もく星号墜落事故
| 概要 | |
|---|---|
| 日付 | 1952年4月9日 |
| 原因 | 原因不明の墜落事故 |
| 場所 | 日本・伊豆大島 |
| 死者 | 37 |
| 負傷者 | 0 |
| 航空機 | |
| 機体 | マーチン2-0-2 |
| 航空会社 | 日本航空(ノースウエスト航空に委託) |
| 機体記号 | N93043 |
| 乗客数 | 34 |
| 乗員数 | 3 |
| 生存者 | 0 |
もく星号墜落事故(もくせいごうついらくじこ)は、1952年4月9日に日本航空機(ノースウエスト航空が委託運航を行っていたマーチン2-0-2、機体記号N93043)が伊豆大島に墜落した航空事故である。
目次 |
[編集] 概要
[編集] ノースウエスト航空の委託運航
「もく星号」は、第二次世界大戦後の日本初の民間航空機として1951年に就航した日本航空のマーチン2-0-2型機(機体記号:N93043)の愛称である。
もく星号は日本航空便として運航されていたものの、第二次世界大戦で日本が敗北すると、日本の占領に当たったアメリカ軍やイギリス軍を中心としたGHQによって、官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止されたことを受け、アメリカのノースウエスト航空による委託運航を行っていたものである。
なお、事故に先立つ1950年6月に、GHQにより日本の航空会社による運航禁止期間の解除の決定が下されたものの、占領下のこの時点では(占領解除はこの事故の直後、4月28日のことである)まだ日本航空による自主運航は行われておらず、日本航空はパイロットをはじめとする運航乗務員や、運航技術、機体など多くの部分でノースウエスト航空との運航委託契約を継続していた。また、もく星号は、機体記号(登録番号)の「N」からわかるように、日本国籍ではなくアメリカ国籍の機体であった。
[編集] 墜落
事故が発生したのは1952年4月9日、羽田発名古屋・伊丹経由福岡行きの便で、羽田を午前7時42分に離陸したもく星号は直後に消息を絶ち、翌日の朝に同僚機の「てんおう星号」(ダグラスDC-4)によって、伊豆大島の三原山山腹に墜落しているのが確認された。
この飛行機には、活弁士・漫談家の大辻司郎や八幡製鐵社長の三鬼隆などの著名人も搭乗していた。また当時、飛行機は運賃が他の公共交通に比べ高い乗り物だったため、もく星号の乗客も社会的地位が比較的高い人間ばかりであり、日立製作所の取締役や石川島重工の役員、ハワイのホテル支配人、炭鉱主、国家公務員などがいた。彼らを含む乗客・乗務員37名全員死亡という、当時としては大規模な航空事故となった。
なお、講談師の五代目一龍斎貞丈も大辻と同じ仕事のため飛行機で向かう予定であったが、東京での仕事があって1日遅れの出発であったため、命拾いをした[1]。
また、ロイヤル社長の江頭匡一も、東京での仕事が長引いて出発が1日遅れたため、難を逃れた[2]。
[編集] 情報の錯綜
しかし、消息を絶ってから残骸となって発見されるまでの間は、マスコミや警察等の関係当局も情報をほとんど手に入れることができず、そのため多くの未確認情報が錯綜し、「海上に不時着」、「アメリカ軍機が生存者を発見」、「乗客全員無事」などの誤報が次々に打たれた。
特に長崎県の地方紙『長崎民友新聞』は事故の翌日の紙面で「危うく助かった大辻司郎氏」という写真付きの記事を掲載。「漫談の材料が増えたよ――かえって張り切る大辻司郎氏」という見出しで大辻の談話を載せた。
これは、上記の「乗客全員無事」という「ニュース」を知った大辻の秘書が、同新聞に連絡する際に気を利かせすぎて捏造した話だったという(実際には前述の通り大辻だけでなく全員が死亡)。なお大辻は長崎民友新聞が開催する「長崎平和復興博覧会」の会場内の劇場で漫談を披露する予定だった。
[編集] 墜落原因
[編集] 原因不明
当時はまだフライトレコーダーやボイスレコーダーが装備されていなかった上、当時の航空管制や事故捜査は連合国軍(実質的には在日アメリカ軍)の統制下にあったため、墜落事件の詳細は今もって不明な点が多い。
なお、推測される墜落原因としては、アメリカ人パイロットによる操縦ミス説や、当時同区域の管制を行なっていたアメリカ軍の管制ミス説がある[3]。また、後に機長(当時36歳)を空港まで送ったタクシー運転手による証言から機長飲酒説も挙げられているが、最終的に墜落原因は特定されないまま捜査は終了した。
なおこれには、アメリカ軍の管制ミスなどアメリカ人のミスが事故の主因となっていたことから、アメリカ軍を中心とした連合国軍の占領下の日本人の反米感情をあおらない為にあえて「原因不明」としたのではないかという意見がある。
これは、アメリカ当局が日本政府に提出した交信記録(タイプ)では、航空管制をしていたジョンソン基地(現在の入間基地)の管制官が付近にアメリカ軍機がいたことから「羽田から館山(房総半島南部)上空まで2000フィートを計器飛行、館山南方10分間飛行高度を2000フィートにて保持、次いで(巡航高度の)6000フィートに上昇」という指示であったが、機長が館山から7分飛行すれば標高2474フィート(754メートル)の三原山があり、規定高度の4000フィートよりも低いと抗議し訂正されたとある。しかし実際には機長は大島への誘導は大島の差木地にある大島航空標識があり真直ぐ飛行すれば三原山を避けることが出来るはずだと思っていたところ、悪天候の為になんらかの理由で幅16Kmの航空路の中心線を北側に逸脱し、高度2000フィートで水平飛行中の機体が三原山に接触し墜落したという指摘もあるが、これらは推測にすぎず確定されたものではない。
[編集] 松本清張による推理
推理作家の松本清張は、この事件を題材にした「1952年日航機『撃墜』事件」や「風の息」などの著書で、墜落原因として「アメリカ軍機による撃墜が行われた」という説を主張した。
- アメリカ軍が発表した墜落場所(静岡県浜名湖西南16キロの海上)と実際の墜落場所(伊豆大島三原山山腹の御神火茶屋付近)が著しく離れていた。
- もく星号の近辺をアメリカ軍機10機が飛行していた。
- 墜落したもく星号の一部の部品をアメリカ軍が持ち去っていた。
- パイロットの声が録音されていたもく星号の通信記録をジョンソン基地が隠し続けた。
- 「東京モニター」がもく星号の飛行を記録したことになっているが、「東京モニター」は存在しない。
以上の点などから、松本は「もく星号がアメリカ軍機に撃墜された」と推理した。しかし、アメリカ軍機による撃墜が事実であると証明されたわけではない、という意見もある。
この「もく星号アメリカ軍撃墜説」が発表されると、反響を呼びテレビ朝日はドラマ化[4]して放映した。また同局は、その後22年余り経ってから「ビートたけしの陰謀のシナリオ」で、「もく星号の謎」を究明しようと試みた。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 特定非営利活動法人災害情報センター編『鉄道・航空機事故全史』 日外選書Fontana シリーズ 2007年
- 松本清張『一九五二年日航機「撃墜」事件』(角川書店ISBN4-04-872670-6)1992年
- 松本清張『風の息』(朝日新聞社)1974年、 1978年文春文庫、1983年『松本清張全集(48)』(文芸春秋社)に所収。