ゴーマン美智子

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マラソン戦績
大会 開催国 成績 タイム
1973 ウェスタン・ヘミスフィアマラソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 優勝 2:46:36
1974 ボストン・マラソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 優勝 2:47:11
1976 ボストン・マラソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 2位 2:52:27
1976 ニューヨークシティマラソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 優勝 2:39:11
1977 ボストン・マラソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 優勝 2:48:33
1977 ニューヨークシティマラソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 優勝 2:43:10
1979 東京国際女子マラソン 日本の旗 日本 16位 2:54:09

ゴーマン美智子(Miki Suwa Gorman 、旧名:諏訪美智子、1935年8月14日 - )は日本出身でアメリカ在住の女子マラソン選手。ボストンマラソンニューヨークシティマラソンで2回ずつ優勝している。両マラソンを同一年に制したのは彼女の他に1人しかいない[1]。また、日本出身の女子選手としてこの2つのレースに優勝したランナーは2014年現在彼女のみである。

経歴[編集]

1935年、中国の青島(チンタオ)で生まれた後、東京都で育つ[2]。小学校の途中から中学3年の途中までは、福島県南会津郡舘岩村(現・南会津町)で過ごしている[3]。その後、福島県の短期大学に進学したが、医師である父親の死により短大を中退した[2]

1964年に28歳で貨物船に乗り渡米。米軍将校の住み込み家政婦からアメリカでの生活を始めた。その後事務職に転じ、3歳下の夫と結婚した[2]。1969年からスポーツクラブで走りはじめ1ヶ月に950kmを走ったこともあった[2]

その後、後に世界記録保持者となる、ジャクリーン・ハンセンの指導者であるマラソンコーチに師事する[2]。その際、ハンセンに、「あなたがマラソン? 死にたいの? 私についてくるなんて無謀よ。You can't.」 と言われたという[2]

1970年にはロサンゼルスで行われた屋内100マイル(約160km)のレースに出場し、21時間04分00秒の記録を残した。

1973年12月3日のウェスタン・ヘミスフィアマラソン(現カルバーシティ・マラソン)で非公認世界記録[4] [5]となる2時間46分36秒のタイムで優勝[6]、ジャクリーン・ハンセンに土をつける[2]

その4ヶ月後の1974年4月のボストンマラソンで2時間47分11秒で優勝、同マラソンでは1976年に2位、1977年には2度目の優勝を果たした。ボストンマラソン優勝のニュースは日本でも報じられ、日本の女性がマラソン参加に関心を向けるきっかけの一つとなった。

ニューヨークシティマラソンでも1976年(41歳時)、1977年(42歳時)と2度優勝している。2014年時点でアメリカ国籍を保持する女性がニューヨークシティマラソンを優勝したのは彼女が最後となっている。マラソンでの自己ベスト記録は1976年ニューヨークシティマラソン優勝時の2時間39分11秒。

その後怪我のため満足に過ごせないシーズンが続いた後、1982年に競技生活から引退することを決断した。

その後、「Road Runners Club of America」と「USATF」、「ニューヨーク・ロードランナーズ」のそれぞれに殿堂入りを果たした[7][8]

現役当時からたびたび来日して日本の市民ランナーに指導を行い、日本のランニング愛好者の拡大に貢献した。女子マラソンが初めて正式種目となった1984年のロサンゼルスオリンピックでは、日本のNHK総合テレビでの女子マラソンの実況(映像はアメリカABCテレビの国際映像)で解説者を務め、ガブリエラ・アンデルセンのゴールの際には彼女が小さく嗚咽する声が流れた。

少女時代を過ごした南会津町では彼女の功績を称え、1986年からゴーマン杯ふるさと健康マラソン大会(現在はゴーマン杯南会津町ふるさと健康マラソン大会)が開催されている[9]

著書[編集]

映画[編集]

  • 『リトルチャンピオン』(松竹=三協(制作)、富士映画(配給)、1981/6公開、ゴーマン美智子の半生を綴った自伝『走れ!ミキ』を映画化したもの、ミキ(ゴーマン美智子)役を島田陽子が務める)

関連項目[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]