サーラシ・フェレンツ

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Flag of Hungary.svg この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、ヨーロッパ風にフェレンツ・サーラシと表記することもあります。
サーラシ内閣(1944年、前列中央がサーラシ)

サーラシ・フェレンツ(Szálasi Ferenc, 1897年1月6日 - 1946年3月12日)は、ハンガリーの政治家。20世紀前半のファシスト組織、矢十字党の指導者。本姓はサロスヤン(Salosjan)。

生涯[編集]

カッサ(現在のスロヴァキア・コシツェ)出身。父親はドイツ系で、曾祖父はアルメニア系オーストリア・ハンガリー帝国軍人として第一次世界大戦に従軍し、戦後は新たにできたハンガリー軍に勤務。1925年4月から参謀本部勤務。1930年、秘密組織「ハンガリー生活同盟」(Magyar Élet Szövetség)に入り、その主要指導者の1人となった。1935年中佐で退役し、民族主義組織「国民の意思」党(Nemzet Akaratanak Pártja)を創設。1937年4月、同党は政府により禁止されたが、同年にはファシスト組織「矢十字党」(Nyilaskeresztes Párt)を設立してその党首となった。1938年4月、反政府活動により逮捕され、刑務所に入れられるも1940年9月、アドルフ・ヒトラーの圧力により釈放され、ドイツに移った。

1944年3月19日第二次世界大戦の戦況はドイツにとって思わしくなく、同盟国であるハンガリーの離反を恐れたドイツは軍を出してハンガリーを占領し、サーラシは帰国した。8月、なお単独講和の道を諦めようとしないホルティ・ミクローシュらハンガリー政府に対し、ドイツは矢十字党を支援し、クーデターの準備を始める。10月15日計画は実行に移され、矢十字党は郵便局ラジオ局を占拠し、ドイツ軍は摂政宮殿を占領した。同日、サーラシは「国民指導者」を宣言したが、彼のハンガリー国が統治する範囲はドイツ占領地のみに限られた。11月3日、ホルティ・ミクローシュの退任とベレグフィ・カーロイ、ライニシュ・フェレンツ、S.チアから成る摂政会議の創設が布告。さらに総動員を布告し、ソ連軍への徹底抗戦を組織しようと試みたがソ連軍の進撃は止められず、ついにはハンガリー全土を喪失、1945年3月27日、政府は瓦解した。

1945年5月9日ザルツブルクアメリカ軍に投降し、抑留された。後にハンガリー当局に引き渡される。1946年、ハンガリー人民裁判所により死刑を言い渡され、絞首刑に処された。

関連項目[編集]