ノート:花郎

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「ソースなし」として大量削除してますが、出典がないならまずは[要出典]を貼って出典を求めるべきです。あと↓の文章も全く出典がないのですが、何故↓の文章は「ソースなし」として大量削除しないのでしょうか?やはり、韓国に対する否定的な記事を削除(隠蔽)したいという韓国人のナショナリズムが見え隠れする。

新羅以後の花郎[編集]

高麗時代、八関会において仙郎の歌舞が行われた。八関会とは、秋の収穫祭と仏教節会の習合した行事であり高麗朝一代を通じて行われたが、極端な儒教政策をとる李朝により廃止された。八関会の中心となる仙郎は「四仙」とも呼ばれ、良家から選ばれた四人から成った。四仙は東海岸の名勝に遊んだとの伝説が残る四人の花郎に由来する。このように、八関会の仙郎は新羅の花郎とは密接な関係にあり、花郎の直接的な後裔と考えられる。

民間では、山寺で仙郎と呼ばれる者が僧俗に奉じられ、その中で美貌の少年閔頔を忠烈王 (在位:1275年 - 1308年) が召し出して国仙としたという。また、忠烈王代以後、王家の末裔が免除された役として「国仙」が現れる。この国仙は軍役を指したとみられるが、忠烈王以前にはまったく見られない。閔頔の例とあわせて、忠烈王の懐古趣味から出たものと考えられる。

李朝時代には、花郎は男のシャーマン、シャーマンの夫、芸人、舞童、遊女などを指すようになった。李朝時代、彼らはいずれも社会の最下層に位置づけられていた。民俗学的調査によれば、男覡としての花郎の用法が今日でも全羅道に現存しているという。巫夫としての用法も慶尚道江原道で確認される。農閑期に乞食僧に連れられて村々をまわり、踊りを踊って銭穀を求める舞童も花郎と呼ばれた。方言で、下賎の娼婦が花娘、花郎または花郎女と呼ばれた。花郎に由来する「ファニャンニョン」(화냥년) が浮気女を意味する単語として辞書に記録されている。李朝時代に、花郎 (郎中) と呼ばれる男覡が女装し淫らな行為におよんだという報告もある。こうした後世の花郎と新羅の花郎の関係は明らかではない。服飾や歌舞に共通の性質を見出すことができる一方、相違点としては、新羅の花郎が上流貴族から出ていることに対して、後世の花郎が被差別階級となっていることが挙げられる。--2001:268:C0D0:CA8D:9848:FF1D:8901:1C8F 2021年10月10日 (日) 22:10 (UTC)[返信]