インディアナポリス・コルツ
| インディアナポリス・コルツ |
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| 1953年創設 | |
| 永久欠番 | 19, 22, 24, 70, 77, 82, 89 |
| 所属地区 | |
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| ホームタウン | |
インディアナ州インディアナポリス |
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| チームデザイン | |
ロイヤルブルー |
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ロイヤルブルーの蹄鉄 |
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| 獲得タイトル | |
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NFL西: 1958、1959、1964、1968 |
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NFL海岸地区: 1968 |
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1965、1971、1995、1996、2000、2002、2008、2012 |
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| 球団組織 | |
| オーナー: ジム・アーセイ | |
| GM: ライアン・グリグソン | |
| ヘッドコーチ: チャック・パガーノ (2012- ) | |
インディアナポリス・コルツ(Indianapolis Colts)は、インディアナ州インディアナポリスに本拠を置くNFLチームである。1953年、ボルチモア・コルツ(1947-50)を直接の前身として創設された。スーパーボウルにはボルチモア・コルツ時代の第5回とインディアナポリス移転後の第41回と2度優勝している。
目次 |
歴史[編集]
NFLには、ボルチモア・コルツという名称のチームが2つ存在していた。初代コルツは、1946年のAll-America Football Conference (AAFC) 創設時のチームのひとつで、1950年のAAFC合併時にNFLに加盟したが、そのシーズン後に解散している。
現在のインディアナポリス・コルツは、長い旅を経て今の場所に落ち着いた、と言える。NFLの公式記録としては、コルツは、1953年にボルチモアで発足したことになっている。1953年、NFLは、ボルチモア市に旧ダラス・テキサンズのフランチャイズを与えた。このフランチャイズは、コルツ発足までに、ボストン・ヤンクス (1944-48)、ニューヨーク・ブルドッグズ (1949)、ニューヨーク・ヤンクス (1950-51)、ダラス・テキサンズ (1952) と移動してきたものである。
ボルチモア・コルツ[編集]
一方、初代ボルチモア・コルツは、1946年にAAFCに創設されたマイアミ・シーホークスを前身とし、同チームが1947年にボルチモアに移転して誕生した。このコルツは1950年にNFLに加盟し、シーズンを1勝11敗で終えた。同チームは1950年のシーズン後に解散したが、ファンクラブやマーチングバンドなどの支援団体は活動を続け、チームの復活を働きかけた。詳しくは、en:Baltimore Colts (1947-50) を参照。
1953年、キャロル・ローゼンブルームが、新生NFLボルチモア・コルツの筆頭オーナーとなった。1958年、プロフットボール殿堂入りヘッドコーチ、ウィーブ・ユーバンクの下、同じく殿堂入りクォーターバックのジョニー・ユナイタス率いるコルツは、ヤンキースタジアムでのNFLチャンピオンシップで、ニューヨーク・ジャイアンツを23-17と下した。延長戦となったこの試合は、「史上最高の試合」とも称される[1]。コルツは翌1959年にもジャイアンツに31-16と勝利し、NFLチャンピオンシップを獲得。1960年代前半、コルツはNFL上位チームの地位を堅持していたが、1964年のNFLチャンピオンシップではクリーブランド・ブラウンズの前に0-27と敗れた。
1967年、コルツはレギュラーシーズンの最終週を無敗のまま迎えたが、ロサンゼルスでのロサンゼルス・ラムズ戦で10-34と敗れた。コルツ、ラムズ共に11勝1敗2分けであったため、この直接対決で勝利したラムズが西カンファレンス海岸地区の1位となり、コルツはプレイオフに進出することができなかった(両チームの同シーズン初対決は、ボルチモアのホームで24-24の引き分けに終わっている)。
1968年、シーズン成績13勝1敗のコルツは、ブラウンズとの再戦のチャンスを得、NFLチャンピオンシップゲームで34-0とブラウンズを下した。このレギュラーシーズンの成績とブラウンズ戦の圧勝により、コルツは「史上最も偉大なフットボール・チーム」とマスコミから称されることになった。ボビー・ボイド (DB)、マイク・カーティス (LB)、ジョン・マッキー (TE)、トム・マッテ (RB)、フレッド・ミラー (DL)、アール・モラル (QB)、ウィリー・リチャードソン (WR)、ボブ・ビューゲル (OL) といったプロボウル出場メンバーを擁するコルツは、第3回スーパーボウル(公式に「スーパーボウル」と呼ばれることになった初の大会)に出場した。スプレッドの賭けではコルツが17点有利とされたがこの試合では番狂わせが待っていた。ジョー・ネイマスとマット・スネルの率いるAFLチャンピオンニューヨーク・ジェッツに7-16と敗れた。この試合では試合途中から怪我のため先発出場しなかったジョニー・ユナイタスも交代出場したが逆転はならなかった。皮肉にも、このときのジェッツのヘッドコーチは、かつてコルツを2度のNFLチャンピオンに導いたウィーブ・ユーバンクであった。
1970年、NFLとAFLの統合された際にクリーブランド・ブラウンズ、ピッツバーグ・スティーラーズと共にボルチモア・コルツはAFCに移り、オークランド・レイダーズを27-17と下してAFCチャンピオンシップを獲得した。コルツは、統合後最初のスーパーボウル、第5回スーパーボウルでNFCのダラス・カウボーイズと戦い、ジム・オブライエンのフィールドゴールで16-13と勝利した。
1972年7月13日、ローゼンブルームとロバート・アーセイは、コルツとロサンゼルス・ラムズの所有権を交換したが、両チームの本拠地は変わらなかった。コルツは1970年代、さらに4回のプレイオフ出場を成し遂げた。1971年はワイルドカードで出場、1975年から1977年にかけて3年連続でAFC東地区優勝を果たした。この3年間、チームを引っ張ったのは、NFLで最も優秀なディフェンシブライン (通称「サック・パック」)だった。しかし、1978年以降、チームは9シーズンに及ぶ低迷期に入る。1978年最初の2試合、コルツは無得点に終わった。これはNFLチームとして初の記録であった。1981年のチーム最大の課題は、ディフェンスだった。コルツはNFL記録となる533失点を喫し[2]、サック数は史上最低の13、パントリターン数は近年のNFL最低記録の12だった。翌年は、オフェンスが崩壊した。1982年11月28日、リッチ・スタジアムでのバッファロー・ビルズ戦で、コルツのオフェンスチームは、一試合を通じて一度も敵陣に攻め込むことができなかった。18年後の2000年まで、NFLで同様の記録が作られることはなかった。1982年は、57日間に及ぶ選手のストライキのために9試合しか行われず、コルツは0勝8敗1分けでこのシーズンを終えた[3]。
インディアナポリスへの移転[編集]
上述のようなチームの危機に直面したチームオーナーのロバート・アーセイは、メリーランド州議会から、土地収用権によってチームの権利をボルチモア市に与える旨を宣告され、新天地を求めて、1984年3月29日の夜中に大手引越会社メイフラワー・トランジットのトラック数台で、本拠地をインディアナポリスに移した。選手会によるストライキが再び行われた1987年にチームはロサンゼルス・ラムズ、バッファロー・ビルズとの三角トレードによってエリック・ディッカーソンを獲得した。この年ディッカーソンの活躍もありチームは10年ぶりに地区優勝を果たしプレーオフに出場した。
1988年、デンバー・ブロンコスとのマンデーナイトフットボールでは、MNF記録となる55得点をあげた。それまでの記録は1982年にサンディエゴ・チャージャーズがあげた52得点であった[4]。
1990年にはNFLドラフト全体1位でQBジェフ・ジョージを獲得したがこの指名権を得るためにクリス・ヒントンとアンドレ・ライズンをアトランタ・ファルコンズに放出した。1991年、チームは1勝15敗のNFLワーストの成績に終わり1992年のドラフトでは全体1位、2位指名権を得てスティーブ・エントマン、クウェンティン・コリャートの指名を果たした。1994年にドラフトで獲得したマーシャル・フォークは最優秀新人選手に選ばれる活躍を見せ、翌1995年には9勝7敗の成績ながらQBジム・ハーボーやフォークの活躍でAFCチャンピオンシップゲームまで進出したが、ピッツバーグ・スティーラーズに16-20と敗れた。1996年も地区3位ながらワイルドカードでプレーオフに出場したが初戦でスティーラーズに敗れた。1997年は3勝13敗の地区最下位で終えたが、1998年のドラフト全体1位でペイトン・マニングを獲得した。
ペイトン・マニングの時代[編集]
1998年も3勝13敗の地区最下位に終わったが1999年、チームは13勝3敗と飛躍的に成績を改善させて地区優勝を果たした。1999年以降チームは2001年を除き毎年プレーオフ出場を果たす強豪となった。2002年からはタンパベイ・バッカニアーズのヘッドコーチだったトニー・ダンジーがヘッドコーチに就任、弱点だった守備が改善されていった。
2003年にはAFC南地区のタイトルを獲得し、プレーオフではデンバー・ブロンコスに41-10、カンザスシティ・チーフスに38-31と勝利したがAFCチャンピオンシップゲームでニューイングランド・ペイトリオッツに14-24で敗れた(この試合では審判が機能していなかったという批判がなされた。試合全体を通じて7回しかペナルティが宣告されず、そのうちの6回はスナップ前にコールされたものだった。この試合でペイトリオッツCBタイ・ローが行った接触プレイは翌年には禁止されタイ・ロー・ルールとも呼ばれる)。
2004年シーズン、開幕戦でペイトリオッツに敗れたが4連勝、バイウィーク後に連敗したがシーズン終盤に8連勝を果たしAFC南地区のタイトルを手にした。第16週のホームでのプレーオフ出場がかかったサンディエゴ・チャージャーズ戦時点でQBのペイトン・マニングはシーズン48TDパスというダン・マリーノの記録にあと一歩と迫っていた。16-31とリードされた場面でドミニク・ローズが88ヤードのキックオフリターンTDをあげて8点差に追い上げ、残り時間4分47秒、4ダウン4 で自陣25ヤードラインからの局面でパントではなくギャンブルを選択し成功、最後はWRのブランドン・ストークリーへのシーズン49回目のTDパスが成功し、ダン・マリーノの記録を破った。2ポイントコンバージョンも成功し31-31の同点となり試合は延長にもつれこんだ。コルツはマイク・バンダージャットのFGで34-31の勝利を収めプレーオフ出場が決まった。 ワイルドカード・プレーオフではホームで49-24と勝利する。この試合、マニングは33回中27回のパス成功で4TD、インターセプトは1回のみ、457ヤード獲得という驚異的な記録を残したが翌週のディビジョナル・プレーオフでペイトリオッツの前に3-20と敗れた。レギュラーシーズンでトップクラスの得点力を誇ったコルツオフェンスは相手ディフェンスにことごとく阻まれてシーズン唯一タッチダウンをあげられない試合となった。ディフェンスもペイトリオッツのボールコントロールオフェンスを止めることができず、7分を超えるドライブを3回許し、この3回で合計17点を奪われる結果に終わった。
2005年シーズンでは開幕13連勝を果たしたが第15週のサンディエゴ・チャージャーズ戦に敗れしかも多くの選手が怪我をしてしまった。翌週のシアトル・シーホークスにも敗れた。プレーオフではピッツバーグ・スティーラーズと対戦したが最後の最後までオフェンスラインがスティーラーズのLB陣のブリッツに対応しきれずマニングが思ったようなプレイをすることができなかった。しかし後半残り1分21秒相手RBジェローム・ベティスがボールをファンブル、それをコルツCBニック・ハーパーがリカバーし再度攻撃の機会が与えられた。残りわずかの時間でオフェンスはFG圏内までボールを進めたがKマイク・ヴァンダージャットが46ヤードのFGを失敗しシーズンが終わった。
2006年シーズン、2年連続の9連勝もあり地区優勝を果たした(AFC第3シード)。シーズン初めから故障者に悩まされ、特にディフェンスの先発選手4人がシーズン序盤でシーズン絶望になるなど、ディフェンスはがたがたになり、第14週のジャクソンビル・ジャガーズ戦ではランだけで375ヤードを許すという有様であった。 しかしポストシーズンでFSボブ・サンダースが戻るなどコルツディフェンスは息を吹き返し、ワイルドカードプレーオフではカンザスシティ・チーフスのRBラリー・ジョンソンのランを終始押さえ23-8で勝利、ディビジョナル・プレーオフではボルチモア・レイブンズのランなどを全般的に押さえ15-6で勝利した。
AFCチャンピオンシップでは2年連続敗れているペイトリオッツと対戦した。試合は前半一時3-21にまで点差を広げられたもののFGで3点を返しハーフタイムを6-21で折り返した。後半の最初のドライブでマニングのQBスニークによるTDで締めくくると、次のペイトリオッツの攻撃を3回で止めた。続くオフェンスではダン・クレッコへのTDパス、2ポイントコンバージョンが成功し同点となった。その後タッチダウンを奪われ21-28となった。第4Q残り13分24秒、コルツRBドミニク・ローズがエンドゾーン手前でファンブルしたがそれをCジェフ・サタデーがリカバー、TDをあげた。オフェンスラインマンが2回(ペイトリオッツのRTローガン・マンキンズとコルツのCジェフ・サタデー)タッチダウンをあげる試合はプレーオフ史上初のことであった。その後ペイトリオッツ、コルツともにFGで追加点を重ね31-34で後半2分17秒からコルツのオフェンスとなった。残り1分でのRBジョセフ・アダイのTDランで38-34と逆転し、最後ペイトリオッツの攻撃ではトム・ブレイディのパスをCBマーリン・ジャクソンがインターセプト、コルツが勝利した。最大18点差での逆転はチャンピオンシップ史上最大の逆転劇となった。第41回スーパーボウルでは最初のキックオフリターンでデビン・ヘスターにTDを決められたり、アダム・ビナティエリのFG失敗などがあったが、第4Qにケルビン・ヘイデンが相手QBレックス・グロスマンのパスをインターセプトするなど、ベアーズに29-17で逆転勝利し、36年ぶり2回目の優勝を達成した。
スーパーボウル優勝後も連続してプレーオフに出場していたが2年連続プレーオフ初戦で敗れ、2008年シーズン終了と共にトニー・ダンジーヘッドコーチは辞任した。
2009年、ジム・コールドウェルがヘッドコーチに就任し、オフェンスコーディネーターも退団したためコルツの栄光もここまでと予想したアナリストも多かったがチームは第16週にニューヨーク・ジェッツに敗れるまで開幕14連勝を果たした。この試合第3Q途中からチームはマニングなどの主力選手をベンチに下げた後に逆転負けを喫したがジム・アーセイオーナー、コールドウェルヘッドコーチはスーパーボウル制覇こそが大事でありシーズン16戦全勝にはこだわっていないことを改めて強調した。その後、14勝2敗でレギュラーシーズンを終え、AFC第1シードでプレーオフに進出。順調に勝ち上がりAFCチャンピオンシップゲームにおいてニューヨーク・ジェッツを30-17で下し第44回スーパーボウルへの進出を果たした。しかし、スーパーボウルではNFC代表のニューオーリンズ・セインツに31-17で敗れ、3年ぶりのスーパーボウル制覇は成し得なかった。
2010年、最終週に地区優勝を決めて、9年連続のプレーオフ出場となり、ダラス・カウボーイズが1975年から1983年に作ったNFL記録に並んだ[5]。しかし2011年1月8日、ワイルドカードプレーオフでニューヨーク・ジェッツに敗れた。
2011年シーズンは227試合に連続先発出場していたペイトン・マニングが開幕から欠場、急遽ケリー・コリンズを獲得したが[6]、コリンズも故障しシーズン絶望となり[7]、カーティス・ペインターが先発QBとして起用されたが連敗を止められず、ダン・オーロフスキーが先発QBとなった。オーロフスキーが先発に昇格して3戦目でシーズン初勝利、翌週のヒューストン・テキサンズ戦でも連勝した[8]。2012年のNFLドラフト全体1位指名権が獲得できるため、シーズン終盤ファンの中にはチームの敗戦を望む声も見られた。最終戦に敗れ2勝14敗、シーズン終了後、ジム・ボリアン副社長、クリス・ポリアンGM、ジム・コールドウェルヘッドコーチが解任され[9]、ボルチモア・レイブンズのディフェンスコーディネーター、チャック・パガーノを新ヘッドコーチとして迎えた[10]。3月にチームはペイトン・マニングを解雇、その後ダラス・クラーク、ジョセフ・アダイ、ゲイリー・プラケットらを解雇した[11]。
マニング退団以降[編集]
2012年のドラフト全体1位でスタンフォード大学のQBアンドリュー・ラックを指名した。10月1日、パガーノヘッドコーチが急性骨髄性白血病にかかっていることが明かされ、オフェンスコーディネーターのブルース・アリアンズが暫定ヘッドコーチに就任した[12]。12月24日、3ヶ月ぶりにパガーノヘッドコーチは復帰した。パガーノが不在の間、チームは2年ぶりのプレーオフ進出を決めている[13]。
主な選手[編集]
永久欠番[編集]
殿堂入り[編集]
- レイモンド・ベリー
- アート・ドノバン
- ジノ・マーケッティ
- レニー・ムーア
- ジョニー・ユナイタス
- エリック・ディッカーソン
その他主な選手、コーチ[編集]
- バート・ジョーンズ
- ライデル・ミッチェル
- アール・モラル
- ババ・スミス
- ウィーブ・ユーバンク
- デュアン・ビケット
- マーシャル・フォーク
- ジム・ハーボー
- マーカス・ポラード
- ペイトン・マニング
- マービン・ハリソン
- ドワイト・フリーニー
-
ジム・アーセイオーナー
ヘッドコーチ[編集]
- キース・モルスワース 1953
- ウィーブ・ユーバンク 1954-1962
- ドン・シュラ 1963-1969
- ドン・マキャフリー 1970-1972
- ジョン・サンダスキー 1972
- ハワード・シュネレンバーガー 1973-1974
- ジョー・トーマス 1974
- テッド・マーチブローダ 1975-1979
- マイク・マコーマック 1980-1981
- フランク・カッシュ 1982-1984
- ロッド・ダウハウワー 1985-1986
- ロン・マイヤー 1986-1991
- リック・ベンチュリ 1991
- テッド・マーチブローダ 1992-1995
- リンディ・インファンテ 1996-1997
- ジム・E・モーラ 1998-2001
- トニー・ダンジー 2002-2008
- ジム・コールドウェル 2009-2011
- チャック・パガーノ 2012-
- ブルース・アリアンズ 2012(暫定)
脚注[編集]
- ^ “リーグ史上に残るオーバータイム名勝負トップ5”. NFL JAPAN (2011年7月19日). 2011年8月2日閲覧。
- ^ ライオンズ全敗阻止へ、「最終戦は俺たちのスーパーボウル」 NFL JAPAN 2008年12月28日
- ^ この他にシーズンを通じて無勝利に終わったチームは1976年のタンパベイ・バッカニアーズ(加入したシーズン)、2008年のデトロイト・ライオンズなどがある。
- ^ “MNF History: 1988”. ABC (2002年8月29日). 2013年6月1日閲覧。
- ^ “9年連続プレイオフのコルツ、「特別なこと」とオーナー”. NFL JAPAN (2011年1月3日). 2011年12月1日閲覧。
- ^ 生沢浩 (2011年9月22日). “マニング不在のコルツ、開幕連敗で迫る決断の時【前編】”. NFL JAPAN. 2011年12月1日閲覧。
- ^ “マニング代役のQBコリンズが今季絶望に”. NFL JAPAN (2011年10月26日). 2011年12月1日閲覧。
- ^ 生沢浩 (2011年11月29日). “ジャーニーマンの意地、大仕事で流浪に終止符を【後編】”. NFL JAPAN. 2012年1月9日閲覧。
- ^ “コルツ、コールドウェルHCを解任”. NFL JAPAN (2012年1月18日). 2012年1月18日閲覧。
- ^ “コルツ、パガーノ新HC就任が意味するものは?”. NFL JAPAN (2012年1月26日). 2012年1月26日閲覧。
- ^ “マニング退団のコルツ、TEクラークとRBアダイも解雇”. NFL JAPAN (2012年3月10日). 2012年3月10日閲覧。
- ^ “コルツHCが白血病で入院、復帰までアリアンズOCが暫定HCに”. NFL JAPAN (2012年10月2日). 2012年10月20日閲覧。
- ^ “3カ月ぶりに復帰のコルツHC、オーナーのサポートに感謝”. NFL JAPAN (2012年12月25日). 2012年12月25日閲覧。
外部リンク[編集]
- Indianapolis Colts (英語)
- NFL JAPAN (日本語)
- 歴史を残した! コルツ歴代最強10人 (NFL JAPAN)
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