特殊慰安施設協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
安浦ハウスに集まる米国将兵たち

特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい)は、第二次世界大戦後、連合国軍占領下の日本に作られた同軍兵士の相手をする売春婦慰安婦)がいた慰安所である。

英語では Recreation and Amusement Association と言い、RAA の頭字語で知られた。直訳は「余暇・娯楽協会」であり、日本語の名称との間で意味が大きく異なる。

目次

設立までの経緯 [編集]

背景 [編集]

以下の三点が設立背景とされる[1][2]

  • ヨーロッパの戦場で、米軍によるレイプの被害者が14000人(ドイツ人女性 11040人)いたこと[3]
  • 沖縄戦では米軍上陸後、強姦が多発したこと。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。“In Okinawa, US troops are estimated to have raped 10,000 Japanese women during World War II”。[4][† 1][5]
  • アメリカ軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生したこと[1]

国営売春所の設立まで [編集]

君が先頭に立って、日本の娘の純潔を守ってくれ

—1945年8月19日、副総裁就任翌日の近衛文麿が警視総監の坂信弥に対し[6]

日本で第二次世界大戦の戦闘停止発令から3日後の1945年8月18日内務省が「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」を各県に発令し[7][8]、これを端緒として、占領軍対策の一環として同月26日に設立された。戦後の進駐軍の日本占領に当たり、日本の婦女子の操が進駐軍兵士らによって汚される恐れがある。それならば性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい、との思惑からである[9]

他方、占領軍がこの種の「サービス」を提供するよう命じたという説があり、1945年8月22日付で発令された内務省警保局「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書の最後の項目に「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」と記されている[10]。また、同日には、連合軍の新聞記者からも「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が伝えられていた[11]。しかし、実際には終戦3日後の8月18日に警視庁は花柳界の団体と打ち合わせを終え、内務省は同日に各地方へ「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を行政通達している[6]

特殊慰安施設協会の資本金は1億円で、その内の5500万円は大蔵省の保証により日本勧業銀行が融資している[6][9]池田勇人は資金の調達に関して特に大きく尽力した[9]。建設に必要な資材や、営業に必要な生活什器、衣服、布団、そして約1200万個のコンドームは東京都と警視庁が現物提供した[6][9]

RAA関連施設の設置場所 [編集]

1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった[9]。東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所が開設されている[9]。進駐軍の先遣部隊が厚木に到着したのは8月28日である[9]

RAA関連施設は、東京・横浜をはじめ、熱海箱根などの保養地大阪愛知県広島県静岡県兵庫県山形県秋田県岩手県など日本各地に設置されていった[12]

東京周辺 [編集]

東京には高級将校慰安所としては、1945年10月20日墨田区向島に「迎賓館大蔵」が、同11月に世田谷区若林に「RAAクラブ」の二箇所が設置された[12](1946年8月、占領軍により接収)。一般兵士用慰安所としては、東京都品川区大森海岸に、小町園、楽々、見晴、波満川、蜂之喜、花月、やなぎ、乙女、清楽、日の出などの割烹旅館が、多摩地区では福生営業所(福生町)、調布園(調布町)、西多摩郡三田村には「楽々ハウス」(キャバレーも兼ねる)などが、立川市にはキャバレー富士、三鷹町にはニューキャッスル(キャバレーも兼ねる)などが慰安所として設置された[12]

慰安所の他に、RAAではキャバレービヤホールも設置され、そこで日本人女性と出会うような仕組みとなっていた。銀座のキャバレーとしては千疋屋[12]、「オアシス・オブ・銀座」、木挽町の歌舞伎座別館にはクラブエデンが開設され、他、銀座のビヤホールとしてはエビスビヤホールなどが開設され、このほか港区高輪のパラマウント、赤羽の赤羽会館(赤羽キャバレー)などがRAA関連施設として開設された[12]。なお、これらのRAA施設の他、花柳街など民間の風俗施設も興隆し、たとえば東京中野区の新井町の花柳街は占領軍一色であった[12]

また救世軍は1947年4月に東京都の委託で立川に「特殊婦人保護施設 新生寮」、同年6月に大阪府の委託で「西成朝光寮」を開設している[13]

熱海・箱根 [編集]

熱海では将校用慰安所として熱海観光閤(当初は風喜荘)が開設され[14]、初代所長はRAA常務理事をつとめた佐藤甚吾であった[14]。一般慰安所としては、玉乃井別館が開設された。この旅館には1946年2月に作家の高見順が久米正雄、中山義秀と宿泊しようとした際、RAA旅館に日本人は宿泊できないために日系二世を名乗って宿泊している[15][14]。ほかにキャバレー・ニュー・アタミがあり、ここは地元で大湯ダンスホールとも呼ばれ、日本人も利用できた[14]。富士屋本館もRAA関連施設であった[14]。米第八軍に接収された熱海ホテルには「a special service hotel」と掲げられていた[14]

箱根では常磐ホテルが特殊慰安所であった[14]。富士屋ホテル、強羅ホテルでも米第八軍の「スペシャル・サービス班」が関与していた[14][16]

大阪・名古屋 [編集]

大阪では右翼団体の国粋同盟(総裁笹川良一)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を1945年9月18日に開業した[12]

名古屋では国際高級享楽ナゴヤクラブが開設され、募集には680名の女性が殺到した[12]

RAAの運営 [編集]

他に生活の術の無い戦争未亡人や子女が多かった時代背景もあり、東京都内だけで約1600人、全国で4000人の慰安婦が働いており、RAA全体では5万3000人の女性が働いていたとみられる[9]。収入に関しては、ドル高もあり実入りは良く、大森海岸の小町園の慰安所では、当時の金額で月収が5万円にのぼる売春婦もみられた[† 2][6]。慰安婦は一日あたり30人から50人の客を取っていた[6]

募集 [編集]

戦後処理の国家緊急施設の一端として駐屯軍慰安の大事業に参加する"新日本女性"の率先参加を求む。
女子事務員募集、年齢18才以上25歳まで。宿舎、被服、食料全部当方支給

RAA[6]

RAAの基本的な発想は戦時中の慰安婦施設だが、慰安婦と違う点は仲介業者を通さずに、リクルート広告に応じてきた一般女性たちを使ったことである[6]。当初は水商売の者を雇う予定であったが、思うように人数が集まらなかった[6]。戦時中に青線売春で検挙した者へ、慰安婦になるよう警察が要請した例すらあった[17]。戦時中にあった女子青年団が終戦後、半ば強制的に集められたケースもあるとされる[18]

「新日本女性求む、宿舎、衣服、食料すべて支給」などと書かれた広告板を銀座などに設置し、また新聞広告で一般女性を募った。一日あたり約300人が応募した[6]広岡敬一によれば、内容の詳細は広告に記載されておらず、これを見てやってきた女性の多くは水商売の経験のないものだった[6]

新聞広告 [編集]

毎日新聞1945年9月4日には

急告−特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費を支給ス
東京都京橋区銀座七ノ一 特殊慰安施設協会

東京新聞同日には

キャバレー・カフェー・バー ダンサーヲ求ム 経験の有無ヲ問ハズ国家的事業ニ挺身セントスル大和撫子ノ奮起ヲ確ム最高収入
 特殊慰安施設協会キャバレー部

といった広告があり、当時は連日出されていた[12]

なおRAA施設に便乗して開業された銀座メリーゴールドなどのような民間慰安施設に対して警視庁は「慰安婦の求人注意方の件」という通達を出し、不正な紹介などのないように指示している[12]

RAA廃止へ [編集]

1946年1月21日、前アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト夫人エレノア・ルーズベルトの反対、性病の蔓延を理由としてGHQにより特殊慰安施設は廃止された。特に性病に関しては慰安婦の6割が梅毒など何らかの性病に罹患していた[9]

1946年3月26日には連合国軍東京憲兵司令官官房「進駐軍ノ淫売窟立入禁止ニ関スル件」(オフ・リミッツ令)と通達され[12]、RAA施設は閉鎖された。RAA閉鎖後、職を失った女性はパンパンと呼ばれる街娼になったり、風俗街に移動した[12]

国を挙げて売春を行う目的は、「日本女性の純潔を守る」ことであった。実際、特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件で[2]、特殊慰安施設協会が廃止された後の、1946年前半の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数で330件だった[2]。しかし、複数の文献で、日本女性の純潔は守れなかった、とされている[6][9]。例えば1945年9月5日に武装した米兵が鳩の街に来ている。このとき売春婦たちがおびえたため、業者は売春婦たちにウンと言わせ、客を取らせた。この後、これに続くように進駐軍の兵士は吉原や新宿二丁目の遊郭へ行き始めた[6]

日本人婦女子凌辱事件 [編集]

進駐軍の不法行為は慰安所の開設後も数多く発生した。最初に米軍が横須賀に上陸した1945年8月30日に早くも強姦事件が起きている。特別高等警察はこれらの不法行為を解散命令が出た1945年10月4日まで調査を続け、内務省警保局外事課より「進駐軍ノ不法行為」として文書化された。この米軍にとって不名誉な文書は一旦没収されたが、1973年12月に日本へ返却、翌年1月より国立公文書館に所蔵されていた[19][20][† 3]

日本共産党は米軍の不法行為を追及していたが[21]、特高が作成したこの文書には触れていない。

「狩り込み」 [編集]

性病対策として1945年11月には京都で、1946年1月28日には東京で「狩り込み」とよばれる売春女性の検挙が、太平洋陸軍憲兵隊司令部MP)によって行われた[12][22]

板橋事件 [編集]

1946年11月15日には池袋で、MPと日本の警察により、通行人であった女性たちが無差別に逮捕され、吉原病院で膣検査を強制された板橋事件が発生している[22]。女性のなかには日本映画演劇労働組合員だった女性が含まれており、同組合は抗議運動を展開し、新聞などでも報道され、加藤シヅエら議員もGHQに抗議の手紙を送るなどした[22]

こうした抗議に対してMP側は「狩った女たちをどんなふうにしようとこっちの勝手だ。それに対してお前たちは抗議などできない」「日本の警察は現在全然無力である。之は自分たちの命令に絶対服従すべきである」と発言したといわれる[12][23]

なお、CIE(民間情報教育局)やユナイテッドプレスなどはMPでなく日本の警察による仕業として人権侵害であると非難した[22]

中野の連行未遂事件 [編集]

1948年9月20日には中野区で買い物をしていた女性がMPに連行されかけた。この件で抗議をうけた警視庁は、連行したのはPM0720部隊のMPで、日本の警察は一切関与していないと答えている[22]。また当時MPのジープに同乗し、「MPライダー」と称されていた日本の警官の証言によれば、狩り込みはMP主導で行われていたという[22][24]

当時の知識人の見解 [編集]

賀川豊彦は『婦人公論』1947年8月号で「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンについては「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と指摘している[13]

特殊慰安施設協会を題材にした作品 [編集]

テレビドラマ [編集]

1995年8月18日21時から、フジテレビ金曜エンタテイメント枠にて「戦後50年特別企画 女たちの戦争 忘れられた戦後史 進駐軍慰安命令」として放映された。

小説 [編集]

映画 [編集]

脚注 [編集]

[ヘルプ]

注釈 [編集]

  1. ^ ニューヨーク タイムズ:"But by one academic's estimate, as many as 10,000 Okinawan women may have been raped and rape was so prevalent that most Okinawans over age 65 either know or have heard of a woman who was raped in the aftermath of the war."。
  2. ^ 当時の銀行員の初任給は80円である(広岡敬一 『戦後性風俗大系 わが女神たち』 p.22)。
  3. ^ この文書は『敗戦前後の社会情勢:第7巻 進駐軍の不法行為』(現代史料出版 1999年)に全文が掲載された。同書には神奈川県警の調査報告も掲載されている。また、『性暴力問題資料集成第1巻』(不二出版 2004年)にも抜粋掲載された。

出典 [編集]

  1. ^ a b Schrijvers, Peter (2002). The GI War Against Japan. New York City: New York University Press. p. 212. ISBN 0814798160
  2. ^ a b c Svoboda, Terese (2008年5月4日). “Race and American Military Justice: Rape, Murder, and Execution in Occupied Japan” (英語). The Asia-Pacific Journal: Japan Focus. 2013年5月18日閲覧。
  3. ^ Taken by Force: Rape and American GIs in Europe during World War II J Robert Lilly. ISBN 978-0-230-50647-3 p.12
  4. ^ http://www.thephora.net/forum/archive/index.php/t-33653.html
  5. ^ "3 Dead Marines and a Secret of Wartime Okinawa" New York Times, June 1, 2000
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 広岡敬一 『戦後性風俗大系 わが女神たち』 p.14-22
  7. ^ しんぶん赤旗2006/4/29 2012年6月29日閲覧
  8. ^ 参院決算委員会(1996年11月26日) 2012年6月29日閲覧
  9. ^ a b c d e f g h i j 岩永文夫 『フーゾク進化論』 p.20-27
  10. ^ 『敗戦時全国治安情報』第一巻
  11. ^ 恵泉女学園大学平和文化研究所『占領と性』 p.47
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n 恵泉女学園大学平和文化研究所 『占領と性』 p.50-69
  13. ^ a b 恵泉女学園大学平和文化研究所 『占領と性』 p.161-162
  14. ^ a b c d e f g h 恵泉女学園大学平和文化研究所 『占領と性』 p.82-87
  15. ^ 『高見順日記』1946年2月18日
  16. ^ 外務省記録A0050081,0091
  17. ^ 広島県警察史編さん委員会編 『広島県警察史 下巻』広島県警察本部、1972年より。広島市は原爆で壊滅していた為、周辺都市各地に設置されたという。
  18. ^ 山田盟子著「占領軍慰安婦 国策売春の女たちの悲劇」ISBN 476980623X[1]
  19. ^ 水間政憲:封印されていた占領下の米兵「日本人婦女子凌辱事件」ファイル, Sapio(2007年4月11日)pp63-65
  20. ^ 国立公文書館:進駐軍ノ不法行為[2]
  21. ^ 143回国会参院質問主意書, 答弁書 2012年6月29日閲覧
  22. ^ a b c d e f 恵泉女学園大学平和文化研究所 『占領と性』 p.22-23
  23. ^ GHQ-SCAP資料CIA(A)01644
  24. ^ 原田弘『MPのジープから見た占領下の東京』草思社、1994年、p186-7

参考文献 [編集]

  • 広岡敬一 『戦後性風俗大系 わが女神たち』 小学館文庫、2007年ISBN 9784094060065
  • 岩永文夫 『フーゾク進化論』 平凡社新書、2009年ISBN 9784582854565
  • 『占領と性』(恵泉女学園大学平和文化研究所編集、インパクト出版会、2007年)
  • 台東区『台東区史』
  • 警視庁「当面ノ問題ニ対スル庶民層ノ動向」(1945年8月20日)
  • 一関警察署署長「進駐軍警備ニ関スル状況報告」 1945年9月29日
  • 『東京百年史 第五巻』

洋書の多くは、戦時中の慰安婦に関するものの中で言及。

  • Yoshimi, Yoshiaki(吉見義明Comfort Women: Sexual Slavery in the Japanese Military During World War II, Columbia University Press, 2001. ISBN 023112032X
  • Michael S. Molasky American Occupation of Japan and Okinawa, Routledge, 1999. ISBN 0415191947 ISBN 0415260442
  • Tanaka,Toshiyuki(田中利幸Japan's Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution During World War II and the US Occupation(「日本の慰安婦」), London, Routledge: 2002. ISBN 0415194016.

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]