帝亜丸

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Teia maru.jpg
船歴
発注 ラ・メディテラネ社ラ・セーヌ造船所
進水 1931年6月30日
竣工 1932年
就役 1932年10月21日
喪失 1944年8月18日
性能諸元
総トン数 17,536トン
排水量 21,550トン
垂線間長 172m
水線長 165.0m
全幅 21.26m
型深 14.30m
吃水 8.56m
機関 ズルツァー社10気筒ディーゼル機関2基2軸推進
出力 14,700馬力(指示)[注釈 1]
最大速力 16.5ノット[注釈 2]
巡航速力 14.1ノット
乗客 一等191人、二等125人、三等101人、臨時642人。
同型船 フェリックス・ルーセル
ジョルジュ・フィリッパー[2]
備考 諸元は原則として引渡時の記録[3]

帝亜丸(ていあまる)とは、1942年から1944年にかけて日本郵船が運航した貨客船である。前身はフランス船アラミスフランス語: Aramis)で、第二次世界大戦の影響により帰国不能となってフランス領インドシナに滞留していたところを、日本海軍が秘密協定にもとづいて借受け日本郵船に運航を委ねた。日本では交換船軍隊輸送船として使用されたが、1944年8月18日アメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没、乗船者2000人以上が死亡した。

フランス船「アラミス」[編集]

本船は、メサジュリ・マリティム社en, MM社, フランス郵船)の所有船として1931年ラ・セーヌ=シュル=メール造船所で進水し、「アラミス」と命名、翌1932年に竣工した[1]。極東航路向けに設計された快速貨客船で、一等客室をはじめとして豪華な内装が施された。主機にディーゼルエンジンを採用し、四角い断面の低い2本の煙突が外観上の特徴である[2]。乗客定員は一等191人・二等125人・三等101人のほか、船倉を利用して642人の乗船が可能で、総計1059人だった[3]。同型船として、「フェリックス・ルーセル」(fr)と「ジョルジュ・フィリッパー」(en)の2隻が建造されている。

竣工した「アラミス」は、予定通り極東航路に就航した。フランス本国のマルセイユと、植民地であるフランス領インドシナ(仏印)、さらに日本の神戸港までをスエズ運河を経由して結んだ。なお、姉妹船も同様に極東航路に就航したが、「ジョルジュ・フィリッパー」は処女航海の帰路の途中、1932年5月16日にアデン湾で火災を起こし沈没している[2]

1933年6月22日に「アラミス」は、Chuzan諸島で座礁事故を起こした。フランス極東艦隊軽巡洋艦プリモゲ」に曳航されて日本に向かい、修理を受けた[1]

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、「アラミス」はフランス海軍の徴用を受け、仮装巡洋艦へと改装された。1武装として「カネー Model 1910 13.9cm(55口径)速射砲」8門と「Model 1927 7.5cm(60口径)高角砲」2門、オチキス社製の「1933年型 37 mm(50口径)機関砲」2門、機関銃8門が装備されている[1]。改装後はX1と呼称されて極東海域の哨戒任務に従事したが、1940年6月のフランス降伏により、武装解除のうえサイゴンに係留されることになった。ただし、フランス海軍による徴用は解除されず、軍用の宿泊船として引き続き使用されていた。なお、同様に仏印領内に残ったフランス船籍・仏印船籍の商船は、1941年末時点で500総トン以上のものが27隻(計10万総トン)、うち10隻は4000総トン以上の船であった[4]

日本船「帝亜丸」[編集]

徴用の経緯[編集]

フランス商船が遊休状態になっているのに目を付けたのが、船腹不足に悩んでいた日本政府であった。日本の外務省は、第二次世界大戦参戦前の1941年(昭和16年)初頭までには、ヴィシーフランス政府・仏印植民地政府との間で遊休フランス商船の一括借り上げの交渉を開始していた[5]。フランス側のジャン・ドクーen仏印総督は、イギリス海軍による拿捕のおそれや、仏印とマダガスカル島上海との自国航路の維持に必要なこと、フランス海軍が徴用中であることなどを理由に難色を示し[6]、日本軍の南部仏印進駐や1941年12月の太平洋戦争勃発後も交渉が続いた。しだいにフランス側は譲歩し、1942年(昭和17年)2月25日には、原田駐仏代理大使[注釈 3]とヴィシー本国政府との間で、フランス船旗下でのチャーター方式とし、仏印・上海・日本間航路専用、中立義務違反となる軍需輸送には用いないとする旨の基本合意ができ、覚書が作成されるに至った[7]

ところが、日仏の交渉を知ったアメリカ政府は、ヴィシーフランス政府に対して抗議を行った。マルティニークなどアメリカ州内のフランス植民地の占領を恐れたヴィシー本国政府は、公然と傭船契約を結ぶことを避け、名目上は日本側の一方的な徴発の形式とすることを日本側に提案した[8][注釈 4]。この提案を受ける形で、4月6日、日本側は、ドクー総督に対し、4月10日を交渉期限として徴発に移ることを通告し[10]、4月11日に日本海軍が徴用実施を通告した[11]。ドクー総督ら仏印当局はなおも不服としたが、本国政府からの徴発を容認する訓令を受けて引渡に応じた[12]

その後、傭船料など条件面の交渉が行われ、6月15日に特設砲艦「永福丸」砲艦長の堀内馨海軍大佐と仏印海軍司令官レジ・ベランジェ(Régis Bérenger)少将により日仏海軍の「徴用実施基礎協定」が締結された[13]。チャーターではなく乗員無しの裸傭船の契約形態となり、戦災などによる喪失時には代船を返還するものとされた。本船は無期限貸与となり、傭船料は月額16万8千余円と定められている。

日本船としての運航[編集]

本船は、他のフランス船・仏印船10隻とともに日本海軍から帝国船舶に管理委託され、「帝亜丸」と命名された。実際の運航は貨客船「帝興丸」(旧「ダルタニアン」)とともに日本郵船に、乗員を含まない裸傭船契約の形で委託された。1942年9月には帝国船舶から船舶運営会が傭船する形態となったが、引き続き日本郵船に運行委託された[14]。日仏間の1942年2月25日覚書ではフランス船は軍事輸送には使用しないという協定であったため、本船を含む全徴用フランス船が、陸軍徴用船(A船)や海軍徴用船(B船)ではなく民需船(C船)とされた[15][16]。しかし、実際には、軍需物資を含む輸送任務にも使用された。日本船旗下での最初の航海は6月12日にサイゴンを出て23日に横浜港へ着くもので、米約5千トンと乗客569人を運んでいる[3]

「帝亜丸」が従事した特別な任務に、抑留中の敵国民間人を互いに引き渡す戦時交換船としての航海がある。1943年(昭和18年)9-10月の第二次日米交換の際に、当時日本に健在だった数少ない大型客船として選択された。それ以前に交換船として使用されていた船のうち「鎌倉丸」「龍田丸」はすでに戦没、「浅間丸」は軍隊輸送船として大改装されたため使用困難、当初の予定船だったイタリア船「コンテ・ヴェルデ」は航海直前の9月11日にイタリア降伏にともない自沈という状況であり、短期間で整備可能なのが本船だけであった。灰色の戦時塗装の上から白十字と日の丸の識別塗装を船体に施し、十字形の電飾標識を船上に掲げた「帝亜丸」は、9月24日に横浜港を出港し、上海と香港にも寄港して抑留者を追加収容、横浜からの乗船者を合わせて計1345人の抑留者を乗せた。10月18日に、交換地であるポルトガル領インドゴアの主港モルムガオen)に到着し、アメリカ側交換船であるスウェーデン船籍客船「グリップスホルム」に抑留者を引き渡した。逆に「グリップスホルム」から抑留者1525人(外国人8人を含む)を受け取り、10月21日に出航、11月14日に横浜港へ無事に帰着した[17]

1944年(昭和19年)8月10日、「帝亜丸」はシンガポールへの陸軍部隊輸送の任務で、ヒ71船団に加入して伊万里湾を出港した。乗船者は主に南方軍向けの補充要員や軍政要員、第3航空軍関係者で、軍人軍属4936人と日本の民間人286人だった[18]ルソン島北西岸北緯18度09分 東経119度56分 / 北緯18.150度 東経119.933度 / 18.150; 119.933に差し掛かった8月18日夜、本船は、アメリカ潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受けた[19]。午後11時12分頃に右舷2番船倉と右舷機関室後部に魚雷1発ずつが命中、破損個所からの大浸水と機関部の爆発ののち左舷に傾斜、午後11時40分頃に船尾から沈没した。この間、自衛のため乗船していた陸軍船舶砲兵野砲機関銃を発砲したが、戦果は無かった[20]。魚雷命中直後に船内は停電状態になったため、乗船者は暗闇の中で脱出を図ることになり、多数の犠牲者が生じた。死亡者数は諸説あるが、駒宮真七郎によれば2369人[注釈 5]、あるいは2685人[注釈 6]。軍人・軍属2387人、民間人32人死亡とする記録もある[18]。大内健二によれば死者は2654人に上り、第二次世界大戦中の日本の輸送船としては8番目に多い犠牲者数となった[22]

注釈[編集]

  1. ^ 竣工時11,000馬力、1935年の機関改装後15,600馬力とする資料もある[1]
  2. ^ 竣工時16ノット、1935年の機関改装後19ノットとする資料もある[1]
  3. ^ 加藤外松駐仏大使は同年2月11日に事故死。
  4. ^ 日本側でも、陸軍現地部隊が、1月には遅延を嫌って強制的な徴用を上層部に進言していた[9]
  5. ^ 軍人・民間人・船員総計5478人のうち2369人[21]
  6. ^ 軍人・民間人・船員総計5483人のうち、輸送中の陸軍部隊2569人、民間人32人、陸軍船舶砲兵25人と海軍警戒兵6人、船員53人[20]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e L'ARAMIS futur-TEIA MARU(2011年11月27日閲覧)
  2. ^ a b c Miller (1997), p.34
  3. ^ a b c 貨物部総務課長 児玉忠康 「運航受託船帝亜丸及帝興丸の件」 1942年6月30日 JACAR Ref.C08050011300 画像1-7枚目。
  4. ^ 芳澤謙吉 駐仏印大使 「第6号 対日輸出に関する仏印側船舶徴用の件」 1942年1月3日 JACAR Ref.B09030198500 画像15枚目。
  5. ^ 東郷茂徳 外務大臣 「第22号 仏印船舶傭船に関する件」 1941年1月21日 JACAR Ref.B09030198500 画像2枚目。
  6. ^ 林 総領事 「第215号(外機密)」 1941年6月12日 JACAR Ref.B09030198500 画像8枚目。
  7. ^ 原田 駐仏代理大使 「第104号 仏船傭船問題の件」 1942年2月26日 JACAR Ref.B09030198500 画像80-81枚目。
  8. ^ 加藤外松 駐仏大使 「第57号 傭船問題に関する件」 1942年2月3日 JACAR Ref.B09030198500 画像56-57枚目。
  9. ^ 内山 公使 「第29号 仏国船徴用に関する件」 1942年1月13日 JACAR Ref.B09030198500 画像17-18枚目。
  10. ^ 栗山 事務総長 「第480号の1 仏国傭船問題」 1942年4月6日 JACAR Ref.B09030198600 画像62枚目。
  11. ^ 内山 公使 「第353号 仏印傭船問題に関する件」 1942年4月11日 JACAR Ref.B09030198700 画像13枚目。
  12. ^ 内山 公使 「第514号 仏印傭船問題」 JACAR Ref.B09030198700 画像23枚目。
  13. ^ 「徴用実施基礎協定」 JACAR Ref.B09030198700 画像63-67枚目。
  14. ^ 貨物部総務課長 児玉忠康 「運航受託船帝亜丸及帝興丸の件」 1942年10月5日 JACAR Ref.C08050011300 画像12枚目。
  15. ^ 内山 公使 「第352号 仏船傭船問題に関する件」 JACAR Ref.B09030198700 画像12枚目。
  16. ^ 東郷茂徳 外務大臣 「第514号 仏船徴用に関する件」 1942年4月13日 JACAR Ref.B09030198700 画像20枚目。
  17. ^ 大内(2004年)、160-162頁。
  18. ^ a b 陸軍運輸部残務処理部 『船舶輸送間における遭難部隊資料(陸軍)』 1946年5月25日 JACAR Ref.C08050112500 画像30-31枚目。
  19. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II(2011年11月28日閲覧)
  20. ^ a b 駒宮(1977年)、306-307頁。
  21. ^ 駒宮(1987年)、225-226頁。
  22. ^ 大内(2004年)、339頁。

参考文献[編集]

  • 大内健二 『商船戦記』 光人社〈NF文庫〉、2004年。
  • 外務省(編) 『第二次欧州戦争並大東亜戦争の海運に及ぼせる影響雑件/傭船関係』 外務省外交史料館蔵、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.B09030198500 / B09030198600 / B09030198700
  • 駒宮真七郎 『船舶砲兵―血で綴られた戦時輸送船史』 出版協同社、1977年。
  • 同上 『戦時輸送船団史』 同上、1987年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編) 『日本郵船(株)運航船関係資料』 防衛省防衛研究所図書館蔵、JACAR Ref.C08050011300
  • Miller, William H. Jr., Picture History of the French Line, Dover Publications, 1997

外部リンク[編集]