花郎

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花郎
各種表記
ハングル 화랑
漢字 花郎
発音 ファラン
ローマ字 Hwarang
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花郎(ファラン、かろう)は新羅の男巫、あるいは男巫を中心とした青年組織。貴人の子弟の社交クラブのような集団であり、一義的には教育的機能を帯びた宗教的機関。新羅滅亡後も様々な形で花郎の遺風が確認できる。

新羅の花郎[編集]

[1]三国史記三国遺事によれば、新羅では真興王37年 (576年) 頃には源花(ウォヌワ)という巫女を奉じていた。これは有能な臣下を選び出すのに若者を集めるためであったとする。南毛と俊貞という美女を登用したところ300名あまりの若者が集まってきた。しかし巫女二人に嫉妬による争いがおこり南毛が殺され俊貞は誅殺されてしまう。そこで改めて容姿端麗な男子を選び出し、化粧美装させ源花の代わりに登用した。このリーダー格の者を花郎といい、花郎のもとに集まった者たちを花郎徒と呼んだ。

花郎徒は、互いに道義を磨き歌楽をたのしみ、山紫水明をめぐり歩き交流をふかめ、それぞれの良し悪しがわかると特に秀でた者を朝廷に臣下として推薦した。花郎徒から優れた士官や兵士が輩出されたという。また花郎徒となる者の多くは貴人の子弟であり、庶民はみなこれを尊び仕えたという。

新羅以後の花郎[編集]

高麗時代、八関会において仙郎の歌舞が行われた。八関会とは、秋の収穫祭と仏教節会の習合した行事であり高麗朝一代を通じて行われたが、極端な儒教政策をとる李朝により廃止された。八関会の中心となる仙郎は「四仙」とも呼ばれ、良家から選ばれた四人から成った。四仙は東海岸の名勝に遊んだとの伝説が残る四人の花郎に由来する。このように、八関会の仙郎は新羅の花郎とは密接な関係にあり、花郎の直接的な後裔と考えられる。

民間では、山寺で仙郎と呼ばれる者が僧俗に奉じられ、その中で美貌の少年閔頔を忠烈王 (在位:1275年 - 1308年) が召し出して国仙としたという。また、忠烈王代以後、王家の末裔が免除された役として「国仙」が現れる。この国仙は軍役を指したとみられるが、忠烈王以前にはまったく見られない。閔頔の例とあわせて、忠烈王の懐古趣味から出たものと考えられる。

李朝時代には、花郎は男のシャーマン、シャーマンの夫、芸人、舞童、遊女などを指すようになった。李朝時代、彼らはいずれも社会の最下層に位置づけられていた。民俗学的調査によれば、男覡としての花郎の用法が今日でも全羅道に現存しているという。巫夫としての用法も慶尚道江原道で確認される。農閑期に乞食僧に連れられて村々をまわり、踊りを踊って銭穀を求める舞童も花郎と呼ばれた。方言で、下賎の娼婦が花娘、花郎または花郎女と呼ばれた。花郎に由来する「ファニャンニョン」(화냥년) が浮気女を意味する単語として辞書に記録されている。李朝時代に、花郎 (郎中) と呼ばれる男覡が女装し淫らな行為におよんだという報告もある。こうした後世の花郎と新羅の花郎の関係は明らかではない。服飾や歌舞に共通の性質を見出すことができる一方、相違点としては、新羅の花郎が上流貴族から出ていることに対して、後世の花郎が被差別階級となっていることが挙げられる。

花郎軍事組織説[編集]

花郎は主として軍事組織である、あるいは準軍事機関とする言説は、綿密な再調査により覆されている。しかし、韓国では、第二次世界大戦の後、ナショナリズムに迎合した花郎讃美が大々的に行われ、花郎軍事組織説が定着している。

軍事説は、7世紀中頃までの数人の花郎の事績の誤った一般化により生まれた。実際には、記録に残る花郎の大半が軍事とは無関係である。数人の例外的な武人的花郎についても、その活動と、彼等の花郎ないしは元花郎という属性との間に明白な関係は見つけられない。戦時の勇猛さと自己犠牲の精神を花郎に限定すべき理由はない。実際、武人的花郎の出典たる『三国史記』の列伝は、花郎であったことが確認されない多くの勇士を記録している。よって、ごく一部の花郎が7世紀の統一戦争期の新羅の一時的な風潮に影響されたに過ぎないと見るのが合理的である。

三国史記』が花郎を簡潔に紹介する新羅本紀・真興王37年 (576年) の条の中で、軍事との関係をうかがわせるのは、「賢佐忠臣、従此而秀。良将勇卒、由是而生。」という『花郎世記』から引用された簡単な記述だけである。史料の性格上、『三国史記』が『三国遺事』よりも軍事について詳細に記述することを期待されるにもかかわらずである。しかも「ここから生まれた(由是而生)」という表現は、逆説的に、花郎自体は良将でも勇卒でもなかったことを示唆する。

事実、花郎は軍の一翼を担っていたのでもなければ、独立した軍事組織でもなかった。記録に残る最初の花郎、斯多含は、渋る王に従軍を願い出て、武官の地位を与えられて出陣した。斯多含の例は、花郎は通常軍に所属しておらず、花郎の軍への編入がむしろ例外的であったことをうかがわせる。また、斯多含が『三国史記』列伝に収められたのは戦功を挙げたからではなく、捕虜に対する寛大な扱いが賞賛されたからである。その証拠に、この戦いは、司令官の異斯夫の伝記では言及されていない。新羅随一の英雄で、おそらく花郎軍事組織説の確立に最も貢献している金庾信については、軍を指揮したことが確認できるのは彼が34歳の時である。金庾信はその時点で既に花郎ではなかったと推測されるため、彼のその後の軍事的活躍を花郎に一般化することはできない。また、金庾信が剣術を修めたことを拡大解釈して、剣術が花郎の心得であると主張する者がいる。しかし、逆にこの記述は剣術が花郎の間では一般的でなかったことを示唆する。また、金庾信の修行は呪術的で、一般的に想像される剣術の修行とは大きく異なる。結局のところ、花郎が軍事教練を行ったこと記す史料は存在しない。

世俗五戒が花郎の掟であったという主張にも根拠が無い。世俗五戒は、中国帰りの法師円光が貴山と箒項という二人の若者に授けた教え、「事君以忠・事親以孝・交友以信・臨戦無退・殺生有擇」である。世俗五戒の四番目が「臨戦無退」であり、軍事組織説には都合がよい。しかし、貴山と箒項が花郎であったという記録はなく、世俗五戒を花郎と結びつける記述は存在しない。

花郎軍事組織説が広まったのは、実は第二次世界大戦後である。李朝時代には花郎が史家の注目を浴びることは無く、言及された場合でも焦点は歌舞にあてられ、軍事的要素は欠落していた。20世紀に入ると、申采浩が花郎を武士団として賞賛したが、あくまで高句麗讃美の添え物にすぎなかった。1930年代に日本の歴史家、池内宏鮎貝房之進三品彰英の三人が集中的に花郎を研究し、多かれ少なかれ花郎に軍事的性格を認めた。しかし、彼等の研究が政治的に利用されることはなかった。

韓国における状況が変化したのは、李承晩大統領の指示のもとで大々的な宣伝が行われてからである。1949年に李瑄根によって発表された『花郎道研究』の中で、愛国心をかき立てる後世の数々の出来事を花郎精神の発露とされた。国民国家形成のために花郎精神なるものが創造され、報国精神として喧伝された。花郎の政治利用は、新羅の故地、慶尚道出身の朴正熙政権下に引き継がれた。その結果、花郎は武士団だったという神話は韓国ではすっかり定着した。「花郎部隊」は韓国陸軍の精鋭であり、「花郎台」は韓国陸軍士官学校の別称となり、韓国の武功勲章の4等級は「花郎武功勲章」と名づけられた。

皮肉なことに、尚武精神が評価されるようになったのは、朝鮮が日本の支配を受けた結果である。極端な武蔑視が支配的だった李朝時代には考えられないことである。「花郎精神」はある意味で日本統治下で宣伝された武士道精神の代替であるにもかかわらず、韓国では逆に「日本の武士の原型は新羅の花郎」などとまことしやかに語られている。

花郎神話には韓国の武道諸団体も飛びつき、その起源の一つと主張するようになった。ITF(国際テコンドー連盟)は、花郎を型(トゥル)の名前としている。「花郎道」という名の武道団体は、それが新羅の花郎によって実践されたと主張するが、実際にはハプキドー(合気道)の亜種である。こうした動きは、逆に彼等の主張が現代の創作であることを証明している。

なお、「花郎道」なる用語は史料には登場しない。「武士道」との類推から作られたと見られる。朝鮮語で同音の「花郎徒」であれば歴史学の用語として許容可能である。

脚注[編集]

  1. ^ この項目、「女装した武人倭建命と花郎の比較考察」瀧元誠樹(比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要2004-03-31)P.64(PDF-P.6)から起筆した。

文献情報[編集]

  • 瀧元誠樹「女装した武人倭建命(やまとたけるのみこと)と花郎(ファラン)の比較考察」、『比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要』第13巻、札幌大学、2004年3月31日、 A59-A79、 NAID 110004041678
  • 李鎮洙「102 三国史記に対する体育的考察その2 : 新羅花郎の身体活動を中心として」、『日本体育学会大会号』第31号、社団法人日本体育学会、1980年10月11日NAID 110001914588
  • Rutt, Richard. "The Flower Boys of Silla". Transactions of the Korea Branch of the Royal Asiatic Society 37, pp. 1-66. 1961.
  • Tikhonov, Vladimir. "Hwarang Organization: Its Functions and Ethics." Korea Journal 38 (2) (Summer 1998). pp. 318-338. [1]