サンフランシスコ・フォーティナイナーズ

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サンフランシスコ・フォーティナイナーズ
San Francisco 49ers
1946年創設
永久欠番 8121634373942707379
8087BW
所属地区
  • NFL(1950-現在)
  • NFC(1970-現在)
西地区(1970-現在)
  • 西カンファレンス(1953-69)
海岸地区(1967-1969)
地区分け無し(1953-1966)
  • ナショナル・カンファレンス(1950-1952)
  • AAFC(1946-1949)
地区分け無し(1948-1949)
西地区(1946-1947)
ホームタウン
  • 本拠地

カリフォルニア州サンタクララ

  • スタジアム

リーバイス・スタジアム (2014-)
キャンドルスティック・パーク (1971-2014)
名称変更
3Com Park (1995-2002)
San Francisco Stadium at Candlestick Point(2003)
モンスター・パーク(2004-2007)

キーザー・スタジアム (1946-1970)

チームデザイン
  • チームカラー

     スカーレットレッド
     メタリックゴールド
    

  • チームロゴ

49ers Logo.svg

獲得タイトル
  • リーグ・チャンピオン (5回)

1981, 1984, 1988, 1989, 1994

  • カンファレンス・チャンピオン (6回)

NFC:1981, 1984, 1988, 1989, 1994, 2012

  • 地区優勝 (18回)

NFC旧西地区:1970, 1971, 1972, 1981, 1983, 1984, 1986, 1987, 1988, 1989, 1990, 1992, 1993, 1994, 1995, 1997
NFC現西地区: 2002, 2011, 2012

  • ワイルドカード (6回)

1949、1957、1985、1996、1998、2001

球団組織
オーナー: ジョン・ヨーク
GM: スコット・マクルーハン
ヘッドコーチ: ジム・ハーボー (2011-)

サンフランシスコ・フォーティナイナーズ: San Francisco 49ers)は、アメリカ合衆国サンフランシスコ市に本拠地を置くNFLのチームである。

概要[編集]

1946年にAll-America Football Conference (AAFC)の一員としてチーム創設、1949年AAFCの破綻に伴い、1950年にNFLに参加した。現在、NFC西地区に所属している。チーム名は、金鉱で一攫千金を夢見る鉱山師たちが入植を始めた1849年カリフォルニア・ゴールドラッシュに由来する(フォーティナイナーズ=49ers='49年の人達)。ゴールドはチームカラーのひとつにもなっている。これまでにスーパーボウルに5回優勝している。この記録はダラス・カウボーイズと並んで歴代2位タイである。NFLに加入後1970年まで地区優勝を果たすことはなかったが1980年代にはプレーオフを逃すことわずか2回で4回のスーパーボウル優勝を果たすなど1980年代を代表するチームであった。チームは3度のスーパーボウルMVPに輝いたジョー・モンタナ、長年プロボウルに選出されたロニー・ロット、史上最高QBレイティングを残したスティーブ・ヤング、歴代最多タッチダウンをあげたジェリー・ライスらによって1980年代と1990年代始めにスーパーボウル5回の優勝を誇った(内4回は1980年代、5回目は1994年、2012年に敗れるまでは5回の出場機会すべて優勝しNFL記録のスーパーボウル5連勝)。またザ・キャッチや第23回スーパーボウルの逆転タッチダウンドライブは有名なプレイとして知られている。日本ではナイナーズまたは49ersと記述されることも多い。

歴史[編集]

1960年代まで[編集]

1946年、AAFCの一員としてチームが創設された。これはメジャープロスポーツ球団として初めてのサンフランシスコにおけるチームの誕生であっただけでなくアメリカ西海岸にできた最初のプロチームの1つとなった。リーグには圧倒的な強さを見せたクリーブランド・ブラウンズが存在し2位以上の成績をおさめることはできなかった。AAFCが崩壊するとブラウンズ及び初代ボルチモア・コルツと共にNFLに加入した。

1957年、開幕戦を落とした後、ロサンゼルス・ラムズシカゴ・ベアーズグリーンベイ・パッカーズを破りホームのキーザー・スタジアムに帰ってきたベアーズ戦7-17とリードされた試合中にトニー・モラビトオーナーが心臓発作で急死してしまう。ハーフタイムに悲報を聞いた彼らは奮い立ち14点をその後入れて21-17と逆転勝利を果たした。11月3日のデトロイト・ライオンズ戦では28-31とリードされた残り10秒、敵陣41ヤードからの攻撃でY.A.ティトルから2人のディフェンス(ジャック・クリスチャンセン[1]ジム・デビッド)にカバーされたR.C.オーエンスへのタッチダウンパスが決まり逆転勝利した[2]。このプレイはアリ・ウープ(Alley Oop)と呼ばれている[3]。チームは8勝4敗でライオンズと並んでウェスタンディビジョン首位タイとなり地元サンフランシスコで地区優勝をかけたワンゲームプレーオフで対戦することとなった。ハーフタイムを24-7とリードして迎え、NFLチャンピオンシップゲームのチケットも印刷された。後半開始早々、ヒュー・マケルヘニーが71ヤードを走ったがこのドライブでチームはタッチダウンを奪えず、27-7とリードを広げたにとどまった。ここからシーズン開始早々負傷欠場したボビー・レーンに代わった相手QB、トビン・ロートが率いる相手オフェンスが爆発、トム・トレイシーの2タッチダウンランなどで、27-31でナイナーズは逆転負けを喫した[4][5]。この試合ナイナーズが勝っていればNFLチャンピオンシップゲームにクリーブランド・ブラウンズを地元で迎えるところであった。チャンピオンシップではライオンズがブラウンズに59-14で勝利して優勝を果たした[4]

1950年代のチームのバックフィールドを構成した4人(ミリオンダラーバックフィールド)、Y.A.ティトル、ジョン・ヘンリー・ジョンソンヒュー・マケルヘニージョー・ペリー[6][7]は後にプロフットボール殿堂入りを果たした。

その後13年間チームは勝率5割前後をうろうろする並のチームであった。この時代の主力選手はRBのケン・ウィラード、QBのジョン・ブロディー、オフェンスラインのブルース・ボズリーであった。また1960年にヘッドコーチのレッド・ヒッキーはNFLチームとして初めてショットガンフォーメーションを導入し、この知られていないフォーメーションを利用してボルチモア・コルツを破った。1961年、ショットガンフォーメーションを利用したチームは2週連続の完封勝ちを含み4勝1敗でシーズン序盤ダッシュしたが6試合目のシカゴ・ベアーズ戦でスクリメージライン付近に選手を動かした上での相手ディフェンスによるQBへの激しいパスラッシュで0-31と完封負けを喫した。残り試合は3勝4敗1分の成績しか残せず7勝6敗1分に終わった。1962年はロードで5勝したものの地元キーザー・スタジアムではわずか1勝しかあげられず6勝8敗に終わった。大きく負け越した1963年に2勝12敗、1964年に4勝10敗と散々なシーズンを終えた後、1965年に怪我から復帰したジョン・ブロディーがリーグトップクラスの3112ヤードのパスを投げ30タッチダウンをあげてチーム成績は7勝6敗1分と改善した。

1968年にダラス・カウボーイズのヘッドコーチ、トム・ランドリーの下でディフェンスコーディネーターを務めていたディック・ノーランがヘッドコーチとなった。1968年は7勝6敗1分、1969年は4勝8敗2分とここ10年ほどと同じく振るわなかった。

1970年代[編集]

1970年、チームは7勝1敗1分と絶好のスタートを切り(敗戦したアトランタ・ファルコンズ戦も1点差での敗北)、ライオンズ、ラムズに敗れたが続く2試合に勝利しオークランド・レイダーズとの最終節を迎えた。地区優勝争いでラムズに0.5ゲームリードしていたチームはその試合に勝利するかニューヨーク・ジャイアンツがラムズを負かすことで地区優勝ができる状態であった。先に行われた試合でラムズがジャイアンツを30-3と破っていたがナイナーズはレイダーズを38-7と破り初の地区優勝を果たした。ディビジョナルプレーオフで前年の第4回スーパーボウルに出場したミネソタ・バイキングスを17-14で破ってNFCチャンピオンシップゲームダラス・カウボーイズと対戦したが10-17で敗れた。この試合がキーザー・スタジアムでの最後の試合となった。この年チームからはプロボウルジョン・ブローディジーン・ワシントンデーブ・ウィルコックスら5人の選手が選ばれブロディがMVPを受賞した。

チームは1971年から新しい本拠地、キャンドルスティックパークに移った。このスタジアムは市の中心部から離れていたがハイウェイを利用したアクセスは容易なものとなった。1971年チームは9勝5敗で地区優勝を果たし、ディビジョナルプレーオフではワシントン・レッドスキンズを24-20で破った。前年に引き続きダラス・カウボーイズとの再戦になったNFCチャンピオンシップゲーム(この年はダラスでのゲーム)では強力な相手ディフェンスによって攻撃が全く機能せずに3-14で敗れた。

1971年にはプロボウルにジミー・ジョンソン、ジーン・ワシントン、セドリック・ハードマンヴィック・ワシントンフォレスト・ブルーら8人の選手が選ばれた。

1972年にはシーズン最後の6試合中5試合に勝ち3年連続でNFC西地区優勝を果たした(1970年のNFLとAFLの統合後、3年連続地区優勝を果たしたのはナイナーズだけであった。)。この年のプレーオフでもカウボーイズとディビジョナルプレーオフで対戦、ゲーム最初のプレーでヴィック・ワシントンの97ヤードのキックオフリターンTDが決まり、前半は21-6とリード、28-13と15点差をつけて第4Qに入った。ここで相手ヘッドコーチのトム・ランドリーは先発QBのクレイグ・モートンを下げてロジャー・ストーバックを送り込んだ。ストーバックに率いられたカウボーイズの攻撃はFGを決めて28-16、残り時間2分を切ったところでストーバックからビリー・パークスへのタッチダウンが決まり28-23と追い上げられた。ここでトニ・フリッチュのオンサイドキックが成功し、ロン・セラーズへのタッチダウンパスが決まりナイナーズは28-30とまたしてもカウボーイズ相手に苦杯を飲んだ[5][5][8]

1973年には最後の8試合中6敗し(低迷していたニューオーリンズ・セインツデトロイト・ライオンズへの敗戦を含む)、5勝9敗と1969年以来最低の成績に終わった。長年先発QBを務めたジョン・ブローディはスティーヴ・スパリアーらと併用された。ラッシングゲームも不調でこの年のラッシングリーダーはヴィック・ワシントンだったがわずか534ヤードにとどまった。

1974年ドラフトでアラバマ大学からウィルバー・ジャクソンを獲得した。ジャクソンは705ヤードを走り、相棒のラリー・シュリーバーと合計で1300ヤード以上を獲得した。QBのスパリアーは負傷によりシーズンのほとんどを欠場し安定したQBを欠いたが6勝8敗と健闘した。1975年にはプロボウルに3回選出されたタイトエンドのテッド・クワリックワールド・フットボール・リーグに参加するため退団してしまった(彼はその年オークランド・レイダーズでNFLに復帰した。)。またウィルバー・ジャクソンは怪我でシーズンのほとんどを欠場し、デルビン・ウィリアムズがチームトップの631ヤードを走った。チームは最後の4試合に連敗して5勝9敗に終わり、ノーランヘッドコーチはこの年でチームを去った。

ジム・プランケット

1976年チームはスタンフォード大学時代にハイズマン賞を獲得したジム・プランケットニューイングランド・ペイトリオッツから獲得した。また新しいヘッドコーチにはモンテ・クラークが就任した。この年チームのラン攻撃は冴え渡り、デルビン・ウィリアムズは1200ヤード以上を走り一流RBの仲間入りを果たしプロボウルに選出された。またウィルバー・ジャクソンも792ヤードを走った。レシーブではジーン・ワシントンがチームトップの457ヤードを稼ぎ6タッチダウンをあげた。シーズン開幕から6勝1敗と1970年以来の好スタートを切ったが強豪との対戦はなく、マンデーナイトフットボールでのロサンゼルス・ラムズ戦では10サック(そのうちトミー・ハートが6サック)を浴びせて16-0で完封した。チームは最後の4試合に同地区ライバルのラムズ、アトランタ・ファルコンズとの対戦を残しプレーオフに望みをつないでいたが4試合とも落とし8勝6敗でプレーオフを逃した。クラークヘッドコーチはわずか1シーズンでゼネラルマネージャージョー・トーマスによって解任された。

1977年、エドワード・デバートロ・ジュニアがチームを買い取った。ケン・マイヤーヘッドコーチが就任したが開幕から5連敗しその内2試合は完封された。続く6試合中5試合で勝利を収めたがその後3連敗し5勝9敗でシーズンを終えた。期待されたプランケットは9タッチダウンしかあげられなかった。ディフェンスラインのトミー・ハートクリーブランド・イーラムがこの年プロボウルに選出された。またウィルバー・ジャクソンとデルビン・ウィリアムズは合計1600ヤードを走った。ジーン・ワシントンがチームのエースレシーバーとなったが彼はこの年でチームを去った。この年のオフシーズンチームはバッファロー・ビルズからO・J・シンプソンを獲得、マイアミ・ドルフィンズのWRフレディ・ソロモンとデルビン・ウィリアムズをトレード、プランケットを放出、マイアーヘッドコーチもクビにしてピート・マッカリーを新ヘッドコーチとして迎えた。1978年チームはシンシナティ・ベンガルズタンパベイ・バッカニアーズ戦にしか勝てず2勝14敗で終えた。シンプソンがチームのラッシングリーダーとなったがひざの故障を抱えた彼は600ヤード未満の記録に終わった。またウィルバー・ジャクソンも怪我でシーズンのほとんどを欠場した。1979年には低迷した成績によってドラフト全体1位の指名権が得られるはずであったがシンプソンの獲得でこれを失っており補強の失敗の責任を取らされてジョー・トーマスGMは解任された。この年スティーブ・ディバーグ(1977年ドラフトで入団)、ポール・フォーファーランディ・クロスなどが初出場を果たした。

1979年にスタンフォード大学のヘッドコーチであるビル・ウォルシュによってチーム状況は好転することとなる。チームはドラフトやフリーエージェントで弱点のてこ入れをしていき、ウェストコーストオフェンスを導入した。1979年にドラフト3巡目で1977年にノートルダム大学を全米ランク1位に導き、また1979年のコットンボウルなど数々の逆転劇を演じたジョー・モンタナを指名した。モンタナはQBとしては身長が低く肩もあまり強くないと見られており他チームのスカウトはあまり注目していなかった。ドラフト当日、ダラス・カウボーイズは次に指名しようとする予定の選手を何人かボードに書き込んでいた。3巡目の指名(ナイナーズより前の指名権があった。)になった際、そこにはモンタナの名前が書き込まれたがストーバック、ダニー・ホワイトがおりQBよりもタイトエンドの補強をする必要があったカウボーイズはダグ・コスビーを指名、ナイナーズが希望どおりにモンタナを獲得できた。

1979年チームは2勝14敗に終わったがディバーグはタッチダウンよりインターセプトが多かったもののパス成功率60%で3600ヤード以上を獲得した。フレディ・ソロモンはレシーブで800ヤード以上を獲得した。一方ラン攻撃は低調でポール・ホーファーがチームのラッシングリーダーとなったが615ヤード、シンプソン故障のため460ヤードに終わりこのシーズンで現役を引退した。

1980年代[編集]

1980年にチームは開幕から3連勝したがその後接戦が多かったものの8連敗を喫した。ディバーグとモンタナは併用されディバーグの方が好成績をあげたがウォルシュは将来性ではモンタナの方に分があると感じていた。この年の第14週ニューオーリンズ・セインツ戦ではシーズン13連敗中だったセインツにハーフタイムで7-35と28点差のリードを許したがモンタナに率いられた攻撃は35-35の同点に追いつき、オーバータイムにレイ・ワーシングの決勝FGが決まり38-35と逆転勝利した[5][8]。28点差からの逆転勝利は長くNFL史上最多得点差からの逆転劇であった(1993年のプレーオフ、ビルズ対オイラーズで31点差からビルズが勝利を収めた)[5]。この勝利以降モンタナの先発が定着した。この年2年目のWRドワイト・クラークがチームトップの82キャッチ、RBのアール・クーパーが700ヤード以上を走った。

1981年、ウォルシュはディフェンスの改善に乗り出し、新人や経験の乏しかった選手を多数起用した。その中にはロニー・ロットエリック・ライトカールトン・ウィリアムソンドワイト・ヒックスらである。またベテランLBのジャック・レイノルズ、パスラッシャーのフレッド・ディーンを獲得した。これらの補強によってオフェンスとディフェンスがバランスの取れたチームとなったナイナーズは1勝2敗でスタートしたが残り13試合で1敗しかせずに13勝3敗とチーム史上最良の成績で終えた。ディーン、ロット。ヒックスがこの年プロボウルに選出された。

モンタナによるショートパスを中心とした攻撃でボールをコントロールし、クラークはポゼッションレシーバーとして、ソロモンはディープスリートとして両WRはしっかりと役割を果たした。ラン攻撃は弱点で543ヤード走ったリッキー・パットンがチームのラッシングリーダーとなり、アール・クーパーはランよりパスターゲットとして活躍し51キャッチを記録した。プレーオフではディビジョナルプレーオフでニューヨーク・ジャイアンツに38-24で勝利し、NFCチャンピオンシップゲームは1970年代のプレーオフで何度も苦杯をなめた相手であるダラス・カウボーイズとの対決になった。シーズン序盤に両者は対戦しておりナイナーズは6回のターンオーバーを喫して14-45で敗れていた。この試合残り時間4分54秒で21-27とリードされ自陣11ヤードからナイナーズは攻撃権を得た。モンタナは敵陣6ヤードまで攻め込み第3ダウン残り3ヤードの状況で第1ターゲットのソロモンがカバーされていたためエンドゾーンのドワイト・クラークへ向かってパスを投げタッチダウンを決めた。このプレーはザ・キャッチとして知られるようになった。このプレーはスポーツ・イラストレイテッドの表紙を飾ったが2005年秋にはゲータレードのCMに使われた。

このプレーの後、わずかに残った試合時間でカウボーイズはダニー・ホワイトからドリュー・ピアソンがパスを受けて走ったがナイナーズ陣44ヤードのところでエリック・ライトが彼を止めタッチダウンを阻止した。次のプレーでローレンス・ピラーズがホワイトをサックしファンブルを誘いジム・スタッキーがこれを押さえてナイナーズの勝利となった。お互い初出場となったシンシナティ・ベンガルズとの第16回スーパーボウルではハーフタイムまでに20-0とリードし最終的に26-21で勝利した。この試合レイ・ワーシングは4本のFGを成功、12プレーで最後はクーパーへのタッチダウンパスを決める92ヤードのドライブを達成したモンタナがMVPに選ばれたが第3Q自陣3ヤードまで攻め込まれながら4回の攻撃をしのぎきったディフェンスの活躍も見逃せなかった。こうして2勝14敗のシーズンからわずか2年でチームはスーパーボウルを制覇した。

1982年、ストライキで短縮されたシーズン、チームは地元キャンドルスティックパークで1勝もできず3勝6敗でシーズンを終えた。この年のホームでの成績は5敗、アウェイでの成績は3勝1敗であった。NFL史上ホームで未勝利に終わったチームがアウェイで勝ち越したのはこの時のみである。

しかしこの後17年間チームは負け越しのない栄光の時代を迎えることとなる。この年モンタナは5試合連続で300ヤード以上のパスを成功させるなど、2613ヤードを投げて9タッチダウンをあげた。

1983年チームはシーズン最後に3連勝して10勝6敗でシーズンを終え地区優勝を果たした。モンタナは3910ヤードを投げて26タッチダウンをあげた。ディビジョナルプレーオフでは敵地でデトロイト・ライオンズと対戦し17-9とリードして第4Qを迎えたが相手に2TDを許し17-23と逆転された。しかしモンタナが残り2分にソロモンへのTDパスを決めて、相手キッカーエディ・マレーの逆転を狙ったFGは失敗し24-23で勝利した。翌週のワシントン・レッドスキンズとのNFCチャンピオンシップゲームでは一時0-21とリードされながら同点に追いついたがマーク・モーズリーに決勝FGを決められて21-24で敗れた。

1984年チームは15勝1敗でシーズンを終えた(これは2007年にニューイングランド・ペイトリオッツがシーズン16戦全勝するまでは1985年のシカゴ・ベアーズ、1998年のミネソタ・バイキングス、2004年のピッツバーグ・スティーラーズなどと共に16試合制になってからNFLシーズンベストの記録であった。)。プレーオフではニューヨーク・ジャイアンツを21-10、シカゴ・ベアーズを23-0で破り第19回スーパーボウルに出場した。この試合はシーズン最多タッチダウン記録を作ったダン・マリーノ率いるマイアミ・ドルフィンズとの対戦になったが38-16で勝利した。この年ディフェンスバックのロニー・ロット、エリック・ライト、ドワイト・ヒックス、カールトン・ウィリアムソン4人全員がプロボウルに選出された。

1984年シーズン中には14人の選手たちによって"We are the 49ers" というナラダ・マイケル・ウォルデンが作詞・プロデュースしたシングルが発売された。曲にはR&Bファンクポップ・ミュージックの各要素が取り入れられていた。ボーカルにはロジャー・クレイグ、ドワイト・クラーク、ロニー・ロットらが含まれたがモンタナは参加しなかった(ただしモンタナはヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが1986年に発売したアルバム「Fore!」ではロット、クラーク、リキ・エリソンと共にバックボーカルとして参加している。)。この曲は地元ラジオ局などでの放送にとどまり1年後に発売されたシカゴ・ベアーズのスーパーボウル・シャッフルのように全米には広まらなかった。

1985年にロジャー・クレイグがNFL史上初の同一シーズン1000ヤードラッシュ、1000ヤードレシーブを達成した。チームは10勝6敗でワイルドカードでプレーオフに進出したがニューヨーク・ジャイアンツに3-17で敗れた。この年ジェリー・ライスが加入している。

1986年には開幕戦でタンパベイ・バッカニアーズを31-7と破ったが勝利の代償は大きくモンタナが背中を痛めて2ヶ月欠場することとなった。ジェフ・ケンプが代わりに先発出場し9月、10月を4勝3敗1分で乗り切った。モンタナが復帰後チームは6勝2敗で同地区のライバル、ロサンゼルス・ラムズを24-14で破る試合もありNFC西地区優勝を飾ったが、ニューヨーク・ジャイアンツとのプレーオフでモンタナはジム・バートにヒットされ前半に退場し、3-49と大敗した。

ストライキで短縮された1987年シーズン、チームは13勝2敗でNFLトップの成績をあげた。チームはトータルオフェンス、トータルディフェンスいずれも1位で優勝候補の筆頭にあげられていたがプレーオフ初戦でミネソタ・バイキングスに24-36と敗れて3年連続プレーオフ初戦で姿を消した。この年チームにはスティーブ・ヤングが加入した。

1988年、チームは6勝5敗でプレーオフ出場も危ぶまれたがマンデーナイトフットボールでワシントン・レッドスキンズを破るなど10勝6敗でシーズンを終え、プレーオフ初戦ではミネソタ・バイキングスに34-9とリベンジし、敵地ソルジャー・フィールドに乗り込んだ。氷点下8度、体感温度氷点下32度、風速13mの中行われた試合はモンタナとライスの活躍でベアーズを28-3で破った。シンシナティ・ベンガルズとの対戦となった第23回スーパーボウルでは3-3でハーフタイムを折り返した後、FGを決められて13-16と3点リードされたが試合残り時間は3分以上と十分に残っていた。しかし続くキックオフでホールディングのペナルティを取られて残り3分8秒で自陣8ヤードからの攻撃となった。ここからモンタナはスーパーボウル史上有名な92ヤードのドライブを最後はジョン・テイラーへのタッチダウンで締めくくり20-16でチームはスーパーボウル3回目の優勝を果たした。10勝6敗の成績から優勝したのはナイナーズが初であった。

ビル・ウォルシュは第23回スーパーボウルを最後に引退し、1989年からは彼の下でディフェンスコーディネーターを務めたジョージ・シーファートがヘッドコーチとなった。9月24日のフィラデルフィア・イーグルス戦では第4Q途中までに10-21とリードされたが、モンタナが4TDパスを決めて38-28で勝利した[8]。14勝2敗(敗れた2試合の点差合計はわずか5点)でホームフィールドアドバンテージを得たチームはミネソタ・バイキングスを41-13、ロサンゼルス・ラムズを30-3で退け第24回スーパーボウルデンバー・ブロンコスと対戦した。この試合でスーパーボウル史上最多得点、最多点差となる55-10で勝利した。スーパーボウルを連覇したチームの中で異なるヘッドコーチの下で優勝した最初のチームとなった。ポストシーズン3試合の得失点差は合計100点に達した。

1990年代[編集]

1990年も開幕からの10連勝を含み14勝2敗でシーズンを終えてスーパーボウル3連覇を目指した。プレーオフではワシントン・レッドスキンズを28-10で破ったがNFCカンファレンスチャンピオンシップゲームでニューヨーク・ジャイアンツをTDなしに抑えながら第4Qにはモンタナがレナード・マーシャルのヒットを受けて退場、ロジャー・クレイグのファンブル後にマット・バーが5本目のFGを決めてチームは13-15で敗れた。1988年から1990年までの3シーズン、チームはロードでも18連勝を達成した。

シーズン終了後、プロテクトされなかったクレイグとロットはロサンゼルス・レイダーズプランBの制度で移籍した。またモンタナは続く2シーズンひじの怪我で欠場した。

1991年にチームはスティーブ・ヤングを先発QBとしたが彼は左手親指やひざの怪我で数試合欠場した。10試合経過したところでチームは4勝6敗とつまずいていた。控えQBのスティーブ・ボノが先発し5連勝を果たし、最終節はボノが負傷したためヤングが先発しシカゴ・ベアーズに52-14と圧勝しチームは10勝6敗でシーズンを終えてアトランタ・ファルコンズと同率となったが同地区の対戦成績で劣りプレーオフ出場を逃した。1992年、1993年にチームはNFCチャンピオンシップゲームまで進出したがいずれもダラス・カウボーイズに敗れてスーパーボウル出場はならなかった。

この間、1992年12月28日のデトロイト・ライオンズとのマンデーナイトフットボールの試合後半、モンタナが怪我から2年ぶりに復帰しプレーを行った。彼はパス21回中15回成功し126ヤードを達成し2タッチダウンをあげて試合に勝利した。チームは14勝2敗でホームフィールドアドバンテージを確保しプレーオフに臨んだ。ワシントン・レッドスキンズを20-13で破ったがダラス・カウボーイズに20-30で敗れた。

1992年のシーズンオフ、オーナー、ヘッドコーチ、モンタナの話し合いの結果、チームはモンタナをカンザスシティ・チーフスに放出することを決定した。デバートロオーナーはモンタナの残留、先発復帰を望んだがモンタナは自分がチームに残ることは自分とヤングのどちらが先発するとしても問題が起きると発言した。

1993年チームは10勝6敗でNFC第2シードとなった。ニューヨーク・ジャイアンツを44-3で破ったが敵地テキサス・スタジアムに乗り込んだダラス・カウボーイズ戦で21-38と敗れた。

1994年、チームは大金をかけてケン・ノートン・ジュニアゲイリー・プラマーリッキー・ジャクソンリチャード・デントチャールズ・マンディオン・サンダースなどのフリーエージェント選手を獲得した。またドラフトでもブライアント・ヤングウィリアム・フロイドリー・ウッドールなどその後数シーズン先発を務める選手を獲得した。シーズン序盤にフィラデルフィア・イーグルスに8-40、モンタナのカンザスシティ・チーフスに17-24で敗れた試合もあった。イーグルスに敗れた試合の直後には地元ラジオ局によってファンがシーファートヘッドコーチを解任することを望んでいると報道された。

イーグルス戦では大差がついた試合でヤングはベンチに下げられたことに対して不満を持ちシーファートと激しく口論する姿が見られた。翌週のデトロイト・ライオンズ戦で14-0とリードしていた場面でパスを投げた後にヒットを受けたヤングは顔面を真っ赤に染めたが2プレー後にはフィールドに復帰しチームは27-21で勝利した。チームは2年連続スーパーボウルを制覇していたダラス・カウボーイズへの21-14の勝利も含み10連勝を果たした。この間チームは平均約20点差をつけて勝ち続けた。8得点、14得点に終わった試合もあったもののこの年チームはレギュラーシーズン総得点、プレーオフまでの合計総得点で新記録を達成した。この記録は1998年のミネソタ・バイキングス、2007年のニューイングランド・ペイトリオッツに破られている。

2009年6月にチームより公開された5つのヴィンス・ロンバルディ・トロフィー

チームは13勝3敗でホームフィールドアドバンテージを獲得、プレーオフでもシカゴ・ベアーズに44-15、ダラス・カウボーイズとの試合では第1Q終了時点で21-0とリードした。前半終了間際にヤングからライスへの29ヤードのタッチダウンパスが決まり、ハーフタイムを31-14で迎えた。第3Q最初のキックオフでファンブルし、それをタッチダウンに結び付けられて31-21と迫られたがヤングが自ら走りタッチダウンをあげて38-21とし、その後1タッチダウンを返されたが38-28で5度目のスーパーボウル出場を果たした。サンディエゴ・チャージャーズとのカリフォルニア州のチーム同士となった試合に49-26で勝利し史上初のスーパーボウル優勝5回を果たしたチームとなった。MVPにはこの試合で6つのタッチダウンパスを投げたヤングが選ばれた。

1995年から1997年までの3年間もチームはプレーオフに出場したがいずれの年もグリーンベイ・パッカーズに敗れた(1997年は地元キャンドルスティックパークでの試合)。この年はライスが負傷で14試合欠場した。

1998年、チームは12勝4敗でシーズンを終えて16年連続勝ち越し、全てのシーズンで10勝以上あげた。この年のプレーオフでもパッカーズと対戦したが23-27とリードされた試合時間残り3秒、ヤングからテレル・オーウェンスへのタッチダウンパス(The Catch II とも呼ばれる[9]。)が決まり30-27で勝利したが翌週のアトランタ・ファルコンズ戦でヤングが3回のインターセプトを喫して27-30で敗れた。

1990年代終わりにチームオーナーのエドワード・デバートロ・ジュニアはルイジアナ州知事エドウィン・エドワーズ汚職に絡んで名前が取りざたされたり、ミシシッピ川リバーボートでのカジノが問題視された。1998年に有罪判決を受けた彼はNFLのオーナー資格を失い、妹のデニス・デバートロ・ヨークと彼女の夫のジョン・ヨークに経営権が委ねられた。

1999年チームは3勝1敗と好スタートを切ったがアリゾナ・カージナルスとのマンデーナイトフットボールでヤングがブラインドサイドからコーナーバックのアエネアス・ウィリアムスにヒットされそのまま引退に追い込まれた。この怪我はそれほど深刻なものと見られておらず、ヤング自身も後に翌シーズンまたは2シーズン後の復帰を希望していたが、GMとなっていたビル・ウォルシュとの話し合いの結果、サラリーキャップに苦しむチーム、自分自身の将来的な健康のために引退を決意したという。ヤングを失ったチームは残り12試合中11試合を落とし1982年以来の負け越しとなった。またシーズン中に1979年からオフェンスラインコーチを務めたボブ・マクキトリックがシーズン終了後に亡くなった。

2000年代[編集]

2002年、QBジェフ・ガルシアに率いられたチームはチームのプレーオフ史上2回目となる24点差からの逆転劇で39-38とニューヨーク・ジャイアンツに勝利した。しかしタンパベイ・バッカニアーズに敗れてシーズンを終えた。シーズン終了後、スティーブ・マリウチヘッドコーチは解任されて後任のヘッドコーチとしてシアトル・シーホークスオレゴン州立大学のヘッドコーチを務めたことのあるデニス・エリクソンと5年契約を結んだ。ヘッドコーチ候補には3人のディフェンスコーディネーターの名前が挙がっていたが、エリクソンのオフェンス理論はウェストコーストオフェンスと大きく異なっていたため、この契約に対してファンやメディアは厳しく非難した。

2002年以降、チームは怪我人の続出、弱体化したオフェンスライン、一貫性のないディフェンスなどで低迷している。2003年チームは7勝9敗と負け越し、8シーズンチームに在籍して85タッチダウンをあげたテレル・オーウェンスはこの年でチームを去った。

2004年9月26日、シアトル・シーホークスに0-34とレギュラーシーズンでは1977年にアトランタ・ファルコンズに0-7で敗れて以来となる420試合ぶりの完封負けを喫した。これはリーグ記録となった。この試合第4Qに得点する機会があったがインターセプトやファンブルでつぶしてしまっていた。シーズン中デバートロオーナーがチームを売却しようとしているという噂が立ち買い手としてオラクルラリー・エリソンやスティーブ・ヤングのグループの名前があがった。チームは2勝14敗に終わり1979年以来となる地区最下位となった。この年NFL32チーム中最低の成績に終わったため翌年のドラフト全体1位指名権を得たがエリクソンヘッドコーチと彼を選んだGMのテリー・ドナヒューは解任された。

後任のヘッドコーチにはボルチモア・レイブンズのディフェンスコーディネーターをしていたマイク・ノーランが選ばれた。彼は1970年代にチームのヘッドコーチだったディック・ノーランの息子であった。多くのチームがヘッドコーチとGMをそれぞれ置いていたがこの時、GMは置かれずノーランは全権を手に入れた。彼はドラフトで地元カリフォルニア大学バークレー校アーロン・ロジャースではなく、ユタ大学のQBアレックス・スミスを指名した。

2005年8月20日にインベスコ・フィールドで行われたデンバー・ブロンコスとのプレシーズンゲームの終了直後、オフェンスラインのトーマス・ヘリオンがロッカールームでのミーティング中に倒れ病院に運ばれたが心臓発作で急死した[10]

2005年もチームは地区最下位に終わったが前年の2勝から4勝と勝ち星を倍増させた。最後の2試合には連勝した。チームが連勝したのは2003年以来のことであった。また同地区のライバル、ラムズから1998年以来となる2勝をあげた。

フランク・ゴア

2006年には4年連続の負け越しとなったが7勝9敗で地区3位で終えた。最終節のデンバー・ブロンコス戦では0-13とリードされながらオーバータイムの末26-23で破りブロンコスをプレーオフ争いから脱落させた。また前年NFCチャンピオンになった同地区のシアトル・シーホークスからも2勝をあげた。チームはマイアミ大学から入団して2年目のフランク・ゴアをエースRBに決めたがゴアはチーム記録であり、その年NFCトップの1,695ヤードを走り8タッチダウンをあげてプロボウルの先発選手にも選ばれた。

2007年シーズン開幕前、元ヘッドコーチのビル・ウォルシュが白血病で亡くなった。オフシーズンにバッファロー・ビルズのコーナーバック、ネイト・クレメンスがチームに加入し当時NFLのディフェンス選手として史上最高額となる8年間で8000万ドルの契約を結んだ。この年ドラフト1巡目に指名したパトリック・ウィリスはこの年のAP通信によって最優秀新人守備選手に選ばれた。シーズン開幕からアリゾナ・カージナルス、セントルイス・ラムズに連勝し1998年以来となる好スタートを切ったが4試合目のシアトル・シーホークス戦でエースQBのアレックス・スミスが肩を負傷し戦線を離脱した。彼の代役としてトレント・ディルファーが起用されたがチームは第3週から第12週まで8連敗を喫し5勝11敗に終わった。

パスを投げようとするオサリバン
2008年11月16日対ラムズ戦でハドルを組む選手たち

2008年、オフシーズンにチームはショーン・ヒルと3年間の再契約を結んだ。またフリーエージェントでジャスティン・スミスアイザック・ブルースJ・T・オサリバンを獲得した。オサリバンの獲得はチームの将来に期待したアレックス・スミスが怪我などにより満足にプレーできていないことによるものだった。ノーランヘッドコーチと新しくチームに来たオフェンスコーディネーターのマイク・マーツはスミス、ヒル、オサリバンの3人を競わせたがプレシーズンゲームで最も良いパフォーマンスを見せたオサリバンが先発QBとなった。

同年10月20日、ノーランヘッドコーチはシーズン途中で解任され暫定ヘッドコーチにはアシスタントヘッドコーチのマイク・シングレタリーが就任した。シングレタリーは不調のオサリバンに代わってシーズン途中からヒルを先発QBとして起用し、指揮を執り始めてからの9試合を5勝4敗の成績とし、チームは7勝9敗でシーズンを終えた[11]。2009年から正式なヘッドコーチに就任することになった。

2009年のドラフトでチームはマイケル・クラブツリーを1巡目全体10位で指名した。2009年の開幕先発QBを巡ってショーン・ヒルとアレックス・スミスが競ったがヒルが開幕QBに指名された[12]。クラブツリーとの契約交渉はシーズン開幕を直前にした9月に入っても契約がまとまらず[13]10月7日になってようやく契約を結んだ。この年チームは7点差以下での敗北が6試合と接戦をモノにすることができなかったが[14]、8勝8敗でシーズンを終えて2003年から続いたシーズン負け越しが止まった[15]

2010年、同地区のアリゾナ・カージナルスのエースQBカート・ワーナーの引退もあり地区優勝の候補にあげられていたが1979年以来となる開幕から5連敗を喫し[16]、その間3連敗した時点でオフェンスコーディネーターのジミー・レイを解任した[17]。同じく開幕から連敗続きであったカロライナ・パンサーズに敗れた際には球団幹部がシングレタリーヘッドコーチに不信感を持っているという報道も流れたがジョン・ヨークオーナーはこれを否定した[18]。しかし5勝10敗となりプレーオフ進出の可能性が完全に消滅した後チームはシングレタリーを解任、最終戦はジム・トムシュラが暫定ヘッドコーチとして指揮を執ることになった[19][20]

2011年1月7日、スタンフォード大学のHCであったジム・ハーボーをHCに招聘し、5年契約を結んだことを発表した[21]。シーズン前はそれほど期待されていなかったが、第13週までに10勝2敗の成績をあげて8年ぶりにNFC西地区優勝を果たした[22]。TDランを第15週まで相手に1つも許さなかったが、第16週にシアトル・シーホークスマーショーン・リンチにTDランを許した(これまでのNFL記録は2)。NFC第2シードとなる13勝3敗の成績でシーズンを終えて駒を進めた、ニューオーリンズ・セインツとのディビジョナルプレーオフでは17-0のリードを一時逆転されながらも、残り9秒にアレックス・スミスからバーノン・デービスへの逆転TDパスが決まり36-32で勝利したが[9]、NFCチャンピオンシップではニューヨーク・ジャイアンツに20-17(延長)で屈し、スーパーボウル進出は果たせなかった[23]

2012年、6勝2敗という好成績でシーズンをスタートし、Week10から脳震盪で負傷したQBアレックス・スミスに変え2011年2巡目指名、新星コリン・キャパニックに先発を交代させると、Week11で243ヤード、2TDパスの活躍でシカゴ・ベアーズに勝利した。Week12でアレックス・スミスは先発できたものの、ハーボーはキャパニックを先発した。当初ハーボーは先発采配を批判されたが、ハーボーは走力のあるキャパニックを先発することでより戦術の幅が広がると考えた。その期待に応えキャパニックはピストル・オフェンスを多用し、Week15のペイトリオッツ戦でも42対31、自身も4TDパスの活躍で勝利した。レギュラーシーズンを11勝4敗1分の成績でプレイオフへ導いた。ディビジョナル・プレーオフのパッカーズ戦では自慢のランにより181ヤード、2TDを記録し45対31で勝利した。NFCチャンピオンシップゲームでは0対17の劣勢から堅守と自慢の攻撃力で逆転し、28対24で勝利し18年ぶりのスーパーボウルへと導いた。

ライバル[編集]

ロサンゼルス・ラムズ[編集]

セントルイス・ラムズがロサンゼルスから移転する前、両チームは激しいライバル関係にあった。チームがセントルイスに移転した後、激しいライバル関係は解消したと考えるものもいるが、元ナイナーズのロジャー・クレイグはラムズがホームゲームを火星で行ったとしても両チームはライバルだと述べている。

NFC西地区のライバル[編集]

2001年シーズンまではラムズの他にアトランタ・ファルコンズカロライナ・パンサーズニューオーリンズ・セインツの3チームが同一地区で争った。これら3チームは全てミシシッピ川以東にあり、NFC東地区のアリゾナ・カージナルスやダラス・カウボーイズより東に位置していた。1970年から2003年までの33年間中28回はナイナーズかラムズが地区優勝を果たした。2003年から2007年まではシアトル・シーホークスが地区優勝を果たしている。(2008年はカージナルスが地区優勝した。)

オークランド・レイダーズ[編集]

サンフランシスコ湾沿いの同じ大都市圏に本拠地を置いているオークランド・レイダーズとの試合は"Battle of the Bay"と呼ばれている。ただし両チームは違うカンファレンスに所属しているためレギュラーシーズンに対戦することは少ない。プレシーズンゲームではほぼ毎年対戦している。レギュラーシーズンの対戦では6勝6敗。レギュラーシーズンにおける最後の対戦は2010年10月17日にキャンドルスティックパークで行われた試合で17-9でナイナーズが勝利している。レギュラーシーズンでの次の対戦は2014年に行われる。

ダラス・カウボーイズ[編集]

ダラス・カウボーイズとはプレーオフで7度対戦している。1970年、1971年のNFCチャンピオンシップゲーム、1972年のディビジョナルプレーオフでチームは3年連続敗れた。1981年のチャンピオンシップゲームでは試合終了間際にモンタナからクラークへの決勝TDパス(ザ・キャッチ)が決まりナイナーズが勝利した。1992年から1994年までの3年間もNFCチャンピオンシップゲームで対戦し事実上の頂上対決と言われた。1992年、1993年はチームは敗れたが1994年に勝利しその後第29回スーパーボウルを制している。両チームはピッツバーグ・スティーラーズに次いでスーパーボウルを5度制している。

ニューヨーク・ジャイアンツ[編集]

ニューヨーク・ジャイアンツとは1980年代以降プレーオフで8回対戦している。1981年、1984年には地元キャンドルスティックパークで38-24, 21-10で勝利したが1985年、1986年にはジャイアンツ・スタジアムで3-17, 3-49と敗れた。1991年1月に行われた1990年のレギュラーシーズンのプレーオフではNFCチャンピオンシップゲームでマット・バーの5本のFGで13-15と敗れてスーパーボウル3連覇の夢を断たれた。この試合でレナード・マーシャルのヒットを受けて負傷したモンタナはその後2年間で1試合しか出場できずその後チームを去った。1993年のプレーオフでは44-3とナイナーズが圧勝した。2002年のワイルドカードプレーオフでは14-38とリードされ、ジャイアンツのその年の守備はNFLの上位であったがTD2本を短い時間で決め2度の2ポイントコンバージョンも共に成功、FGも決めてチームは33-38と追いすがった。残り1分でジェフ・ガルシアからタイ・ストリーツへの13ヤードのTDパスも決まり39-38と逆転した。その後ジャイアンツのQBケリー・コリンズもナイナーズ陣23ヤードまで攻め込み残り6秒で逆転FGを狙ったがスナップのミスでホールダーのマット・アレンはパスを狙ったが不成功に終わり試合は終了した。この試合はNFLプレーオフ史上の逆転劇中2番目の得点差からのものである[24]。2011年シーズンのNFCチャンピオンシップにおける対戦では20-17で敗れた(前記)。

グリーンベイ・パッカーズ[編集]

1995年にスーパーボウル連覇を狙ったプレーオフで17-27と敗れてからライバル関係が始まった。この試合を含めてナイナーズは5連敗を喫してその内4試合はプレーオフでの対戦だった。1998年のワイルドカードプレーオフの試合終了間際にスティーブ・ヤングテレル・オーウェンスに決勝TDを通した。このプレーはザ・キャッチ2と呼ばれている[25]

主な選手[編集]

永久欠番[編集]

*2006-2007シーズンにおいて先発QBであったトレント・ディルファーはジョン・ブローディと旧知の仲であり、ブローディに尊敬の意を表す意味で、12番のユニフォームを着てプレーした。

**2007年7月30日のビル・ウォルシュの死に際し、49ERSは彼のイニシャルであるBWを永久欠番に登録した。

殿堂入り選手/コーチ[編集]

歴代ヘッドコーチ[編集]

  • バック・ショー (1946-1954)
  • レッド・ストレイダー (1955)
  • フランキー・アルバート (1956-1958)
  • レッド・ヒッキー (1959-1963)
  • ジャック・クリスチャンセン (1963-1967)
  • ディック・ノーラン (1968-1975)
  • モンテ・クラーク (1976)
  • ケン・マイヤー (1977)
  • ピート・マッカリー (1978)
  • フレッド・オコナー (1978)
  • ビル・ウォルシュ (1979-1988)
  • ジョージ・シーファート (1989-1996)
  • スティーブ・マリウチ (1997-2002)
  • デニス・エリクソン (2003-2004)
  • マイク・ノーラン (2005-2008)
  • マイク・シングレタリー (2008-2010)
  • ジム・トムシュラ (2010) ※暫定ヘッドコーチ
  • ジム・ハーボー (2011-)

その他[編集]

2008年のイーグルス戦におけるゴールドラッシュ

日本との関係が深いチームであり、読売ジャイアンツで活躍する日系アメリカ人の与那嶺要が1947年から2年間在籍。2002年には河口正史が日本人として初めてアメリカ本土でのNFLプレシーズン・ゲームに出場した。他にも安田愛杉谷季子齋藤佳子石田真紀が49ers所属のチアリーディングチーム Gold Rushに所属した。さらにジョー・モンタナは49ers在籍時に日本のCMにも出演した。

脚注[編集]

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  1. ^ 後のナイナーズヘッドコーチ
  2. ^ NFLグレイトタッチダウン100 ポリドール ASIN B00005FNUS
  3. ^ .C. Owens' 'alley-oop' catches for 49ers were a hit right from the jump”. ロサンゼルス・タイムズ (2010年12月12日). 2011年9月25日閲覧。
  4. ^ a b 1957 Playoff Game”. プロフットボール殿堂. 2011年9月25日閲覧。
  5. ^ a b c d e ビデオ 伝説の名勝負ベスト15 大逆転!NFL Number VIDEO ISBN4-16-911614-3
  6. ^ 殿堂入りRBジョンソン氏、81歳で死去”. NFL JAPAN (2011年6月5日). 2011年9月25日閲覧。
  7. ^ 49ersの殿堂入りコンビ、脳を研究施設に献体”. NFL JAPAN (2011年6月10日). 2011年9月25日閲覧。
  8. ^ a b c NFL史上に残る大逆転劇トップ10 -前編-”. NFL JAPAN (2011年6月4日). 2011年8月2日閲覧。
  9. ^ a b 残り9秒で決勝TD、49ersがセインツ撃破”. NFL JAPAN (2012年1月15日). 2012年1月21日閲覧。
  10. ^ JOE NEEL (2008年1月9日). “When Sudden Death Strikes Athletes”. NPR. 2012年1月21日閲覧。
  11. ^ 49ers、来季へつながる劇的勝利 49ers、来季へつながる劇的勝利 NFL JAPAN 2008年12月29日
  12. ^ 49ersの先発QB争い、ヒルが安定感とリーダーシップで制す”. NFL JAPAN (2009年8月25日). 2011年9月15日閲覧。
  13. ^ 49ers指揮官、未契約の新人WRはいまだ眼中になし?”. NFL JAPAN (2009年9月4日). 2011年9月15日閲覧。
  14. ^ 2010年シーズン、飛躍が楽しみなチーム”. NFL JAPAN (2010年2月16日). 2010年11月18日閲覧。
  15. ^ 【第17週】49ersが7年ぶり5割、ラムズは“初”のホーム全敗”. NFL JAPAN (2010年1月4日). 2012年1月21日閲覧。
  16. ^ 31年ぶり開幕5連敗の49ers、先発QB交代濃厚か”. NFL JAPAN (2010年10月11日). 2010年11月18日閲覧。
  17. ^ 49ers、OC解雇はシングレタリーHCの判断ミスか”. NFL JAPAN (2010年10月2日). 2010年11月18日閲覧。
  18. ^ 49ersのオーナー、シングレタリーHCを擁護”. NFL JAPAN (2010年10月27日). 2010年11月18日閲覧。
  19. ^ 49ers、シングレタリーHCを解任”. NFL JAPAN (2010年12月27日). 2010年12月29日閲覧。
  20. ^ 49ers球団社長、「HC交代は数週間前から考えていた」”. NFL JAPAN (2010年12月28日). 2010年12月29日閲覧。
  21. ^ 49ers、次期HCにスタンフォード大のハーボー氏を招聘”. NFL JAPAN (2011年1月8日). 2011年1月8日閲覧。
  22. ^ 49ers完封勝ち、NFC西地区優勝を決める”. NFL JAPAN (2011年12月5日). 2011年12月12日閲覧。
  23. ^ ジャイアンツがOT勝利、SBは2007年シーズン再戦に”. NFL JAPAN (2012年1月23日). 2013年1月13日閲覧。
  24. ^ NFL記録は1993年NFLワイルドカードプレーオフ バッファロー・ビルズ対ヒューストン・オイラーズでの32点差からの逆転勝利
  25. ^ Brian Ditullio (2010年12月2日). “The Catch II”. bleacherreport.com. 2013年8月4日閲覧。

外部リンク[編集]