ウォーレン委員会

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ウォーレン委員会報告書のカバーページ。“大統領。あなたの執行命令11130号による「1963年11月29日のケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会」は、以下をもって最終報告と致します”(委員長及び全委員連署)

ウォーレン委員会(ウォーレンいいんかい、: Warren Commission)は、1963年11月22日にテキサス州ダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件を検証するため、1963年11月29日リンドン・ジョンソン第36代アメリカ合衆国大統領により設置された調査委員会である。なお、委員会の正式名称は「ケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会」で、委員長を務めた連邦最高裁長官のアール・ウォーレン(Earl Warren)に由来する通称である。

設置までの経緯[編集]

1963年11月22日、テキサス州ダラスを遊説で訪れたケネディ大統領夫妻を乗せて、ダラス市内をパレード中に狙撃されて、ケネディ大統領が死亡し、同じ車に乗っていたコナリーテキサス州知事が重傷を負った。これは全米を震撼させて世界中に大きな衝撃を与えた。暗殺後に昇格したジョンソン大統領は、事件発生から3日後の11月25日に当時のFBI長官エドガー・フーバーにケネディ暗殺事件の詳細な報告を求めて、FBIからのオズワルドの単独犯行という結論を得て捜査を終わらせることを考えていた。しかし容疑者であったリー・ハーヴェー・オズワルドがジャック・ルビーによって警察署管内で殺されてしまったことによって、ダラス市警察本部のずさんな捜査と背後関係に大きな疑惑が浮かび、テキサス州の司法長官が州としての暗殺調査を行うことを明らかにした[1]。また上下両院が個々に事件の調査委員会を設置する動きをみせ、もはやFBIからの最終報告だけで調査が終了することは困難で、また単なる暗殺事件で処理できる問題ではないと判断して、大統領直属の特別調査委員会を設置して、当面は特別調査委員会で全ての調査を行うことで、テキサス州や上下両院議会の動きを牽制する狙いもあった。

しかし一番大きな目的は、当時の東西冷戦下で、前年のキューバ危機でソ連との緊張関係が続いていた時代の中で、ソ連へ亡命してまた米国に戻り、親カストロ派の活動を行うオズワルドが犯人と目されるがため、米ソ関係にも波及して外交問題にもなりかねない懸念が生じ、また陰謀説も囁かれるなかで国内の政治状況にも影響が心配されることで、国民の不安や疑惑を払拭することに重きを置き、次の年の大統領選挙の前にも暗殺事件の調査を終えて国内の安定を図ることが緊急の課題となっていた。

そこで、上下両院の与野党議員と前CIA長官、そして民間から1人を入れて、最終的に委員長には最高裁長官のアール・ウォーレンを指名し、彼は当初司法は行政に介入したくないという理由で固辞したが、ソ連の核攻撃の危険性を訴えるジョンソンに説得され委員長就任を受諾した。

委員[編集]

委員会の任務[編集]

11月29日に委員会の設置をジョンソン大統領が決定を下してからわずか6日後の1963年12月5日に、あわただしく最初の委員会が開かれた。冒頭ウォーレン委員長から委員会の任務について、調査の範囲を限定して、FBIや他の機関が収集した暗殺の証拠を単純に再検討し十分であったかを確かめるのが責務と説明があった。そして公聴会も開かず召喚状の権利を行使するつもりはない、と述べると他の委員から猛反発が出て、マックロイ委員がまず「各部局の報告書のたんなる評価」を超えた責務があり、証人の宣誓証言も証拠の強制的提出義務も召喚状の行使も無ければ委員会は無力に見られると反駁し、ボッグス委員とフォード委員が賛成し、ラッセル委員から調査官のスタッフが必要でないとの委員長の発言に異議を唱えた。そして委員会専属の法律顧問としてスタッフを指揮する人材を置くことを求めた。

調査スタッフ[編集]

翌日の12月6日に再び委員会を開き、前日の会議で委員長が出したウォーレン・オルニー[4]の法律顧問への任命案を蹴って、同じドワイト・D・アイゼンハワー政権で司法次官を勤め、当時はニューヨークで弁護士を開業していたJ・リー・ランキンを任命することに決定した[5]。そしてこのランキン法律顧問を中心に16名の法律家が加わり、実際の調査はこのうちの若手6名が中心に行われた。

  • J・リー・ランキン(56歳)・・アイゼンハワー政権時の司法次官。ニューヨークの弁護士。共和党員。
  • ハワード・ウイレンズ(32歳)・・ケネディ政権で司法省司法次官補代理。イエール大卒。ランキンの補佐。司法省と委員会との連絡役。
  • ノーマン・レッドリッチ(38歳)・・ニューヨーク大学教授。首席補佐。
  • メルヴィン・アイゼンバーグ(30歳)・・ニューヨークの弁護士。ハーバード大卒。レッドリッチの補佐
  • フランク・アダムス(59歳)・・元ニューヨーク市警本部長。マンハッタンの弁護士。エリア1担当。
  • アーレン・スペクター(33歳)・・フィラデルフィアの地区検事補。イエール大卒。エリア1担当。
  • ジョゼフ・ボール(61歳)・・カリフォルニアの弁護士(刑事専門)。エリア2担当。
  • ディビッド・ベリン(35歳)・・アイオワ州出身。ミシガン大卒。エリア2担当。
  • アルバート・ジェナー(56歳)・・シカゴの弁護士。エリア3担当。
  • ウェズリー・リーベラー(32歳)・・ニューヨークの弁護士。シカゴ大卒。共和党員。エリア3担当。
  • ウイリアム・コールマン(43歳)・・ケネディ政権の軍備管理軍縮局顧問。ハーバード大卒。アフリカ系。エリア4担当。
  • ディビッド・スローソン(32歳)・・デンバーの弁護士。エリア4担当。
  • レオン・ヒューバート(52歳)・・ニューオーリンズの元地区検事。チューレイン大教授。エリア5担当。
  • バート・グリフィン(31歳)・・クリーヴランドの元連邦検察官。イエール大卒。エリア5担当。
  • サミュエル・スターン(34歳)・・ハーバード大卒。エリア6担当。
  • アルフレッド・ゴールドバーグ(45歳)・・国防総省出身。歴史家。編集担当。

6つの調査分野[編集]

ランキンとウイレンズは委員会が設置されて、すぐにスタッフの確保に追われたが、それと並行して調査に関してウォーレンの承認を受けて以下の6分野(エリア)に分けて、スタッフもそれぞれ2人1組で担当を置くこととなった。

  • エリア1・・・大統領が11月21日午前にワシントンを発って、11月23日早朝にホワイトハウスに遺体で戻るまでの全行程のスケジュール表の再構成。どこで何があったかの全てを確認する。
  • エリア2・・・大統領の暗殺者を確証する証拠を集める。
  • エリア3・・・リー・ハービー・オズワルドの人生を再構成する。
  • エリア4・・・外国(ソ連とキューバ)の陰謀について、その可能性を調べる。通称「陰謀チーム」
  • エリア5・・・ジャック・ルビーの経歴を調べて彼とオズワルドとの間のつながりを調べる。
  • エリア6・・・シークレットサービスの警護とその他の法執行機関の努力を検証する。

調査経過[編集]

延べ552人の証人喚問(ワシントンで委員会に公式に宣誓証言を行ったのは93名)を行い、この中にはジャクリーン・ケネディ、大統領の車に同乗していたコナリー知事夫妻、同じくシークレットサービスのロイ・ケラーマン、ウイリアム・グリア、銃撃直後に車に飛び乗ったクリント・ヒル、オズワルドの母マーガリート、オズワルドの妻マリーナなどが含まれる。 また各行政執行機関の責任者も喚問を受け、その中にはラスク国務長官、ディロン財務長官、マコーンCIA長官、フーバーFBI長官、シークレットサービスのロウリー長官なども受けており、ロウリー長官には、大統領警護のメンバーで前夜遅くに酒を飲んでいたことをウォーレンから厳しく指摘されている。またウォーレンはFBIに対しては事前にオズワルドがダラスにいることをシークレットサービスに伝えなかったことも厳しく指摘している。その一方でテキサス州検事総長が、オズワルドはFBIへの情報提供者としての経歴を持っているというダラス周辺に流布する風説があるとウォーレン委員会に報告したこともあったが、フーバーFBI長官の猛烈な反論にその後の進展はなかった。

検死写真について[編集]

調査スタッフを悩ませたのが、司法解剖時に撮影されたケネディの検死写真が全くスタッフに公開されなかったことである。当日の行動を調査するエリア1担当のスペクターや暗殺を確証する証拠を集めるエリア2担当のベリンは調査期間中に何度もランキンを通じてウォーレンに要請していたが、実現されることなく終わった。写真はベセスダ海軍病院のヒュームズ病理医から大統領主治医のバークリーを通じてケネディ家に送られて、ロバート・ケネディが一切公開を拒んだためであった。ただ一部シークレットサービスの監察官が非公認で持っていて、ゴールドバーグはそれを少し見て、ウォーレンが拒む理由が分かったと後に語っている。暗殺のショックからまだ数ヶ月後で見ればゾッとするだけでしかなかったという。

ザプルーダー・フィルム[編集]

もう一つ調査スタッフを悩ませたのが、ディーリープラザの暗殺現場についての理解であった。エリア2担当のベリンはオズワルドの単独犯行については疑問があった。教科書倉庫6階にもう一人いた可能性は?あるいは他の場所に配置されていたとしたら?[6]そして一番重要な暗殺の瞬間についての記録が少ないことが調査の壁であった。しかしながら、ディリープラザでの暗殺の瞬間はアマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮影して後にザプルーダー・フィルムと呼ばれるようになったサイレントの 8ミリフィルムに 26.6 秒間記録されていた。486 コマのこのフィルムが暗殺の直接の資料であった。

1964年2月にザプルーダーからフィルムの所有権をすでに買い取っていた「ライフ」社からウォーレン委員会はオリジナルのフィルムの提供を受けた。それまでは、FBIがそれのコピーしていたものを受けて調査していたが、オリジナルの方が当然鮮明度が高く、また「ライフ」社はそのフィルムの各コマを35ミリのスライドにしていて、その提供も受けた。またFBIはザプルーダーが使っていた8ミリカメラ[ベル&ハウエルのホームムービーカメラ]が毎秒18.3コマのスピードで動いていたことを確定した[7]

そこから暗殺時の大統領のリムジンの速度は11.2マイル(18キロ)の時速であったと推測し、オズワルドのライフル銃[マンリッヒャー・カルカーノ・ライフル]でどれだけすばやく発射できるかテストした。結果は1発目を撃ってから次の2発目の弾を撃つまでに要する時間は最速で2.3秒を要し、ザプルーダーフィルムでは42コマに相当する間隔であることが分かった。ここからベリン、アイゼンバーグ、スペクターら数名のスタッフで1コマ1コマずつフィルムの分析作業に入った。それは気分が悪くなる作業でもあった。やがて同じ作業をしていたFBIの主席写真分析官リンダル・シャニーフェルトが全486コマに番号を付けて、大統領が頭部に致命傷となった弾を被弾したコマを駒番号313と指定した。そして大統領が1発目の銃弾を受けたのが駒番号210から224の間と確定した。1発目は道路標識に遮られて、被弾した瞬間の大統領の様子は写っていない。大統領の顔が再び写っていたのは駒番号225で明らかに撃たれている様子であったため、それ以前に撃たれたと見られている。そしてコナリー知事が被弾したのは駒番号240であることが分かった[8]

これは事件直後にFBIが三発撃ち込まれて、1発目が大統領へ、2発目が知事へ、3発目が再び大統領へ当たったという報告と矛盾することとなり、当初考えられた単独の狙撃犯ではなく、別に狙撃犯がいたのではとベリンらは考えた[9]。しかし3月26日の証人喚問でベセスダ海軍病院のヒュームズ病理医が一発の銃弾がケネディとコナリーの両者を傷つけることが可能であることを明らかにしてから、別々の狙撃という考え方は多数派にはならなかった。

狙撃の目撃者[編集]

  • ケネディ狙撃の瞬間は白昼大勢の市民が見ている前で起こった事件なので、事件当日もテレビのインタビューを受ける市民はいたが、「銃」を持った人物を見た市民となるとスチームパイプ修理工のハワード・ブレナン(44歳)が目撃している。彼はちょうど教科書倉庫ビルの道路を挟んで真向かいにいて、そこはヒューストン通りとエルム通りの角の壁の上に腰掛けていた。教科書倉庫ビル6階の窓から約35mしか離れていない。彼は銃撃の数分前に窓に立つ男を見ていたが、バーンという最初の音を聞き、次に花火のような音を聞いて後に上を見上げると、男が最後の射撃の狙いを付けて、左の窓の下枠に体をあずけ、銃を右肩にあてて、左手で銃を支えながら最後の一弾を発射したところを見ていた。男は体重がおおよそ72~77キロで明るい色の服を着ていたという。但し彼はその日の午後に行われた容疑者の面通しでオズワルドを指名していない。陰謀で大統領は殺されたと感じ、もし目撃者とされたら自分が安全とは言えないと思ったからである[10]
  • また自動車パレードに後方で走っていた「ダラス・モーニング・ヘラルド」のカメラマンが1発目の銃声を聞いた後に、教科書倉庫ビルの窓から銃が見えたことを述べている[11]
  • 一方、前方から発射されたと証言する人もいた。ユニオン・ターミナル鉄道の管理職スターリング・M・ホランドは、この時に会社の業務で大統領の車の前方のフリーウエイの陸橋で信号の点検を行っていた。彼によれば発砲があって直後に左を見ると木立の下の地面から立ち上がる「ひとすじの煙」を見たという。そしてその辺りに向かって走り、そこで12~15人の警察官と私服警官が空薬莢を探しているのを見たと述べた。

スタッフのスターンはこのホランドの証言をずっと後になってからも気になっていた。しかし誰も深刻に受け止めるスタッフがいなかったという。ベリンは逆にホランドは正直だが間違っているとして、前方にある≪草の生えた塚≫には結局、空薬莢も何も発見されず、また事件当時そこには数人が立っており、犯人がライフル銃をそこで発射できたとは想像できないとしている[12]

委員会証言[編集]

  • ジャクリーン・ケネディ(1964.6.5)大統領夫人(事件当時)[13]
    • (第1発目の時)左側を見ていてあの恐ろしい音が聞こえたのですが、夫は何も言わなかった。右側を見ると彼が訝しげな表情を顔に浮かべて左手が上がっていました。
    • (第2発目の時)その瞬間頭蓋骨の破片が見えて、それが肌色をしててっぺんに小さなギザギザがあったことを覚えています。かすかに頭痛がしているような顔でした。私が憶えているのはそれだけです。それから私の膝に倒れて「彼らが夫を撃った。どうしょう」「ジャック愛しているわ」と叫んでいました。
    • (トランクに這い上がったことについて)全く何も覚えていません。
  • ジョン・コナリー及びネリー・コナリー(1964.4.21)テキサス州知事夫妻[14]
    • (午前中に非公式に初めてザプルーダーフィルムを見て)ネリー夫人:私はジャッキーがトランクに這い上がろうとするところを信じられぬ思いで見ていた。彼女は何をしているのだろう?[15]
    • (午後の宣誓証言で3発目の銃撃について)コナリー知事:銃声がはっきりと聞こえ、それが彼(大統領)に命中する音も聞こえました。突然後部座席に血と人間の組織の破片で覆われた。自分のズボンの上に親指ほどの大きさの脳の組織の塊があった。私は「大変だ。やつらは我々を皆殺しにするつもりだ」と叫んだ。(銃弾の数について)男は3発撃って、発射した3発とも命中している。かなり腕のいい射手だ。[16]
  • J・エドガー・フーバー(1964.5.14)FBI長官[17]
    • (オズワルドのFBI情報提供者説について)彼は何時如何なる場合でも、FBIの秘密情報提供者でも潜入捜査官でもなく、FBIに雇われていたことはない。情報源ですらなかった。しかし暗殺の時点まで彼がFBIの監視下に置いていたのは事実だ。
    • (事前にシークレットサービスにオズワルドがダラスにいることを警告しなかったことについて)暗殺の時点までこの男が危害を及ぼす危険人物であることを示すものは何もなかった。脅威だとは思えなかったので警告する必要はなかった。FBIは何も重大な過ちは犯していない。
    • (陰謀の可能性について)大統領暗殺に関する国外及び国内の陰謀を示す証拠はひとかけらも見つけることができませんでした。
  • ジョン・マコーン(1964.5.14)CIA長官[18]
    • (政府の工作員説について)彼は工作員ではない。
    • (何か陰謀に関わっていたか)証拠は持ち合わせていない。
    • (オズワルドのメキシコ行きについて)9月に彼がメキシコへ旅行に行ったことについてCIAで徹底的に調査したが、メキシコで共犯者がいたことを示すものは何もなかった。
  • ロイ・ケラーマン(1964.3.9)シークレットサービス警護官、大統領の車に同乗。助手席にいた。[19]
    • (なぜ銃撃後に後部座席に移って身を挺して守らなかったのか)助手席で無線交信をしていて自分には何も出来なかった[20]
  • ウイリアム・グリア(1964.3.9)シークレットサービス警護官、大統領の車に同乗。運転手。[21]
    • (銃撃時の運転について)1発目の銃声を聞いた時に、ブレーキを踏んで何が起きたか後ろを振り向きました[22]
  • クリント・ヒル(1964.3.9)シークレットサービス警護官、狙撃直後に後ろの車から大統領の車のトランクに飛び乗った[23]
    • (狙撃直後のジャクリーンの動きについて)座席から跳び上がって車の右後部バンパーから落ちた何かに手を伸ばしているように見えました。吹き飛ばされた夫の頭蓋骨の破片に手を伸ばしていたのだと思う。とっさに思ったのは大統領夫人を座席に押し戻すことでした[24]
  • チャールズ・カリコ[25](1964.3.25)パークランド病院医師。[26]
    • (病院到着時の大統領の状態について)大統領の心臓は動いていました。医療的見地から私は彼がまだ生きていたと考えます。
    • (なぜ遺体の検査を行わなかったのか)言い訳はしません。あの時は誰も検査する気になれなかった[27]
  • ジェームズ・ヒュームズ(1964.3.16)ベセスダ海軍病院病理医。[28]
    • (大統領に当たった1発目の銃弾について)私は大統領の首下部を通り抜けた飛翔体が実はコナリー知事の胸を通り抜けた可能性があると思います。
    • (コナリー知事の担架から見つかった銃弾[証拠物件CF#399]を見せて、この銃弾が両者を傷つけたかどうか)それはきわめてありえないと思います[29]
  • マリーナ・オズワルド(1964.2.3)オズワルドの妻。[30]
    • (オスワルドのソ連観について)彼は故郷を恋しく思っていて、ソ連に来たことを後悔していました。
    • (オズワルドのメキシコ訪問とキューバ行きについて)彼はソ連に失望したが、もっと純粋な共産主義の形態をキューバに見出し、キューバに行きたがっていた。メキシコでソ連に行くためのピザを取得して、途中でキューバに留まるつもりでした。
    • (オズワルドの大統領暗殺について)事前には知らなかった。彼からケネディの何か悪いことを聞いたことはありません。しかし暗殺当日にダラス市警で彼の顔を見た時に夫の有罪を確信した。目をみれば彼が有罪とわかりました。彼一人でやったと確信しています。
    • (オズワルドの大統領暗殺の動機について)歴史に名を残すという考えに心奪われていたからだと思う。良いことであれ、悪いことであれ何か自分を目立たせることをやりたいと思っていたと思う。
  • マーガリート・オズワルド(1964.2.10)オズワルドの母。[31]
    • (オズワルドの犯行について)マリーナとルース・ペイン[32]が息子を嵌めたと信じている。あの二人の女と警護官二人とが陰謀に加担している。
    • (陰謀についてどんな証拠があるのか説明を求められて)無いです。私には証拠がないのです。[33]

ウォーレン委員会報告書[編集]

ウォーレン委員会は、独自調査として延べ552人の証人喚問を行い、やがて1964年9月に全文約296,000語、全888ページに全26巻(20000ページ以上)、委員会文書1553の膨大な関連資料が付いた報告書がまとめられた[34]。そして 1964年9月24日に調査の結果を報告書(Warren Commission report)としてジョンソン大統領へ提出され、その3日後に一般公開された。

報告書の最終的な結論として、ケネディ大統領暗殺事件はリー・ハーヴェイ・オズワルドによる単独犯行と断定した。しかし一般には理解し難い点が多数存在しているために、ウォーレン委員会報告書で真実は語られていないとする議論が世界中で根強く残っており、「真犯人は別にいる」とする様々な陰謀説が後を絶たない。

報告の骨子[編集]

委員会報告書の骨子は、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。そしてケネディ大統領暗殺犯はオズワルドただ一人である、そのオズワルドはダラス市警チピット巡査をも殺害した、そしてジャック・ルビーに殺害された、この暗殺事件に絡む陰謀は国内外を問わず一切なかった、大統領を撃った全ての銃弾はテキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射され、大統領に向かって発射された銃弾は合計3発で、1発は大統領の背中から胸へ抜け、前方に座っていたコナリー知事の胸、手首、左の太ももを傷つけた。もう1発は大統領の頭部に命中してこれが致命傷となった。残り1発は命中しなかったとした[35]

オズワルドの単独犯行[編集]

オズワルドの単独犯行説は、委員会内部でもラッセル議員から単独犯行についての疑義が出されている。彼は「大統領暗殺の共謀者や共謀集団と結びつける明白で決定的な証拠は一切存在しないとする答申には完全な確信を持って判断できないいくつかの側面がある」「共謀者がいたとする微かな可能性すら存在しない」[36]と示唆するのは間違いだと主張した。ラッセル議員は銃撃犯はオズワルドであったことには同意するが、背後に陰謀の可能性まで排除することには反対であった。そこでフォード議員からの案で「陰謀は存在しなかった」ではなく「陰謀の証拠は発見できなかった」に書き換えられた。これで、ウォーレンは「全員一致の報告書」になったと安堵したが、スタッフはいつか明らかになる可能性を未解決のままにしたと感じた。[37]

ウォーレン委員会はケネディ暗殺をオズワルドの単独犯行と結論を下したが、13年後の1976年に下院で暗殺調査委員会が設置され、この下院暗殺調査委員会は2年後に調査結果を発表して、オズワルドには少なくとも一人の協力者がいたとする結論を下した。

三発の発射と「一発の銃弾」[編集]

委員会は暗殺時に三つの銃弾が発射され、二発の銃弾がケネディ大統領とコナリー知事を命中した。その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫ビルから発射した物として結論を下した。委員会の判断は最初の1発目でケネディ大統領の上背部に命中した銃弾は、首の正面近くを貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。一発は車列から外れたと考えられ、最後の銃弾は大統領の頭部に命中しこれが致命傷となった。当初FBIが三発の銃弾がそれぞれケネディ~コナリー~ケネディに当たったという報告であり、コナリー知事も証言で同じ見解を述べていた。しかしザプルーダーフィルムの解析から、1発目と2発目の間隔が短くて、他の狙撃犯の存在も考えられたが、委員会はテキサス教科書倉庫ビルの6階で3つの薬莢が発見されたこととライフル銃が近くに隠されていたことで、ケネディとコナリーは別々の銃弾で傷つけられたのではなく、一発の同じ銃弾で両者とも傷ついたとするのが妥当だと判断した。これはスタッフのスペクターが主張してウォーレンも同意した見解であった。

しかし、ラッセル議員はこの説にも異論があった。コナリー知事が証言で三発がそれぞれに当たったという説明をしている以上、一発の銃弾で二人が傷ついたとする報告を鵜呑みには出来ないとして、他にもクーパー議員とボッグズ議員も同じ意見であった。ウォーレンは一発の銃弾説を強く信じていたので引き下がらず、しかし妥協で報告の文面を変えて「・・・いくらかの意見の相違を生じさせている。・・・しかし委員会のメンバーは・・・教科書倉庫の6階の窓から発射されたことに疑いを抱いていない」に変更された。これは委員会のスタッフからは全く筋が通らないという思いであった[38]

最後の幹部会[編集]

ジョンソン大統領に提出する6日前の9月18日にウォーレン委員会の最後の幹部会が開かれた。ここで委員が大統領に提出する報告書の承認をする最後の手続きであったが、ラッセル上院議員の異論で時間がかかった。実際の報告の内容はスタッフが作成したもので、委員長はスタッフと連携して内容の方向性はウォーレンの考え方に沿ったものと言えるが、委員からすれば単独犯行説とオズワルドただ一人が撃ったとする「一発の銃弾説」に対して、陰謀説と複数狙撃犯説への言質がないままについての不満は他の委員にもあった。最後に巻き返しがあって、報告に曖昧さが残ったことをスタッフの面々は苦々しく思っていた。ウォーレンは最後に「全員一致の報告書」にこだわったとも言えるし、また最高裁判事ではあるが彼もまた政治家である一面を見せていた。それは彼が陰謀説には全く関心を寄せていないことにも表れている。

公表後の反応について[編集]

  • ニューヨーク・タイムズ紙   ジェームズ・レシトン記者
    • 「誰が大統領を殺したか、その最も重要な謎は新たな謎のカタログを提起する過程でしか委員会に答えられていない。オズワルドの動機は推測されているだけで委員のメンバーは明らかにサジを投げた。」
  • タイム誌
    • 「細部の点で驚くほど賢明な慎重さと抑制の点で注目に値し、主要な結論の点では実に説得力があった。」
  • ラッセル上院議員
    • 「われわれが提出できた、まさに最高のもの」と地元紙には語ったが、公表直前にジョンソン大統領との電話でのやり取りで、一発の銃弾説と陰謀の可能性についての結論に納得できないとして不満を述べている。また最終報告書に委員全員の署名がされるところでラッセル上院議員のサインはない。
  • フーバーFBI長官
    • フーバーは、FBIの名を汚されたと考えていた。報告書にはシークレットサービスに次いでFBIへの批判があり、彼の不満は収まらなかった。委員会の証言で事件前のFBI捜査は間違っていないと語っていたが、報告書が公表後、密かにFBI内部で17名を降格などの処分を行い、「オズワルド捜査のもっとも突出した側面の一部を成し遂げることに失敗したことには疑いない」と語っている。これについて部下から懲戒処分を行うことは委員会の指摘を半ば認めたことになるとの反対意見もあったが長官は押し切った。[39]
  • ロバート・ケネディ
    • 「ウォーレン委員会が兄の殺害に関する真実を確証したと信じる」とのコメントを発表したが、「自分は報告書を読んでいないし、読むつもりもない」と付記している[40]。50年後に息子のロバート・ケネディ・ジュニアは「父はウォーレン報告書を全く受け入れていなかった」とテレビで語っている。

衣類について[編集]

暗殺時に着ていた衣類について、調査終了後にジャクリーン・ケネディより返還の要請が来て、委員会で討議の上、後日の調査で再提供することを条件に引き渡すことで各委員から承認された。しかし結局ウォーレンはジャクリーンに引き渡すことはしなかった。彼女がそれを破棄するのではと考えたからである[41]。 また同乗していたコナリー知事の場合は、ズタズタになった衣服をネリー夫人がクリーニングに出してプレスされていた。血を見るのが耐えられなかったと夫人は語っているが、委員会スタッフはそれを聞いて驚愕し、「証拠としての価値を台無しにされた」と怒っていた[42]

オズワルドの場合は、妻マリーナが衣類のほかライフル銃や拳銃など夫の所有物全ての返還を要求してきた。要求は却下されたが理由は彼女が売ろうとしていたことによる。一方母マーガリートはオズワルドの手紙16通を雑誌に4000ドルで売っていた[43]

エピソード[編集]

  • 最初に大統領直属で党派を超えた委員会を設けて調査すべきと提言したのは、イエール大学ロースクールの学部長であったユージン・ロストウで、ジョンソンの側近ビル・モイヤーズに電話をかけて進言した。最初ジョンソンは乗り気ではなかったが、やがて国内で陰謀説が「手に負えない」ほど広まると予想して考えを変えた。但し委員長に最高裁長官を充てる考え方はロストウには無かった[44]
  • ジョンソンは渋るウォーレンを委員長にするために説得する時に「暗殺事件の調査が処置を誤って外国政府が間違って非難されたら、その結果が核戦争ということもあり得る」「もしフルシチョフが最初に核攻撃したら1時間で3900万人の米国民が死ぬ。これはあなたが第1次大戦で兵士として戦った以上に重要なことです」と泣き落としに近い言葉で迫っている[45]。東西冷戦のさなか米ソ対立の厳しい時代で、しかも犯人がソ連帰りの人間で、すでにこの時にソ連やキューバの陰謀が囁かれるなかで(ジョンソンも陰謀の黒幕とする説も出ていた)、国内を安定させるためにどうしても三権の長を委員長に起用する決意であった。しかし別の見方をすれば、すでにこの時に陰謀はなくオズワルドの単独犯行であることで報告書を作る方向が出ていたと考えられる。
  • FBIのフーバー長官は、この委員会設置に反対していた。FBIからのオズワルドの単独の犯行である旨の報告書は12月9日に提出され、しかもその1週間前には記者にリークされて、これが委員会のメンバーの怒りをかった。しかも内容が不十分なもので結果的に委員会の調査スタッフで独自に調査を行うこととなった。
  • スタッフの人選にあたっては、ハワード・ウイレンズが大きな役割を果たし、彼がイエール大学出身であったので、全米の名門法律事務所や大学ロースクール、検事局から募集されたが、結果的にイエール大学とハーバード大学の出身者が多くを占めることとなった[46]
  • スタッフは、各エリアに担当を分けて、年配と若手で1組となるようにされた。そして年配者を上級顧問(パートナー)、若手を下級顧問(パートナー)としたが、必ずしも上下関係ではなく、若手が奮闘する場面が多かった。これは年配者はそれぞれの元の職場で管理職であったりして片手間での請負が多く、若手は身一つでワシントンに来て、しかも当時世界中から注目される大事件の捜査に加わったことで使命感に燃えて参加した者が多かったことによる。
  • エリア6のサミュエル・スターンは最初から1人で担当することになった。その一方でエリア1の元ニューヨーク市警本部長フランク・アダムスは途中で投げ出すようにして辞め、エリア5のニューオーリンズの元地区検事レオン・ヒューバートも担当するジャック・ルビーについて他のスタッフが余りにも関心を示さないことで無視されたとして腹を立てて途中で辞めている。
  • 証人喚問では委員の中でラッセル議員の出席率が悪く、上院軍事委員長としての議会運営に忙殺されることが多かった。フォード議員は比較的出席率は良かった。委員長のウォーレンは殆どの喚問に出席している。スタッフの勤務日数が一番多かったのは事務方チーフのランキンで308日。10ヶ月間殆ど休みなしであった。一番少なかったのは途中で辞めたアダムスで16日であった。

文書の公開[編集]

1964年11月23日、公文書(National Archives)として保管され、当初一般公開されなかった部分については、政府により「この事件と関連する無実の人々が被害を受けないよう保護するため[47] 」として、2039年までの75年間封印されることとなった。この75年ルールは、その後情報公開法(Freedom of Information Act)によって改められ、1992年、ウォーレン委員会による記録の98%は一般公開された[48] 。残る部分については従来通り、2039年の解除が予定されている。

脚注[編集]

  1. ^ この時点で、大統領暗殺事件は法制度上は連邦犯罪とは見なされず、連邦の司法権で大統領暗殺の訴追が出来ないことを暗殺当日に連邦司法省は確認していた。テキサス州の動きはこのことを前提での動きであった。
  2. ^ 2006年2月にジェラルド・フォードが死去したことで、メンバーの生存者はなくなった。
  3. ^ 本人は固辞したが事後承諾の形となった。これは彼がジョンソン大統領の恩師と自他共に認める間柄であったことによる。しかし保守派で人種差別については容認する立場で公民権法に真っ向から反対して、後にジョンソンと袂を分かった。
  4. ^ アイゼンハワー政権時の司法次官補。アール・ウォーレンとは親しい関係にある。
  5. ^ これには、FBIのフーバー長官がオルニーを嫌って、阻止に動いたと見られている。
  6. ^ 「ケネデイ暗殺~ウオーレン委員会50年目の証言~」 上巻 341P 。
  7. ^ 「ケネデイ暗殺~ウオーレン委員会50年目の証言~」 上巻 342P 。
  8. ^ 「ケネデイ暗殺~ウオーレン委員会50年目の証言~」フィリップ・シノン著 上巻 342~343P 。
  9. ^ 「ケネデイ暗殺~ウオーレン委員会50年目の証言~」 上巻 343P 。
  10. ^ 「ケネデイ暗殺~ウオーレン委員会50年目の証言~」フィリップ・シノン著 上巻 335~336P 。
  11. ^ 「ケネデイ暗殺~ウオーレン委員会50年目の証言~」フィリップ・シノン著 上巻 335P 。
  12. ^ 「ケネデイ暗殺~ウオーレン委員会50年目の証言~」フィリップ・シノン著 上巻 337~338P 。
  13. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻107~109P
  14. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻 366~371P
  15. ^ これより39年後の2003年11月にテレビ朝日『ニュースステーション』で事件から40年が経って特集コーナーを放送した中で、コナリー夫人は振り返って「ケネディ夫人を傷つけるつもりはありません」と前置きして「あの時、パークランド病院に到着した時に乗っていた車を見たが、車のトランクには大統領の骨も肉片も血も無く、何もありませんでした。」とインタビューに答えている。
  16. ^ この後、自分の傷の説明を求められて、見た方が早いとして、上半身裸になって傷口を説明した。
  17. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻204~206P 下巻86~87P
  18. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻87P
  19. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻346~347P
  20. ^ この時に訊問したアーレン・スペクターは、後にこの仕事には間違った男で、巨漢で反射能力は素早くなかったと酷評している。
  21. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻347P
  22. ^ これは結果としてスピードダウンして狙撃がやりやすい形になったことで彼自身も苦悩していた。そして後にジャクリーンがこのことを聞いて激怒した。
  23. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻349~350P
  24. ^ アーレン・スペクターは、もっとも微妙な問題について納得がいく説明であったと述懐している。ただヒル自身もその「何か」を実際にみた訳でなく、「右後部バンパーから落ちた何か」「頭蓋骨の破片・・と思う」という表現で、トランクの上にあったということではなかった。
  25. ^ キャリコとも呼ばれる。
  26. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻360~361P
  27. ^ アーレン・スペクターは後に医師たちが大統領の遺体を検査しようとしても大統領夫人が傍にいて離れないのでは致し方ないと述べている。
  28. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻353~354P
  29. ^ ベセスダ海軍病院で大統領の司法解剖を行ったヒュームズから、後に「一発の銃弾説」と呼ばれるヒントを得たのがこの訊問であった。しかし奇妙なことにヒュームズは実際の弾を見て余りにも無傷であったので、この弾ではありえないと述べて矛盾している。しかしアーレン・スペクターはこの後に「一発の銃弾説」を強調して、ケネディとコナリーの両者に当たったと主張し、そしてヒュームズも後に肯定することとなった。
  30. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻234~238P
  31. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻243~244P
  32. ^ マリーナがアメリカにやって来てから、ずっと面倒をみている人で、オズワルドと別居してからはマリーナが身を寄せていた。
  33. ^ 彼女は義理の娘が暗殺に加担して暗殺後に彼女を警護しているシークレットサービスの警護官も加担しているとまくし立てた。後にフォード下院議員は「我々の仕事は辛抱強く腰掛けて耳を傾けることだった」と述べて彼女の話は支離滅裂で全くイカれていると結論づけている。
  34. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」56~57P
  35. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」仲晃 著 58~59P
  36. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻 256P
  37. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻 256P
  38. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻255~256P 
  39. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻270~271P 
  40. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻267P 
  41. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻264P 
  42. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻364P 
  43. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」下巻265P 
  44. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻 71~73P
  45. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻 87~89P
  46. ^ 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」上巻 129P
  47. ^ National Archives Deputy Archivist Dr. Robert Bahmer, interview in New York Herald Tribune, December 18, 1964, p.24
    intended to serve as protection for innocent persons who could otherwise be damaged because of their relationship with participants in the case.
  48. ^ Final Report of the Assassination Records Review Board (1998), p.2.(英語)

参考[編集]

  • 「ウォーレン委員会」(ヒストリーチャンネル 2010年)
  • 「ケネディ暗殺~ウォーレン委員会50年目の証言~」フィリップ・シノン著 村上和久訳 文藝春秋 2013年11月発行

関連項目[編集]

外部リンク[編集]