カティンの森事件
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カティンの森事件(ポーランド語: Zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、ソ連国内のスモレンスク近いグニェズドヴォ (Gnezdovo) 村近くの森で約4400人のポーランド軍将校捕虜、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソ連の内務人民委員部(秘密警察)によって銃殺された事件。日本では「カティン事件」または「カチン事件」としても知られている。
カティン(カティニ / Katyń)は、この事件があった場所の近くの地名で、事件とは直接関係ないが、覚えやすい名前であったため、当時のドイツが対外宣伝用に使用した。
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[編集] 事件の発端
1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北。ポーランド東部で武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられた。彼らは3つの収容所へ分けて入れられたがその中の一つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、軍隊用語で「西へ向かう」という言葉が不吉な意味を示す事を知っていた少数の捕虜は素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、約束通り「西へ向かい」そのまま消息不明となった。
1943年、ソ連に侵攻したドイツ軍はカティン近くの森で溝に4,000人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主等の遺体が埋められているのを発見し、ソ連が彼らを裁判無しで虐殺したとして非難した。ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年に侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害されたと主張した。
[編集] 大戦中の西側連合軍の対応
イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。
失地回復したソ連は1944年にカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して、ソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルト大統領にこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルト大統領はそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった。
[編集] 大戦後の調査
1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発した。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の一つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である。」と述べている。アメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったので、カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。
この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド統一労働者党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦に遠慮してか真相を究明しようとはしなかった。この状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続した。
1952年に米国議会で、カティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたと認定された。また、1970年代後半のイギリスでは、事件の1940年の日付で犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、冷戦下の政治情勢を刺激するとして非難された。
[編集] 冷戦後の調査
1989年、ソ連の学者たちはヨシフ・スターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官、ラヴレンチー・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。
1990年、ミハイル・ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ (Mednoe) とピャチハキ (Pyatikhatki) を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。
1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。
[編集] 参考文献
- 秦郁彦,佐瀬昌盛,常石敬一『世界戦争犯罪辞典』文藝春秋、2002年、ISBN 4-16-358560-5
[編集] 映画化
2007年にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダによって、この事件を題材とした映画『カチン』が制作された。ワイダの父親もこの事件の犠牲者である。
[編集] 関連項目

