恩赦

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恩赦(おんしゃ)とは、行政権(又は議会)により国家の刑罰権の全部又は一部を消滅若しくは軽減させる制度のことをいう。古くは君主の権限であったこともあり、その権限が行政機関に帰属する例が多いが、議会に一般的な恩赦の権能を与え、行政機関に個別的な恩赦の権能を与える例(フランスなど)なども存在する。

目次

[編集] 存在理由

恩赦は、古くは君主の権限であったこともあり、国家的な慶弔の機会に君主の仁慈による特典として行われたり、国民が揃って慶弔を行うという建前に基づき行われることが多く、現在でも一般的な恩赦は同様の機会に行われることが多い。しかし、恩赦は、司法権行使の効果を行政権により変動させる効果を持ち、三権分立の例外をなすのみならず、後述のように政治的な意味合いを持つことがある。そのため慎重な運用が求められ、以下のような場合に恩赦を行うのが望ましいとされている。

[編集] 誤判の救済のための恩赦

いわゆる冤罪事案であっても、一度有罪判決が確定した後の再審は、法的安定性の見地から上訴と比較して厳格な要件が求められる。しかし、その厳格性ゆえに法律で定められた再審手続では救済できない事案も存在する。そのような場合に恩赦による救済が考えられる。

[編集] 社会の変化や事情変更に基づく恩赦

有罪判決が出た当時の社会状況では妥当性が認められるとしても、受刑中の社会の変化により刑の妥当性が失われる場合がありうる。例えば、かつての日本の刑法典には尊属殺に関する規定があり、法定刑が死刑と無期懲役に限定されていた(ただし酌量減軽は可能)ところ、最高裁判所により違憲であるという判断がされた(尊属殺法定刑違憲事件)。しかし、当該違憲判決より前から尊属殺で受刑していた者については司法的な救済はできないことから、個別恩赦としての減刑措置がとられた。

[編集] 受刑者の事後の行状に基づく恩赦

刑事政策的な考慮に基づく恩赦であり、犯罪者の社会復帰を目的とするものである。このような理由の場合は仮出獄でも対応可能とも言えるが、恩赦による場合は、仮出獄後の残刑期間の経過を待たずに服役が終了するメリットがある。

[編集] 恩赦の政治的な意味合い

恩赦は主として行政機関が行うため、恩赦が政治的な効果を生む場合がある。実際、日本が国際連合に加盟したことに伴い大赦が行われた際は、大赦の対象に公職選挙法違反や政治資金規正法違反が含まれていたため、恩赦を政治的に利用したものであり恩赦権の乱用であるとして批判された。

また、刑事訴訟無罪を求めて被告人が争っている場合であっても、該当する犯罪が大赦の対象になった場合は、有罪か無罪かは判断されず免訴判決により訴訟は終了する。しかし、問題となる犯罪が政治的な意味合いを持っている場合は、大赦がそもそも旧来思想の現れであるとして、被告人自身が大赦を拒否して無罪判決を求める例もある。

[編集] 日本における恩赦

[編集] 権限等

大日本帝国憲法下においては恩赦は天皇の大権事項とされ(大日本帝国憲法16条)、その具体的な内容・手続については勅令(恩赦令)で定められていた。

これに対し、日本国憲法下では、恩赦の決定は内閣が行い、恩赦の認証は天皇国事行為として行われる(日本国憲法73条7号、7条6号)。また、司法権行使の効果を変動させる性質のものであり、国家の刑罰権にかかわる事項(この点から恩赦の性格を司法と考え、司法権の帰属の例外とする考え方もある)であることに鑑み、具体的な内容については国会が制定する法律により定める必要があると解されるため、恩赦法が制定されている。

[編集] 歴史上における恩赦

[編集] 律令法の恩赦

古代の日本では、犯罪と刑罰が神に対するツミ(罪→穢れ)とハラエ(祓→清め)として考えられ、神ではない人間がこれを一方的に軽減することは考えられなかった。

恩赦の思想は大化改新前後にから伝来したとされ、律令には明記されなかったものの、時の天皇の専権事項として存在した。

当時の恩赦にはいくつかの種類が存在した。一般的な恩赦を(しゃ、大赦・恩赦とも)と言い、広く天下一般に布告して対象者の罪を全免した。ただし、常赦不免の罪(※)は除かれた。他に減刑のみを行うや、特定個人を対象として一切の罪を不問として事件発覚前の官位などに復する勅放、特定地域のみを対象とした曲赦などがあった。また、この他にも常赦不免の罪を含めた全ての罪を許した非常赦が行われる事もあった。なお、流罪となった者は配流先に到着後は恩赦が出ても付随する徒罪などの刑罰が免ぜられるだけで、元の居住地には戻れず配流先で生涯を送る事とされていたが、非常赦の場合に限って帰還が許された。更に後には赦も2分されて一般的な赦を「常赦」と呼ぶのに対して常赦不免の罪を含めて条件付き(対象外の罪を設定など)で行う「大赦」に分ける慣例が生まれた。

赦は祥瑞・慶賀・疫病・災異、その他天皇の意向によって出されたが、奈良時代後期から平安時代にかけては、儒教の徳治主義や仏教放生による善行の奨励の影響で些細な理由から赦が濫発されるようになる。特に平安時代には死罪死刑)の停止によって処刑されなかった重犯罪者が更に大赦・非常赦を受けて釈放されると言う事態も頻発し、当時の明法道の権威・惟宗允亮もこれを嘆いたと言われている。

※…悪逆謀反大逆故意殺人(故殺人)、反逆行為の連座(反逆縁坐)、役人の職権乱用による強姦窃盗人身売買(略人)、収賄(受財枉法)、嘱託殺人(殺人応死)など。この他に八虐一般や私鋳銭、複数回以上の強盗・窃盗も含むあるいは準じるとする異説がある。

[編集] 江戸時代の恩赦

江戸幕府下においては恩赦は「赦宥」(しゃゆう)として、その具体的な内容・手続については公事方御定書下巻で定められていた。天皇・上皇の即位や崩御、改元、将軍宣下、将軍の官位昇進、将軍の日光社参、将軍の子女誕生、世子の元服、将軍ないしはその近親の婚姻、将軍薨去、年忌法要などで実施された。実際の運用は将軍老中の命を受けた評定所が個々の罪人の件を調査して恩赦適用の可否を定めた。

幕府による赦宥は律令法による常赦に相当するものであり、唯一大赦に相当するとされるものは宝永6年(1709年)に将軍綱吉の死去とそれに続く新将軍家宣の就任に伴って行われた2度の大赦(新井白石の『折たく柴の記』によれば全国で総計8,831人が対象とされた)であった。これは傍流から入った新将軍の恩恵を示す事でその政治基盤を強化する狙いがあったと言われている。これは従来にはなかった諸藩に対する実施状況の報告義務が課せられた点でも特殊なものであった。

また、徳川将軍家ゆかりの寛永寺増上寺大僧正には将軍家の法事の際に将軍・老中に恩赦の口添えをする(「廻赦帳」の提出)権限が与えられていたため(勿論、実際の判断は評定所の審議に委ねられるため必ず恩赦を受けられる訳ではない)、受刑者の家族が両寺院に恩赦の依頼をする場合もあった。

なお、身寄りのない受刑者は恩赦の依頼を行えない事や天領にしか幕府の恩赦が及ばない(諸藩に対しても幕府の恩赦に併せて恩赦を行うように命じられる事が通例ではあったが、前述の宝永6年の場合を特例として除けば、法的な拘束力はなかった)点などの不備が早くから問題視された。

宝永の大赦に深く関与した新井白石は『折たく柴の記』の中で管仲孔明が恩赦を戒めた故事を掲げて国家大事以外の恩赦は控えるべきだと述べ、荻生徂徠は『政談』の中で恩赦で感謝されるのは神仏に対してのみ(恩赦の申請を行うのは大僧正)であり、却って人々が主君の不幸を願うようになる(恩赦が行われるのは将軍の死去とその法要、死去した将軍に代わる新将軍就任の時が多い)だけだと述べ、恩赦の濫用は実は現行の法律が刑罰が厳格なだけで法律としては稚拙であるという事実を隠しているだけであると非難している。

これに対して文化13年(1816年)、幕臣の永田与左衛門太田作兵衛が過去90年の実例を元に恩赦施行の実態をまとめた「大赦律」を幕府評定所における恩赦規則として採用して適正運用を図った。その後、嘉永年間に老中阿部正弘遠山景元三奉行に恩赦の法制化を命じた。途中、阿部や遠山の死により一時中絶したものの、文久2年(1862年)に「赦律」として公布された。

[編集] 関連項目