グリーンベイ・パッカーズ
| グリーンベイ・パッカーズ |
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| 1919年創設 | |
| 永久欠番 | 3,14,15,66,92 |
| 所属地区 | |
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| ホームタウン | |
ウィスコンシン州グリーンベイ |
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| チームデザイン | |
ダークグリーン |
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ダークグリーンの楕円の中に白で大文字のG、黄色の縁取り |
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| 獲得タイトル | |
NFLチャンピオン: 1929、1930、1931、1936、1939、1944、1961、1962、1965 |
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NFL西: 1960、1961、1962、1965、1966、1967 |
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NFL西地区: 1936、1938、1939、1944 |
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1941、1960、1961、1962、1965、1966、1982、1993、1994、1998、2001、2009、 2010 |
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| 球団組織 | |
| オーナー: マーク・マーフィー | |
| GM: テッド・トンプソン | |
| ヘッドコーチ: マイク・マッカーシー (2006-) | |
グリーンベイ・パッカーズ (Green Bay Packers) は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州グリーンベイに本拠を置くNFLチームである。NFC北地区に所属している。1921年、創立2年目のNFLに加盟しており現在あるチームの中ではアリゾナ・カージナルス、シカゴ・ベアーズに次いで3番目に古いチームとなっている。パッカーズは、現在の同国で唯一、一般市民が100%保有しているプロスポーツチームである。
パッカーズは、史上最多の計13回にわたりNFLチャンピオンとなっている。スーパーボウル優勝は4回でそのうち2回はAFLとNFLチャンピオンの対戦として行われた第1回スーパーボウル、第2回スーパーボウル、1970年のAFLとNFL統合後の優勝は1996年度の第31回スーパーボウル、2010年度の第45回スーパーボウルである。アメリカでは非常に人気の高いチームであり、人気チームの世論調査においてもダラス・カウボーイズなどと共に常に上位に位置している[1]。
目次 |
フランチャイズ史 [編集]
ロンバルディ就任以前 [編集]
グリーンベイ・パッカーズは、1919年8月11日に創設された。当初はアクミー・パッカーズといった。創設者のカーリー・ランボー(選手兼ヘッドコーチでパッカーズの本拠地であるランボー・フィールドに名前が残っている。)は、彼の勤めるインディアン・パッキング・カンパニーに、ユニフォーム購入の資金提供を求めた。同社がこのチームを支援していたのは最初のシーズンのみだったが、グリーンベイのフットボールクラブの名称は、今も変わらず「パッカーズ」である。ノートルダム大学出身のランボーは、母校の校歌にちなんで、青と金 (黄) をチームカラーとした。この色は後に、現在の、緑と金 (黄) に変更される。この配色から、「ザ・グリーン・アンド・ゴールド」というチームの愛称が生まれた。
1921年、パッカーズは前年に設立されたプロフェッショナルリーグ(のちのNFL)に加盟したが、同じ年、缶詰会社のスポンサーが手を引いたため財政難によりフランチャイズを失う。ランボーは自ら資金を調達し、再びフランチャイズを得た。1922年から1923年にかけて、ランボーや地元新聞社主アンドリュー・ターンブルをはじめとする5人(通称"ハングリー・ファイブ")が奔走し、グリーンベイ・フットボール・コーポレーションを設立した。こうして、現在も続くパッカーズの基礎が形作られた。
パッカーズは、現在のアメリカのプロスポーツチーム中唯一の、取締役会を持つ公有企業である。プロスポーツチームは、1 個人か、パートナーシップ、または企業体が「チームオーナー」として所有しているのが普通である。また、通常NFLチームを維持できるのはある程度の大都市に限られるが、グリーンベイは人口10万余りにすぎない。これはパッカーズには長年にわたってウィスコンシン州全体に熱心な支持者がいるためだと考えられている。実際、数十年の間、ミルウォーキーでもホームゲームを開催していた。パッカーズが全ホームゲームをグリーンベイで戦うようになったのは、1995年のことである。
1923年の グリーンベイ・フットボール・コーポレーション定款で、パッカーズのフランチャイズが売却されることになった場合は、米国在郷軍人会のサリバン・ウォーレン・ポストに、"正規兵士記念碑" 建設のため、すべての債務を清算したあとの残金を寄贈するものと定められた。この規定が設けられたのは、このクラブがグリーンベイで存続し続けることと、このクラブは株主の金銭的利益のためにあるものではないことを顕示するためであった。1997年11月の年次会議の株主投票で、受取人がサリバン・ウォーレン・ポストからグリーンベイ・パッカーズ・ファウンデーションへと変更された。1950年、パッカーズは、チーム運営資金調達のために再び株式を発行した。1956年には、新しいスタジアム(後のランボー・フィールド) の建設が承認された。
1997年末と1998年の始めごろにも、株式発行が行われた。このときの増資額は2400万ドルを超え、105,989人が新たに株主となった。この資金は、ランボー・フィールドの再整備プロジェクトに投入された。1998年3月16日までの17週間で、1株あたり200ドルで120,010株が発行された。2005年6月8日からは、111,921人の株主 (合計4,749,925株を保有) に、フランチャイズ所有者としての権利が与えられている。株式は議決権付きであるが、償還価格は最低限であり、配当はなく、株価が上がることもなく、株式を保有していてもシーズンチケットの権利は得られない。特定の個人がクラブを掌握することのないよう、1人が保有できる株式は20万株までに限られている。会社運営のため、株主の投票で取締役会が選出される。この取締役会により、経営委員会(役員)が選出される。この委員会は、社長、副社長、会計、秘書の各1名ずつと、株主代表の3名の計7名で構成される。このうち報酬が支払われるのは社長のみで、その他の役職は無給である。
パッカーズのリーグチャンピオンシップ獲得回数13回(うち3回がスーパーボウル)は、NFLチーム中最多である。リーグ(旧NFLチャンピオンシップ)3連覇を成し遂げた唯一のチームでもあり、1929年から1931年と、1965年から1967年の2度にわたってこの記録を打ち立てた。
ヴィンス・ロンバルディの時代 [編集]
1958年地区最下位となったが、1959年にヴィンス・ロンバルディがヘッドコーチになると開幕から3連勝した後5連敗したが残り4試合に連勝し1947年以来となる勝ち越しを果たした。翌年の1960年にはNFL西地区優勝を果たしポール・ホーナングはNFLトップの176得点をあげた。フィラデルフィア・イーグルスとのNFLチャンピオンシップゲームは一進一退のシーソーゲームとなったが最後の攻撃が敵陣8ヤードで止められて4点差で敗れた。1961年のNFLチャンピオンシップゲームではニューヨーク・ジャイアンツと対戦し1944年以来となるNFLチャンピオンになった。1962年には開幕から10連勝し13勝1敗でシーズンを終えた。2年連続の対戦となったニューヨーク・ジャイアンツとのNFLチャンピオンシップゲームでは16-7で勝利した。
その後2シーズン間をおいて1965年にパッカーズは再びNFLチャンピオンシップゲームに出場した。ウェスタンカンファレンスを制したボルチモア・コルツ戦ではドン・チャンドラーの右に外れたFGが得点を認められるといったことも起きた。NFLチャンピオンシップゲームではクリーブランド・ブラウンズを破りロンバルディが就任以来3回目の優勝をかざった。
1966年、12勝2敗でバート・スターがシーズンMVPに選ばれた。ダラス・カウボーイズとのNFLチャンピオンシップゲームでは最後自陣2ヤードまで攻め込まれたがドン・メレディスのパスをトム・ブラウンがインターセプトし34-27と勝利し、1970年に統合することが決定していたAFLのチャンピオン、カンザスシティ・チーフスと第1回スーパーボウルで対戦し35-10で勝利した。
1967年NFLチャンピオンシップゲームは後にアイスボウルと呼ばれる極寒の中で行われた。この試合残り16秒でバート・スターのQBスニークでタッチダウンをあげてダラス・カウボーイズを破り3年連続NFLチャンピオンとなった[2]。
第2回スーパーボウルでオークランド・レイダーズを33-14と破りこの試合を最後にヴィンス・ロンバルディは勇退しゼネラルマネージャーとなり、後任には彼の下でアシスタントコーチを務めたフィル・ベングストンがなった。ロンバルディは1969年にワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチとなったが1970年シーズン前の9月に亡くなった。
同チームは第1回と第2回のスーパーボウルを制した。この時代のスター選手はQBバート・スター、RBジム・テイラー、キャロル・デイル、ポール・ホーナング(エクストラポイントやFGも蹴った。)、RGのジェリー・クレイマー、ディフェンスのヘンリー・ジョーダン、ウィリー・ウッズ、レイ・ニチキ、デイブ・ロビンソン、ハーブ・アダリーらであった。1970年にロンバルディが死去すると、スーパーボウル優勝トロフィーは彼の功績を称えて「ヴィンス・ロンバルディ・トロフィー」と名づけられ、今に至っている。
ロンバルディ退団後の長期低迷 [編集]
1968年から1991年までの24シーズン中パッカーズが勝ち越したのはわずか5シーズンであった。この間プレーオフに出場したのは2回で5人のヘッドコーチ(フィル・ベングストン、ダン・ディバイン、バート・スター、フォレスト・グレッグ、リンディー・インファンテ)が交代した。1974年のドラフトでは1巡目指名権2つ、2巡目指名権2つ、3巡目指名権をロサンゼルス・ラムズのピークを過ぎたQBジョン・ヘイドルを獲得するために手放した。ヘイドルは1年半しかパッカーズでプレイしなかった。1989年のドラフトではバリー・サンダース、ディオン・サンダース、デリック・トーマスなどの有望な選手がいたものの多くのスカウトから疑問視されていたOTのトニー・マンダリッチを獲得するといったことがあった。
ファーヴの時代 [編集]
1991年にロン・ウルフがゼネラルマネージャーに就任、1992年、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのオフェンスコーディネーターであったマイク・ホルムグレンがヘッドコーチに就任した。エースQBのドン・マコウスキーがシンシナティ・ベンガルズ戦で負傷退場したが、ロン・ウルフによってドラフト1巡目指名権と引き換えにアトランタ・ファルコンズから獲得したブレット・ファーブがリリーフ、キトリック・テイラーへのTDパスで逆転勝利した[3]。
翌週のピッツバーグ・スティーラーズ戦以降ファーヴはプレーオフも含めて271試合に先発出場する不動のエースQBとなった。
1993年にはフリーエージェントになっていたフィラデルフィア・イーグルスのDE、レジー・ホワイトを獲得した。12月26日のロサンゼルス・レイダーズ戦でファンブルリターンタッチダウンをあげたリロイ・バトラーがランボー・フィールドの観客席に飛び込んだ。これが「ランボー・リープ」の始まりとなった[4]。この年チームは1982年以来11年ぶりとなるプレーオフ進出を果たした。
1994年にもチームはプレーオフ2回戦まで勝ちあがるようになった。
1995年には1972年のNFL以来となるNFC中地区優勝を果たした。プレーオフではアトランタ・ファルコンズに37-20、前年のスーパーボウルチャンピオンであるサンフランシスコ・フォーティナイナーズに27-17と勝ったがNFCチャンピオンシップゲームでダラス・カウボーイズに38-27で敗れた。シーズン終了後、3シーズン連続でオールプロに選ばれていたWRスターリング・シャープが首の負傷の影響で引退した[5]。
1996年にはリーグベストの13勝3敗でプレーオフのホームフィールドアドバンテージを取るとフォーティナイナーズに35-14、カロライナ・パンサーズに35-14で勝利し第31回スーパーボウルではニューイングランド・ペイトリオッツを35-21で破り12度目のNFLチャンピオンとなった。この試合では第3Qにキックオフリターンタッチダウンを決めたデズモンド・ハワードがMVPとなっている[6]。
1997年シーズンもプレーオフでタンパベイ・バッカニアーズに21-7、フォーティナイナーズを23-10で破り第32回スーパーボウルに出場した。この試合ブックメーカーはパッカーズが11.5得点有利としたが24-31でデンバー・ブロンコスに敗れた[7]。
1998年、1995年9月17日から続いていたホームでの連勝を10月5日、25連勝まで伸ばした。これはNFL歴代2位の記録であった[8]。10月5日まで11勝5敗でシーズンを終えてプレーオフで3シーズン連続破っていたフォーティナイナーズと対戦したがこの試合に敗れた。この試合を最後にホルムグレンヘッドコーチは退団し[8]、シアトル・シーホークスの副社長、ゼネラルマネージャー、ヘッドコーチを兼ねるようになった。この時に多くのコーチがホルムグレンに従った。またレジー・ホワイトも現役を引退した。(彼は2000年現役復帰してカロライナ・パンサーズでプレイした。)
1999年、レイ・ローズがヘッドコーチとなり8勝8敗でシーズンを終えた。シーズン終了と共にローズは解任された。この年チームには規律が欠けていたとロン・ウルフは語った[8]。
2000年、マイク・シャーマンが就任し9勝7敗でシーズンを終えた[8]。
地元で行われたプレーオフでは1933年以来13勝0敗であったが2002年1月4日にアトランタ・ファルコンズに敗れてこの記録は途絶えた。
2005年、マイク・ホルムグレンの下で働いていたテッド・トンプソンがゼネラルマネージャーに就任した[9]。このシーズン、4勝12敗となり1991年以来となるシーズン負け越しを喫するとチームはマイク・シャーマンヘッドコーチを解任し、1999年にパッカーズのQBコーチ、その後サンフランシスコ・フォーティナイナーズのオフェンシブ・コーディネーターを務めていたマイク・マッカーシーが新ヘッドコーチとなった[9]。2006年は8勝8敗でシーズンを終えた。
2007年、チームはフリーエージェントとなったエースRBのアーマン・グリーンを失い、WRランディ・モスの獲得に敗れるなど十分な補強がされなかったと見られていたが最初の11試合中10試合に勝利するなど13勝3敗でNFC第2シードとなりNFCチャンピオンシップゲームでニューヨーク・ジャイアンツにオーバータイムの末20-23と敗れてシーズンを終えた。チーム躍進の立役者としてトンプソンGMが最優秀エグゼクティブ賞を受賞した。2008年3月4日、ブレット・ファーヴが引退を表明したためアーロン・ロジャースをエースQBに指名した。その後ファーヴは同年7月29日に引退を撤回したがチームはロジャースをエースQBとして起用する姿勢を崩さず8月6日、ファーヴをニューヨーク・ジェッツへ放出した[10]。
ロジャーズ時代 [編集]
2008年、ファーヴの引退表明によりエースQBに指名されたQBアーロン・ロジャースは好成績を残したがチームは4点差以内で7敗するなど6勝10敗でシーズンを終えた。
2009年、チームはディフェンスコーディネーターにドム・ケイパースを招きそれまでの4-3ディフェンスから3-4ディフェンスに変更を行った[11]。前半8試合を4勝4敗で折り返したが[12]11勝5敗でワイルドカードでプレーオフに進出を果たしたが[13]アリゾナ・カージナルスにオーバータイムの末、45-51で敗れてシーズンを終えた[14]。
2010年、開幕戦のフィラデルフィア・イーグルス戦でエースRBのライアン・グラントがシーズン絶望となり[15]、第5週のワシントン・レッドスキンズ戦でアーロン・ロジャースが脳震盪、ニック・バーネット、ジャーマイケル・フィンリーがシーズン絶望となった[16][17]。第14週のデトロイト・ライオンズ戦でアーロン・ロジャースが再度脳震盪を起こし途中退場して敗れるなどプレーオフ出場が一時危ぶまれた[18]。第15週をロジャースは欠場したが第16週にプレーオフを争うニューヨーク・ジャイアンツを破り[19][20]、最終週でシカゴ・ベアーズを下してNFC第6シードでプレーオフ出場を果たした[21][22]。
この年チームには故障者リスト入りする選手が続出したがワイルドカードプレーオフではフィラデルフィア・イーグルス戦でロジャースが3タッチダウンパスをあげて21-16で[23][24]、ディビジョナルプレーオフではNFC第1シードのアトランタ・ファルコンズをロジャースがパス36回中31回を成功させ48-21と大差で勝利[25]、NFCチャンピオンシップゲームで地区ライバルのシカゴ・ベアーズを下しNFCのチームとしては初めて第6シードからのスーパーボウル出場を決めた[26]。スーパーボウルではピッツバーグ・スティーラーズを31-25で破り14年ぶりにタイトルを取り戻した[27]。MVPには3TDパスをあげたアーロン・ロジャースが選ばれた[28]。
応援スタイル [編集]
パッカーズのファン層は、献身的なことで有名である。チームの成績に関わらず、1960年以後、ランボー・フィールド(1シーズン8試合)での試合の入場券はすべて完売している。シーズンチケットのキャンセル待ちの人数は、あらゆるプロスポーツチームの中で最も多い(6万5000人以上)。現在、シーズンチケット入手までには実に40年を要する。このため、ファンがシーズンチケット権の相続人を遺言で指名することも珍しくない。
パッカーズファンの通称は、「チーズヘッド」(穴あきチーズのようにスカスカの脳、というのが元々の意味)である。これは、ウィスコンシン州がチーズの生産地として有名なこととファンとしての熱狂ぶりとを掛けたあだ名である。ファンは、この名になぞらえてチーズ形の帽子をかぶり、「チーズヘッド」の名をますます高めている。
歴代ヘッドコーチ [編集]
| シーズン | 氏名 | 勝-敗-分 |
|---|---|---|
| 1921-1949 | カーリー・ランボー | (212-106-21) |
| 1950-1953 | ジーン・ロンザーニ | (14-31-1) |
| 1953 | ヒュー・デボー | (0-2-0) |
| レイ・スクーター・マクリーン | ||
| 1954-1957 | ライル・ブラックボーン | (17-31-0) |
| 1958 | レイ・スクーター・マクリーン | (1-10-1) |
| 1959-1967 | ヴィンス・ロンバルディ | (98-30-4) |
| 1968-1970 | フィル・ベングストン | (20-21-1) |
| 1971-1974 | ダン・ディバイン | (25-28-4) |
| 1975-1983 | バート・スター | (53-77-3) |
| 1984-1987 | フォレスト・グレッグ | (25-37-1) |
| 1988-1991 | リンディー・インファンテ | (24-40-0) |
| 1992-1998 | マイク・ホルムグレン | (84-42-0) |
| 1999 | レイ・ローズ | (8-8-0) |
| 2000-2005 | マイク・シャーマン | (59-43-0) |
| 2006- | マイク・マッカーシー | (39-27-0) |
※2009シーズン終了時点
主な選手 [編集]
永久欠番 [編集]
- 3 トニー・キャナデオ
- 14 ドン・ハトソン
- 15 バート・スター
- 66 レイ・ニチキ
- 92 レジー・ホワイト (彼の背番号は実質1999年以降使用されていなかったが、2004年12月26日の不慮の死を追悼し、2005年9月18日の試合のハーフタイムセレモニーで、永久欠番と定められた)[30]
殿堂入り [編集]
- ハーブ・アダリー
- トニー・キャナデオ
- ウィリー・デービス
- レン・フォード
- フォレスト・グレッグ
- テッド・ヘンドリックス
- アーニー・ハーバー
- クラーク・ヒンケル
- ポール・ホーナング
- カル・ハバード
- ドン・ハトソン
- ヘンリー・ジョーダン
- ウォルト・キースリング
- カーリー・ランボー
- ジェームス・ロフトン
- ヴィンス・ロンバルディ
- ジョン・ブラッド・マクナリー
- マイク・ミカルスキ
- レイ・ニチキ
- ジム・リンゴ
- バート・スター
- ジャン・スティーネルード
- ジム・テイラー
- エムレン・タネル
- レジー・ホワイト
- ウィリー・ウッド
その他主な選手 [編集]
- エドガー・ベネット
- トニー・ベネット
- ジョン・ブロッキントン
- ロバート・ブルックス
- リロイ・バトラー - 1993年パッカーズの選手として初めてランボー・リープ(TD後観客席に飛び込むセレブレーション)を行った[31]。
- チャック・セシル
- マーク・チュムラ
- リン・ディッキー
- アントニオ・フリーマン
- ティム・ハリス
- セシル・イズベル
- ショーン・ジョーンズ
- ジェリー・クレイマー (『Instant Replay』の著者)
- マーク・リー
- ドーシー・レベンズ
- ドン・マコウスキー
- スティーブ・マクマイケル
- ブライス・パウプ
- ユージン・ロビンソン
- スターリング・シャープ
- ダレン・シャーパー
- クリス・ジャック
- ヴィンス・ワークマン
脚注 [編集]
- ^ Dallas Cowboys are Again America's Favorite Football Team Harris Interactive. 2013年2月1日閲覧。
- ^ VHS 『グレーテスト・タッチダウン ベスト100』(Number)
- ^ “The record starts here”. ロサンゼルス・タイムズ. 2012年6月6日閲覧。
- ^ “パッカーズ本拠地の名物“ランボー・リープ”が生まれて15年”. NFL JAPAN (2008年12月27日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “【スーパーボウルまで追いかけ隊】コルツはワンマンアーミーだったのか”. アスキー (2011年11月4日). 2012年6月6日閲覧。
- ^ “Super Bowl XXXI MVP: Desmond Howard”. nfl.com (1997年1月27日). 2012年6月6日閲覧。
- ^ “Packers Open as Super Bowl Favorite”. topsportsbooks.com (2011年1月25日). 2012年6月6日閲覧。
- ^ a b c d “Packers Manager Steps Down”. ABC (2001年2月1日). 2012年6月6日閲覧。
- ^ a b 生沢浩 (2011年4月7日). “ドラフトはポリシー発露の場、名人の戦略に注目【前編】”. NFL JAPAN. 2011年4月28日閲覧。
- ^ “ロジャース抜擢の賭けに成功したパッカーズ”. NFL JAPAN (2011年2月2日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “パッカーズ指揮官、守備の3-4隊形移行に好感触”. NFL JAPAN (2009年6月19日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “パッカーズHC、プレイオフ出場も「まだ仕事は残っている」”. NFL JAPAN (2009年12月28日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “【第17週】パッカーズ、プレイオフ前哨戦に圧勝”. NFL JAPAN (2010年1月4日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “【WC】カーディナルスがOT勝利、壮絶な点取り合戦制す”. NFL JAPAN (2010年1月11日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “パッカーズに衝撃、エースRBグラントがシーズン絶望に”. NFL JAPAN (2010年9月15日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “【第6週プレビュー】故障者続出のパッカーズ、試金石の一戦”. NFL JAPAN (2010年10月16日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “パッカーズひと安心、QBロジャースが次戦先発へ”. NFL JAPAN (2010年10月16日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “プレイオフ進出へ黄信号? ジェッツ&パッカーズ”. NFL JAPAN (2010年12月14日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “ロジャース大活躍のパッカーズ圧勝、プレイオフ戦線に生き残る”. NFL JAPAN (2010年12月27日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “QBロジャース完全復活、「ポジション奪回しなくちゃ」”. NFL JAPAN (2010年12月27日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “パッカーズ、ロースコアの戦い制しプレイオフの切符つかむ”. NFL JAPAN (2011年1月3日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “最終切符ゲットのパッカーズ、第6シードからの波乱に自信”. NFL JAPAN (2011年1月3日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “QBロジャース3TDパス、パッカーズが敵地で熱戦制す”. NFL JAPAN (2011年1月10日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “ディビショナル・プレイオフ進出、好調パッカーズの強みとは?”. NFL JAPAN (2011年1月11日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “QBロジャース大暴れ、パッカーズが第1シードのファルコンズ粉砕”. NFL JAPAN (2011年1月16日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “パッカーズ堅守で勝利、第6シードからスーパーボウルへ”. NFL JAPAN (2011年1月24日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “パッカーズ、14年ぶりスーパーボウル制覇!”. NFL JAPAN (2011年2月7日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ “スーパーボウルMVPは3TDパスのQBロジャース”. NFL JAPAN (2011年2月7日). 2011年2月7日閲覧。
- ^ マット・ミレンがフロント入りしてからというもの同地区ライバルのデトロイト・ライオンズは低迷し彼の解任の噂が絶えなかった。2008年シーズン16戦全敗したライオンズはミレンを解任した。
- ^ Packers To Retire Reggie White's Number Sept. 18 packers.com
- ^ パッカーズ本拠地の名物“ランボー・リープ”が生まれて15年 NFL JAPAN 2008年12月27日
外部リンク [編集]
- Green Bay Packers (英語)
- NFL JAPANプロフィール (日本語)
- Packer Zone
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