機甲師団

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機甲師団(きこうしだん)とは、戦車部隊を中心に、戦車に随伴する自動車化機械化された歩兵部隊、同じく自動車化された工兵砲兵偵察・通信などの諸兵科の部隊から構成される師団のこと。機甲とは、機械化装甲の略称として第二次世界大戦前から使用されており、現在陸上自衛隊でも使用されている用語である。同様の部隊で編成される、機械化歩兵部隊が主体であるものは機械化歩兵師団と呼ばれている。イギリスArmoured Division、アメリカのArmored Division、ドイツのPanzerdivisionなどが相当するが、日本語訳は書籍・雑誌の出版社・著者・訳者によって表記が異なっており、特にドイツ軍について装甲師団の語も多く用いられている。戦車師団と呼ばれることもあるが、戦車部隊の比率がより大きいものが区別されている場合もある。[1]

第一次世界大戦後に塹壕戦から運動戦への戦術開発の結果、第二次世界大戦で真価を発揮した電撃作戦の主体となった。第二次世界大戦当時、米英軍では歩兵師団は既に自動車化されており、現代では先進国の場合、歩兵師団と言えども多数の戦車を配備され、歩兵も装甲兵員輸送車歩兵戦闘車に運ばれ、機甲師団との違いは大きくない。本項においては主に第二次世界大戦における機甲師団の誕生と発展について述べる。

機甲師団の特徴[編集]

機甲師団の特徴は戦車部隊を主力としていることにある。他の部隊は戦車部隊を支援するためにあり、戦車の移動速度に追随するために自動車化・機械化されている。その規模、内容は、国や時期により大きく異なるが、2~4個の連隊または旅団から構成され、人員規模は1~3万人、戦車の数は数十両~数百両である。

機甲師団の各兵科の役割[編集]

  • 師団司令部:前線の作戦立案・実施の指示のほか、後方の補給・医療の手配も行う。
  • 戦車部隊:機甲師団の主力で、戦線を突破し、後方の拠点へ進撃する重要な役割を担う。部隊本部は長距離無線通信機で、空軍との連絡を行う。
  • 歩兵部隊:戦車隊の突破口を広げ、敵陣地や都市を側面・後方から攻撃し制圧する。万が一に備え、後方の防衛も担う。
  • 工兵部隊:架橋装置・渡河用ボート・地雷探知機などを装備し、部隊の迅速な前進を助ける。必要なら、前線に出て、爆薬で鉄条網やトーチカを破壊したり、携帯火器で塹壕などに潜む敵の攻撃をも行う。
  • 砲兵部隊:榴弾砲は戦車隊突入前の準備射撃(前線には着弾の観測部隊がおり、砲撃指示を与える)、対空部隊は敵航空機の迎撃に当たる。
  • 偵察部隊:部隊に先行し、索敵・地形などの情報収集に当たる。
  • 通信部隊:無線通信による各部隊間の連携を助ける。

機甲師団の誕生[編集]

戦車の登場は第一次世界大戦中のことであり、塹壕戦突破などが主目的であった。始めは歩兵部隊の支援として、歩兵に従属する形で各車が分散される形で用いられた。

大戦終了後、各国の軍人(イギリスのジョン・フレデリック・チャールズ・フラー、フランスのシャルル・ド・ゴール、ドイツのハインツ・グデーリアン、ソ連のミハイル・トゥハチェフスキー、アメリカのアドナ・R・チャーフィー・ジュニア、日本の井上芳佐など)や軍事研究家(イギリスのベイジル・リデル=ハートなど)が歩兵ではなく、戦車を主戦力とした部隊の構想を着想した。戦車を主力とし、歩兵をその支援にまわすことで、機動力と打撃力がある部隊が構成でき、それが軍としての理想形だと考えた。

だが、フランスでは要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やし、軍幹部は歩兵が軍の主力と考えたため、ド・ゴールの意見は採用されなかった。イギリス・ソ連での実際に行われた機甲師団の実験も、イギリスでは軍縮政策で、ソ連ではスターリンによる赤軍粛清の際、トゥハチェフスキーら機械化を進めた将校を処刑・追放したことで、頓挫してしまう。

ドイツはヴェルサイユ条約の厳しい軍備制限(陸軍兵力10万人、海軍1.5万人。参謀本部、潜水艦、空軍、戦車は保持出来ない)によって戦車戦術を研究出来なかったが、張りぼての戦車や「農業用トラクター」と詐称して製造して、ソ連国内の秘密の戦車学校にて戦車戦術を研究した(I号戦車)。アドルフ・ヒトラーの後援もあり、世界で機甲師団を最初に編成したのは、ドイツ再軍備宣言後のドイツ国防軍であった。1935年10月15日に第1から第3の三個装甲師団が編成されたのが最初である。

第二次世界大戦における機甲師団の活躍[編集]

ドイツ装甲師団は、数量ではドイツ軍に勝る連合国軍戦車部隊を戦車運用力の巧みさで打ち勝った(電撃戦)。独ソ戦でも未経験な発展途上のソ連戦車部隊を破った。

しかし、戦車戦術では後進国であったアメリカが、生産力に物を言わせて連合軍に大量の戦車をレンドリース法(武器供与法)に載せて本格的に供与し、イギリスが機甲師団を増強し始めた。ソ連もアメリカ・イギリスからの武器供与だけでなく、ウラル山脈近くに疎開させた工場でT-34などのドイツより優秀な戦車の大量生産を始めた。特にアメリカの戦車は、戦車単体の性能は高くないものの、生産量は莫大であり、機械的信頼性も高かった。1942年以降、戦争は機甲師団同士の戦闘が多くなり、生産力に劣るドイツは補給に問題が目立って来た。

1942年末から43年にかけ、エル・アラメインの戦いスターリングラード攻防戦の敗北以後、ドイツは防戦一方となる。もとより空軍との連携作戦を新戦術としたドイツ軍の攻撃は制空権を失ったことにより、威力を失った。以後欧州戦線はイギリス、ソ連、アメリカ、自由フランスの機甲部隊が大活躍する舞台へと一変した。

大戦期の各国機甲師団の装備・編成の変遷[編集]

大戦期のドイツ装甲師団の装備・編成の変遷[編集]

「再軍備」開始から十分な時間がないままに第二次世界大戦に突入したため、大戦中常に戦車の質・量の不足に悩まされたが、先駆国だけに各兵科を組み合わせた部隊運用の妙で健闘した。

装甲師団の誕生(1935年頃から)[編集]

  • 1935年10月15日に編成された第1から第3の三個装甲師団は、それぞれ二個戦車連隊(各二個大隊編成)からなる一個装甲旅団及び一個狙撃兵連隊と一個オートバイ狙撃兵大隊からなる一個狙撃兵旅団を基幹として編成されていた。装甲部隊に付属する自動車化された歩兵(Infanterie)を当時のドイツ軍では狙撃兵(Schützen)と呼んだ。その他の部隊として、自動車化砲兵連隊・偵察大隊・対戦車大隊等が編制に含まれていた。
  • 更に第4装甲師団が1938年11月10日、第5装甲師団が同24日に編成された。
  • 1938年には戦車大隊と自動車化された騎兵部隊と組み合わせて、準装甲師団ともいえる第1から第4の軽師団が編成された。

ポーランド侵攻時(1939年頃)[編集]

  • 1939年4月1日に第10装甲師団が編成され、第二次世界大戦開戦時には装甲戦力として第1から第5及び第10の6個装甲師団及び第1から第4の4個軽師団が存在していた。
  • 当時のドイツ軍が保有していた戦車は約3,000両。うち、中戦車であるIII号戦車は100両以下、IV号戦車も200両程度で、戦車大隊本部と4個中隊中1個中隊に優先的に配分され、残りの3個中隊は全て本来訓練用で機関銃と機関砲が主砲の豆戦車に近いI号戦車とII号戦車で構成されていた。チェコスロバキア軍から接収された35(t)38(t)軽戦車300両弱で補完された。しかし、編成も机上の話で、1個装甲師団あたり16個中隊あるはずが、実際には12個中隊(充足率75%)しか編成できず、実際に大隊の下に置かれた中隊は3個であった。しかし、質・量共に戦車隊には問題が多かったが、ポーランドの機動戦力の主力は騎兵と豆戦車であり、十分対抗できた。新戦術電撃戦も成功し、ワルシャワ周辺の要塞も陥落させるなど、大戦果を挙げた。
  • 砲兵部隊の大砲は、全て牽引式であった。

ナチス・ドイツのフランス侵攻時(1940年頃)[編集]

  • 第1から第10の10個装甲師団が編成されていた。中途半端な戦力と判断された軽師団は装甲師団へと改編され姿を消していた。
  • 各装甲師団の編成にはばらつきがあり、装甲旅団を持たずに1個戦車連隊+1個大隊編成の師団も存在した。第9装甲師団に至っては1個戦車連隊のみ配属されていた。狙撃兵旅団の編成も統一されていなかった。
  • 第1から第3装甲師団 - 1個装甲旅団(2個戦車連隊)・1個狙撃兵旅団(1個狙撃兵連隊(3個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊)
  • 第4、第5、第10装甲師団 - 1個装甲旅団(2個戦車連隊)・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成))
  • 第6、第8装甲師団 - 1個戦車連隊+1個戦車大隊・1個狙撃兵旅団(1個狙撃兵連隊(3個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊)
  • 第7装甲師団 - 1個戦車連隊+1個戦車大隊・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊)
  • 第9装甲師団 - 1個戦車連隊・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成))・1個オートバイ狙撃兵大隊
  • III号戦車・IV号戦車の配備が進んだが、装甲師団の数も増えたため、新設の一部装甲師団にはIII号戦車は配備されず、35(t)戦車(第6装甲師団)・38(t)戦車(第7及び第8装甲師団)で埋め合わされた。
  • 6個装甲師団の狙撃兵旅団に直接支援火力としてI号戦車改造の自走歩兵砲が配備された。

バルバロッサ作戦時(1941年頃)[編集]

  • フランス戦終了後から独ソ戦開戦までに第11から第20の10個装甲師団が新たに編成された。それ以降の1941年中に第21から第24、1942年中に第25から第27装甲師団が編成された。
  • 装甲師団は基本的に1個戦車連隊及び1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊・1個オートバイ狙撃兵大隊)を基幹として構成されるようになった。しかし戦車大隊数等各師団の編成には、まだばらつきが多かった。
  • III号戦車・IV号戦車の配備がさらに進んだにもかかわらず、ヒトラーの指示で装甲師団が倍増されたため、相変わらず豆戦車・軽戦車で水増しされていた。ただ、数の上ではIII号戦車が主力といえる状態にはなっていた。
  • ソ連戦車師団は再建途上で、T-28中戦車BT快速戦車など旧式戦車が多く大局的には勝利したが、T-34中戦車・KV系重戦車の前には、IV号戦車でも無力であることが露呈した。

北アフリカ戦線[編集]

  • ドイツアフリカ軍団として通常の装甲師団と比較して規模の小さい第5軽師団(後に第21装甲師団へ改編)が投入され、後に第15装甲師団も投入された。
  • ドイツの主戦場はあくまでソ連であり、ソ連では戦力として通用しない旧式戦車が回されてきたため、I号戦車に火炎放射器を載せるなど、現地改造が頻繁に行われた。
  • チュニジアに追い詰められた後、アフリカ装甲軍に改組された。この時期に第10装甲師団が新たに送り込まれている。VI号戦車も実戦投入された。
  • アフリカに送り込まれた3個装甲師団は結局チュニジアで壊滅した。

大戦中盤(1943年頃)[編集]

従来に比較して定型化された1943年型と呼ばれる師団編成が規定された。2個大隊からなる1個戦車連隊及び2個装甲擲弾兵連隊が基幹となった(この頃からドイツ軍では歩兵のことを擲弾兵と呼ぶようになり、装甲部隊に付属する歩兵部隊は装甲擲弾兵と呼ばれるようになった)。その他の支援部隊は装甲砲兵連隊・装甲偵察大隊・戦車駆逐大隊・装甲工兵大隊・高射砲大隊等であった。ただし師団によっては一部の支援部隊を持たないケースも見られた。

武装親衛隊においても名実共に装甲師団が編成されるようになった(従来は内容は装甲師団同様でも装甲擲弾兵師団と呼ばれていた)。国防軍の装甲師団と比較して、装甲擲弾兵連隊が3個大隊編成であることが主な相違点である。また一部の師団は突撃砲大隊や重戦車中隊も保有していた。1943年10月22日付けでライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー、ダス・ライヒ、トーテンコープ、ヴィーキング、ホーエンシュタウフェン、フルンツベルク、ヒトラーユーゲントの各SS装甲擲弾兵師団が第1SS・第2SS・第3SS・第5SS・第9SS・第10SS、第12SSの装甲師団に改称されている。

陸軍一のエリート師団であるグロースドイッチュラント装甲擲弾兵師団も連隊規模の戦車部隊を装備して実質上は装甲師団となった。

空軍のヘルマン・ゲーリング師団が正式に装甲師団となった。1944年1月6日にはヘルマン・ゲーリング降下装甲師団に改名される。

  • ティーガー戦車の量産が本格化したが生産数は少なく、運用上の問題もあって一部のエリート師団を除いて装甲師団の編成には含まれず、大隊規模の重戦車部隊が組織された。
  • 生産が始まったパンター戦車は装甲師団の主力として各戦車連隊の第1大隊に配備されることとなったが全ての師団において改編が行われたわけではなかった。III号戦車に代わって主力戦車となっていた IV号戦車は第2大隊に配備されることになった。
  • II号戦車やチェコ製の38(t)などの戦車としては使用に耐えない車輌は自走砲に改造され、長砲身化された突撃砲と共に戦車駆逐部隊が組織された。III号戦車の車台は突撃砲用としてのみ生産が続けられた。
  • フンメルヴェスペの実用化に伴い、砲兵部隊の一部が自走砲に変わった。
  • ソ連軍との戦闘で大損害を受け、戦力を失っていた第22装甲師団は1943年4月6日、第27装甲師団は1943年2月9日にそれぞれ解隊された。
  • アフリカで壊滅した第21装甲師団が1943年7月15日に再編された。なお同じくアフリカで壊滅した第10装甲師団は再編されず、再編された第15装甲師団は第15装甲擲弾兵師団に改編された。
  • 1943年9月22日にノルウェイにてノルヴェーゲン装甲師団が編成された。
  • クルスクの戦いで大損害を受けた第18装甲師団は1943年10月19日に第18砲兵師団へと改編され、姿を消した。

大戦終盤(1944年頃)[編集]

1944年型と呼ばれる編成が規定されたが1943年型と大きな相違は無い。1945年型と呼ばれる編成では従来2個戦車大隊編成だった戦車連隊が1個戦車大隊及び1個装甲擲弾兵大隊に変更された。また各支援部隊も自動車化される比率が低下し、大幅に戦力は低下した。敗戦間際にはありあわせの部隊を集成して師団に仕立てるケースも多く、規定は有名無実に近いものがあった。

  • ソ連との戦車大型化合戦が続き、新重戦車ティーガーIIが投入されると共に、V号戦車・VI号戦車の駆逐戦車型も登場した。IV号戦車に改良の余地は少なく、駆逐戦車や突撃砲として完成するものも多かった。制空権を完全に失ったため対空戦車が登場した。
  • 対戦車砲の不足が深刻化し、偵察部隊に対戦車砲を載せた重装甲車が配備され、装甲兵員輸送車にも対戦車砲が載せられて対戦車戦に駆り出された。
  • 1944年1月には装甲教導師団が編成された。保有する4個装甲擲弾兵大隊全てが装甲兵員輸送車を装備した唯一の師団であった。
  • 1944年5月に第116装甲師団が第16装甲擲弾兵師団から改編された。
  • 1944年夏には第25装甲師団再編のために戦力を抽出されたノルヴェーゲン装甲師団が解隊された。
  • 1944年11月27日にはフェルトヘルンハレ装甲師団が同名の装甲擲弾兵師団から改編された。
  • 1945年1月1日にホルシュタイン装甲師団が編成されたが、3月30日には第18装甲擲弾兵師団の再編に使用されて消滅した。
  • 1945年2月、デーベリッツ装甲師団が編成されたが22日にはシュレージェン装甲師団に改名された。3月30日には第18装甲擲弾兵師団の再編に使用されて消滅した。
  • 同じく1945年2月に編成されたユーテルボーク装甲師団は26日には第16装甲師団に吸収されて消滅した。
  • 1945年2~3月に第232及び第233装甲師団が同番号の予備装甲師団から改編(実質は単なる改名)された。
  • 1945年3月5日に編成されたミュンヘベルク装甲師団はベルリンにて最後まで戦い、壊滅した。
  • ブダペストで壊滅した第13装甲師団は1945年3月10日にフェルトヘルンハレ第2装甲師団として再編された。
  • 1945年4月6日にクラウゼヴィッツ装甲師団が編成された。ナチスドイツが編成した最後の装甲師団である。

大戦期のイギリス装甲師団の装備・編成の変遷[編集]

最初の機甲師団である第1装甲師団は1939年9月3日に編成された。1939年におけるイギリス装甲師団の編成は1個重装甲旅団・1個軽装甲旅団・師団支援群(砲兵連隊・自動車化歩兵大隊2個等)からなり、理論上は351輛の戦車を保有することになっていた。

  • 第1装甲師団 - 第1重装甲旅団(3個連隊編成)・第2軽装甲旅団(3個連隊編成)・第1支援群
(イギリス機甲部隊における連隊は同時期のドイツ軍における大隊とほぼ同規模)

イギリス軍は歩兵戦車・巡航戦車二分論にとりつかれ、バランスの取れた主力戦闘戦車の登場が遅れ、アメリカからの兵器供与頼みが続いた。歩兵戦車は独立戦車旅団に配備され、装甲師団や装甲旅団は巡航戦車や軽戦車を装備していた。アメリカ製中戦車は基本的に巡航戦車扱いであった。

  • 1939年9月にエジプト機動師団が改編・改称され、エジプト装甲師団となった。
  • 1939年12月15日にイギリス本土にて第2装甲師団が編成された。
  • 1940年2月16日にエジプトにてエジプト装甲師団は第7装甲師団となった。
  • 1940年9月12日にイギリス本土にて第6装甲師団が編成された。
  • 1940年11月4日にイギリス本土にて第8装甲師団が編成された。
  • 1940年12月1日にイギリス本土にて第9装甲師団が編成された。
  • 1941年3月9日にイギリス本土にて第11装甲師団が編成された。
  • リビアにてドイツ軍の攻撃により師団司令部が壊滅した第2装甲師団は1941年5月10日にエジプトにて解隊された。
  • 1941年6月17日にイギリス本土にて近衛装甲師団が編成された。
  • 1941年8月1日に中東にて第10装甲師団が編成された。
  • 1941年11月1日にイギリス本土にて第42装甲師団が編成された。
  • 1942年8月14日にイギリス本土にて第79装甲師団が編成された。
  • 1943年1月1日にエジプトにて第8装甲師団は解隊された。
  • 1943年10月17日にイギリス本土にて第42装甲師団は解隊された。
  • 1944年6月15日にエジプトにて第10装甲師団は解隊された。
  • 1944年7月31日にイギリス本土にて第9装甲師団は解隊された。
  • 1945年1月11日にイタリアにて第1装甲師団は解隊された。

アフリカ戦線(エル・アラメインの戦い以前)[編集]

ナチス・ドイツのフランス侵攻緒戦のイギリス海外派遣軍に機甲師団は無く、本格的に機甲師団が実戦参加したのは北アフリカの戦場からであった。フランスからの撤退時に戦車は遺棄されたため、マチルダ歩兵戦車とアメリカから供与されたスチュアート軽戦車グラント/リー中戦車を中心に、旅団規模で運用された。マチルダは鈍足、スチュアート軽戦車は装甲・火力が不足、グラント/リー中戦車は英国戦車に欠けていた大口径砲を装備していたが、旋回砲塔ではなく車体への装備という時代遅れの構造であり、枢軸軍を破る決定打に欠けていた。

アフリカ戦線(エル・アラメインの戦い以降)[編集]

アメリカからシャーマン中戦車の供与が始まり、イギリスも新型クルセーダー巡航戦車の配備を本格化し、師団規模での運用が始まった。歩兵戦車はチャーチル歩兵戦車へと移行した。シャーマン中戦車はバランスの取れた傑作戦車であったが、イギリスはまだ巡航戦車と歩兵戦車の二分論にとりつかれており、中途半端な戦車を作り続けた。クルセーダーMk.Ⅲは三人乗りで、強力な6ポンド砲を生かしきれなかった。チャーチルMk.Ⅲは不整地最大速度13km/hで、装甲が厚くなったMk.Ⅶ以降ではさらに鈍足になった。

巡航戦車の主力戦車化[編集]

チャーチル歩兵戦車は終戦までイギリス製戦車の主力であり続け、歩兵戦車としては十分な性能であったが、最大速度20km/hでは、機動兵器としては落第であった。ようやく、イギリスも歩兵戦車というコンセプト自体の問題を悟り、スーパーチャーチルなど歩兵戦車の改良計画を中止し、巡航戦車の大型化による主力戦車化を進めた。巡航戦車 Mk.VIII セントー巡航戦車 Mk.IX クロムウェルなどを経て、1944年センチュリオンとして結実した。しかし、第二次世界大戦中には量産は間に合わず、戦後イスラエルなどに供与されている。


大戦期のソ連機械化部隊・戦車部隊の装備・編成の変遷[編集]

ロシア戦車は良く言えば安価で実用性が高く後進国では評判がいいが、悪く言えば乗員の居住性軽視・濁ったペリスコープ・歪んだ照準器・貧弱な無線機など細部の質の低さにおいで先進国では悪評が高い。ただしこれはロシア兵に言わせれば西側戦車のほうが贅沢すぎるといったものであり、その質にたよらない物量作戦はバグラチオン作戦を頂点に、兵員の質を誇るナチス・ドイツ軍を撃退した。

戦前の機械化部隊実験[編集]

資本主義国が世界大恐慌に苦しんでいた1930年代、隔絶した経済圏を持つソ連は第一次五カ年計画(1928-32)のもと順調に重工業を発展させていた。農業用トラクターの量産技術が生かされ、1930年先駆的な機械化旅団が創設された。

縦深作戦理論」という、砲兵と航空機の支援の下、歩兵支援戦車が突入し、遠距離行動戦車が敵陣地(縦深)を突破、敵後方に機械化騎兵を展開し包囲すると言う、独自の戦術を編み出していた。

しかし、スターリンにより、機械化部隊の編成を行っていたミハイル・トゥハチェフスキー将軍、縦深作戦理論の考案者のウラジーミル・トリアンダフィーロフ英語版将軍、参謀として理論の完成に当たったアレクサンドル・エゴロフ参謀総長らが粛清されたため、この実験は頓挫することとなった。

独ソ戦序盤(1941年)[編集]

ドイツ装甲師団の成功を見たスターリンは態度を改め、1940年29個機械化軍団(2個戦車師団・1個自動車化師団で構成される予定だった)を作ることを決定した。

しかし、独ソ戦開始時点では、戦車の充足率は60%強であり、それも大半が旧式戦車で、新型のT-34戦車は1、200両余り、KV系重戦車は600両余りであった。しかも、機械化を進めた将校の粛清で、戦車部隊運用のノウハウを持つ人材は全く育っていなかった。

また、独ソ戦序盤におけるソ連軍の損害は非常に大きく、戦車不足であったことと大規模な戦車部隊を運用する能力が無いことを自覚したことから戦車師団の編成を断念し、既存の戦車師団も解隊された。

独ソ戦中盤(1942・43年)[編集]

保有戦車のほとんどを失ったソ連は、アメリカ・イギリスから兵器供与を受ける一方、戦車生産をT-34とKV-1中心に絞込み、シベリアやウラル山脈以東に疎開させた工場で大量生産を始めた。また、ドイツの突撃砲を真似て、T-34とKV-1の車体を用いた自走砲を作成し運用した(SU-122SU-152SU-85)。

戦車の補充を得たソ連軍は、三個戦車旅団と一個自動車化狙撃兵旅団で構成される戦車軍団を編成した。この戦車軍団は、名称こそ師団より上位の軍団であるが、規模は他国の師団よりやや小さいものだった。

1942年5月、半数を供与戦車で構成した約10個戦車旅団を動員して、南部戦線で反攻に出た(Cf.第2次ハリコフ攻防戦)が、まだまだ兵員も指揮官もドイツに比べ未熟であり、ドイツ軍に殲滅され、貴重な戦車戦力を失い、スターリングラード攻防戦に至るドイツの南方作戦が始まると、後退戦術をとるしかなかった。

兵員・指揮官の熟練度が上がり始めると、圧倒的な生産力でドイツ軍を撃破し始めた。スターリングラード包囲戦とクルスクの戦いに勝利し、以後は一方的にドイツ軍を押し捲った。

大型トラックが、ソ連でも数万両作成され、アメリカからも数万両供与されたが、ほとんどは膨大な補給物資を必要とする戦車軍団・機械化軍団の補給用に回され、兵員輸送車として使う余裕は無かった。随伴歩兵は戦車・自走砲の手すりに掴って移動していた。これらはタンクデサントと呼ばれた。

牽引砲・自走砲は共に砲兵部隊で運用された。多連装ロケット砲をトラックに載せ、遠距離から大量の爆薬をばら撒く「カチューシャ」ロケット砲車が極めて有効活用された。トラックの荷台に簡易なロケット発射台を乗せただけの物であるが、一度に発射出来る数の多さがその長所であった。命中率こそ低いものの、同時点に制圧できる面積は砲に比べて遥かに広く、ドイツ軍陣地破壊に極めて有効で、ドイツ軍に恐れられた。

独ソ戦終盤(1944・45年)[編集]

ドイツの戦車の大型化にあわせ、T-34は砲塔と主砲を大型化したT-34-85に代わり(1990年代まで発展途上国では現役であった)、KV戦車の後継としてIS-2スターリン重戦車が投入された。自走砲も新車台の登場で大型化が進んだ(ISU系自走砲)。

最終盤、後のロシア戦車の特徴となる、低姿勢の半円形の砲塔を持つIS-3重戦車が配備されたがヨーロッパにおける実戦には間に合わなかったとされる。IS-3 は戦後1970年代まで東側諸国発展途上国で使用された。


大戦期のアメリカ機甲師団の装備・編成の変遷[編集]

ドイツ軍のあげた大きな戦果に触発され、1940年6月より機甲師団の編成に着手した。7月15日付けで第1・第2の機甲師団が編成された。この時点での編成は以下のとおり。

  • 第1機甲師団 - 1個機甲旅団(3個戦車連隊・機甲砲兵連隊・機甲工兵大隊)・1個機甲歩兵連隊・機甲砲兵大隊・機甲偵察大隊
  • 第2機甲師団 - 1個機甲旅団(3個戦車連隊・機甲砲兵連隊)・1個機甲歩兵連隊・機甲砲兵大隊・機甲工兵大隊・機甲偵察大隊

1942年、アメリカ陸軍は、機甲師団において、コンバット・コマンドと称する新しい編制を採用した。これは、隷下部隊を持たない戦闘団司令部を2個、師団司令部隷下に常設しておき、必要に応じて、様々な部隊を配属して戦闘団を編成するというものである。当初、戦車と歩兵の連携を軽視していたため戦車部隊の比率が高い編成だったが、戦訓により編成が見直された。

1943年には、コンバット・コマンドをさらにもう1個増設するとともに、連隊編制を廃して、師団隷下に直接各大隊を配した編制が採用された。ただし、1943年型機甲師団では、機甲兵力がやや減少することから、1942年型機甲師団も重師団と称されて、第2及び第3機甲師団は、この重師団編制のままで残されることとなった。これに対して、1943年型機甲師団は軽師団と称された。第二次世界大戦終結までに第1から第14・第16・第20の16個機甲師団が編成された。

  • 1942年型機甲師団(重師団
  • コンバット・コマンドA(CCA)
  • コンバット・コマンドB(CCB)
  • 2個戦車連隊
  • 1個軽戦車大隊
  • 2個中戦車大隊
  • 機甲歩兵連隊
  • 3個機甲歩兵大隊
  • 機甲野戦砲兵大隊
  • 機甲偵察大隊
  • 機甲工兵大隊
  • 機甲通信中隊
  • 師団団列
  • 機甲補給大隊
  • 機甲兵器整備大隊
  • 機甲衛生大隊
  • 1943年型機甲師団(軽師団
  • コンバット・コマンドA(CCA)
  • コンバット・コマンドB(CCB)
  • コンバット・コマンドR(CCR)
  • 3個機甲大隊
  • 3個機甲歩兵大隊
  • 師団砲兵司令部
  • 3個機甲野戦砲兵大隊
  • 機械化騎兵大隊
  • 機甲工兵大隊
  • 機甲通信中隊
  • 師団団列
  • 機甲補給大隊
  • 機甲兵器整備大隊
  • 機甲衛生大隊

兵器単体の性能は平凡なものの、圧倒的な生産力で、必要と考えられる兵器の機械化を進めたバランスの取れた機甲師団を作り上げた。歩兵部隊や砲兵部隊のみならず、他の支援部隊まで機械化が進み、迅速な進撃を可能としていた。また、所属部隊を入れ替えることのできる司令部組織「コンバット・コマンド」システムを採用したことにより、状況に柔軟に対応できた。さらに、充実した砲兵科と戦闘爆撃機による手厚い支援によって枢軸軍を圧倒した。

  • 「75mm砲で十分」とするアメリカ軍の判断の甘さで、M26パーシング重戦車の投入が遅れ、ドイツのパンター・ティーガー戦車に苦しめられたが、M4中戦車の数は膨大で、M4中戦車多数で強力なドイツ軍戦車に対して複数方向から集中砲火を浴びせるという戦術が多用された。
  • 自走砲では、M8やM7などが投入された。ドイツ・ソ連と比べると非力な感はあるが、数は多く、上記の戦闘爆撃機の支援もあり、戦車隊を援護した。
  • 兵員輸送車も充実していた。アメリカの優秀な軍用自動車としてジープが有名である。高馬力のエンジンは、大型トラックをも牽引することが出来、輸送用・偵察用・連絡用など幅広く用いられた。
  • 機械化偵察部隊は装甲車の他に、M3軽戦車やM5軽戦車を使用した。

大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷[編集]

大日本帝国陸軍では、1934年(昭和9年)3月に編成された小型機甲師団ともいうべき独立混成第1旅団(2個戦車大隊基幹の諸兵科連合部隊)が、戦前では唯一のものであった。独立混成第1旅団も、参加したチャハル作戦で特長を生かせず、1938年(昭和13年)8月には解隊されてしまった。東條兵団の兵団長である関東軍参謀長東條英機中将と独立混成第1旅団長酒井鎬次中将の戦術思想の違いに一因があったとも言われる。以後は、3個戦車連隊と司令部のみからなる「戦車団」3個を有していた。ノモンハン事件では第1戦車団を中心に歩兵などを臨時に配属した運用が行われたほか、中国大陸の戦線においては「戦車集団」が何度か臨時に編成され機動打撃力として活動したものの、戦車を中心とした戦術思想を否定した東條英機が、その後権力の中枢に就いたこともあり機甲師団が編成されることは無かった。

だが、結果的に同盟国のドイツの行った機甲師団による電撃戦に多大な影響を受け、陸軍主流派にも戦車の有用性が認識された(と、いうよりは同盟国が新戦術を切り開いたことで、自軍が遠からず時代遅れになることへの恐怖が誘発された)結果、1941年(昭和16年)2月には陸軍機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。そして1942年(昭和17年)6月24日に戦車第1師団第2師団第3師団の編成が下令された。しかしその編制は、既に太平洋戦争が始まっていたにもかかわらず対ソ連戦を念頭においたものであった。しかも、理論上は2個戦車旅団(各2個連隊構成、各連隊は戦車58輛保有)・1個機動歩兵連隊(3個大隊構成)を基幹に機動砲兵連隊・師団速射砲隊・師団捜索隊・師団防空隊・師団工兵隊等から編成されることになっていたが、部隊は編成されたものの肝心の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、その編制すら満足になることはなかった。しかも新式戦車は全て本土決戦に向けて温存され、外地部隊は大戦を通して九七式中戦車とそのマイナーチェンジ型から更新されることはなかった。そのため前線の戦車兵らは太平洋戦争中期以降、苦戦を余儀なくされた。特に劣勢が顕著となった後期に戦車特攻までが行われるに至った時、戦車を疎んじていた東條英機ら陸軍主流派の指導層を恨んだとされる。


1944年(昭和19年)7月6日には、本土決戦に備えて戦車学校などの教導部隊を改編し、戦車第4師団の編成が下令された。戦車連隊3個を基幹にするものの歩兵を欠き、砲兵も最初から分属させるなど戦車第1・第2・第3師団と較べて全く異なる編制で、独立戦闘力のある機甲師団とは呼びがたいものだった。


大戦期のその他の国の機甲師団[編集]

その他にもフランス、自由フランス、カナダ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、自由ポーランドが機甲師団を保有した。

第二次大戦後の機甲師団[編集]

戦車の高性能化が進み、随伴する歩兵や砲兵も進化を遂げた。歩兵部隊は、トラックから装甲兵員輸送車に搭乗するようになり、さらには重武装の歩兵戦闘車が登場している。また、大砲についても、牽引式の大砲は減少し、自走砲化され軽度の装甲をも持つようになった。対戦車砲は対戦車ミサイルに取って代わられるなど、各兵器の武装のミサイル化が進んだ。

イスラエル[編集]

イスラエル軍も機甲師団を上手く運用し、何次もの中東戦争において、アラブ側の機甲師団を撃破している。

アメリカ[編集]

アクティブ・ディフェンス型機甲師団[編集]

ROAD計画による一般師団をもとに、アメリカ軍は、1970年代後半より、重装備の機甲師団を欧州正面に配備した。

これらの編制は、アメリカ陸軍の新しい戦闘教義であるアクティブ・ディフェンス・ドクトリンに基づいて決定された。これは、WTO軍の攻勢正面に対して、他方面から転用した部隊を速やかに投入して反撃・阻止するというものである。このためには、兵力の抽出・転用を速やかに行なう必要があることから、機甲騎兵大隊と航空大隊が追加されたほか、砲兵はいずれも自走化され、直接支援砲兵としては155mm自走榴弾砲、全般支援砲兵としては203mm自走榴弾砲が配備された。

ただし、アクティブ・ディフェンス・ドクトリンに対しては、

  1. WTO軍の攻勢正面を速やかに特定し、阻止するのに間に合うように戦力を集中させうるか
  2. WTO軍が全縦深同時突破作戦を発動した場合、次々に投入される梯団攻撃に飲み込まれて、アクティブ・ディフェンス戦術は無効化されるのではないか

といった懸念が抱かれていた。

機甲師団

  • 師団司令部および司令部中隊
  • 3個旅団司令部
  • 6個戦車大隊
  • 5個機械化歩兵大隊
  • 師団砲兵群
  • 防空砲兵大隊
  • 機甲騎兵大隊
  • 航空大隊
  • 工兵大隊
  • 通信大隊
  • 師団支援群(衛生大隊+補給・支援大隊+整備大隊)
  • 憲兵中隊

86年型機甲師団[編集]

いわゆる86年型師団(Division 86)である。これは、アメリカ陸軍が1980年代初頭より採択した新しい戦闘教義であるエア・ランド・バトル・ドクトリンに対応して編制された。欧州正面において、ソ連陸軍の突進を阻止することを主眼としており、非常な重装備部隊である。

また、現代のアメリカ陸軍においては、歩兵師団の名称がついていても戦車の保有量が多いため、実質は機械化歩兵師団となっている(湾岸戦争時におけるアメリカ機甲師団は6個戦車大隊・4個機械化歩兵大隊で構成、機械化歩兵師団は5個戦車大隊・5個機械化歩兵大隊で構成され、差異は少ない)。

エア・ランド・バトル・ドクトリンは、アクティブ・ディフェンスを発展させて策定されたものであり、師団編制においては、航空部隊の旅団への格上げと、師団砲兵としてMLRSが配備されたことが大きな変化である。これらの部隊は、湾岸戦争にも投入された。

  • 機甲師団(20,000名)
  • 3個旅団司令部
  • 6個戦車大隊
  • 4個機械化歩兵大隊
  • 1個師団砲兵旅団
  • 航空旅団
  • 戦闘支援航空大隊
  • 騎兵大隊
  • 機甲騎兵中隊
  • 航空騎兵中隊
  • 攻撃ヘリ大隊
  • 師団支援コマンド
  • 3個前方支援大隊
  • 支援大隊
  • ヘリ整備中隊

機甲旅団戦闘団(重旅団戦闘団)[編集]

2008年、アメリカ陸軍は、ピーター・シューメーカー陸軍参謀総長の指揮下に、モジュラー・フォース改編を発動した。これによって、アメリカ陸軍師団は、歩兵旅団戦闘団、ストライカー旅団戦闘団、機甲旅団戦闘団(2012年に重旅団戦闘団より改称)の3種類の旅団戦闘団を組み合わせた編制に改められた。

現在のアメリカ陸軍には、機甲旅団戦闘団のみによって編成された師団は3個機甲旅団戦闘団よりなる第1騎兵師団のみであり、第1機甲師団は、4個旅団戦闘団のうち、2個が機甲旅団戦闘団、1個がストライカー旅団戦闘団、1個が歩兵旅団戦闘団となっている。

イラク[編集]

1980年代のイラク軍の機甲師団はT-72戦車を中心に編成。イラン・イラク戦争デズフールの戦いなど)を戦い抜いたほか、湾岸戦争に先立つクウェート侵攻時には、第二次世界大戦以降最も成功したとされる電撃作戦の主役となった。しかし、戦果という点では、後に反攻体制に入った多国籍軍(特に前述のアメリカ陸軍)が上塗りを行い、イラク軍の機甲師団があっさりと撃破されるに及び、価値は無きに等しいものとなった。

日本[編集]

日本においては北海道第7師団が編成されているが、これは事実上の機甲師団である。自衛隊における唯一の機動打撃部隊であり、北海道防衛の要と考えられていた。90式戦車を装備する3個戦車連隊、89式装甲戦闘車をふくむ1個普通科連隊(実質的な機械化歩兵連隊)を基幹とし、特科・高射特科もふくめて、全部隊が機械化されている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 加登川幸太郎『ドイツ戦車軍団』(朝日ソノラマ)まえがきによると、同書の中で加登川は第二次大戦末までの師団以上の部隊について、原語の意味と編成から、また混同を減らす意味から、ドイツを「装甲」、アメリカを「機甲」、イギリスを「機械化」、フランスを「軽機械化」および「戦車」、ソ連・イタリアを「戦車」と呼び分けている。連隊以下はすべて「戦車」である。