公娼

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公娼(こうしょう)とは、娼婦(売春婦)のうち、公に営業を許された娼婦[1]をいう。公の営業許可を得ていない私娼に対する。


概念・大要[編集]

(定義・概念について)

山下英愛は公娼制度を「国家や都市で一定基準のもとに女性の買春を公認し、売買春を適法行為とみなすこと」と定義している[2]

近代公娼制度について、秦郁彦はナポレオンの戦争で性病が兵士に流行したことがきっかけで19世紀初頭に始まったとし[3]、また藤目ゆきは「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」と定義したうえで、近代公娼制度はフランス政府で確立し、その後ヨーロッパやイギリス、日本にも導入されたと指摘している(藤目ゆき[4])

眞杉侑里は、日本の近代公娼制について、1872年(明治5)年の太政官達295号(娼妓解放令)を画期として、「前近代のそれとは隔絶する形で再構成された売春統制政策であり、娼妓が届出を行う事によって稼業許可を与え、一定の制限区域(貸座敷指定地)でのみ営業を認めるものであった」と述べている[5]。 また、「近代公娼制度はその成立段階に於いて人身売買を禁止(「娼妓解放令」)し、以降もその方針は継続するものであり、再編された公娼制度にあっては並存すべきものといえる」と指摘したうえで、近代公娼制における人身売買的側面の研究を行った[5]

つまり、私娼を禁じて取り締まる一方で、年齢その他の条件に合えば合法として登録認可し、性病防止のための検査などを義務づけて行うものである。また営業範囲について、一定区画でのみの場合(集娼制)と制限がきつくない場合(散娼制)がある。

(実際について)

日本では集娼制をとり、その多くは江戸時代からある遊郭という日常生活も区画内に制限する形式を受け継いだ。これは九州においてはマリア・ルス号事件からの外国人の目を気にした面も指摘されるし、日露戦争後の満州大連においては現地の目を気にしたのが一因とも言われる。同じようにフランスなどでは娼婦の館からの外出が制限されていた。明治初めから娼妓(娼婦)の自由意志による営業を原則としつつも、この遊郭・集娼制という閉鎖環境は女衒を通じた前借金という契約慣行と合わさって、無知につけ込んだ不正な契約や搾取が横行する温床となり、公娼廃止の運動に力を与えた。(この不正な行為が全体の中で占める比率は高くないことを示す統計もあり一般には認識が固まっていない)

このような条件付き公認娼婦というものが古くから生じてきた理由として私娼の取り締まりの難しさが存在する。自由恋愛の金銭援助とさまざまな形態の私娼との区別が付きにくいこと、貧しさによる売春への流れを防ぐ有効な方法がないこと、明確に非合法化すると犯罪組織を引き入れやすいこと、などである。誘拐・人身売買の監視の便利ということもすでに江戸初期の遊郭設置の名目にあった[6]。近代になっては性病検査を彼女等が避けごまかす傾向が強かったという事情もある(理由は恥ずかしさ・営業を続けるため・費用・女性の自覚症状のうすさ・性病の害の認識が発達途上だったこと)。

近代公娼の拡大と共に公娼への反対運動も19世紀から存在したが、思想・価値観による傾向も強く、性病や労働環境などの実際の改良意見よりも、廃止と存続を廻る意見が多かった。第二次大戦前に欧米中心に公娼廃止が広がったのは、欧州女性の国際的人身売買の受け皿として、南米の娼館があったからだという。

近年、貧富の差やエイズ防止などから売春を合法化する国が増えているようで、新しいその中には免許制や安全のための公的管理など公娼制度といえるものがある。[7]

古代・中世の公的な娼婦の制度[編集]

ギリシア[編集]

公娼制度の歴史は古く、古代ギリシアソロンはアテナイに公共娼家を設立し、服装も統制され、儀礼などへの参加も禁じられていたといわれる[8][3]。アテナイの公娼は下級売春婦であった[9]

ローマ帝国[編集]

ローマ帝国でも公娼と私娼があり、売買奴隷、捕虜、さらわれた女性や捨て子などが娼婦となった[9]。ティベリウス、カリグラ皇帝などは、登録制や課税等の統制政策をとり、娼婦は一定の服装や、髪を黄色に染めることなどが命じられた[8]。ユスティヌアヌス皇帝は、仲介業者や娼家経営者を規制する法令を出した[8]

中国[編集]

周・漢[編集]

古代中国の荘王も公娼制度または管理売春制度を創設していた[3]

捕虜女性が性奴隷になるのは古代中国でも同様で、帝国の時代に良民と賤民を分ける身分制度が成立すると、性奴隷の供給源は罪人の妻などに変化した(籍没という)[10]

金朝の洗衣院[編集]

1126年靖康の変金王朝北宋に破れた。靖康元年(1126年)12月初10日、宋官僚の呉幵と莫儔は、親王、宰執、宗室の娘各二人、民間や楽団の女性各500人と宝物を献上し、宗室の女性は金の二首領粘没喝(完顏粘罕)と完顏斡離不(完顔宗望)にささげられた[11]。その代わり、黄河以南の地を宋側に保全してもよいとの許しを得ることができた。元北宋の皇太后皇后、妃嬪、皇女(公主)、宗女(宗姫)、女官宮女、官吏や平民の女性は金に連行され、洗衣院という官設の妓院に入れられ、性的奉仕を強要された[12][13][14]。幼い皇女も洗衣院で育てられ、成長後に洗衣院の娼婦となった[15]南宋の初代皇帝高宗の母の韋氏、妻の刑皇后や娘の趙仏佑、趙神佑も含まれていた[16][17][18]。金の捕虜となって北方へ拉致された女性の数は宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い達195名、族姫1241名、女官479名、宫女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性達3319名の計11635名であった[19]。宋王宮の女性捕虜は、金額を付けられて戦争報酬・賞与とされ[20]、金の将兵に分け与えられた。『呻吟語』には「十に九人、となりて、名節を失い、身もまた亡ぶ」「辛うじて妓楼を出ても、即ち鬼籍に上る」。また、ある鍛冶屋によれば「八金を以って娼婦を買う、すると実に親王女孫(皇族の孫娘)、相国姪婦(宰相の甥の嫁)、進士夫人(科挙合格者の妻)なり」ともある[21]。等級に関係なく女性達はみな女真人から陵辱を受けたといわれ、『南征録匯』には「開封府の港には人の往来、絶え間なく続き、婦女より嬪御まで妓楼を上下し、その数五千を超え、皆盛装を選び出ず。選んで収むること処女3000、入城を淘汰し、国相(完顔宗翰)より取ること数10人、諸将より謀克までは賜ること数人、謀克以下は賜ること一、二人。韋后、喬貴妃ら北宋後宮は貶められ、金国軍の妓院に入れられる」とある。金の兵から彼女らは陵辱を受け続け、「掠められた者、日に涙を以って顔を洗い、虜酋(金皇帝・皇族・将帥など)共、皆婦女を抱いて、酒肉を欲しいままにし、管弦を弄し、喜楽極まりなし」[22]。汚辱に耐えかねた欽宗の皇后朱氏は入水して自害した。[23]

明朝[編集]

王朝交代の戦乱などでは被征服者の女性が公娼となる場合が多く、の初期には前代の元朝の支配層であったモンゴル人女性が後宮に入ったと齋藤茂は述べた[24]

朝鮮[編集]

中国の妓女制度が伝わったともいわれる朝鮮妓生(キーセン)制度の発祥については様々な説がある。宗教民俗学者の李能和『朝鮮解語花史[25]』(1927年)によると、新羅真興王37年に「源花を奉る」とあり、源花は花郎(ファラン)と対になっており、源花は女性、花郎は美少年がつとめ、これが妓生のはじまりであるとする[25][26]

高麗の妓生制[編集]

高麗時代(918年-1392年)に、中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になったとされる[27][28]。李能和も『高麗史』にもとづき、百済遺民の女性を飾り立て高麗女楽を習わせたことも起源の一つとしている[25][29]。また、李氏朝鮮後期の学者丁茶山 (1762-1836) の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺賤民[30])らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう[31]柳田國男は妓生と日本の傀儡子は同祖と考えたが、のちに撤回した[32]。その後、滝川政次郎なども同系説を提唱し、川村湊性器信仰が妓生と傀儡子に共通することなどから、渡来説は有力とみている[33]

高麗時代の妓生は官妓(女官)として政府直属の掌学院[31]に登録され、歌舞や医療などの技芸を担当したが、次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった[27][34]

李氏朝鮮の妓生制[編集]

1392年李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された[27]山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている[27]。4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下が妓生を廃止すると奉使(官吏)が人妻を奪取し犯罪に走ると反論し、世宗はこれを認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した[35]李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った[31]

李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗と10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した[36]。とりわけ燕山君は暴君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した[37]。燕山君は、妓生を「泰平を運んでくる」という意味で「運平(うんぴょん)」と改称させ、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、「運上」させるよう命じた[37]。全国から未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している[37]。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した[37]。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われた[37]

官卑・奴婢としての妓生

高麗・李朝時代の身分制度では、支配階級の両班、その下に中庶階級(中人・吏属)、平民階級があり、その下に賤民階級としての奴婢七賤があった[38]林鍾国によれば、七賤とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁巫女ムーダン)のことをいい、これらは身分的に奴隷ではなかったのに対して、奴婢は主人の財産として隷属するものであったから、七賤には及ばない身分であった[38]奴婢はさらに公賤と私賤があり、私賤は伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり、下人を指した[39]。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された[39]従母法では、奴婢の子は奴婢であり、したがってまた主人の財産であり、自由に売買された[39]。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった[39]

朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民官卑であった[31][40]。朝鮮末期には妓生、内人(宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた[30]

婢女は筒直伊(トンジキ)ともよばれ、下女のことをいい、林鍾国によれば、朝鮮では婢女は「事実上の家畜」であり、売却(人身売買)、私刑はもちろん、婢女を殺害しても罪には問われなかったとしている[41]。さらに林は「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろの娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」とも述べている[41]

両班の多くの家での婢女は奴僕との結婚を許されており、大臣宅の婢女は「婢のなかの婢は大官婢」とも歌われたが結婚は許されなかった[41]。林鍾国は、婢女が主人の性の玩具になった背景には、朝鮮の奴隷制身分制度のほか、当時の「両班は地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるものと考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、若くて美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている[38]

また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた[31]

一牌・二牌・三牌・蝎甫(カルボ)

朝鮮社会では妓生の他にも様々な娼婦遊女の形態があった[25]李能和によると、遊女の総称を蝎甫(カルボ)といい、中国語で臭虫という[25][42]。蝎甫には、妓女(妓生)、殷勤者(ウングンジャ)、塔仰謀利(タバンモリ)、花娘遊女(ファランユニョ)、女社堂牌・女寺堂牌(ヨサダンペ)、色酒家(セクチュガ)が含まれた>[42][43]

  • 妓生は一牌(イルベ)といわれ、妓生学校を卒業後は宮中に出たり、また自宅で客をとったり、30歳頃には退妓し、結婚したり、遣り手や売酒業(実質的には売春業)を営んだ[44]
  • 二牌(イベ)は、殷勤者または隠勤子といい、隠密に売春業を営んだ女性をさし、一牌妓生崩れがなったという[44]
  • 三牌は搭仰謀利といい、近代化以前は京城に散在していたが、のちに詩洞(シドン)に集められ、仕事場を賞花室(サンファシル)と称して、三牌も妓生と呼ばれるようになった[44]

花娘遊女は成宗の時代に成立し、春夏は漁港や収税の場所で、秋冬は山寺の僧坊で売春を行った[44]。僧侶が手引きをして、女性を尼として僧坊に置き、売春業を営んでいた[44]。僧侶が仲介していた背景について川村湊は、李朝時代には儒教が強くなり、仏教は衰退し、僧侶は賤民の地位に落とされ、寄進等も途絶えたためと指摘している[44]

女社堂牌は大道芸人集団で、昼は広場(マダン)で曲芸や仮面劇(トッポギ)、人形劇を興行し、夜は売春を行った[44]。男性は男寺堂(ナムサダン)といい、鶏姦の相手をした[44]。女性は女寺堂(ヨサダン)といい、売春した[44]。社堂(サダン)集団の本拠地は安城の青龍寺だった[44]。川村湊は女社堂牌を日本の傀儡子に似ているといっている[44]

色酒家とは日本でいう飯盛女、酌婦で、旅館などで売春を行った[44]。売酒と売春の店舗をスルチビといい、近年でもバーやキャバレーにスルチプ・アガシ(酒場女)、喫茶店(チケット茶房)ではタバン・アガシ(茶房女)、現在でもサウナ房(バン)(ソープランド)や「頽廃理髮所」ともよばれる理髪店でミョンド・アガシ(カミソリ娘)という女性がいる[44]

朝鮮には春画はないとも一部でいわれてきたが、風俗画家申潤福の「伝薫園」や、金弘道の「四季春画帖」など性交や性戯の場面を描いた春画も多数あり、朝鮮春画の登場人物はほぼすべて妓生と客であった[45]。川村湊はこうしたエロティックアートのまなざしのなかで妓生だけが登場人物となった点を朝鮮春画の特色としたうえで、その背景に朝鮮儒教があり、「たとえ虚構の絵画のなかであっても、淫らなことを行い、性を剥き出しにし、露骨な痴態を示すのは妓生だけ」でなければならなかったと指摘している[46]

政治外交と妓生[編集]

燕山君など王が女淫に耽ったため、臣下も風俗紊乱であった[37]川村湊はこの時代を「畜妾、畜妓は当たり前のことであり、妓生の、妓生による、妓生のための政治というべきもの」で、朝鮮は「妓生政治・妓生外交」を行っていたと評し[47]、さらに現在の金氏朝鮮(北朝鮮)が全国から美女を集め「喜び組」と呼んで、気に入った女性を要人の夜伽に供していたことから、金正日は「燕山君などの正統な後継者」と評している[48]

妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した[47]

妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢女(コンニョ)つまり貢ぎ物として「輸出」された[47]。高麗時代にはの使いやまた明や清の外交官に対しても供与された[47]。李朝時代でも成宗が辺境の娼妓は国境守備の将兵の裁縫のために置いたものだが都の娼妓は風俗紊乱をもたらしているために妓生制度を廃止したらどうかと提案したところ、臣下は「中国の使臣のために女楽を用いるため妓生は必要です」と妓生の外交的有用性をもって答えたため、成宗は満足して妓生制度を公認している[35]。これらは日本人(倭人)に対しても行われ、1507年の『権発日記』には倭の「野人」にも美しい妓生を供進したと記録されている[47]

川村湊は、朝鮮の中国外交は常に事大主義を貫き、使臣への女色の供応は友好外交のための「安価な代価(生け贄)にほかならなかった」とし、また韓国併合以後の総督府政治もこのような「妓生なくして成り立たない国家体制」を引き継いだものであるとした[47]

中世ヨーロッパ[編集]

中世のヨーロッパでは売春は批判されたが、公娼制度は保護され、徴税の対象となった[9]。娼家は登録制で、フランスのトゥールーズ、アビニョン、イタリアのボローニャ、ラベンナ、ナポリ、イギリスのロンドンでは大規模な娼家街があったことで知られ、ドイツ各都市にも娼家はあった[8]。アヴィニョンには国営の娼家があり、設置目的は街頭娼婦の追放であった[49]

十字軍[編集]

十字軍遠征では「売春婦部隊[9]」・「従軍売春婦」[8]が従軍した。宗教改革以降、売春は罪悪視され、処罰されるようになった[8]

16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられているとヒックスは言う[50]

近代公娼制[編集]

近代公娼制の設立目的と経緯[編集]

18世紀のヨーロッパでは売春が盛んになり、私生児も増加したため[51]、1724年には医師バーナード・マンドヴィルが書いたと伝わる『公営売春宿擁護論』が刊行され、自由売春や私的な売春にまつわる病気などの様々な弊害は、売春を公認することですべて解決できると主張し、公認売春宿の詳細な計画を発表した[52]

産業革命期以降、ヨーロッパでは娼婦登録制による売春公認政策がとられ、1795年のベルリンでの登録娼婦は257人、1820年のパリでの登録娼婦は2800人だった[8]。しかし非登録の私娼も多く、1843年頃の調査ではロンドンに9万人、パリに3万人、ベルリンに1万人の娼婦がいた[8]。1860年のロンドンでは30万人の娼婦がいたとされる[9]

藤目ゆきは近代公娼制度を「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」と定義したうえで、近代公娼制度はフランス政府で確立し、その後ヨーロッパやイギリス、日本にも導入されたと指摘している[4]。藤目はフランスを「公娼制度の祖国」と評している[53]

秦郁彦も、近代公娼制が始められたのは性病対策がきっかけであったとし、ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは軍隊についてくる売春婦と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだが、ナポレオン軍は性病を欧州中に広めたとした[3]。1901年に軍医の菊池蘇太郎も「軍隊ニオケル花柳病予防法」で、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたとしている[54]

フランスの近代公娼制[編集]

19世紀初頭の1802年、フランスで警察による公娼登録が開始された[55]。1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった[56]。16世紀に梅毒が流行したが18世紀末にも梅毒流行が再燃し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがったが、同時に医学研究もすすみ、1837年には医師フィリップ・ニコールによって梅毒と淋病の区別が証明された[57]

フランス軍、特にフランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があった[58][59]。「移動慰安所」は、フランス語でBordel militaire de campagne、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦第二次世界大戦インドシナ戦争アルジェリア戦争の際に存在した[60]。移動慰安所はモロッコで成立したといわれ[61]、ほかアルジェリアチュニジアにも存在した[62]。慰安婦には北アフリカ出身者が多かった[58]。現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた[63]。秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している[58]

プロシア[編集]

プロシアでは一旦廃止されたあと1851年に性病予防のためには私娼の蔓延よりも公娼制度が優れているとして軍によって再開された[55]、風紀警察が特別に設置された[64]

イギリスの公娼制[編集]

イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案[65]で1864年から1869年にかけての伝染病(性病)法によって公娼制度が導入され[55]、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された[65]。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された[55]

1870年代になってジョセフィン・バトラー[66]らの売春婦救済運動(廃娼運動[8])が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される[8]。しかし、植民地においては存在し続けた(秦郁彦[67]、ヒックス[68]、藤目ゆき[69])。

植民地の公娼制[編集]

イギリスは1921年の婦人及児童ノ売春禁止ニ関スル国際条約に調印しながらも植民地での公娼制は維持された[69]。アメリカ合衆国もフィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制は1990年代になっても廃止されなかった[69]。秦郁彦も、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している[67]

植民地の公娼制について藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している[70]

植民地インド[編集]

1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった[71]。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した[72]。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた[73]。売春婦登録簿は1888年まで記録されている[74]

第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した[75]

アメリカの公娼制[編集]

アメリカ合衆国では南北戦争時に性病予防のための管理売春を計画し、戦後の1870年にセントルイスでヨーロッパ型の公娼制が導入され[76]、ニューヨーク、シカゴ、シンシナティー、サンフランシスコ、フィラデルフィアでも計画がすすめられた[77]

売春禁止運動[編集]

しかし、同時に公娼制度・売買春反対の運動がおこり、1880年代からは純潔十字軍が社会浄化運動を行い[78]、米国純潔連合、米国自警協会、米国社会衛生協会などの組織がつくられ、娼婦を「白人奴隷」と表現し、公娼制度を「白い奴隷制度」とセンセーショナルに報告し、WASPの公共心に道徳的なパニックをひきおこした[79]

アジア系外国人・娼婦排斥運動[編集]

またアメリカでは娼婦への反感と人種差別がむすびつき、1875年には世界ではじめて中国人娼婦の入国禁止法を制定し、のちに国籍問わず娼婦の入国を禁止し[80][81]、さらに中国人娼婦を口実に1882年に中国人排斥法が成立し、また日本人娼婦も排斥された[82]。サンフランシスコ労働者党のデニス・カーネーは中国人と日本人排斥運動を行い、1892年5月にサンノゼ市のサンタクララ町で、「(中国人と)同じアジアの奴隷が流れ込んでいる。日本には馬も馬車も何もなく、人間がその代役を勤めている。女は十歳にしていうをはばかる職業に従事するため、政府より許可状をもらう」「日本人には貞操という観念はまったくない。男と女が野獣と同様に無茶苦茶に交合する」などと演説し、日本人娼婦や労働者の排斥を訴え、群衆から拍手で迎えられた[83]。当時のアメリカの売春宿は一般的に最貧地域にあり、黒人、東欧移民が多く、太平洋沿岸では中国人、日本人娼婦がおり、肌の色で区分されることもあり、たとえばサンフランシスコの娼家では最上階は白人娼婦、下の階に中国人、日本人、メキシコ人女性が営業していた[84]

1903年、1907年、1910年と外国人女性を含む娼婦排斥法が厳格化し、1910年のマン法では不道徳な目的による女性の移動が禁止され、さらにあらゆるセックス行為が罪に問われるようになり、紅灯地区は閉鎖され、売買春は地下に潜るようになり、娼婦は公共の売春宿を失ったため、電話、街頭、マッサージ・パーラー、ダンス・ホールなどで客をとるようになり、また経営も組織犯罪シンジケートに移っていった[85]

植民地フィリピンの公娼制度[編集]

アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、植民地で公娼制度を導入した[77]米西戦争でスペインに勝利したアメリカが1898年にフィリピンを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、また米軍は、現地の娼婦の検診を施したため、宣教師がこれらを訴えた[86]。1902年4月、キリスト教婦人矯風会(WCTU)のマーガレット・エリスがマニラ管理売春や児童買春の実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け、米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした[86]。ルーズベルト大統領は現地娼婦と軍との関係を不明瞭にしたが、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は診断料や診断証明書の料金がなくなっただけと語ったような実情であった[77]。のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで裏取引が発覚しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらもアメリカ政府が公式に関与していないように努力した[87]

米軍目当ての売春宿と性病検査はその後も第二次世界大戦、ベトナム戦争、1990年代の米軍の一時撤退まで継続し、廃止されることはなかった[88][77]。また、アメリカ人女性、フランス人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人の白人娼婦もボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、上海、ハルビン、マニラなどで就業した[89]

フェミニズムと帝国主義

フィリピンの状況はその後も断続的に報告されるが、管理売春反対運動は後退した[90]。理由としては当時のフェミニストは米国の帝国主義と植民地主義を支持していたことがあげられ、矯風会もフィリピン、ハワイ、プエルトリコ領有を支持し、米国が神の目的を実現する救済者国家であると信じていた[90]

アメリカン・プラン[編集]

こうしたことを背景に、第一次世界大戦のアメリカン・プランも推進された。アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった[91][92]。市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された[92]。この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない[92]

日本の公娼制[編集]

日本における公娼制度の歴史は、必ずしも明らかではなく、1193年建久4年)に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝里見義成遊女別当を命じたことが、関連する史実の文献初出であろうという。[独自研究?]

室町時代足利氏は、1528年大永8年)、傾城局をもうけ、竹内新次郎を公事に任じ鑑札を与えて税金を取った。 売春業を公に認めたのである。

戦国時代には、続く戦乱によって奴隷売買も盛んになり、遊女も増えた。[要出典]天文永禄のころには駿河の富士の麓に富士市と称する所謂奴隷市場ありて、妙齢の子女を購い来たりて、之を売買し、四方に輸出して遊女とする習俗ありき」[93]と言う。

豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊郭を造った。1585年に大阪三郷遊郭を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊郭)をはじめたのである」 やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [94]のだという。

江戸時代の公娼制・遊郭[編集]

江戸時代に入ると、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に遊女屋がいとなまれた。

徳川家康は『吾妻鏡』に関心を示し、秀吉の遊郭政策に見習い、徳川安泰を謀り、柳町遊女屋庄司甚右衛門に吉原遊郭設置許可を与えた。庄司甚右衛門は「(大遊郭をつくって)お大阪残党の吟味と逮捕」を具申したのである。甚右衛門はこう述べた。1、大阪残党の詮議と発見には京の島原のような規模が適切である。2、江戸に集まる人々の性犯罪の防止のため3、参勤交代の武家の性処理4、江戸の繁栄に役立つ。 幕府は三都の遊郭(吉原、京の島原、大阪新地)を庇護して税金を免除し、広大な廊内に自治権を与え、業者を身内扱いしたのであった。[要出典] 将軍代替わりの祝儀、料理人の派遣、摘発した私娼の引渡しがなされ、江戸では1666年に私娼大検挙がなされ、湯女512人が吉原に引き渡され吉原の繁栄をもたらした。[95] 明治以降の日本の「公娼制度」にも政府と遊郭との結びつきが見られるのは、江戸時代に幕府と遊郭業者が結びついたこの伝統下にあると言える。[要出典]江戸幕府は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、1617年元和3年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。1657年明暦3年)に、浅草日本堤下に移転(新吉原)を命じた。この時、5箇条の掟書を出して、その取締規則によって営業させた。すなわち、

一、傾城町の外傾城屋商売致すべからず、竝に傾城囲の外何方より雇ひ来候とも先口へ遣はし候事向後一切停止さるべく候。
二、傾城買ひ遊候者は一日一夜の外長留り致間敷候事。
三、傾城の衣裳総縫金銀の摺箔等一切著させ申間敷候何地にても紺屋染を用ひ申すべく候事。
四、傾城屋家作普請美風に致すべからず、町役等は町々の格式通り屹度相勤め申すべき事。
五、武士町人体の者に限らず出所吟味致し不審に相見え候者は奉行所へ訴出づべき事。

こうして江戸に遊郭が設置され、ついで京都伏見兵庫大津などにも公認の遊郭が設置された。その一方で、市中にひそむ私娼を取締まり、これを禁じた。このため、城下町や駅路でいとなまれる遊女屋は、「はたごや」という名目をとり、そこの遊女を「こども」、「めしもりおんな」などといった。

こうして2百数十年間に渡って日本各地に遊郭が栄え、江戸文化の一つとなったが、やがて、性病が蔓延し、幕末には約三割が梅毒感染者であったとも言う。家康自身が70を過ぎて淋病にかかり、他におおくの感染者がいた。[96]

明治時代以降の公娼制[編集]

明治時代になって、遊郭はさらなる発展を遂げるようになった。横浜では外人目当ての遊郭の港崎遊郭が生まれ、政府は会津征伐の軍資金五万両を業者に出させ、代わりに築地鉄砲洲遊郭の設置をした。

公娼取締規則・娼妓取締規則[編集]

1872年のマリア・ルーズ号事件の際、「日本では国家が人身売買を公認している」と指摘された政府は、太政官布告で芸妓・娼妓の開放令を出した。しかし遊郭自体を廃止する事はなく、遊女屋は「貸座敷」と名を変えて帰り先のない遊女たちを吸収し、借金による年季付きの人身売買は敗戦後まで存続した[97]

1873年明治6年)12月、公娼取締規則が施行された。ここに警保寮から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。のちに公娼取締規則は地方長官にその権限がうつり、各地方の特状により取締規則が制定された。たとえば東京では、1882年(明治15年)4月、警察令で娼妓渡世をしようとする者は父母および最近親族(が居ない場合は確かな証人2人)から出願しなければ許可しないとした。 やがて群馬県では県議会決議によって、全国で初めて公娼そのものを全面的に禁止する条例が可決された。

1886年(明治19年)、キリスト教活動家の矢嶋楫子が東京キリスト教婦人矯風会を組織(のちに日本キリスト教婦人矯風会)。矢嶋は1873年にアメリカオハイオ州クリーブランドで結成されたWoman's Christian Temperance Union(WCTU、キリスト教婦人矯風会)の影響を受けていた。翌年には「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出した。

1889年(明治22年)、内務大臣から、訓令で、これより娼妓渡世は16歳未満の者には許可しないと布告された。

1891年(明治24年)12月までは士族の女子は娼妓稼業ができなかったが、内務大臣訓令によりこれを許可するとし、1900年(明治33年)5月、内務大臣訓令により、18歳未満の者には娼妓稼業を許可しないと改正された。

1900年(明治33年)10月、内務省令第44号をもって、娼妓取締規則が施行された。これによって、各府県を通じて制度が統一され、明治初年の制度に戻ったかたちとなった。これは16条からなり、娼妓自由廃業がみとめられていたので、公娼制度を大きく変えるはずだったが、実際にはこの法律自体を知らない娼妓もおり、その後も娼妓廃業の自由は、前借金を盾に阻害されることもあった[98]。とはいえ自由廃業者は増え、東京府の統計では、娼妓取締規則施行後、年内に自由廃業した娼妓は429名で[99]、この動きは大阪など地方の遊郭にも広がった[100]サンデー毎日の記者が1940年ごろに、当時を知る元娼妓や元楼主などに取材したところでは、娼妓取締規則に前後する明治32、33年には、自由廃業を認めない楼主を相手取った訴訟が各地で起き、娼妓の勝訴が相次いだため、次第に廃業する者が増えていった[101]

1911年、キリスト教系の廃娼運動団体廓清会が発足。島田三郎安部磯雄矢嶋楫子江原素六小崎弘道植村正久井深梶之助元田作之進山室軍平らが関わった。翌1912年(明治45年)、安部磯雄は『風紀問題としての公娼制度』(廓清会本部)を刊行。

朝鮮の公娼制[編集]

平壌にあった妓生学校

妓生制度[編集]

朝鮮には、中国の妓女制度が伝わった妓生(きしょう、기생、キーセン)制度があった[27]。韓国の梨花女子大学校編『韓国女性史』(1978年)によれば、妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生(官妓)を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった[102][27]山下英愛は「朝鮮社会にも昔から様々な形の売買春が存在した。上流階級では高麗時代に中国から伝わったといわれる妓女制度があり、日本によって公娼制度が導入されるまで続いた」と述べている[27]川田文子は、妓生のほかに雑歌をたしなむ娼女、流浪芸能集団であった女社堂牌(ヨサダンペ)、色酒家(セクチュガ)で働く酌婦などの形態があったが、特定の集娼地域で公けの管理を行う公娼制度とは異なるものであるとした[43]

また、在日朝鮮人歴史学者の金富子梁澄子[103]在日韓国人の評論家の金両基[104]らは、妓生制度は売買春を制度化する公娼制度とは言えないと主張している。金両基は多くの妓生は売春とは無縁であり、漢詩などに名作を残した一牌妓生黄真伊のように文化人として認められたり、妓生の純愛を描いた『春香伝』のような文学の題材となっており[105]、70年代から90年代にかけて主に日本人旅行客の接待に使われたキーセン観光はとはまったく違うものであると反論した[105]。(公娼の定義については#概念・大要を参照)

山地白雨が1922年に刊行した『悲しき国』(自由討究社)では「妓生は日本の芸者と娼妓を一つにしたやうな者で、娼妓としては格が高く、芸者としては、其目的に添はぬ処がある」「其最後の目的は、枕席に侍して纏綿の情をそそる処にある」と記している[106]。同じ1922年に刊行された柳建寺土左衛門(正木準章)『朝鮮川柳』(川柳建寺社)では妓生を朝鮮人芸者のことで京都芸者のようだとし、蝎甫(カルボ) は売春婦であると書かれ[107]、1934年の京城観光協会『朝鮮料理 宴会の栞』では「エロ方面では名物の妓生がある。妓生は朝鮮料理屋でも日本の料理屋でも呼ぶことができる。尤も一流の妓生は三、四日前から約束して置かないと仲中見られない」とあり、「猟奇的方面ではカルボと云うのがある。要するにエロ・サービスをする女である」「カルボは売笑婦」であるとして、妓生とカルボとを区分して書かれていた[108]。(蝎甫(カルボ)については後述する)

川村湊は「李朝以前の妓生と、近代以降のキーセンとは違うという言い方がなされる。江戸期の吉原遊郭と、現代の吉原のソープランド街が違うように。しかし、その政治的、社会的、制度的な支配−従属の構造は、本質的には同一である」とのべ[109]、現代のソウルの弥亜里88番地のミアリテキサス清凉里 588といった私娼窟にも「性を抑圧しながら、それを文化という名前で洗練させていった妓生文化の根本にあるものはここにもある」とも述べている[110]

日本の遊郭業の進出から近代公娼制の確立[編集]

1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった[28]

金一勉金両基は、朝鮮の都市に公然と遊郭が登場したのは日本人の登場以来の事で、朝鮮各地に娘の人身売買が公然と横行するようになったと主張している [111][112][105]

1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた[28]。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札(営業許可証)の取得を義務づけた[28]。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された[40]。しかし、日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され[40]、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦遊郭が形成された[28]

日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した[40]。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった[28][40]

1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった[28]。同1906年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した[40]。日本人の居住地で知られる京城の新町、釜山の緑町、平壌の柳町、太田の春日町などには数十軒から数百軒を数える遊郭が設けられ、地方の小都市にも十数件の青桜が軒を連ねた[113]

日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した[28]。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ[28]。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された[28]

日本統治下の公娼制[編集]

1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された[40]

他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった[40]。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷[114][40]であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた[114][40]第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城花柳界は全盛を極めた[40]。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している[40]。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている[40]。1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した[40]

1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している[40]。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった[115]

脚注[編集]

  1. ^ 大辞林、三省堂、1988.
  2. ^ 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」ユン貞玉編『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』三一新書,1992年,p129.
  3. ^ a b c d 秦郁彦「慰安婦と戦場の性」 1999, p. 145
  4. ^ a b 「性の歴史学 公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ」1997,p51
  5. ^ a b 人身売買排除」方針に見る近代公娼制度の様相」立命館大学人文科学研究所紀要 93, 237-268, 2009,p237-238
  6. ^ 「日本遊郭史」(上村行彰) p118 吉原の開基 三カ条の覚書
  7. ^ 週刊プレイボーイ記事(転載)(2013-11-26)[[1]]、著者ブログ(2013-11-25)[[2]]
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  12. ^ 『靖康稗史証』「宣和乙巳奉使金国行程録」、「瓮中人語」、「開封府状」、「呻吟語」、「宋俘記」、「南征録匯」
  13. ^ 中国网
  14. ^ 中国百科在线
  15. ^ 『靖康稗史証』
  16. ^ 『靖康稗史箋證・卷5』賜宋妃趙韋氏、鄆王妃朱鳳英、康王妃邢秉懿、姜醉媚,帝姬趙嬛嬛、王女肅大姬、肅四姬、康二姬,宮嬪朱淑媛、田芸芳、許春雲、周男兒、何紅梅、方芳香、葉壽星、華正儀、呂吉祥、駱蝶兒浣衣院居住者。
  17. ^ 『靖康稗史箋證・卷3』康一即佛佑、康二即神佑均二起北行、入洗衣院
  18. ^ 『呻吟語』建炎二年 即金天會六年 八月二十四日・・・・婦女千人賜禁近,猶肉袒。韋、邢二后以下三百人留洗衣院
  19. ^ 『開封府状』
  20. ^ 『南征錄匯』:原定犒軍費金一百萬錠、銀五百萬、須於十日内輪解無闕。如不敷數、以帝姬、王妃一人准金一千錠、宗姬一人准金五百錠、族姬一人准金二百錠、宗婦一人准銀五百錠、族婦一人准銀二百錠、貴戚女一人准銀一百錠、任聽帥府選擇。確庵『靖康稗史箋証』
  21. ^ 『呻吟語』
  22. ^ 『靖康稗史箋證・卷6』「呻吟語」「燕人麈」
  23. ^ 『靖康稗史箋證・卷6』「呻吟語」朱后歸第自縊、甦、仍投水薨。
  24. ^ 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p14
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  104. ^ 『日韓歴史論争-海峡は越えられるか』p86、櫻井よしこ、金両基、中央公論社
  105. ^ a b c 『日韓歴史論争-海峡は越えられるか』p95、櫻井よしこ、金両基、中央公論社
  106. ^ 川村湊『妓生』作品社、p117
  107. ^ 川村湊『妓生』p165
  108. ^ 川村湊『妓生』p181
  109. ^ 『妓生』作品社、p12
  110. ^ 『妓生』作品社、p14
  111. ^ 『天皇と朝鮮人と総督府』金一勉著、p38
  112. ^ 『日韓歴史論争-海峡は越えられるか』p86櫻井よしこ、金両基、中央公論社
  113. ^ 『天皇と朝鮮人と総督府』金一勉著、p38
  114. ^ a b 『朝鮮新聞』1911年4月19日記事
  115. ^ 宋連玉「日本の植民地支配と国家的管理売春-朝鮮の公娼を中心にして」(『朝鮮史研究会論文集』32集、1994年、pp.37-88, 緑陰書房)

関連項目[編集]