ郊外のジューコフカの別荘で送った。年金は月額120ルーブルという労働者なみの水準であったという。モロトフは『新しい課題を前に』という著書の執筆を行っていたが、出版される見込みはなかった。1970年には妻のポリーナが死亡した。フルシチョフの失脚後、政権を握ったブレジネフの元でも復権は果たされず、20年以上の隠遁生活が続いた。

1984年5月、政治局でモロトフの復権が決定され、共産党に復党した。元首相としての多額の年金がさかのぼって支給され、モロトフは孤児院に寄付を行った。彼は1985年に書記長となったミハイル・ゴルバチョフに期待しており、新聞に「この国の新しい変化にわくわくしている」という記事を寄稿した[4]1986年11月8日、十月革命69周年の日にモスクワで死去した。96歳。

人物[編集]

ジョン・フォスター・ダレスは「今世紀の偉大な国際政治家が活躍するのを見てきたが、モロトフほど完成された外交的技量を持った人物を見たことがない」と評している。モロトフ自身は、資本主義と共産主義との間に平和はありえないと考えており、「ミスター・ニェット」とよばれたアンドレイ・グロムイコを高く評価しており、アフガニスタンへの介入などの対外政策を支持していた。1944年、フィンランドとの停戦交渉では、世界各国の大使を前に「この地上で赤軍を止められる軍隊などどこにもおらんのだ!ば、ば、ばかにされてなるものか」と、どもりながら激怒した。モロトフは護衛に抱えられて退出した。翌日、通訳からフィンランド代表や各国大使の反応を聞いて「上出来だ!申し分ない!」と叫んだ[5]。演技だったのである。やがて停戦協定が結ばれた。

対照的に、フルシチョフはその回想記の中でモロトフのことを、「こんな無能力で、こんな視野の狭く、最も簡単なことを理解できない男が一体何年わが国の外相をしていたのか!」と酷評している。フルシチョフはさらにモロトフの頑固さを強く批判しており、たとえば日本との平和条約を締結できなかったのも、モロトフの頑迷さも一因であったと述べている。その一方で、モロトフの頑固さは時としてスターリンにすらニェット(ノー)と平然と言ってのけるようなものであり、モロトフがフルシチョフのためにスターリンに抗議してくれたことも一度や二度ではなかったという。

フルシチョフが評したとおり、性格は頑固で愛想がない人物であり、部下にも妥協を許さなかった。基本的にはよそよそしいほど礼儀正しく接したが、一度怒らせると相手が気絶するまで叱った[6]。気絶すると冷水をかけ、護衛を呼んで事務室まで運ばせた。しかし、それ以上の懲罰が下ることはなかったという[6]。通訳が金庫をあけっぱなしにしているのを見た時は、「腐った知識人がまた何もかもさらけだしているな。君達ロシアの知識人ときたら」と笑った[7]。補佐官を務めたアレクサンドル・トロヤノフスキーは「モロトフほどうち解けにくい人間はいなかった」としている。

ロシア革命、スターリン体制の最後の生き証人であったが、スターリンについてはほとんど胸中を明かさずに世を去った。晩年でもモロトフと妻は一貫してスターリン主義者であり、多くの犠牲を出した1930年代の農業集団化や大粛清などを擁護している。しかし、レーニンについては晩年のインタビューで「スターリンよりも厳格だった」、「スターリンを『軟弱だ』と叱責したこともあった」など、貴重な証言を残している[8]

日本との関係[編集]

駐ソ大使も務めた東郷茂徳を「馬が合った」「私とやり合って祖国のために戦った」と評価しており、極東国際軍事裁判では東郷の減刑に動いたという説がある[9]。また、近衛文麿によるソ連を仲介者とした連合国との和平交渉近衛工作では駐ソ大使佐藤尚武と交渉を行い、1945年8月8日には宣戦布告文を手渡している(ソ連対日参戦)。

関連項目[編集]

公職
先代:
アンドレイ・ヴィシンスキー
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦外務大臣
第5代:1953年 - 1956年
次代:
ドミトリー・シェピーロフ
先代:
マクシム・リトヴィノフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦外務大臣
1946年まで外務人民委員
第3代:1939年 - 1949年
次代:
アンドレイ・ヴィシンスキー
先代:
アレクセイ・ルイコフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
人民委員会議議長(首相)

第3代:1930年 - 1941年
次代:
ヨシフ・スターリン

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917-1991』講談社選書メチエ(2002年) ISBN 978-4-06-258248-3
  2. ^ a b ワレンチン・M・ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』、63頁 (栗山洋児訳、同朋舎出版、1995年)。モロトフの通訳としてその場にいた。
  3. ^ ただし、孫のニコノフや下斗米伸夫は否定的に見ている。
  4. ^ 同じく古参幹部であったラーザリ・カガノーヴィチはジャーナリストの作文ではないかとしている
  5. ^ ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』255頁
  6. ^ a b ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』241頁
  7. ^ ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』244頁
  8. ^ 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構 岩上安身公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。「諸君!」 1997年1月号掲載
  9. ^ 下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917-1991』118P。歴史家アレクセイ・キリチェンコの説であるが、下斗米は疑問があるとしている。