O・J・シンプソン事件
O・J・シンプソン事件(―じけん)はO・J・シンプソンが殺人事件で逮捕されて裁判になった、アメリカで起きた事件。
被疑者・被告人となったシンプソンが元プロフットボール選手および俳優として有名であっただけに、裁判の行方を巡って全米のみならず世界中の注目を集めた。刑事裁判では殺人を否定する無罪判決となり民事裁判では殺人を認定する判決が下った。
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事件概要 [編集]
発生 [編集]
1994年6月13日午前0:10頃、シンプソンの元妻(ニコール・ブラウン)とその友人(ロナルド・ゴールドマン)の血だらけの死体がカリフォルニア州ロサンゼルス、ブレントウッドにあるニコールの自宅玄関前で発見されたことから始まった。ゴールドマンは180cmと長身であり格闘技の達人であったため、体格や腕力の勝る男性による犯行が濃厚と考えられた。
事件発生後、イリノイ州シカゴにいたシンプソンは、警察からの連絡でブレントウッドに一番早い便で帰った。飛行機から降りたシンプソンはいきなり手錠をはめられたが、顧問弁護士であるハワード・ワイズマンによりすぐに解かれた。
追跡劇 [編集]
その後もシンプソンは冷静に対処し、一度釈放された。その後、6月16日に第1級殺人罪で逮捕令状が下りた時、シンプソンは友人のアル・カウリングズの運転するフォード・ブロンコの助手席に乗り、ロサンゼルスのフリーウェイをパトカーの追跡を振り切ろうとしたため、事態はカーチェイス模様を展開した。逃亡したが、シンプソンは2時間後に逮捕された。
なお、この逃亡劇は全米のテレビで生中継されたために、ロサンゼルスでは逃亡するシンプソンの車を追いかけるものが多数出現した。また、全米中がテレビに釘付けとなり、食事の手間を省くためにピザの注文が急増した。ちょうど行われていたバスケットボールリーグ、NBAファイナル・ニューヨーク・ニックス対ヒューストン・ロケッツの第5戦は忘れられて(NBCが放送を予定していた)、テレビを見ているものの中からは「GO!OJ!」(OJ逃げろ!)という声も起きた[1][2]。
シンプソンがブレントウッドの自宅に到着した直後、その後裁判でシンプソンの主任弁護人となるロバート・シャピーロもシンプソンの自宅に到着し、シャピーロ立会いのもとで逮捕されることとなった。なお、この際にシンプソンとカウリングズは武器を所持していたことが確認されている。
顔写真 [編集]
シンプソンが逮捕された後、多数の出版物は彼の写真を掲載した。タイム誌は彼の皮膚を暗くし、囚人ID番号のサイズを縮小した顔写真を表紙に用いた。一方ニューズウィーク誌はオリジナルの写真を表紙に用い、対照的な二誌が書店のスタンドに並ぶこととなった。タイム誌には市民グループからの抗議が続いた。後に写真を加工したタイム誌のイラストレーター、マット・マフリンは「より巧妙に、より注意を引きたかった」と語った。
刑事裁判 [編集]
「ドリームチーム」 [編集]
シンプソンは全面無罪と主張し、陪審裁判で決着をつけることとなる。シンプソンの裁判ではロバート・シャピーロやジョニー・コクランなど、全米で有名な検察・弁護士が出揃い、「世紀の裁判」と呼ばれた。しかし、誰の目から見ても弁護団と検察では、弁護団のほうが質量ともに検察を凌いでいることは明らかであった。なぜなら、弁護団は「ドリームチーム」と呼ばれるほど、経験豊富で有名な弁護士達であったからである。
そのためか、この事件を題材にした書籍グレイゾーンでは「単独」の検察、「全米選抜」の弁護団(単独チームとオールスターチームの対決)と称された。なお、シンプソンの弁護費用は当時の日本円にして5億円といわれており[3]、その規模の大きさが伺える。
大陪審 [編集]
検察は検察側に有利な大陪審で起訴の決定を行おうとしていたが、その直前ロス市警は、OJに脅えるニコールが警察に助けを求めた911番の録音テープを公開。弁護士側は「警察が漏らした911番のテープや他の情報は大陪審の裁定に著しく偏った予断を与えた」として大陪審の解散を要求した。判事はこの動議を受け入れて大陪審を解散し、予備審問へ起訴の審理が持ち込まれることになった。
陪審員 [編集]
被害者が白人で、加害容疑者が黒人(アフリカ系アメリカ人)であったため、この裁判では人種問題が大きく取り上げられた。「人種偏見によって裁判が行われてはならない」として、判事は黒人でも白人でもない日系アメリカ人のランス・イトウが選出された。なお人種問題は検察の求刑にも影響した。死刑を求刑すれば「黒人だからだろう」と黒人住民に非難され、有期懲役を求刑すれば「スーパースターだからか」と白人から非難されたからである。そのこともあって結果的に検察側は仮釈放無しの終身刑を求刑した。
弁護団は陪審員を黒人が多い地区から選出することを要求し、採用された。また白人が選出されても検察・弁護側に認められている専断的拒否権(理由を述べることなしに、選出された陪審員を除外することが一定回数以下は可能な権利)を弁護団が最大限に行使した結果、陪審員12人のうち9人を黒人にすることに成功した。この様に、弁護団は「殺人事件」ではなく、「人種問題」という観点を裁判に持ち込んだ。
報道 [編集]
なおこの裁判の過程は全米のメディアで逐一報道され、全米ネットワークのテレビ局やゴシップ誌は専門のチームを結成し裁判の報道にあたった。真実の解明よりもスキャンダル性を重視したこれらマスコミの報道によって陪審員の判断が左右されるのを防ぐため、陪審員は裁判所によって一時期ホテルに隔離され、新聞を読むことやテレビを見ることも禁止された。
ケイトー・ケイリン [編集]
なお、裁判の過程で検察側の証人として登場した、シンプソンの家で犬の散歩などさせていた「居候」で、俳優のケイトー・ケイリンが、シンプソンのアリバイを崩す重要証言をして一躍有名になり、様々なメディアに(有料で)出演し、ファンクラブが結成されるなど「この裁判で一番得をした男」と呼ばれた。
裁判 [編集]
検察は下記の点からシンプソンがニコールを殺害した犯人だと主張した。
- 離婚後もニコールに執拗につきまとって脅迫していた(離婚前も頻繁に家庭内暴力を振るっていた)。
- 2人の血の付いた黒い皮手袋が発見された(左手は殺害現場でマーク・ファーマン刑事により発見され、右手がシンプソンの自宅で発見された)。
- 殺害現場の血の足跡がシンプソンの足のサイズの一致。
- シンプソンが40日前に凶器とされるナイフを購入していた。
- シンプソンの手にはナイフで切ったと思われる怪我がある。
- シンプソンのブロンコ(自家用車)にシンプソンの血液とニコールの血液が付着している。
- 現場の血痕等のDNA鑑定がシンプソンに一致していた。
一方、弁護側は検察側の反証として以下の点をあげて反論した。
- シンプソンには新しいガールフレンドが既にいた。
- 殺害推定時刻を午後10時45~50分として、50分過ぎに自宅に戻っているというアリバイがある。
- 検察が凶器と判断したナイフが発見されていない。
- シンプソンの手の怪我はホテルでコップを割って切ったものである(事実ホテルのバスルームで割れたコップが発見されシンプソンの血液が付着していた)。
- 革手袋を発見したとされるマーク・ファーマン刑事が人種差別主義者である。
- かつてファーマンを取材したローラ・マッキニーが取材時の録音テープを証拠として公開し、テープの内容は黒人を侮蔑する「ニガー」という言葉を連発、イトウ判事の配偶者をからかうといったものであった(これらのことは法廷では公開されず、公開されたのは「ニガー」という言葉を使用した言葉を少し公開しただけであった)。
- 発見されたとされる手袋は法廷でシンプソンが試着したときは小さすぎて入らなかった(後に同じサイズの新品の手袋を試着した際は収まったという)。
- シンプソンの血液を採取したあとの管理がずさんであり、正しくDNA鑑定が行われていない可能性がある(下記参照)。
- 血液採取後、担当警察官のフィリップ・バナッターが、血液の入った小瓶をなぜか鑑識担当者のデニス・ファンのいる事件現場まで一度持って行き、その後何時間も持ち歩いたあげく鑑識担当者には渡さなかった。
- 採取した血液は熱を通しやすい黒のビニール袋に入れられて保管されていた。
- DNA鑑定でEDTA(血液凝固剤)が検出された。
- シンプソンから8ccの血液を採取したはずが鑑識の際には6ccに減っていた。
- 採取した血液が減っていたことについて、人種差別主義者であるマーク・ファーマン刑事が黒人であるシンプソンを陥れるために血液をばらまいて証拠をでっち上げた可能性がある。
検察は「凶悪事件を裁くのが好き」と言われる検察官クラークを筆頭に、被害者の血液がついた証拠品が多数発見されたことや加害者の傷や過去の振る舞いから犯行を立証しようとした。一方、警察に対し根強い不信感を持つ黒人弁護士のコクランを主とした弁護団は、検察側のあげた証拠品の信憑性や人種問題について反証した。
裁判は弁護団のペースで進められ、犯行に使用したと思われる手袋がシンプソンの手に合わなかったことが陪審員に合理的疑問を抱かさせてしまったことや、手袋を発見したとされるマーク・ファーマン刑事が人種差別主義者であったことも重なって、最終的に、1995年に陪審員は全員一致で「無罪」と結論し、そのまま判決となった。アメリカでは無罪における検察の上訴は憲法修正第5条により認められていないので、シンプソンの無罪が確定した。
DNA解析の専門家として召還されたキャリー・マリス博士は、上記にある血痕が見つかる前にシンプソンの採血を行った科学的手順に則っていない捜査や、自身の著書「Dancing Naked in the Mind Field」の中でLA市警科学捜査班について「車のナンバーの2桁を見ただけで犯行車両と断定するに等しい」と(当時の)DNA解析技術の低さを指摘している。
一方で、警察が証拠を捏造した可能性を除いても、「シンプソンが有罪である」とする証拠は他にも揃っていたと考え、証拠の管理体制など検察を批判する者は多い。
主なメンバー [編集]
太字になっている人物はリーダーである。
検察側 [編集]
- ギル・ガーゼッチ(地方検事長)
- ウィリアム・ホッジマン(検事主将)
- マーシャ・クラーク(検察のエース)
- クリストファー・ダーデン(アフリカ系アメリカ人(黒人))
- ブライアン・ケルバーグ(検事)
- リサ・カーン(検事調査員)
弁護団 [編集]
- ヘンリー・リー(中国系法医学者『ケネディ大統領暗殺事件担当』、『ジョンベネ殺害事件担当』)
- ロバート・シャピーロ(全米一の弁護士と有名、『アメリカ俳優の事件を多く担当』)
- ジョニー・コクラン(人種裁判で全米一と折り紙つき『マイケル・ジャクソン裁判担当』)
- バリー・シェック(DNA鑑定研究者)
- ピーター・ニューフィールド(前者と同)
- ジェラルド・ウールメン(サンタクララ大学法学部長)
- フランシス・リー・ベイリー(F・リー・バイリーとも表記。『無罪請負人』の異名を持つ辣腕、『ボストンの絞殺魔裁判』、『サム・シェパード事件』、『パトリシア・ハースト事件』担当経験)
- アラン・ダーショヴィッツ(ハーバード大学憲法学者『マイク・タイソン強姦事件担当』)
- マイケル・バーデン(元ニューヨーク市警検視官、『キング牧師の遺体解剖担当』)
- ロバート・カーダシアン(被告の友人、『被告と弁護団の連絡係』)
リーダーが2人となっているのはリーダーを争って最後に喧嘩別れとなったためだといわれている。
民事裁判 [編集]
刑事裁判で無罪を勝ち取ったシンプソンは二度と起訴されることなく(憲法修正第5条により)裁判に立つ必要はなくなった。しかし、シンプソンにはもうひとつの裁判が待ち受けていた。フレッド・ゴールドマン(ロナルドの父親)による民事裁判であった。裁判長には日系人のヒロシ・フジサキが選ばれた。憲法修正第7条によって、民事裁判による補償賠償と懲罰賠償を加害者にするように求めたのである。刑事裁判と民事裁判での違いは以下の4点であり、シンプソンに不利な要素も多かった。
- 刑事裁判は合理的に疑問があることを弁護側が示せば無罪であり、合理的疑問を超えなければ検察側は有罪に持ち込めないのだが、民事裁判では証拠の優越性が問われ、51%の優の証拠を示すことが勝敗の鍵となる。
- 刑事裁判では陪審員の全員一致が原則で、1人でも反対意見があれば全員の意見が一致するまで、話し合いがもたれる。このため、少数意見が最終的に採用される可能性がある。これに対し、民事裁判では全員一致は必要とされずに、70%(つまり12人中9人以上)の陪審員の意見が一致すれば決定が下される。
- 刑事裁判の行われたロサンゼルス市では陪審員が黒人が多く選ばれたが、今回シンプソンに行われた民事裁判のサンタモニカ市では資産家が密集する地域で陪審員には白人が選ばれる可能性が高く、実際に白人が多く選ばれた。
- 刑事裁判では憲法修正第5条に規定された自己負罪拒否特権によりシンプソンが証言台に立たずに証言することは拒めたものの、民事裁判では憲法の適用がされていないため、拒む理由がなくなった。拒んでしまうと陪審員の印象が悪化する傾向があるため証言台に立ったものの、「事件前にナイフを購入した理由」「シンプソンの刑事弁護士がアリバイ崩しの目撃をしていながら裁判の証言を拒否した女性に多額の金を支払った理由(口止め料で証人を封じた疑惑)」などの原告弁護士から質問に対し、シンプソンは「覚えていない」「知らない」など曖昧な証言に終始して事件への関与を強く否定する反論ができずに陪審員の心証を悪くした。
これらのほかに、刑事裁判にて金銭的に苦しくなったシンプソンがジョニー・コクランを雇う金がなく、代わりにコクランの友人を使ったのに対して、原告側の弁護士がチームワークで最強を誇っていた事やファーマンの人種差別発言を武器にしない事など、不利な要素は多くあった。
このような中で1997年に父親側の請求が認められ(認められた補償はゴールドマンのみ)父親に722万5千ドル、母親に127万5千ドルの補償をするように命ぜられた。しかし、シンプソンの主な収入であるNFL選手年金は「賠償金支払のために取り上げることが法律で許されない性質を持つ」ため法的に保護されている[4]。
その後 [編集]
- 告白本出版騒動
- 2006年にシンプソンによるFOXテレビでのインタビュー[5]、告白本「If I Did It(もし私がやっていたとしたら)」の出版が予定されていたがゴールドマンの遺族の反対に遭いいったん出版中止に追い込まれた。その後民事訴訟の賠償金の支払いをシンプソンが拒否したため裁判所によりゴールドマンの遺族に出版権が移った[6]。
映画化 [編集]
1994年この事件は映画化された[7]。
参考文献 [編集]
- 宮本倫好『世紀の評決』(丸善ライブラリー)
脚注 [編集]
- ^ Vincent Bugliosi (1996年). “Five Reasons Why O.J. Simpson Got Away With Murder”. 2013年5月11日閲覧。
- ^ O.J., 10 years later ESPN
- ^ 報知新聞2007年9月18日
- ^ “もし私がやったとしたら”. 週刊NY生活デジタルニュース (2006年11月25日). 2010年9月11日閲覧。
- ^ “O・J・シンプソンがTV番組で10年前の殺害事件について「告白」か”. AFP (2006年11月15日). 2010年9月11日閲覧。
- ^ “O・J・シンプソンの「告白」本、紆余曲折を経てついに出版か?”. AFP (2007年8月14日). 2010年9月11日閲覧。
- ^ O・J・シンプソン事件