テネシー・タイタンズ

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テネシー・タイタンズ
1960年創設
永久欠番 1, 34, 43, 63, 65, 74
所属地区
  • NFL(1970-現在)
  • AFC(1970-現在)
南地区(2002-現在)
中地区(1970-2001)
  • AFL(1960-1969)
東地区(1960-1969)
ホームタウン
  • 本拠地

ナッシュビルテネシー州

  • スタジアム

LPFieldSec341.jpg
LPフィールド(1999-)
ヴァンダービルト・スタジアム(1997-1998)
アストロドーム (1968-96)
リバティーボウル・メモリアルスタジアム(1997)
ライス・スタジアム
(1965-67)
イェッペセン・スタジアム(1960-1964)

チームデザイン
  • チームカラー

     タイタンズブルー
     ネイビー
    
    

  • チームロゴ

内側に「T」字と3つの星のある円形に青と赤の炎

獲得タイトル
  • リーグ・チャンピオン (2回)

AFLチャンピオン: 1960、1961

  • カンファレンス・チャンピオン (1回)

AFC: 1999

  • 地区優勝 (9回)

AFL東地区: 1960、1961、1962、1967
AFC中地区: 1991、1993、2000
AFC南地区: 2002、2008

  • ワイルドカード (12回)

1969、1978、1979、1980、1987、1988、
1989、1990、1992、1999、2003、2007

球団組織
オーナー: バド・アダムス
GM: マイク・ラインフェルト
ヘッドコーチ: マイク・マンチャック(2011年-)

テネシー・タイタンズ (Tennessee Titans) は、テネシー州ナッシュビルに本拠地を置くNFLチームである。AFC南地区に所属している。第34回スーパーボウルに出場したがセントルイス・ラムズに敗れた。

歴史[編集]

1960年代から1970年代[編集]

1960年にAFL(アメリカン・フットボール・リーグ)の1チーム、ヒューストン・オイラーズとしてテキサス州ヒューストンに本拠地に創設された。オーナーはヒューストンの石油王だったバド・アダムス。チームはハイズマン賞受賞者でオールアメリカンのランニングバック、ビリー・キャノンをNFLとの争いで獲得していた。クォーターバックのジョージ・ブランダ、フランカーのチャーリー・ヘニガン、ランニングバックのチャーリー・トーラー、ガードのボブ・タラミニとオフェンスにはタレントがそろっていた。AFLチャンピオンシップゲームに1960年から1962年と3年連続出場し、最初の2回はロサンゼルス・チャージャーズ(現サンディエゴ・チャージャーズ)を破り優勝、1962年はダブルオーバータイムの末ダラス・テキサンズ(現カンザスシティ・チーフス)に敗れた。1961年11月19日のニューヨーク・タイタンズ戦でジョージ・ブランダがNFL、AFLを合わせたリーグ記録となる7TDパスをあげた[1]

1962年にはAFLのチームとして初めてNFLに所属していた選手を獲得、シカゴ・ベアーズのワイドレシーバーだった Willard Dewveall はサンディエゴ・チャージャーズ戦でジャッキー・リーからプロフットボール記録となる99ヤードのタッチダウンレシーブを達成している。1968年にはプロフットボールチームとして初のドーム球場アストロドーム)を本拠地とするチームとなった。

1963年12月22日のオークランド・レイダーズ戦の第2Qにジョージ・ブランダが2TDパス、FBのチャーリー・トラールが1TDラン、一方、レイダーズQBのトム・フローリスに4TDパスを許した。両軍合わせて49得点はNFL、AFLを合わせた1Qの記録となっている[2]。翌1964年1月1日のバッファロー・ビルズ戦ではブランダが1試合パス試投68回の記録を作った。この記録は1994年ドリュー・ブレッドソーが1試合70回のパス試投をするまで30年間破られなかった[3]

1967年、AFLの東地区優勝を果たした。1968年、アストロドームを本拠地としたが、プロフットボールのチームとしてドーム球場を本拠地としたのは、オイラーズが初めてであった。

1969年、6勝6敗1分でプレーオフに進出したが、オークランド・レイダーズに7-56で敗れた。

AFLがNFLに吸収合併されてから数年間はオイラーズはAFC中地区で低迷した。1970年は、3勝10敗1分、1971年は、4勝9敗1分に終わり、1972年1973年は2年連続で1勝13敗に終わった。1973年シーズン途中からヘッドコーチを務めていたシド・ギルマンは、1974年に7勝7敗で終わった後、退団した。

1975年にはバム・フィリップスが新ヘッドコーチとなり、エルビン・ベゼアビリー・ホワイト・シューズ・ジョンソンが加入、1970年代に入り始めて勝ち越してシーズンを終えた。

1976年、5勝9敗に終わったが、1977年、8勝6敗と勝率をあげた。

1978年に入団したアール・キャンベルは11月20日のマイアミ・ドルフィンズ戦で199ヤードを走り、4TDをあげるなど、マンデーナイトフットボール2試合で288ヤードを走り7TDをあげるなど[4]、この年リーディングラッシャーとなり[5]ルーキー・オブ・ザ・イヤー及びシーズンMVPに選ばれる活躍で[6]、チームはNFLに加入後初のプレーオフに進出した。キャンベルは3年連続でリーディングラッシャーとなり[5]、チームは1978年から1980年まで3年連続プレーオフに進出したが、その内2回はAFCチャンピオンシップゲームで当時全盛期だったピッツバーグ・スティーラーズに敗れスーパーボウル出場はならなかった。

1978年、キャンベルはレギュラーシーズンに1,450ヤードを走り、チームは11勝5敗でプレーオフに出場した。プレーオフ初戦でデンバー・ブロンコスを破ったが、この試合でキャンベルが負傷、サンディエゴ・チャージャーズ戦でバーノン・ペリーが4インターセプト、相手FGをブロックする大活躍を見せて、勝利した。AFCチャンピオンシップゲームでは、スティールカーテンの前に、9回のターンオーバーを喫し、5-34、1979年のAFCチャンピオンシップゲームではキャンベルが17回のランでわずか15ヤードに抑えられ、13-27で敗れた[7][8]

1980年代から1995年[編集]

1980年、11勝5敗で3年連続ワイルドカードでプレーオフに進出したが、オークランド・レイダーズに初戦で敗れた。バム・フィリップスヘッドコーチはアダムスオーナーによって解任されて、エド・バイルズが後任となった。

1981年、チームはロードで連勝してスタートしたがその後、ロードで23連敗というNFL記録を作るほど低迷してしまう(この記録は2003年12月21日にデトロイト・ライオンズの24連敗で更新された。)。1981年を7勝9敗、ストライキで短縮された1982年を1勝8敗、1983年を2勝14敗で終えた。1983年第6週でバイルズヘッドコーチは辞任し、チャック・ステュッドリーが暫定ヘッドコーチに就任、シーズン終了後、ヒュー・キャンベルがヘッドコーチとなった。

1984年カナディアン・フットボール・リーグのスーパースター、ウォーレン・ムーンを獲得したが[9]、この年は2勝14敗に終わった。

1985年、チームは高齢のキャンベルをニューオーリンズ・セインツにトレードし、USFLでプレーしていたハイズマン賞受賞者のマイク・ロージェイを獲得した。5勝9敗となったところで、ヒュー・キャンベルは解任され、ジェリー・グランビルがヘッドコーチとなった。

1985年9月29日のダラス・カウボーイズ戦ではムーンがNFL記録となる12サックを浴び4インターセプトを喫するなど散々であった[10]

1986年グリーンベイ・パッカーズとの開幕戦に31-3で勝利したが、5勝11敗に終わった。

その後1987年から1993年まで7年連続プレーオフに進出しAFCの強豪の1つとなった。この間1991年には1967年以来となる地区優勝を果たしている。

ストライキで1試合減り、3試合で代替選手が出場した1987年、9勝6敗で7年ぶりにプレーオフに進出、ワイルドカードでは、シアトル・シーホークスをオーバータイムの末破り、ディビジョナルプレーオフでデンバー・ブロンコスに敗れた。

1988年、10勝6敗でワイルドカードでプレーオフに進出、雪の降る敵地クリーブランド・スタジアムクリーブランド・ブラウンズを24-23で破ったが、翌週バッファロー・ビルズに敗れた。

1989年1990年は、ともに9勝7敗でワイルドカードでプレーオフに進出したが、ピッツバーグ・スティーラーズ、シンシナティ・ベンガルズに敗れた。

1991年、チームは25年ぶりに地区優勝を果たした。プレーオフ、デンバー・ブロンコス戦では残り2分07秒、24-23と1点リードしていたが、敵陣2ヤード地点からジョン・エルウェイに98ヤードのドライブで、最後デビッド・トレドウェルに逆転FGを決められて24-26で敗れた[11]

1992年、最終週にバッファロー・ビルズを破り、10勝6敗でプレーオフに進出した。翌週のワイルドカードプレーオフでもビルズと対戦、前週の試合で負傷したジム・ケリーを欠くビルズに対して、後半開始早々35-3とリードしたものの、オーバータイムの末、38-41で敗れた。敗戦直後にその年NFL3位のディフェンスを築いたジム・エディディフェンスコーディネーターは解任された。

1993年チームは12勝4敗でAFC中地区優勝を果たしたが、プレーオフ2回戦でカンザスシティ・チーフスに敗れた。これに怒ったアダムスによってムーンはミネソタ・バイキングスにトレードされることとなった。

ムーンを失ったチームは翌1994年2勝14敗に終わった。しかしこの成績のおかげで、1995年のドラフトではスティーブ・マクネアを獲得することができた。

本拠地移転[編集]

1987年にアダムスオーナーはフロリダ州ジャクソンビルへの移転を計画していることを公表した。この時点でアストロドームは50,000人しかフットボールゲームで収容できず、これはNFLのスタジアムの中で最小であった。市当局は6,700万ドルをかけて10,000人の収容人数増、65のラグジュアリボックスを追加する改修を行ったがこれはその後30年間の増税が必要となった。

1995年にまたもアダムスは新スタジアム建設を市当局に働きかけたがアストロドームに代わる新スタジアム建設が控えていたため良い返事を得ることができなかった。そしてテネシー州ナッシュビル市長のフィル・ブレーデセンと秘密交渉をして、1995年シーズン終了後、1998年からナッシュビルに移転することを発表した。翌年のオーナー会議でテネシーへの移転は23-6で承認された[12]。市は1億4400万ドルをかけて新スタジアムを建設することを約束した。

1996年シーズンは観客が20,000人以下しか入らず、フィールド上の声がメインスタンドでも聞けるほどであった。チームはロードゲームでは6勝2敗だったが、ホームゲームで2勝6敗に終わり8勝8敗であった。市はアダムスに早期移転を了承しこの年がヒューストンでの最後のゲームとなった。

ナッシュビル移転後[編集]

ナッシュビルにある当時収容人数最大のスタジアムは41,000人が入場できるヴァンダービルト・スタジアムヴァンタービルト大学のスタジアム)であったがアダムスはこれを嫌い、1997年シーズンメンフィスにあるリバティーボウル・メモリアルスタジアムを新スタジアムができるまでの2年間の本拠地と定めた。そのため本拠地をナッシュビルに置いていたチームはシーズン全ての試合をアウェーで行うかのようになってしまった。この決定はメンフィス、ナッシュビル双方の市民にとって不幸なことでメンフィス市民は対抗意識のあるナッシュビルを本拠地とするチームに関心を示さず、ナッシュビル市民は320kmのドライブをして自分たちのチームの応援に行く羽目になった。1950年代以降史上最低の観客動員となってしまった。このため最後の主催ゲームである対ピッツバーグ・スティーラーズ戦のみヴァンタービルト・スタジアムで行われた。この試合には50,677人の観客が入り、多くのファンが入場できなかったが観客の2/3はスティーラーズファンであった。

アダムスは方針転換し、1998年シーズンはヴァンタービルト・スタジアムを本拠地とすることにした。そして1998年シーズン中、オイラーズに代わりナッシュビルに相応しい愛称を募集した。オイラーズから愛称が変更されても新チームはヒューストン・オイラーズの歴史を引き継ぐことを明言した[13]。新チームの名称を決めるための委員会が設けられたがそこでアダムスはパワー、強さ、リーダーシップといったイメージが連想される名称とすることを求めた。1998年12月22日に1999年からはテネシー・タイタンズとなることが発表された[14]

1999年シーズン、チームはジャクソンビル・ジャガーズに地区優勝こそ譲ったものの13勝3敗で地区2位となりプレーオフに出場。その第1戦となるバッファロー・ビルズ戦で、 後にミュージック・シティ・ミラクル(Music City Miracle)と呼ばれるようになるビッグ・プレイが飛び出す。残り16秒でビルズのフィールドゴールが決まり15-16とリードを許した直後、キックオフをレシーブしたロレンゾ・ニールからのハンドオフを受けたタイトエンドのフランク・ワイチェックが、自陣から見て左サイドライン際にいたケビン・ダイソンにラテラルパス(横方向のパス)を送ったのである。ボールを受けたダイソンは75ヤードを走り逆転のタッチダウンを挙げた[15]。キックオフ・リターン中のパスプレイという虚を突いたこのプレイは「ホームラン・スローバック」と呼ばれている[16][17]。その後インディアナポリス・コルツ戦ではエディ・ジョージがチームのプレーオフ記録となる162ヤードを走り、ディフェンスは相手の2年目QBのペイトン・マニングのパスを43回中19回しか成功させず19-16で勝利した。ジャガーズに対してはディフェンスが6回のターンオーバー、セイフティ1回を記録し33-14で勝利し第34回スーパーボウルに出場した。最後の攻撃でケビン・ダイソンが残り1ヤードのところでタックルされて(このプレイはザ・タックルと呼ばれている。)タッチダウンが奪えず16-23で敗れた。なおタイタンズはこの年14勝2敗の成績を残したジャガーズを破った唯一のチームとなった(レギュラーシーズン2勝及びAFCチャンピオンシップゲーム

2000年、チームは13勝3敗でオイラーズ時代の1991年1993年に次いで3度目のAFC中地区優勝を果たしたがプレーオフ初戦でその年の第35回スーパーボウルを制したボルチモア・レイブンズに敗れた。

2002年にはその年から再編となったAFC南地区優勝を果たしたがAFCチャンピオンシップゲームでオークランド・レイダーズに敗れた。

2003年にはスティーブ・マクネアペイトン・マニングとシーズンMVPを分け合う活躍を見せたが第38回スーパーボウルを制したニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた。

2004年には主力選手に怪我人が多く出たため5勝11敗に終わった。シーズン終了後チームのフロントはデリック・メイソンサマリ・ロールケビン・カーターなど多くの選手をトレードしたり契約を打ち切った。これはチームがサラリーキャップをオーバーしたためである。

2005年にチームはNFL1若いチームとなった。ドラフト1巡指名のコーナーバック、パックマン・ジョーンズ、オフェンスタックルのマイケル・ルース、3人のワイドレシーバー(ブランドン・ジョーンズコートニー・ロビーロイデル・ウィリアムス)などのルーキーがプレイした。このシーズンは4勝12敗に終わった。

2006年は8勝8敗に終わったがヴィンス・ヤングが先発した試合では6連勝を含み8勝5敗であった。

2007年は10勝6敗となりプレーオフに出場したが1回戦でサンディエゴ・チャージャーズに敗れている。

2008年は開幕戦でQBのヴィンス・ヤングが負傷し、ケリー・コリンズが先発することとなったがチームはニューヨーク・ジェッツに敗れるまで開幕から10連勝を果たし[18]、シーズンを13勝3敗で終えてプレーオフの第1シードを獲得した[19][20]。しかしディビジョナル・プレーオフでボルチモア・レイブンズに敗れてシーズンを終えた[21]

2009年、チームはコリンズと2年間1500万ドルの契約を結んだ[22]。開幕前期待されたものの開幕戦から6連敗を喫した[18]。次の試合より先発QBをケリー・コリンズからヴィンス・ヤングに変更した後、連勝を続け奇跡のプレーオフ進出なるかと注目を浴び[23][24]プレーオフは逃したものの8勝8敗でシーズンを終えた。シーズン最終戦まで11試合連続で100ヤードラッシュを見せた[25]クリス・ジョンソンが史上6人目となるシーズン2000ヤードラッシュを達成した[26]。ジョンソンはRBとしてのリーグ最高年俸を期待し[27]契約の見直しを要求、8月にチームが提示した金額での契約に応じた[28]

2010年、チームはNFL選手会代表も務める、プロボウルCのケビン・マワイと再契約を結ばなかった[29]。また5年間で38.5サックをあげた[30]カイル・バンデンボッシュも失った[31]。チームは5勝2敗と好スタートを切ったもののヴィンス・ヤングが負傷した後、成績は低迷し残り9試合で8敗し、6勝10敗に終わりプレーオフ出場を逃した。ヴィンス・ヤングは戦力外を通告された。ジェフ・フィッシャーヘッドコーチはアダムスオーナーより続投を明言された[32]がその後解任され、マイク・マンチャックがヘッドコーチに就任、シアトル・シーホークスからマット・ハセルベックを獲得した。

2011年、シーズン開幕戦直前までクリス・ジョンソンがホールドアウトを行い、開幕戦にこそ間に合ったものの、最終的に1,047ヤード獲得 (1回平均4.0ヤード)と、自己最低の成績に終わった。しかし、ハッセルベックがムーン以外ではチーム初となる年間パス3,500ヤードを達成するなどの活躍もあり、シーズンは9勝7敗で終えた。タイブレークにより、チームはプレーオフこそ逃したが、先発QBとHCが変わったにもかかわらず、下馬評を大きく上回る活躍を見せた。

2012年、2年目のQBジェイク・ロッカーがハッセルベックとの先発争いに勝って、エースQBに指名された。ロッカーは、第4週に負傷退場、左肩を脱臼していることがわかっている[33]

主な選手[編集]

殿堂入り選手[編集]

永久欠番[編集]

  • 1 ウォーレン・ムーン
  • 34 アール・キャンベル
  • 43 ジム・ノートン
  • 63 マイク・マンチャック
  • 65 エルビン・ベゼア
  • 74 ブルース・マシューズ

歴代ヘッドコーチ[編集]

成績[編集]

AFC南地区[編集]

年度 地区優勝 2位 3位 4位
チーム チーム チーム チーム
2013 IND(4d) 11 5 0 TEN 7 9 0 JAX 4 12 0 HOU 2 14 0
2012 HOU(3d) 12 4 0 IND(5w) 11 5 0 TEN 6 10 0 JAX 2 14 0
2011 HOU(3d) 10 6 0 TEN 9 7 0 JAX 5 11 0 IND 2 14 0
2010 IND(3w) 10 6 0 JAX 8 8 0 HOU 6 10 0 TEN 6 10 0
2009 IND(1s) 14 2 0 HOU 9 7 0 TEN 8 8 0 JAX 7 9 0
2008 TEN(1d) 13 3 0 IND(5w) 12 4 0 HOU 8 8 0 JAX 5 11 0
2007 IND(2d) 13 3 0 JAX(5d) 11 5 0 TEN(6w) 10 6 0 HOU 8 8 0
2006 IND(3v) 12 4 0 TEN 8 8 0 JAX 8 8 0 HOU 6 10 0
2005 IND(1d) 14 2 0 JAX(5w) 12 4 0 TEN 4 12 0 HOU 2 14 0
2004 IND(3d) 12 4 0 JAX 9 7 0 HOU 7 9 0 TEN 7 9 0
2003 IND(3c) 12 4 0 TEN(5d) 12 4 0 JAX 5 11 0 HOU 5 11 0
2002 TEN(2c) 11 5 0 IND(5w) 10 6 0 JAX 6 10 0 HOU 4 12 0

AFC中地区[編集]

  • BAL:ボルチモア・レイブンズ、CIN:シンシナティ・ベンガルズ、CLE:クリーブランド・ブラウンズ、PIT:ピッツバーグ・スティーラーズ、HOU→TEN:ヒューストン・オイラーズ→テネシー・オイラーズ→テネシー・タイタンズ、JAX:ジャクソンビル・ジャガーズ
  • 1982年シーズンはストライキの影響により、地区別成績ではなくカンファレンス上位8チームがプレイオフ進出するルールであったが、ここでは地区別に変換して表記する。
  • 括弧内の数字はプレイオフ出場時のシード順(シード制導入前は表記なし)、文字はv:スーパーボウル優勝、s:スーパーボウル敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退、d:ディビジョナルプレーオフ敗退、w:ワイルドカードプレイオフ敗退。1982年についてはd:2回戦敗退、w:1回戦敗退。
年度 地区優勝 2位 3位 4位 5位 6位
チーム チーム チーム チーム チーム チーム
2001 PIT(1c) 13 3 0 BAL(5d) 10 6 0 CLE 7 9 0 TEN 7 9 0 JAX 6 10 0 CIN 6 10 0
2000 TEN(1d) 13 3 0 BAL(4v) 12 4 0 PIT 9 7 0 JAX 7 9 0 CIN 4 12 0 CLE 3 13 0
1999 JAX(1c) 14 2 0 TEN(4s) 13 3 0 BAL 8 8 0 PIT 6 10 0 CIN 4 12 0 CLE 2 14 0
1998 JAX(3d) 11 5 0 TEN 8 8 0 PIT 7 9 0 BAL 6 10 0 CIN 3 13 0
1997 PIT(2c) 11 5 0 JAX(5w) 11 5 0 TEN 8 8 0 CIN 7 9 0 BAL 6 9 1
1996 PIT(3d) 10 6 0 JAX(5c) 9 7 0 CIN 8 8 0 HOU 8 8 0 BAL 4 12 0
1995 PIT(2s) 11 5 0 CIN 7 9 0 HOU 7 9 0 CLE 5 11 0 JAX 4 12 0
1994 PIT(1c) 12 4 0 CLE(4d) 11 5 0 CIN 3 13 0 HOU 2 14 0
1993 HOU(2d) 12 4 0 PIT(6w) 9 7 0 CLE 7 9 0 CIN 3 13 0
1992 PIT(1d) 11 5 0 HOU(5w) 10 6 0 CLE 7 9 0 CIN 5 11 0
1991 HOU(3d) 11 5 0 PIT 7 9 0 CLE 6 10 0 CIN 3 13 0
1990 CIN(3d) 9 7 0 HOU(6w) 9 7 0 PIT 9 7 0 CLE 3 13 0
1989 CLE(2c) 9 6 1 HOU(4w) 9 7 0 PIT(5d) 9 7 0 CIN 8 8 0
1988 CIN(1s) 12 4 0 CLE(4w) 10 6 0 HOU(5d) 10 6 0 PIT 5 11 0
1987 CLE(2c) 10 5 0 HOU(4d) 9 6 0 PIT 8 7 0 CIN 4 11 0
1986 CLE(1c) 12 4 0 CIN 10 6 0 PIT 6 10 0 HOU 5 11 0
1985 CLE(3d) 8 8 0 CIN 7 9 0 PIT 7 9 0 HOU 5 11 0
1984 PIT(3c) 9 7 0 CIN 8 8 0 CLE 5 11 0 HOU 3 13 0
1983 PIT(3d) 10 6 0 CLE 9 7 0 CIN 7 9 0 HOU 2 14 0
1982 CIN(3w) 7 2 0 PIT(4w) 6 3 0 CLE(8w) 4 5 0 HOU 1 8 0
1981 CIN(1s) 12 4 0 PIT 8 8 0 HOU 7 9 0 CLE 5 11 0
1980 CLE(2d) 11 5 0 HOU(5w) 11 5 0 PIT 9 7 0 CIN 6 10 0
1979 PIT(2v) 12 4 0 HOU(4c) 11 5 0 CLE 9 7 0 CIN 4 12 0
1978 PIT(1v) 14 2 0 HOU(5c) 10 6 0 CLE 8 8 0 CIN 4 12 0
1977 PIT(3d) 9 5 0 CIN 8 6 0 HOU 8 6 0 CLE 6 8 0
1976 PIT(3c) 10 4 0 CIN 10 4 0 CLE 9 5 0 HOU 5 9 0
1975 PIT(1v) 12 2 0 CIN(4d) 11 3 0 HOU 10 4 0 CLE 3 11 0
1974 PIT(v) 10 3 1 HOU 7 7 0 CIN 7 7 0 CLE 4 10 0
1973 CIN(d) 10 4 0 PIT(d) 10 4 0 CLE 7 5 2 HOU 1 13 0
1972 PIT(c) 11 3 0 CLE(d) 10 4 0 CIN 8 6 0 HOU 1 13 0
1971 CLE(d) 9 5 0 PIT 6 8 0 HOU 4 9 1 CIN 4 10 0
1970 CIN(d) 8 6 0 CLE 7 7 0 PIT 5 9 0 HOU 3 10 1

AFL東地区[編集]

地区優勝 2位 3位 4位 5位
チーム チーム チーム チーム チーム
1969 NY(d) 10 4 0 HOU(d) 6 6 2 BOS 4 10 0 BUF 4 10 0 MIA 3 10 1
1968 NY(V) 11 3 0 HOU 7 7 0 MIA 5 8 1 BOS 4 10 0 BUF 1 12 1
1967 HOU(a) 9 4 1 NY 8 5 1 BUF 4 10 0 MIA 4 10 0 BOS 3 10 1
1966 BUF(a) 9 4 1 BOS 8 4 2 NY 6 6 2 HOU 3 11 0 MIA 3 11 0
1965 BUF(a) 10 3 1 NY 5 8 1 BOS 4 8 2 HOU 4 10 0
1964 BUF(v) 12 2 0 BOS 10 3 1 NY 5 8 1 HOU 4 10 0
1963 BOS(a) 7 6 1 BUF(d) 7 6 1 HOU 6 8 0 NY 5 8 1
1962 HOU(a) 11 3 0 BOS 9 4 1 BUF 7 6 1 NY 5 9 0
1961 HOU(v) 10 3 1 BOS 9 4 1 NY 7 7 0 BUF 6 8 0
1960 HOU(v) 10 4 0 NY 7 7 0 BUF 5 8 1 BOS 5 9 0

脚注[編集]

  1. ^ QBブランダ、1試合7TDパスのNFL記録達成”. NFL JAPAN (2010年11月19日). 2011年1月9日閲覧。
  2. ^ 1クォーターで49点!激動の試合が行われた日”. NFL JAPAN (2010年12月22日). 2011年1月9日閲覧。
  3. ^ QBブランダ、1試合パス68回のNFL記録”. NFL JAPAN (2010年11月1日). 2011年1月9日閲覧。
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  13. ^ この4年前アート・モデルオーナーにより、クリーブランド・ブラウンズボルチモアに移転、ボルチモア・レイブンズとなったがクリーブランド市民はブラウンズの歴史は将来再誘致しようとしていたチームに引き継がれるべきと反対した、後に加入したヒューストン・テキサンズはオイラーズの後継チームとはなっていない。
  14. ^ ナッシュビルには高等教育機関や伝統的な建築物が多くあり、南部のアテネと呼ばれていた。タイタンズはギリシア神話の巨人、ティーターンより。
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  16. ^ キックオフ・リターン中の前方へのパスは反則であるが、ラテラルに関しては規制がない。
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外部リンク[編集]