カティンの森事件
カティンの森事件(カティンのもりじけん、ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第2次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約4400人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。
「カティン(カチンとも、Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。
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[編集] 経緯
[編集] ポーランド人捕虜問題
1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。政府はロンドンへ脱出し、ポーランド亡命政府を結成した。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した[1]。
ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして何度もソ連側に問い合わせを行っていたが、満足な回答は得られなかった。1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連は条約(en)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、彼は「たしかに釈放された」と回答している。
[編集] 捕虜の取扱い
ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かいそのまま消息不明となる。
[編集] 事件の発覚
スモレンスクの近郊にある村グニェズドヴォでは1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ゲルスドルフは「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォより「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団から国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。
[編集] 発見当初の動静
4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このためドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。
4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し1941年に侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられ殺害されたと主張した。しかし捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。4月17日、ポーランドとドイツの赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。
これをうけてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団派遣を断念した。4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。
ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、またドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコ各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。
[編集] 第一次調査
調査はソ連軍が迫る状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツは「12,000人」の捕虜が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。
発掘途中の調査では、遺体はコジェルスク捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の状況は死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連軍の犯行を窺わせた。
また、調査に同行したアメリカ軍捕虜ヴァンブリード大佐とスチュワート大佐は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことから、ソ連軍による殺害であることを直感したと後に公聴会で証言している。
5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。
撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。
[編集] 大戦中の西側連合軍の対応
イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。
失地回復したソ連は1944年にカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったがルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった。
[編集] 大戦後の調査
1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。しかしアメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったため、カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。
この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド統一労働者党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦に遠慮してか誰も真相を究明しようとはしなかった。この真相を問われることのない状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続した。
1952年にアメリカ議会でカティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたと認定された。また1970年代後半のイギリスでは事件の1940年の日付で犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、冷戦下の政治情勢を刺激するとして非難された。
[編集] 冷戦後の調査
1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し当時の内務人民委員部長官ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。
1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。
1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第1号から公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書や、ソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行され彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフ宛ての文書も含まれている。
2004年、軍検察の捜査は「被疑者死亡」などの理由で終結した。捜査資料183巻のうち116巻は「国家機密を含む」との理由で公開されないままである[2]。
[編集] 和解
2009年、ロシアのプーチン首相はポーランドを訪問した際、事件を「犯罪」と呼んだ。さらに2010年4月7日、プーチン首相はポーランドのトゥスク首相と共にスモレンスク郊外の慰霊碑に揃って跪き、さらに事件を「正当化できない全体主義による残虐行為」とソ連の責任を認めた。ただし、ロシア国民に罪をかぶせるのは間違っていると主張し、謝罪はしなかった[3]。なお、4月10日に現地でおこなわれるポーランド主催による追悼式典に参加する予定だったポーランドのレフ・カチンスキ大統領が、搭乗したポーランド政府専用機がスモレンスクの空港付近の森林地帯に墜落して大統領夫妻及び多数のポーランド政府高官が死亡する惨事が起きた(ポーランド空軍Tu-154墜落事故)。この事故のため、追悼式典は中止された[4]。
同年11月26日、ロシア下院はスターリンら複数の指導者が指令を下して起こしたとする声明を決議した。
なお2011年、墜落事件の追悼碑の碑文がロシア側により作り替えられ、当事件の記述が削除されていたために物議をかもした。
[編集] 脚注
- ^ 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
- ^ 「追悼、70年を経て――ロシア、「カチンの森事件」和解へ一歩」『朝日新聞』2010年4月8日付。
- ^ ポーランド首相招き追悼式 カチン事件、ロシアの謝罪なし2010年4月10日徳島新聞(ロイター共同)
- ^ “カチンの森事件、スターリンが指令…露下院声明” (日本語). 読売新聞. (2010年11月27日) 2010年11月27日閲覧。
[編集] 参考文献
- 文藝春秋、2002年、ISBN 4-16-358560-5
- 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 第5巻』
- 文春文庫、1992年、ISBN 4-16-714140-X
- Janusz K. Zawodny "Death in the Forest: Story of the Katyn Forest Massacre"
Notre Dame, Indiana, USA : University of Notre Dame Press, 1962.
[編集] 近年の文献
- 『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』 ヴィクトル・ザスラフスキー
根岸隆夫訳、みすず書房、2010年
[編集] 関連項目
- ヴィーンヌィツャ大虐殺
- タンネンベルク作戦
- ポーランド総督府
- ヤルタ会談
- アンジェイ・ワイダ - 父親が事件の犠牲者となった。
- カティンの森 - 上記の監督による2007年制作の映画。
- ポーランド空軍Tu-154墜落事故 - この事件の追悼式典に行く途中で起きた事故。
[編集] 外部リンク
- Official site of the Memorial of Katyn
- Original of Katyn order
- Katyn massacre victim list
- 読売新聞(リンク切れ) - 「カチンの森事件」追悼集会で70年後の和解