ジャクリーン・ケネディ・オナシス

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ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス
Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis
Jacqueline Kennedy in India, 1962.jpg
インドでのジャクリーン・ケネディ(1962年)
生年月日 1929年7月28日
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州サウサンプトン
没年月日 1994年5月19日(満64歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
現職 アメリカ合衆国大統領夫人、編集者
配偶者 ジョン・F・ケネディ(1953-1963)
アリストテレス・オナシス(1968-1975)
サイン Jacqueline Kennedy Signature.svg

任期 1961年1月20日 - 1963年11月22日
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ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis、1929年7月28日 - 1994年5月19日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの夫人。1961年から1963年までアメリカファーストレディであった。ケネディ大統領暗殺の5年後、ギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚。オナシスとの死別後、ジャクリーンはニューヨークに移って編集者としての人生を歩んだ。彼女は単なる大統領夫人という枠を超えて、ファッションアイコンとして世界の女性の憧れとなった。特にケネディ暗殺時に彼女が着ていたピンクのシャネルのスーツにピルボックス帽の組み合わせは時代を象徴するファッションとして人々の記憶に残っている。

生涯[編集]

生い立ちと教育[編集]

1929年、ジャクリーン・リー・ブーヴィエはニューヨーク、サウサンプトンで、株式仲買人をしていた父ジョン・ジャック・ヴェルヌー・ブーヴィエ3世(John Vernou Bouvier III、1891年 - 1957年)と母ジャネット・リー・ブーヴィエ(Janet Lee Bouvier、1907年 - 1989年)の間に生まれた。夫妻の間にはジャクリーンとその妹であるキャロライン・リー・ブーヴィエ(1933年生まれ)の二人の子供がいた。父は「ブラックジャック」とあだ名された道楽者で女性関係も派手だったため、1940年に夫妻は離婚し、母ジャネットはスタンダード・オイルの相続者で実業家ヒュー・ダドリー・オーチンクロス(Hugh D. Auchincloss)と再婚。二人の子供(ジャネット(Janet Auchincloss Rutherfurd)とジェームズ(James Lee Auchincloss))をもうけた。

母ジャネットはアイルランド系[1]でジャクリーンの曾祖父にあたる人物がアイルランドのコークからアメリカにやってきてニューヨーク市の公立学校の校長になった。父ジョン・ジャックにはフランス、スコットランド、イギリスの血が入っていた[2]

6歳のジャクリーン(1935年)

ジャクリーンは母ジャネットの影響で幼いころから乗馬を好み、これを生涯の趣味とした[3]。学齢に達したジャクリーンはニューヨークのチャピン・スクール(Chapin school)を皮切りにメリーランド州のベセスダにあるホルトン-アームズ校(Holton-Arms School、1942年 - 1944年)、ファーミントンのミス・ポーターズ・スクール(Miss Porter's School 、1944年 - 1947年)へと進んだ。さらにヴァッサー大学(Vassar College、1947年 - 1948年)に二年在籍した後でスミス大学の留学プログラムを利用してフランスに渡り、グルノーブル大学(University of Grenoble)とソルボンヌ大学(Sorbonne)に学んだ。1947年、ジャクリーンが17歳で社交界にデビューしたとき、コラムニストのイゴ・カッシーニ(Igor Cassini)は彼女がその年の「デビュタント・クイーン」(社交界デビューした女性の中のナンバーワン)であると書いた[4][注 1]。 フランスから戻ったジャクリーンは1951年ジョージ・ワシントン大学で学位を取って卒業した。同年の夏、ジャクリーンは妹のリーと二人でヨーロッパ旅行を楽しんだ。

大学卒業後、ジャクリーンは継父オーチンクロスの知人アーサー・クロックの伝手でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙(Washington Times-Herald)に就職し、記者として働いた[5]1952年5月、記者でありケネディ兄弟の友人だったチャールズ・バートレット(Charles L. Bartlett)家のパーティーで、ジャクリーンは「ジャック」ことジョン・F・ケネディとお互いの存在を強く意識するようになった。ジャックがジャクリーンを父親の「ジョー」(ジョセフ・P・ケネディ)に紹介すると、ジョーは彼女をすぐに気にいった。学歴と気品があり、カトリック教徒で、何より資産家の令嬢である。彼女こそがケネディ家の嫁にふさわしく、将来合衆国大統領のファーストレディとなるべく資質を備えているとジョーは見たのだ[6]。同じころ、ジャクリーンは株式仲買人のジョン・ハステッド(John G. W. Husted, Jr.)と婚約していたが、ケネディとの付き合いが進む中で婚約が解消された。

結婚・ファーストレディとして[編集]

花嫁姿のジャクリーン(1953年)

1953年9月12日、36歳のケネディと24歳のジャクリーンはニューポートの聖マリア・カトリック教会で結婚式をあげた。ボストン大司教リチャード・クッシングの司式で700人が参列した式では、時のローマ教皇ピウス12世の祝電がよみあげられた[注 2]。 オーチンクロス家の所有するハマースミス・ファームで行われたレセプションは1200人のゲストが招かれる社交界の一大イベントであった。新婚旅行から戻った二人はバージニア州マクレーンのヒッコリーヒルに新居を構えた。

結婚して1年あまりたった1954年10月、ケネディは脊椎の手術を受けることになった。政治家としてのイメージを傷つけるものとして秘密とされていたが、ケネディはかねてより健康状態に大きな問題を抱えていた。それはアジソン病、恒常的な頭痛、胃痛、腹痛、腰痛、排尿障害、前立腺の炎症などであった[8]。これらの中で特にケネディを苦しめたのは腰痛であった。このころの彼は松葉づえなしには歩けず、自分で靴下をはくのも苦しいほどであった。検査の結果、第五腰椎がつぶれていることがわかった。医師団は手術が必要だが、アジソン病の影響で手術には大きなリスクが伴うことを説明した。手術は断行されたが、予想通り術後の経過が悪く、危篤状態に陥って(カトリック教徒が臨終時に司祭から受ける)終油の秘跡まで受けた。その後なんとか持ち直したものの、ケネディは半年もの間ベッドから立ち上がることができなかった。そのような状態にあったケネディをジャクリーンは献身的に支え、ケネディのためにグレース・ケリーを病室に呼ぶほどであった。[9]

ジャクリーンにとって辛い時期は続く。1956年にはじめての子供アラベラを死産した。また、結婚しても変わらないケネディの女癖の悪さに傷ついていたジャクリーンに、死産のニュースを聞いても地中海でのクルーズから戻らなかった夫への不信感がとどめを刺し、彼女は離婚を真剣に考えるようになった。彼女はこれを義妹のエセル・ケネディに話したため、話が義父ジョーに伝わった。ジョーは彼女を呼んで、離婚はカトリック教徒であり、政治家であるジャックにとって致命的なイメージダウンになるため結婚生活を続けてくれるよう頼み、もし子供が生まれたら一人につき100万ドルの信託財産を与えると約束してジャクリーンを翻意させたという[10]

ジャクリーンはその後、キャロライン(1957年11月29日)、ジョン・ジュニア(1960年11月25日)を続けて生んだ[注 3] 1960年の大統領選挙では、妊娠していたジャクリーンもほかのケネディ家のメンバーと同じように選挙運動に駆り出された。1960年11月9日、ケネディは僅差でリチャード・ニクソンに勝利し、第35代アメリカ合衆国大統領に選出された。1961年1月20日に就任式を行い、ジャクリーンはファーストレディとして二人の子供を連れてホワイトハウスに入った。31歳のファーストレディは(21歳のクリーブランド大統領夫人、24歳のタイラー大統領夫人(後妻ジュリア)に次いで)アメリカの歴史上3番目に若かった。ホワイトハウス入りしても夫の浮気癖は変わらず、ジャクリーンは夫とホワイトハウス内で激しく口論することもあった[12]

TV番組『大統領夫人によるホワイトハウス案内』 (1962年)

ホワイトハウスに入ったジャクリーンは内部のリフォームと備品管理に積極的に取り組んだ。こうして美しく飾られたホワイトハウスにテレビカメラが入ることになる。1962年2月14日に三大ネットワークで放映された番組『ジョン・F・ケネディ夫人によるホワイトハウス案内』(A tour of the White house)がそれである。この番組は史上初めてホワイトハウスの奥深くにテレビカメラが入ったことで画期的で、ナビゲーターをつとめたジャクリーンの気品に視聴者が魅了された。同番組は1962年度のエミー賞を受賞している[13]

1963年8月9日、ジャクリーンは生まれたばかりの息子パトリックを病気で失い、悲嘆にくれた。ジャクリーンの妹リー・ラジヴィルは、姉をギリシャ人大富豪アリストテレス・オナシス所有の船によるクルーズに誘った(オナシスはケネディが上院議員時代からの知人であり、ジャクリーンとも何度もあっていた)。ジャクリーンは子供たちを残し出かけることに乗り気ではなかったがリーの強い勧めもあって、このクルーズに参加した。しかし、この休暇中に既婚者であったリーとオナシスが急接近し、ジャクリーンを心配させた[14]

大統領暗殺[編集]

ダラスに到着した大統領夫妻(1963年11月22日)、ジャクリーンはピンクのシャネルのスーツにピルボックス帽
機内で行われたジョンソン副大統領の宣誓に立ち会うジャクリーン(その服にはまだ夫の血がついていた)(1963年)

1962年のキューバ危機、1963年夏のパトリックの死とそれに続くジャクリーンの不在によって、ケネディは改めて自分にとっての妻の存在の大きさを痛感した。翌年に2回目の大統領選挙を控えていたケネディは初めてジャクリーンの心に寄り添うようになったのである。夫との絆を取り戻したかに見えたジャクリーンは11月に入って、夫と共に遊説先のテキサス州ダラスに向かった。ケネディは南部での自分の不人気を危惧していたが、実際に彼を迎えたのはダラスの人々の熱狂的な歓迎ぶりであった。11月22日、安心したケネディ夫妻はテキサス州知事ジョン・コナリー夫妻と共にリンカーンに乗ってダラスの街をパレードしていた。

午後12時30分、エルム通りを走る車の中でジャクリーンの隣に座っていたケネディ大統領が銃撃を受けた。ジャクリーンは突然倒れた夫の異常に気づき、吹き飛ばされた夫の頭蓋骨が飛んだ車の後部トランクの上にあがった。後方にいたジャクリーンのボディガード、クリント・ヒルが車に駆け寄ってジャクリーンを座らせた。車はそのままパークランド・メモリアル病院に向かったが、病院についてからも夫の体を抱きしめているジャクリーンを引き離すことに苦労した。病院で夫の死を覚悟したジャクリーンは司祭を呼ぶよう依頼し、死を宣告される夫の傍にいたいと医師につたえて処置室に入った[15]

午後2時15分、暗殺された大統領の遺体は星条旗に覆われた棺に入れられてエアフォースワンに積み込まれ、大統領関係者らを乗せた同機は即座にワシントンに向けて飛び立った。混乱の続く機内では副大統領のリンドン・ジョンソンが動揺しながらも大統領としての宣誓式を行い、血染めの服をきたままのジャクリーンが傍らでこれを見守った。

1963年11月25日、全世界の注視の中、ワシントンの聖マタイ使徒大聖堂(Cathedral of St. Matthew the Apostle)でケネディ大統領の葬儀ミサが行われた。ジャクリーンは悲劇のヒロインとして夫の棺に従い、幼い息子のジョン・ジュニアに小さな敬礼をさせて人々の涙を誘った。その日はジョン・ジュニアの3歳の誕生日であった。夫の死後まもなく(11月29日)、ジャクリーンはライフ誌のセオドア・ホワイトのインタビューを受けた。その中でジャクリーンは自分が夫と共にホワイトハウスで過ごした日々を「キャメロット」と呼んだ。キャメロットは伝説的なアーサー王の都、その王宮の呼称であり、以後ケネディ政権とそこを取り巻いた人々は「キャメロット」と称されるようになる。1963年12月6日、ジャクリーンは二人の子供と共にホワイトハウスを後にした[16]

オナシスとの再婚・晩年[編集]

ケネディ大統領の死を悼むジャクリーンと遺児たち(1963年)

夫の死後、ジャクリーンのもっとも大きな不安は子供たちの安全の確保であった。その不安は義弟にあたる「ボビー」ことロバート・ケネディの暗殺(1968年6月5日)によって頂点に達した。かねてよりアリストテレス・オナシスと交際していたジャクリーンは再婚と出国を決意、翻意を促す多くの人々の制止を振り切ってオナシスのもとに向かった[17]1968年10月20日イオニア海に浮かぶスコルピオス島でジャクリーンとオナシスは結婚式をあげた[18]。ジャクリーンはかねてより自分についているシークレットサービスの過剰な警備に辟易しており、オナシスとの結婚によって子供たちの安全と自分の自由が同時に手に入ると考えていた。しかし、シークレットサービスの代わりに彼女を「ジャッキー・O」と呼ぶパパラッチたちに追いかけ回されるようになる[19]。 反対を押し切ってケネディ家を出たジャクリーンではあったが、ケネディ家とのつながりは公式にも非公式にも維持されていた。1969年11月に義父ジョーが危篤との知らせを聞いたジャクリーンはすぐにケネディ家に駆けつけ、その最期を看取り、葬儀に参加した。

再婚当初からジャクリーンとオナシスの関係は愛情に結ばれているとは言い難いものだった。1973年に飛行機事故で息子を失うとオナシスはより気難しくなり、二人の関係は誰が見ても冷えきったものになっていた。1975年3月にオナシスはパリで死去するが、ジャクリーンはそこに立ちあうことなく、遠く離れたニューヨークで暮らしていた[20]

夫、子供と共に(1962年)

オナシスの死後、ジャクリーンはニューヨークで編集者の仕事につく。初めはヴァイキング社(Viking Press)に勤めたが、同社から出版されたジェフリー・アーチャーの小説『大統領に知らせますか?』が架空の世界におけるエドワード・ケネディ大統領暗殺を扱っており、これにジャクリーンがかかわっていたという報道がされたため、そこを離れてダブルデイ社(Doubleday)へ移った。晩年のジャクリーンにとって友人であり、恋人であったのはベルギー出身のダイヤモンド商モーリス・テンペルズマン(Maurice Tempelsman)であった。テンペルズマンは妻と長く別居していたが、離婚できなかったので、ジャクリーンと再婚することはなかった[21]

1994年1月、ジャクリーンは自分が非ホジキンリンパ腫に罹患したことを知った。短い闘病生活の間に病は急速に進行し、5月19日ジャクリーン・オナシスは64歳で世を去った。その死をみとった息子のジョン・ジュニアは「母は友人、家族、本と自分が愛したものに囲まれて世を去りました。母が自分らしいかたちでその最後を迎えることができたことは幸せだったと思っています。」と述べた[22]。 ジャクリーンの葬儀は5月23日にニューヨークの聖イグナチオ・ロヨラ教会(Saint Ignatius Loyola Church)で行われ、息子のジョン・ジュニアがイザヤ書25章を朗読し、娘のキャロライン、エドワード・ケネディ、モーリス・テンペルズマンらが最後の言葉をジャクリーンに贈った。一度は袂をわかつたケネディ家の人々が再び彼女のそばに集まり、彼女の亡骸はアーリントン国立墓地で夫ジョン・F・ケネディの隣に葬られた。その隣にはジャクリーンの二人の子どもたち、アラベラとパトリックも眠っている[23]

脚注[編集]

  1. ^ イゴの兄弟オレグ・カッシーニはデザイナーで後年、ジャクリーンは彼のデザインした服を愛用するようになる
  2. ^ 継父オーチンクロスはホテルのスイートで酔いつぶれていて結婚式に間に合わなかった[7]
  3. ^ 二人とも帝王切開だった[11]

出典[編集]

  1. ^ Pottker, Jan . Janet and Jackie: The Story of a Mother and Her Daughter, Jacqueline Kennedy Onassis. New York City: St. Martin's Griffin, 2002,p. 7.
  2. ^ Flaherty, Tina (2004). What Jackie Taught Us: Lessons from the Remarkable Life of Jacqueline. New York City: Penguin Group. 2004
  3. ^ J・ランディ・タラボレッリ、『ジャッキー・エセル・ジョーン ケネディ家に嫁いだ女たち』、集英社、2002、p60
  4. ^ タラボレッリ、p68
  5. ^ ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロヴィッツ、鈴木主税訳、『ケネディ家の人々』(上下)、草思社、1990、上p299
  6. ^ ロナルド・ケスラー、山崎淳訳 『汝の父の罪』、文藝春秋、1996年、p433
  7. ^ コリヤー、上p303
  8. ^ 土田宏、『ケネディ 「神話」と実像』、中公新書、2007、p79
  9. ^ タラボレッリ、pp73-76
  10. ^ タラボレッリ、pp79-80
  11. ^ "Big Year for the Clan". Time. April 26, 1963.
  12. ^ タラボレッリ、p57
  13. ^ タラボレッリ、pp113-119
  14. ^ タラボレッリ、pp198-200
  15. ^ タラボレッリ、pp216-219
  16. ^ タラボレッリ、pp240-243
  17. ^ コリヤー、下p218
  18. ^ タラボレッリ、p361
  19. ^ Tracy, Kathleen . Everything Jacqueline Kennedy Onassis Book: A portrait of an American icon. 2011,p. 211.
  20. ^ タラボレッリ、p402
  21. ^ タラボレッリ、p451
  22. ^ Nicholas A. Basbanes , A Gentle Madness: Bibliophiles, Bibliomanes, and the Eternal Passion for Books , Owl Books ,1999,p32
  23. ^ タラボレッリ、p15

関連項目[編集]

参考書籍[編集]

  • J・ランディ・タラボレッリ、鈴木主税訳、『ジャッキー・エセル・ジョーン ケネディ家に嫁いだ女たち』、集英社、2002
  • ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロヴィッツ、鈴木主税訳、『ケネディ家の人々』(上下)、草思社、1990
  • ロナルド・ケスラー、山崎淳訳 『汝の父の罪』、文藝春秋、1996
  • 土田宏、『ケネディ 「神話」と実像』、中公新書、2007

外部リンク[編集]


先代:
マミー・アイゼンハワー
アメリカのファーストレディ
1961年 - 1963年
次代:
レディ・バード・ジョンソン