カティンの森事件

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ポーランド赤十字社により発掘された遺体(1943年

カティンの森事件(カティンのもりじけん、ポーランド語: zbrodnia katyńskaロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソ連グニェズドヴォ近郊の森で約22,000人[1]ポーランド軍将校国境警備隊員、警官、一般官吏聖職者内務人民委員部NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

カティン(カチンとも、Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。

経緯[編集]

ポーランド人捕虜問題[編集]

赤軍に捕虜にされたポーランド軍兵士

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。 武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。 ポーランド政府はパリへ脱出しポーランド亡命政府を結成、翌1940年アンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した[2]

ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせを行っていたが満足な回答は得られなかった。 1941年独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。 しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。 亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。 12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキヨシフ・スターリンと会談したが、彼は「たしかに釈放された」と回答している。

捕虜の取扱い[編集]

ポーランド人捕虜はコジェルスクスタロビエルスクオスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かいそのまま消息不明となる。

事件の発覚[編集]

発掘される森
現地で調査委員会の手によって作成された犠牲者の共同墓地(1943年4月)

スモレンスクの近郊にある村グニェズドヴォでは1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフは「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォより「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団から国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。

発見当初の動静[編集]

1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワルブリンクラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このためドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し1941年に侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられ殺害されたと主張した。しかし捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランドとドイツの赤十字社はジュネーヴ赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これをうけてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、またドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコ各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。

第一次調査[編集]

現地の調査を行うポーランド赤十字社代表団

調査はソ連軍が迫る状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツは「12,000人」の捕虜が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコジェルスク捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳から死後三年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が三年だったことから、死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜ヴァンブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことから、ソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。

1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。

西側連合国の対応[編集]

死体遺棄現場でソビエトによる虐殺が行われたことをドイツ人から説明を受ける捕虜となったアメリカ・イギリス・カナダ軍の将校達

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。またポーランド亡命政府大使オーウェン・オマレーは、事件がソ連によるものであると結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[3]


1944年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール英語版海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったがルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をアメリカ領サモアで過ごすこととなった[3]。また事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ英語版は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[3]

ソ連による「真相究明」[編集]

1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかしこの調査委員会は委員長ニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初からドイツの犯行であることを立証するためのものであった[4]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまりドイツの占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったということを根拠として、ドイツの犯行であったと結論した[4]

さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[4]

冷戦期のカティンの森事件問題[編集]

冷戦が激化しはじめた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[5]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[4]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務省が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[4]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[5]

1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)長官アレクサンドル・シェレーピンは、ニキータ・フルシチョフに対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[6]。戦後ポーランドを支配していたポーランド統一労働者党の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[7]。亡命ポーランド人達は事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[8]

また1970年代後半のイギリスでは、事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[3]

冷戦後の調査[編集]

ペレストロイカがすすみ、グラスノスチの風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ミハイル・ゴルバチョフらはもはや従来の主張を継続することはできないと結論した。4月13日、タス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、ソ連政府は「スターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[6]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[6]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。

1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第1号から公開した。その中には、西ウクライナベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書や、ソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフ宛ての文書も含まれている。しかし公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティン4421人、ミエドノイエ6311人、ハルキエ 3820人、ビコブニア3435人であり、残り3870人の消息は不明のままである[9]

2004年、ロシア検察の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[10]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドではない」という声明を行った[11]

現在[編集]

カティンの森事件の追悼記念碑

2007年11月17日、ポーランド共和国下院(セイム)は4月13日をカティンの森事件被害者追悼の日であると決議した[11]。2008年、ロシアのプーチン首相はポーランドのドナルド・トゥスク首相と会談し、事件が「スターリンの犯罪」であると言うことで一致した[11]。さらに2010年4月7日、プーチン首相はポーランドのトゥスク首相と共にスモレンスク郊外の慰霊碑にそろってひざまずき、さらに事件を「正当化できない全体主義による残虐行為」とソ連の責任を認めた。ただし、ロシア国民に罪をかぶせるのは間違っていると主張し、謝罪はしなかった[12]。なお、4月10日に現地でおこなわれるポーランド主催による追悼式典に参加する予定だったポーランドのレフ・カチンスキ大統領が搭乗したポーランド政府専用機がスモレンスクの空港付近の森林地帯に墜落し、大統領夫妻及び多数のポーランド政府高官が死亡する惨事が起きた(ポーランド空軍Tu-154墜落事故)。この事故のため、追悼式典は中止された[13]。また2011年、墜落事件の追悼碑の碑文がロシア側により作り替えられ、当事件の記述が削除されていたために物議をかもした。

同年11月26日ロシア下院はスターリンら複数の指導者が指令を下して起こしたとする声明を決議した。また2009年にはポーランド人13名が欧州人権裁判所対してカティンの森事件を「ジェノサイド罪」として裁くことなどを求める訴えを起こした[9]。同裁判所はこのうち二つの訴えを受理し、ロシア政府が遺族に対して非人道的対応をとったこと、ロシア側が同裁判所に必要な書類を提出しなかったことを非難した上で、ロシアの調査打ち切りは、欧州人権条約3条と38条に違反するという認定を行った[14]

2011年時点で、存在する文書の187巻中137巻がポーランドで公開されているが、10冊は公務上の理由で、残り36冊は機密扱いとなっているため公開されていない[10]。このなかにはベラルーシで処刑されたと見られる3870人のポーランド人捕虜に関する資料が含まれていると見られているが、公表されていない[10]。また、ソ連およびロシアの捜査によって責任を追及されたり、訴追されたものは一人も存在しない[10]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 秦郁彦佐瀬昌盛常石敬一(編)『世界戦争犯罪辞典』文藝春秋、2002年、ISBN 4-16-358560-5 
  • 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 第5巻』《文春文庫》、1992年、ISBN 4-16-714140-X
  • Janusz K. Zawodny "Death in the Forest: Story of the Katyn Forest Massacre"
    Notre Dame, Indiana, USA : University of Notre Dame Press, 1962.
  • 広田厚司『不思議な戦争の話』光人社(光人社NF文庫)、2008年、ISBN978 4-7698-2583-8
  • 岡野詩子「カティンの森事件に関する公開文書から見る歴史認識共有への課題」、『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第34巻、岡山大学大学院社会文化科学研究科、2012年11月、 183-201頁、 NAID 40019507192
  • 岡野詩子「パリ亡命雑誌『クルトゥ-ラ』に見るカティンの森事件と戦後」、『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第28巻、岡山大学大学院社会文化科学研究科、2009年11月27日、 159-176頁、 NAID 120002308950
  • 岡野詩子「カティンの森事件のもうひとつの側面--「政治の道具」としての歴史の空白」、『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第30巻、岡山大学大学院社会文化科学研究科、2010年11月、 215-232頁、 NAID 120002674404
  • ヴィクトル・ザスラフスキー、根岸隆夫訳『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』みすず書房、2010年 
  • アンジェイ・ムラルチク、工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』集英社文庫
  • アンジェイ・ワイダ監督、『カティンの森』の原作作品。
  • ヤン・カルスキ(en:Jan Karski)著、吉田恒雄訳 『私はホロコーストを見た 黙殺された世紀の証言 1939-43(上・下)』の第2章(ソ連抑留)、 白水社2012年9月ISBN 4-560-08234-8 ISBN 4-560-08235-5

関連項目[編集]

外部リンク[編集]