フローレンス・ナイチンゲール

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フローレンス・ナイチンゲール
生誕 1820年5月12日
トスカーナ大公国フィレンツェ
死没 1910年8月13日(90歳)
イギリスロンドン
職業 看護師統計学者
所属 セリミエ・バラック英語版(スクタリ)
専門 病院衛生管理
著名な要素 近代看護教育の母
受賞 赤十字勲章英語版 (1883年)
メリット勲章 (1907年)
署名

フローレンス・ナイチンゲールFlorence Nightingale1820年5月12日 - 1910年8月13日)は、イギリス看護師社会起業家統計学者看護教育学者。近代看護教育の母。病院建築でも非凡な才能を発揮した。クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。

ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学プラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット英語版とも親しく交流した。

人物[編集]

裕福なジェントリの家庭である両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられる。幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語ギリシャ語イタリア語(姉妹とも読み書き話しができた)、ラテン語聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)などの外国語、ギリシア哲学プラトン)・数学天文学経済学・歴史(イギリス、外国)、美術音楽絵画英語(英文法、作文)、地理心理学小説などの文学)が施される。しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。

その後ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合った。帰国後、ハーバート夫人である、通称リズことエリザベス・ハーバートとも親しい交際が始まる。

ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするという口実で1851年ドイツの病院付学園施設カイザースヴェルト学園に滞在する。ここでは、看護婦に対しても教育が行われていた。その後看護師を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職するが、ただし無給であった。生活費は年間500ポンドかかったが数少ない理解者の父が出していた。就職に反対する母、姉とは険悪となる。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。

しかし、1854年クリミア戦争が勃発すると、ロンドンタイムスの特派員ウイリアム・ハワード・ラッセルにより、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを伝え始めると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。

1854年頃の写真

事態を重くみたシドニー・ハーバート英語版ペンブルック伯)戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。11月、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かった。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に張り出した。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となった。

看護婦として戦傷兵を見舞うナイチンゲール(1855年)

スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇 (42%) したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。

ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。

この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。最終的には、この部分を修正し、女王名の入った新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前であった。

1856年3月30日パリで平和条約が締結される。4月29日クリミア戦争終結。7月16日病院の最後の患者が退院。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、8月6日スミスという偽名を使用して人知れず帰国した。11月帰国後ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出した。

このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としている。これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながった。

ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかった。しかし、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかった。

ナイチンゲールのこうした態度に影響されてか否か、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残している。なお、ナイチンゲールは赤十字社活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサと同様、「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜いていたためである。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」という考え方があったからだといわれている。

超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示し、また恐れもした。オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」 Little war office とあだ名された。

また、戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院英語版内にナイチンゲール看護学校がつくられる。校長は病院の婦長ウォードローバーが当たったが、運営に関してはナイチンゲールも協力した。その後、同様の各種の養成学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護婦養成体制が整い始めた。

彼女自身が看護師として負傷兵たちに奉仕したのはクリミア戦争従軍時の2年間だけであり、むしろその象徴的献身や統計に基づく医療衛生改革で名声を得た。クリミア戦争に従軍していた37歳(1857年)の時に心臓発作で倒れてしまい、その後は慢性疲労症候群に由来すると考えられる虚脱状態に悩まされた。死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごし、本の原稿や手紙を書くことが活動の柱となった。

晩年のナイチンゲール

晩年は年老いたの看病などに当たるが、1880年に母親が没したあとは活動も少なくなり、1890年以降はずっと自宅にいることが多くなった。1910年8月13日死去。

現在、聖トーマス病院にナイチンゲール博物館がある。

2007年1890年ロンドン蝋管に録音された肉声(内容はクリミア戦争で戦った兵士達が無事に帰還できるよう祈るものである)が、東大先端科学技術センターにより公開された。

略歴[編集]

親族[編集]

  • 父 ウィリアム・エドワード・ショア(Shore)(1794年 - 1874年)後にウィリアム・エドワード・ナイチンゲール(en:William Nightingale)。
  • 母 フランシース・スミス (Frances Smith 1789年- 1880年)フランシース・ナイチンゲール、ファニー(Frances "Fanny" Smith)ともいわれる。
  • 姉 パースィノピー(パーセノピー en:Frances Parthenope Verney 1819年4月19日 - 1890年5月12日)、両シチリア王国の首都ナポリで誕生。名前の由来はナポリの旧名ナポリ(ネアポリス=新しい町)・パルテノペ(植民都市パルテノペのこと。ギリシャ神話にでてくるニンフの名前に由来)による。 旧10ポンド券の裏面はフローレンス・ナイチンゲールが描かれていたが、表面の女王の左に使用されていたユリの花はパースィノピーの描いたものであった。

主な業績[編集]

  • 専門教育を施した看護婦の養成の必要性を説き、ナイチンゲール看護学校を創設した。
  • クリミア戦争に従軍し、兵舎病院の衛生改善に努力した。
  • 陸軍の衛生改善に協力した。
  • イギリスにおける統計学の基礎を築いた。
  • 看護にはじめて統計学を持ち込んだ(さらに専門家でない女王が見やすいようにデータの視覚化を行った)。
  • 著書『 Notes On Nursing(看護覚え書)』は、広く看護教育の場では古典として読み継がれている。
  • ナイチンゲール像は、世界に2つあり、ひとつはロンドン、もうひとつは兵庫県川西市にある。

ナイチンゲール誓詞[編集]

ナイチンゲール誓詞(Nightingale Pledge)は、1893年アメリカ合衆国ミシガンデトロイト市にあるハーパー病院(Harper Hospital)のファランド看護学校、校長リストラ・グレッター(Lystra Gretter)夫人を委員長とする委員会で、ナイチンゲールの偉業を讃え作成されたものである。

ナイチンゲールの看護に対する精神を基とし、医学に携わる看護師としての必要な考え方、心構えを示したものである。

医師にとっての「ヒポクラテスの誓い」にならって、看護師の戴帽式卒業式に、ナイチンゲール誓詞により誓いをたてる[1]

ナイチンゲール病棟[編集]

ナイチンゲールが考案した病院建築。『病院覚え書』(Notes on Hospitals)に図面入りで記されている。

  • 病室は間仕切りなしの200畳の広さをもつワンルーム。
  • 患者のベッド1つにつき、1つの窓がセットされる。
  • ベッドは病室の左右にそれぞれに15ずつ並んでいる。
  • 窓は高い天井まで延びた3層の窓。
  • 一番高い3層目の窓を常時開放しておくことで、病室の換気を行う。

また、『病院覚え書』には、患者一人の療養空間として相応しい面積、ベッドの高さやベッドとベッドの間の距離についても、理想的な計算値が述べられている。

ナイチンゲール病棟は、当時の聖トーマス病院をはじめとして、世界中の病院建築に取り込まれ、実際の建物として現実的に機能した。

著作[編集]

『看護覚え書』(Notes on Nursing)の他にも150篇ほどの厖大な量の著作を残している。

著作のほとんどは『ナイチンゲール著作集』(現代社、全三巻 1974、1975、1977)に収録されている。

その中の主要なものを挙げる。

  • 看護についての著作
    • カイゼルスウェルト学園によせて(1851年)
    • 女性による陸軍病院の看護(1858年)
    • 看護覚え書(1860年)
    • インドの病院における看護(1865年)
    • 救貧病院における看護(1867年)
    • 貧しい病人のための看護(1876年)
    • 病院と患者(1880年)
    • 看護婦の訓練と病人の看護(1882年)
    • 病人の看護と健康を守る看護(1893年)
  • 病院についての著作
    • 病院覚え書(1863年)
    • 産院覚え書(1871年)
  • 英国陸軍の保健についての著作
    • 英国陸軍の保健(1858年)
    • インド駐在陸軍の衛生(1863年)

邦訳著作[編集]

  • 看護の栞 岩井禎三訳. 日本赤十字発行所, 1913.
看護覚え書 看護であるもの・看護でないもの 小玉香津子訳. 現代社, 1968
看護覚え書 看護であること・看護でないこと 改訂新版 湯槙ます等訳. 現代社, 1976.
二つの看護覚え書き 本当の看護とそうでない看護について 尾田葉子訳 日本看護協会出版会, 1985.5.
要訳看護覚え書き 西田晃訳. 厚生社インフォメーションサービス, 1991.3.
看護覚え書き 何が看護であり、何が看護でないか 小林章夫ほか訳. うぶすな書院, 1995.11.
ナイチンゲール書簡集 浜田泰三訳. 隆鳳堂, 1958.
ナイチンゲール書簡集 ABC企画 (制作), 1974.
新訳・ナイチンゲール書簡集 看護婦と見習生への書簡 湯槙ます等編訳. 現代社, 1977.3.
  • ナイチンゲール著作集 全3巻 湯槙ます監修 編訳: 薄井坦子等 現代社, 1974-77.

書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]