ジャパニーズ・ウイスキー

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サントリー「山崎12年」

ジャパニーズ・ウイスキー英語: Japanese whisky)とは、日本で生産されるウイスキー

日本でウイスキーが作りはじめられたのは1870年ごろであるが、販売用の生産が開始されたのは1924年のことである。ジャパニーズ・ウイスキーはスコッチ・ウイスキーに倣って、英語表記の綴りはスコットランド風の "e" を省く表記が用いられている[1]。かつては「ウ井スキー」とも表記された[1]

日本ではウイスキーを製造する会社が複数あるが、なかでもサントリー(2009年4月1日以降はサントリー酒類)とニッカウヰスキーの2社が挙げられる。この2社ではシングルモルトブレンデッドの両方を製造しており、両社だけで日本国内のウイスキー市場シェアの90%を占めている[2]

定義[編集]

ジャパニーズ・ウイスキーは日本国内において生産されるウイスキーである。したがって、酒税法上のウイスキーの定義を満たすものであり、なおかつ、日本国内において生産されたもの、ということができる。

種類とスタイル[編集]

種類[編集]

名称 原料 蒸留方法
モルトウイスキー 大麦麦芽 単式蒸留器を使用。蒸留回数は2回[3]
グレーンウイスキー 大麦麦芽と、小麦トウモロコシなどの穀類 連続式蒸留器を使用する[3]
ブレンデッドウイスキー 複数のモルトの原酒とグレーンの原酒[3] -

スタイル[編集]

ジャパニーズ・ウイスキーは、スコッチ・ウイスキーを手本として出発した[4][5]。しかし、スコッチ・ウイスキー特有のスモーキーフレーバーは日本人に合わせて抑えられ、軽い口当たりに仕上げられているものが多い[5]。モルトウイスキーとグレーンウイスキーを混合するブレンデッドウイスキーがジャパニーズ・ウイスキーの主流を占めている[3]。ジャパニーズ・ウイスキー独特のスタイルとして、ブレンデッドウイスキーの生産方法や日本におけるウイスキー業界の性質が挙げられる。

原酒の熟成に使用する樽の素材にミズナラを使用することも、ジャパニーズ・ウイスキーの特徴として挙げられる。ミズナラで熟成される若い原酒はココナッツに似た香りを帯び、長い熟成期間を経て伽羅白檀に例えられる芳香へと変化する[6]。しかし、ミズナラは樽の中の液体が漏れやすいために過去に比べて使用されなくなり、ホワイトオークの樽を使うことが多くなっている[7]。また、ミズナラに比べて気密性が高いコナラが樽の素材に使われることもある[7]

ブレンデッドウイスキーの特徴[編集]

シングルモルトの売上は近年伸びているが、世界におけるウイスキーの売上の多くはブレンデッドウイスキーによるものである。ブレンデッドウイスキーには、スコットランドの蒸留所で生産されるモルトが多様であるという背景が欠かせない。それぞれの蒸留所では単一の製法に絞っており、ブレンダーはそれぞれの蒸留所が製品として求める味を作るためにウイスキーのブレンドを行なっている。あるブレンデッドウイスキーの銘柄は1またはそれ以上の蒸留所を持つ事業者が所有している一方で、さまざまな事業者とのあいだでモルトの売買がなされるということも一般的である[8]。つまりブレンデッドウイスキーには多くの蒸留所のモルトが用いられるが、それぞれのモルトは異なる事業者が所有するということになる[9]

ところが日本ではこれとは異なるモデルが導入されている。日本のウイスキー事業者は蒸留所とブレンデッドウイスキーの銘柄の両方を所有しているのである[6]。そのため競合する事業者とのあいだでは、原酒の売買がなされるということがほとんどない[6]

日本のブレンデッド・ウイスキーは同一もしくは同系列の会社の複数の蒸留所で生産されるウイスキーだけで作られていることが多く、一部ではスコットランドの蒸留所で作られたモルトを輸入して配合するということもある。これはつまり、日本のブレンダーはそれぞれの製品を作るためのパレットをきわめて少なくしていたということである。このような状況がジャパニーズ・ブレンデッドウイスキーが、とくに日本国外で成功を収めるうえで制限要素となってきたと考えられている。

このため日本のそれぞれの蒸留所は近年、次第に多様なものへとなっていった。つまり日本では1か所の蒸留所において、アイラ・モルトのようなスモーキーでピートの香りの強いものからスペイサイド・モルトのような軽く繊細なものまで、幅広いものを作っているのである。このような日本の蒸留所における多様化と工夫でジャパニーズ・ウイスキーは世界において高い評価を受けるようになっていった。

日本独自の習慣[編集]

日本ではウイスキーの飲み方にも独特な特徴があり、ウイスキーと一緒に食事をしたり、また湯割りや水割りにしたりしている。高度経済成長期中のウイスキーブームでは、サントリーが宣伝した「二本箸作戦」により、和食とウイスキーの組み合わせが定着した[10]。また、バーなどで見られるボトルキープも、日本独特の習慣である[11]。かつては、ジョニ黒オールド・パーバランタインといった高価な銘柄をボトルキープすることが一種のステータスとなっていた[12]

歴史[編集]

ウイスキーの到来[編集]

日本にはじめてウイスキーがもたらされたのは、江戸時代末期のマシュー・ペリー来航の時と考えられている[13]1853年7月、浦賀の奉行や通訳がサスケハナ号で歓待された時、ウイスキーが振る舞われた[14]。将軍徳川家定の元にウイスキーが献上された記録も残るが、実際に飲まれたかどうかは不明である[15]日米修好通商条約締結後、1859年より条約港の開港が行われると日本国内に外国人居留地が誕生し、外国人居留者のためにベーカー商会、タサム商会などがウイスキーの輸入を行った[16]1860年に開業した日本初の西洋式ホテル・横浜ホテル内のバーではウイスキーも出されていたという[15]1871年横浜山下町のカルノー商会が輸入した「猫印ウヰスキー」[注 1]が、最初に日本人用として輸入されたウイスキーだとされている[16]

明治期の日本では本格的なウイスキーは製造されておらず、薬種問屋で製造されていた調合ウイスキー(模造ウイスキー)が国産品として出回っていた[17]。調合ウイスキーとは、関税率が低いために廉価で入手できる外国製の酒精アルコール[注 2]を使用し、これに砂糖香辛料を加えたものである[17]。明治時代当時は酒類も薬とみなされており、小西儀助商店(現在のコニシ)、橋本清三郎、神谷伝兵衛などの大手薬種問屋をはじめとする、数々の業者が生産を手掛けていた[17]。明治政府は日本酒の製造者を保護するため、混成酒税法(1896年施行)、酒精及酒精含有飲料税法(1901年施行)によって調合ウイスキーの流通を抑制しようと試みた[18]1911年に締結された日米通商航海条約で日本が関税自主権を回復すると外国製の酒精アルコールに高い税率がかけられ、代わって国産の酒精アルコールが台頭する[19]

明治末から大正時代にかけて、日本でも本格的なウイスキーを造ろうといくつかの酒造会社が行動を起こした[19]。酒精アルコールのメーカーである摂津酒造の社長・阿部喜兵衛、常務・岩井喜一郎は技師の竹鶴政孝ウイスキーの産地であるスコットランドに派遣し[19]、摂津酒造の得意先の一つであった寿屋洋酒店(のちのサントリー酒類)の創業者鳥井信治郎はウイスキー製造のための蒸留所建設を考えていた[20]

鳥井信治郎と竹鶴政孝[編集]

竹鶴政孝の胸像

鳥井信治郎と竹鶴政孝はジャパニーズ・ウイスキーの歴史に触れるうえで欠かせない人物である。

鳥井信治郎[編集]

鳥井信治郎は小西儀助商店での丁稚奉公を経た後、1899年に独立して鳥井商店を設立した[20]。最初は調合ウイスキーの販売とともに[21]、洋酒の輸入販売を行ない、スペインから輸入したワインを瓶詰にして売り出していた。しかし、ワインは当時の日本人の口には合わず、評価は芳しくなかった[22]。1906年に社名を寿屋洋酒店に変更し、翌年にポルトガルワインポートワイン)をもとに独自開発した「赤玉ポートワイン(現在の赤玉スイートワイン)」を販売して成功する[20]。ところが鳥井は赤玉ポートワインでの成功に満足せず、生涯の業績となるような新しい事業に着手した。その事業というのが日本人向けのウイスキーの製造であった。

鳥井は模造ウイスキーである「ヘルメスウイスキー」「トリスウイスキー」を発売するが、本格的な国産ウイスキー生産の必要性を感じ、蒸留所を日本国内に設置することを計画する[20]。しかし、ウイスキーの生産はスコットランドやアイルランド以外の地では不可能だという意見、蒸留所建設のために莫大な資金を投入するリスクを理由として、社員、スポンサー、学者たちからは反対の声が多く上がる[22]

竹鶴政孝[編集]

竹鶴政孝が摂津酒造に入社したのは1916年のことである[19]。1918年にスコットランドに渡り、グラスゴー大学で学びながら、いくつかのウイスキー蒸留所で見学、実習に参加した[23]。最終的に竹鶴はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所に2,3か月滞在し、ここで実習を経験する[24]。竹鶴はヘーゼルバーンで学んだ同地のウイスキーの性質、製造工程、蒸留所の経営システムなどを帰国した1920年に、2冊の大学ノートにまとめ上司であった岩井に“実習報告書(=竹鶴ノート)”として提出した[25][注 3]

しかし、第一次世界大戦の終戦に伴う景気の停滞、アメリカでの禁酒法実施による飲酒意識の減退、株主からの反対のため、多額の資金が必要とされる蒸留所の建設は困難になる[26]。なおも竹鶴は本格的なウイスキーを造る夢を捨てきれず、1922年に摂津酒造を退職した[26]

山崎蒸留所の建設[編集]

大正に入って鳥井は蒸留所建設のため、スコットランドから技師を招聘しようとする[20]三井物産のロンドン支店を通して現地のメーカー、大学に連絡を取ると、ウイスキーの製造技術を学んだ竹鶴が帰国していたことを知る[20]。鳥井と竹鶴は旧知の仲であり、竹鶴が摂津酒造を退職していたことを知った鳥井は、1923年に4,000円の年俸、10年の契約期間を条件として竹鶴を寿屋に招聘した[27]

当初蒸留所の位置については鳥井と竹鶴の間に食い違いがあり、鳥井は消費地である都市圏に近い場所を、竹鶴は北の大地に建設することを考えていた[28]。調査と議論の末、大阪府島本村の山崎の地に日本初のウイスキー蒸留所の建設を決定した[28]。山崎はかつて千利休が茶室を設けた場所であり、水質の良さと3つの川(宇治川木津川桂川)が合流するために霧が立ち込めている立地がウイスキーづくりに適していたのである[29]1924年山崎蒸溜所が完成、その年の冬から蒸留が開始される[30]

国産の大麦、イギリスから取り寄せたピートを使用して、1929年に日本初の国産ウイスキー「白札」(現在のサントリーホワイト)が売り出される。価格は1本あたり4円50銭と、ジョニー・ウォーカー黒ラベルデュワーズといった輸入品のウイスキーと比べても遜色が無かった[31]。しかし、「白札」に含まれていたスモーキーフレーバーは、ウイスキーに馴染みのなかった当時の日本人からの評価は「煙臭い」と芳しいものではなかった[32][33]

鳥井はさらにウイスキーの改良に取り組み、1937年に改良の成果である「角瓶」(サントリー角瓶)が発売され、消費者から好評を得た[34]1940年に「サントリーウイスキー黒丸」(現在のサントリーオールド)が誕生するが、大戦直前という情勢のため、市場に出荷されるのは第二次世界大戦終戦後の1950年となる[34]

寿屋は戦禍によって大阪工場を失うが、山崎蒸留所の原酒は被害を免れた[35]

大日本果汁の設立[編集]

1934年、竹鶴は寿屋を退職して大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)を設立する。このとき竹鶴は立地、地価、安価な労働力を期待できる北海道余市町余市蒸溜所を建設した[36]

1936年から余市でのウイスキー蒸留が始まり、1940年に「ニッカウヰスキー」と名付けられたウイスキーが発売される。第二次世界大戦時には余市蒸溜所で日本軍の兵士に配給される酒類が醸造され、蒸留所は配給品の買い上げによって利益を得た。戦後の余市蒸溜所では、軍事用に供給された物資が使われた[36]

戦後のウイスキー市場[編集]

ハイボール

戦後間もない頃は日本人が国産のウイスキーを口にする機会は少なく、もっぱらアメリカ軍と軍関係者のために供されていた[37]。鳥井はGHQに自社製品のウイスキーを売り込み、将校たちから好評を受けた[38]。日本の戦後復興に伴い、ジャパニーズ・ウイスキーの品質と国内需要は上昇する[35]1946年、寿屋は戦災を逃れた原酒を使用した「トリスウイスキー」を、1950年には戦前に製造した「オールド」を発売する。

昭和30年代に東京や大阪を中心としてトリスバーが続々と開店し、カクテルハイボールが人気を博した[35]1952年に大日本果汁は「ニッカウヰスキー」に、1963年に寿屋はサントリーに社名を変更した。1955年に大黒葡萄酒(現在のメルシャン)が軽井沢に蒸留所を建設した。1960年本坊酒造は、岩井を招き「竹鶴ノート」をもとに山梨で本格的なウイスキー生産(現マルスウイスキー)を始めるが売上は芳しくなく9年後に一時撤退した。

また1950年代までの日本ではモルトウイスキーのみが生産されている状態だったが、1962年にニッカウヰスキーと関連の深い朝日酒造(アサヒビール子会社)がカフェ式連続蒸留機を導入し本格的にグレーンウイスキーの生産を開始[39]1969年には三楽酒造(現・メルシャン)も川崎工場にてグレーンウイスキーの生産を開始したほか、1973年にはサントリーも関連会社のサングレインでグレーンウイスキーを生産するようになり、スコッチ・ウイスキー同様にモルトとグレーンという2種類のウイスキーをブレンドした本格的ブレンデッド・ウイスキーを生産する体制が整った。

高度経済成長期に日本国内でのウイスキーの消費量は増加し、1980年にサントリーオールドは年間出荷量12,000,000ケース突破という世界記録を樹立した[11][40]。しかし、1980年初頭を境に日本のウイスキー市場は停滞する[41]。80年代からの停滞期に、日本の酒造メーカーは様々な試みに取り組み[41]、こうした中で、日本各地の酒造メーカーが生産する地ウイスキーが人気を博した[40]。また、酒税の変更によってウイスキーの価格が下がり、消費者が手に取りやすくなる[12]

1980年代から2000年代にかけて年ごとにウイスキーの消費量は下降したが[42]、2009年にウイスキーの消費量が回復に向かう[43]。1980年代後半にシングルモルト・ウイスキーが世界的に流行し、遅れて1990年代後半から日本の愛好家の間でもシングルモルト人気が起こる[44]

評価[編集]

かつては日本におけるウイスキーの定義は非常に緩く、品質の悪い国産ウイスキーも出回っていた[44]。そのため、世界の愛好家と評論家はジャパニーズ・ウイスキーに厳しい評価を下し、「ウイスキーではない」とまで言われた時代もあった[44]

ところがその後、ウイスキーマガジンによって開催されるブラインド・テイスティングでジャパニーズ・ウイスキーが高評価を受けるようになる。一度ならずそのテイスティングの結果で、ジャパニーズのシングルモルト(とくに余市と山崎)はスコッチのシングルモルトよりも高い評価を受けている[45]

2001年にニッカウヰスキーの「シングルカスク余市 10年」がウイスキーマガジンのコンテストで最高得点(ベスト・オブザ・ベスト)の評価を受け、インターナショナル・ワイン&スピリッツ・コンペティション(IWSC)でメルシャンの「軽井沢ピュアモルト12年」が金賞を受賞した。2006年にはベンチャーウイスキーが蒸溜した地ウイスキー「キング オブ ダイヤモンズ」が最高得点(ゴールドアワード)に選ばれる。

蒸留所[編集]

サントリー山崎蒸溜所
ニッカ余市蒸溜所

ジャパニーズ・ウイスキーの製造はスコッチ・ウイスキーの製造方式を再現するというところから始められた。竹鶴などのジャパニーズ・ウイスキーの先駆者たちはスコッチ・ウイスキーの製造過程を学び、その製法を日本で再現しようと多くの苦労を重ねた。日本初の蒸留所が造られた山崎は経済的な制約があり、より便利な場所に建設することが重視されたが、余市はとくにその地形や気候がスコットランドに似ているため、蒸留所の設置場所として選定された[46]

現在、日本にはおよそ10か所の蒸留所が設置されている。おもなものを会社別に挙げると以下のとおりである。

主要な銘柄[編集]

サントリー[編集]

トリス エクストラ

ニッカウヰスキー[編集]

ブラックニッカ
  • シングルカスク余市 - シングルカスクウイスキー
  • シングルカスク宮城峡 - シングルカスクウイスキー
  • シングルモルト余市 - シングルモルトウイスキー
  • シングルモルト宮城峡 - シングルモルトウイスキー
  • 竹鶴 - ブレンデッドモルトウイスキー
  • ザ・ブレンド - ブレンデッドウイスキー
  • スーパーニッカ - ブレンデッドウイスキー
  • ブラックニッカ - ブレンデッドウイスキー

キリンビール[編集]

  • 富士山麓 樽熟50° - ブレンデッドウイスキー
  • 富士山麓 シングルモルト18年 - シングルカスクウイスキー
(グループ会社のメルシャンが製造した「軽井沢」は蒸留所閉鎖に伴い生産終了)

地ウイスキー[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ラベルに描かれていたスタンディング・ライオン(立ち獅子、スコットランド王家の紋章)が日本人の目には猫に映ったと思われる(土屋『ウイスキー通』、pp218-219)
  2. ^ 廃糖蜜などを原料として造られる原酒。(土屋『ウイスキー通』、p.219)
  3. ^ 現在、竹鶴の記録が残るノートは余市蒸溜所に保管されている。(土屋『ウイスキー通』、p.222)

出典[編集]

  1. ^ a b 河合『琥珀色の奇跡 ウイスキーラベルの文化史』、p.197
  2. ^ ウイスキー戦争:日本の「響」、海外で「ジョニーウォーカー」と競うBloomberg
  3. ^ a b c d 橋口『ウイスキーの教科書』、p.103
  4. ^ 肥土『シングルモルト&ウイスキー大事典』、p.194
  5. ^ a b 橋口『ウイスキーの教科書』、p.102
  6. ^ a b c 肥土『シングルモルト&ウイスキー大事典』、p.196
  7. ^ a b 橋口『ウイスキーの教科書』、p.209
  8. ^ 土屋『ウイスキー通』、pp.239-240
  9. ^ 土屋、茂木、輿水『ジャパニーズウイスキー』、pp.58-59
  10. ^ 土屋『ウイスキー通』、p.236
  11. ^ a b 土屋、茂木、輿水『ジャパニーズウイスキー』、pp.57-58
  12. ^ a b 橋口『ウイスキーの教科書』、p.13
  13. ^ 橋口『ウイスキーの教科書』、p.12
  14. ^ 土屋『ウイスキー通』、p.214
  15. ^ a b 土屋、茂木、輿水『ジャパニーズウイスキー』、p.50
  16. ^ a b 土屋『ウイスキー通』、p.218
  17. ^ a b c 土屋『ウイスキー通』、p.219
  18. ^ 河合『琥珀色の奇跡 ウイスキーラベルの文化史』、p.160
  19. ^ a b c d 土屋『ウイスキー通』、p.220
  20. ^ a b c d e f 土屋『ウイスキー通』、p.224
  21. ^ 河合『琥珀色の奇跡 ウイスキーラベルの文化史』、pp.161-162
  22. ^ a b WHISKY MUSEUM ジャパニーズウイスキー物語 水薫る 第一話 本格国産への挑戦 - サントリー(2012年3月閲覧)
  23. ^ 土屋『ウイスキー通』、pp.220-221
  24. ^ 土屋『ウイスキー通』、p.221
  25. ^ 土屋『ウイスキー通』、pp.221-222
  26. ^ a b 土屋『ウイスキー通』、p.223
  27. ^ 土屋『ウイスキー通』、p.224,229
  28. ^ a b 土屋『ウイスキー通』、p.225
  29. ^ 橋口『ウイスキーの教科書』、p.175
  30. ^ 土屋『ウイスキー通』、p.226
  31. ^ 土屋『ウイスキー通』、p.228
  32. ^ 土屋『ウイスキー通』、pp.228-229
  33. ^ 河合『琥珀色の奇跡 ウイスキーラベルの文化史』、p.174
  34. ^ a b 土屋、茂木、輿水『ジャパニーズウイスキー』、p.55
  35. ^ a b c 土屋、茂木、輿水『ジャパニーズウイスキー』、p.57
  36. ^ a b 土屋、茂木、輿水『ジャパニーズウイスキー』、p.56
  37. ^ 土屋『ウイスキー通』、pp.235-236
  38. ^ 河合『琥珀色の奇跡 ウイスキーラベルの文化史』、p.187
  39. ^ 高品質グレーンを生み出すカフェ式蒸溜機秘話 - ニッカウヰスキー
  40. ^ a b 肥土『シングルモルト&ウイスキー大事典』、p.197
  41. ^ a b 土屋、茂木、輿水『ジャパニーズウイスキー』、p.58
  42. ^ 土屋『ウイスキー通』、p.237
  43. ^ 土屋、茂木、輿水『ジャパニーズウイスキー』、p.32
  44. ^ a b c 橋口『ウイスキーの教科書』、p.104
  45. ^ "YOICHI" marked the highest score among the 47 brands in the world” (英語). ニッカウヰスキー. 2009年5月17日閲覧。
  46. ^ 橋口『ウイスキーの教科書』、p.176

参考文献[編集]

  • 肥土伊知郎監修『シングルモルト&ウイスキー大事典』(ナツメ社, 2011年1月)
  • 河合忠『琥珀色の奇跡 ウイスキーラベルの文化史』(現代創造社, 2007年7月)
  • 土屋守『ウイスキー通』(新潮選書, 新潮社, 2007年10月)
  • 土屋守、茂木健一郎、輿水精一『ジャパニーズウイスキー』(とんぼの本, 新潮社, 2010年9月)
  • 橋口孝司『ウイスキーの教科書』(新星出版社, 2009年12月)

翻訳元記事参考文献[編集]

  • Harold J. Grossman; Harriet Lembeck (English). Grossman's Guide to Wines, Beers, and Spirits (6th edition ed.). New York: Charles Scribner's Sons. pp. pp. 343-344. ISBN 9780684150338.