ジャクリーン・ケネディ・オナシス
ジャクリーン・リー・ブービェ・ケネディ・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis, 1929年7月28日 - 1994年5月19日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの夫人。1961年から1963年までアメリカのファーストレディであった人物。
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生い立ち [編集]
ジャクリーン・リー・ブーヴィエは、ジョン・ジャック・ヴェルノウ・ブーヴィエ3世を父として、ジャネット・ノートン・リーを母として、その長女としてニューヨークで生まれた。父はフランス系移民で、「ブラックジャック」の異名も持ち、株式仲買人を務め、プレイボーイとしても名を馳せた人だった。母方の家系は農民でジャガイモ飢饉の際にアメリカ合衆国に逃れたアイルランド移民であり、母ジャネットの祖父はニューヨーク州立公立学校の校長、父は銀行頭取であった[※ 1]。
しかし、ジャクリーンの両親は彼女の幼少時に離婚し、母ジャネットはヒュー・D・オーチンクロスと再婚した[※ 2]。ジャクリーンには妹がひとりいる。
継父のオーチンクロスは本邸の他に別邸としてハマースミスファームに広大な屋敷を構えており、穏やかな自然に溢れたその環境をジャクリーンは愛した。ジャクリーンは読書や作詩を好み、継父を慕っていた。彼女と継父は温かい愛情を育んだ。
一方、母親は厳しく彼女を監督しようとした[要出典]、という[誰?]。ジャクリーンは社交好きの母ジャネットには厳しく躾られた[要出典]という。母ジャネットは古風で厳格な女性で、彼女にエチケットやマナー、着こなしなどを教え込んだ[要出典]。 乗馬の名手でもあった母の影響で自身も乗馬を始め、それは生涯を通じての趣味となり、馬術競技で入賞を果たすほどに上達した。
学業・就職・ハステッドJrとの婚約 [編集]
ミスポーターズスクールからヴァッサー女子大学に進んだジャクリーンは、在学中にフランスに渡りソルボンヌ大学に学んだ。帰国後、ジョージ・ワシントン大学を卒業し、ワシントンにある新聞社でカメラマンとして社交欄を担当した。株式仲買人のジョン・ハステッド・Jr.と婚約した。
婚約破棄とケネディとの結婚 [編集]
だが、ジョン・F・ケネディ上院議員と出会うと、ハステッドJrとの婚約を解消した。 1953年9月12日、ロードアイランド州ニューポートでケネディと結婚した。式のミサの前にはローマ教皇からの祝辞が読み上げられるなど豪華なものだったが、ジャクリーンの父は前日に酔い潰れて式に出席できなかった[1]。
結婚後、彼らは四人の子供をもうけた。
- アラベラ(1956年に死産)
- キャロライン・ブービェ・ケネディ(1957年生)
- ジョン・F・ケネディ・ジュニア(1960年 - 1999年)
- パトリック・ブービェ・ケネディ(1963年生、生後間もなく死去)。
二人の結婚生活は問題を抱えていた。ケネディは多くの女性問題(不倫問題)を抱えていた。一方、ジャクリーンのほうも、義理の弟ロバート・ケネディに言い寄ったり(不倫)した。またジャクリーンは、ケネディが抱えていた深刻な健康上の問題(病気)も黙殺した。
物静かで内気なジャクリーンはケネディ一族の活動的で幾分粗野な性質を好まなかった[要出典]、という。彼女は、一族が好むタッチフットボールゲームへの参加も非常に嫌っていた。
合衆国ファースト・レディ [編集]
ケネディは1960年の大統領選挙でリチャード・ニクソンに辛勝し、1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。ジャクリーンは米国史上最年少でファーストレディのひとりとなった。
ジャクリーンはファーストレディ[2]として、その生活の全てを詳細に調査され、スポットライトに晒される生活を強いられた[要出典]。
ジャクリーンには浪費癖があり、それはケネディ大統領を激昂させた。
彼女はファーストレディとして、アメリカ国内においても国際舞台においてもファッションの象徴となった。 [※ 3]
ケネディの暗殺 [編集]
ジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。その際、ジャクリーンはリムジンの後部座席、ケネディの隣に座っていた[※ 4]。ザプルーダー・フィルムにも記録されているように、まずケネディは一発目の狙撃により喉を撃たれ、夫の異変に気づいたジャクリーンが顔を覗き込んだ直後、二発目の狙撃がなされケネディ大統領の前頭部が後方へ吹き飛んだ。ジャクリーンはこの時即座にリムジンのトランクの後部に身を乗り出し、頭蓋骨の一部を手に持った。この動作については様々な解釈があり一般に「後方へ飛び散ったケネディ大統領の頭部を集めるためにトランク後部へ上った[要出典]」「夫の暗殺を目の当たりにしてパニックに陥ったからだ[要出典]」などとされている。「パニックに陥り、その場から逃げ出そうとしていただけ[要出典]」との異説も。手にした頭蓋骨はパークランド病院の医師に手渡した。
ケネディの葬儀では、2人の子の手を握り、連邦議会議事堂で娘と共に棺台に跪き、ホワイトハウスから聖マシュー大聖堂まで棺を積んだケーソンの後を歩き、ミサの後アーリントン国立墓地で墓前に火を灯した。[※ 5]
暗殺の1週間後、ジャクリーンはライフ誌のセオドア・H・ホワイトのインタビューに応じた。そのインタビューで、彼女はケネディ政権時代を 「キャメロット」と呼んだ(Camelot、華やかで魅力ある時代、元は伝説のアーサー王と円卓の騎士たちが住んだと言われる城を指す言葉)。
悲嘆に暮れ、1年間公の場に姿を現さなかった。その後、彼女はプライバシーを守るため静かな隔離生活を強いられることとなり、自由な生活を失った。ケネディの死から終生逃れることが出来ず、常に暗殺の影におびえるようになった。息子(ケネディ・ジュニア)をシークレットサービスに鍛えてもらったり、(息子は俳優業を望んでいたのだが)マスコミが注目する場所からは徹底して遠ざけようと腐心した。
ケネディの弟の暗殺、オナシスとの再婚と不和 [編集]
義理の弟であったロバート・ケネディも1968年6月6日に暗殺された3ヶ月後、「ケネディ一族がターゲットにされるなら、次に狙われるのは自分の子供たちだ。」と語り、アメリカ合衆国を去らなければならないと決心した。ジャクリーンはギリシャの海運王アリストテレス・オナシスと交際していた。オナシスにはジャクリーンが求めた財力と保護する力があり、ジャクリーンにはオナシスが渇望した社会的地位があった。オナシスはジャクリーンと結婚するため、オペラ歌手マリア・カラス[※ 6]との関係を清算した。1968年10月20日、ジャクリーンはオナシスとスコルピオス島で再婚し、シークレットサービスの保護対象から外れることになった。
オナシスとの結婚でも問題を抱えた。結婚に愛が存在しなかった。夫妻が一緒の時間過ごすことは滅多になかった。オナシスはジャクリーンの連れ子キャロラインやケネディ・ジュニアと良い関係を持ったが[※ 7]、ジャクリーンのほうはオナシスの連れ子クリスティナ・オナシスとうまく付き合えなかった。ジャクリーンは大半の時間を旅行と買い物に費やして過ごした(このジャクリーンの浪費癖は以前にもケネディ大統領を激昂させたものである)。オナシスはジャクリーンと離婚しようと考えた。だが1975年3月15日に死去してしまい、ジャクリーンに莫大な遺産を残すことになった。
パパラッチがギリシャの島でジャクリーンの裸を盗撮し、ハスラー誌の出版者ラリー・フリントはその写真を買い取り1975年8月号でそれを公表したこともあった。これは彼女とケネディ一族を非常に当惑させた。
テンペルスマンとの晩年と死去 [編集]
ジャクリーンは後年、バイキング社やダブルデイ社で編集人を務め、ニューヨークやマーサズ・ヴィニヤード島でベルギー出身のユダヤ系財界人、ダイヤモンド商のモーリス・テンペルスマンと穏やかに暮らした。
ジャクリーンは1994年に非ホジキン種リンパ腫と診断され、5月19日にニューヨーク5番街1040番地にあるアパートで静かに死を迎えた。
葬儀は、彼女が洗礼を受けた教会で5月23日に行われ、全国にテレビ中継された。亡骸は飛行機でワシントンDCに運ばれ、アーリントン国立墓地内にある最初の夫 ジョン・F・ケネディの隣に埋葬された。葬儀ではビル・クリントン大統領によるスピーチが行われた。[※ 8]
映画 [編集]
- America's Prince: The John F. Kennedy Jr. Story (2003)
- Timequest (2002)
- Jackie Bouvier Kennedy Onassis (2000)
- Love Field (1992)
- A Woman Named Jackie (1991)
- Onassis: The Richest Man in the World (1988)
- LBJ: The Early Years (1987)
- Kennedy
- ジャクリーン・ブービェ・ケネディ Jacqueline Bouvier Kennedy (1981)
関連書籍 [編集]
- Farewell, Jackie: A Portrait of Her Final Days, Edward Klein, Viking Books, 2004.
- All Too Human: The Love Story of Jack and Jackie Kennedy, St. Martin's Press, 2003.
- Just Jackie: Her Private Years, Ballatine Books, 1999.
- The Kennedy Curse: Why Tragedy Has Haunted America's First Family for 150 Years, Pocket Books, 1996.
- "The Jackie Handbook", MQ Publications, 2005 [1]
脚注・出典 [編集]
注 [編集]
- ^ しかしジャネットは、人々に自分の祖父を紹介するときメリーランド州生まれの南北戦争の帰還兵であると吹聴していたという。また、彼女は「フランス貴族の末裔」と詐称していたが、両親の祖先は農民である。
- ^ オーチンクロスはジャネットとの結婚の前に二度の結婚・離婚歴があった。前妻ニーナの息子は小説家のゴア・ヴィダルである。
- ^ 彼女はジバンシー、ピエール・カルダン、シャネル等、高価なフランスのオートクチュール・デザイナーの衣服を好んだが、国民には、ジャクリーンの好みがアメリカ人デザイナーへの背信行為であると見做す向きもあった。これに対し彼女は、ニューヨークのシェ・ニノンのようなアメリカのドレスメーカーにフランスの流行デザインを真似たものを作らせ、批判の目をかわした。公式行事での衣装については、ノーマン・ノレルをはじめとする多数のアメリカ人デザイナーの中から発注先を決めた。ジャクリーンは自身の専属ファッションデザイナーを選考する際にバーグドーフ・グッドマンを考えたが、結局はハリウッドでマリリン・モンロー、グレース・ケリー、ジーン・ティアニー、ナタリー・ウッド等、映画スターの衣裳デザインを多く手掛けたフランス・パリ出身のオレグ・カッシーニを選択した。宝飾品の多くについても批判をかわすためにカジュアルなイミテーション・ジュエリーを多く用い、彼女の代名詞ともいえる大粒真珠で造られた三連ネックレスはよくできた模造品であったといわれる。[要出典]
- ^ ピンク色のシャネル風スーツを[要出典]着ていた
- ^ ロンドン・イブニング・スタンダードは「ジャクリーン・ケネディはアメリカ人に彼らが常に欠いていた物──威厳を与えた」と伝えた。ケネディ暗殺後のジャクリーンの勇気は世界中の賞賛の的となった。[要出典]
- ^ オペラのディーバ[要出典]
- ^ オナシスの息子アレクサンダーは、ケネディ・ジュニアに飛行機操縦の手ほどきをした。彼らは二人とも飛行機の墜落事故で死亡することになった。
- ^ 2007年、彼女の名前はジョン・F・ケネディの名前と共に日本の衛星かぐやに乗せられ、月の周りを回ることになった。ケネディ大統領は月面探査プロジェクトに熱心だったのである。
出典 [編集]
外部リンク [編集]
- White House biography
- Unofficial biography
- Arlington Cemetery biographical information
- http://www.mqpublications.com/details.phtml?id=273&cat=7
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