カティンの森事件

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現地で調査委員会の手によって作成された被害者の共同墓地。1943年4月

カティンの森事件ポーランド語: Zbrodnia katyńska, ロシア語: Катынский расстрел)は、ソ連国内のスモレンスクに近いグニェズドヴォ (Gnezdovo) 村近くの森で約4400人のポーランド将校捕虜国境警備隊員・警官・一般官吏・聖職者がソ連の内務人民委員部秘密警察)によって銃殺された事件。日本ではカティン事件またはカチン事件としても知られている。

カティン(カティニKatyń)は、この事件があった場所の近くの地名で事件とは直接関係ないが、覚えやすい名前であったため、当時のドイツが対外宣伝用に使用した。

目次

[編集] 経緯

[編集] ポーランド人捕虜問題

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北した。ソ連の占領下に置かれたポーランド東部では、武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられた。1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は、将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5131人、下級士官4096人、兵士181223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8000人をふくむ230672人と訂正した[1]

ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせを行っていたが、満足な回答は得られなかった。1941年独ソ戦勃発後にはポーランド・ソ連間で条約(en:Sikorski-Mayski Agreement)が結ばれ、ポーランド人捕虜は釈放され、部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1800人、下士官と兵士27000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1に満たなかった。ポーランド亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが、事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日にはポーランド亡命政府首相シコルスキスターリンと会談したが、スターリンは「たしかに釈放された」と回答している。

[編集] 捕虜の取り扱い

ポーランド人捕虜はコルジェスク、スタロビエルス、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の一つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、軍隊用語で「西へ向かう」という言葉が不吉な意味を示すことを知っていた少数の捕虜は素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、約束通り「西へ向かい」そのまま消息不明となった。

[編集] 事件の発覚

発掘される森
遺棄された犠牲者の死体

スモレンスクの近辺グニェズドヴォでは、一万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置き、この情報を耳にした。1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森『山羊ヶ丘』で、ポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に、幾層に渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ゲルスドルフen)少将は、「世界的な大事件になる」と思い、「国際的に通用しやすい名前」である「カティン」の名を取って「カティン虐殺事件」として報告書を作成した。報告書は中央軍集団から国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。

[編集] 発見当初の動静

4月9日、ゲッベルスはワルシャワルブリンクラカウの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このためドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられ、殺害されたと主張した。しかし捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことが無く、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は、遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。4月17日、ポーランドとドイツの赤十字社は、ジュネーブ赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これをうけてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団派遣を断念した。4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し、「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、またドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコ各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。

[編集] 第一次調査

現地の調査を行うポーランド赤十字社代表団

調査はソ連軍が迫る状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツは「12000人」の捕虜が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコルジェスク捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の状況は死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」であったことなどがソ連軍の犯行を伺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜ヴァンブリード大佐とスチュワート大佐は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことから、ソ連軍による殺害であることを直感したと後に公聴会で証言している。

5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が高まったために現地労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に逢った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4243体であった。

[編集] 大戦中の西側連合軍の対応

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。

失地回復したソ連は1944年にカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアルーマニアに接触して、ソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルト大統領にこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルト大統領はそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった。

[編集] 大戦後の調査

1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発した。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の一つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である。」と述べている。しかしアメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったため、カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。

この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド統一労働者党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦に遠慮してか真相を究明しようとはしなかった。この状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続した。

1952年に米国議会で、カティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたと認定された。また、1970年代後半のイギリスでは、事件の1940年の日付で犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、冷戦下の政治情勢を刺激するとして非難された。

[編集] 冷戦後の調査

追悼する墓標

1989年、ソ連の学者たちはヨシフ・スターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官、ラヴレンチー・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。

1990年ミハイル・ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ (Mednoe) とピャチハキ (Pyatikhatki) を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。

1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。

[編集] 映画化

2007年にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダによって、この事件を題材とした映画『カチン』が制作された。ワイダの父親もこの事件の犠牲者である。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
ウィキソース
ウィキソースNKVD Order № 00794/Bの英訳があります。

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』