第二次チェチェン紛争

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第二次チェチェン紛争(だいにじチェチェンふんそう)は、チェチェン独立派勢力(チェチェン・イチケリア共和国等)と、ロシア人及びロシアへの残留を希望するチェチェン共和国のチェチェン人勢力との間で発生した紛争であり、一般的にソ連崩壊直後から1996年まで続いたものを第一次チェチェン紛争1999年に勃発したものが第二次チェチェン紛争と分類する。2009年4月16日に国家対テロ委員会は独立派の掃討が完了したとして対テロ作戦地域からの除外を発表、10年の長きにわたった紛争は終結した[1][2]

紛争の再開[編集]

チェチェンの独立派勢力がロシアからの独立を目指したことにより勃発した第一次チェチェン紛争1996年に一応の終結を見ていた。1997年5月にはハサヴユルト協定が調印され、5年間の停戦が合意されていた。

ところが1999年8月、独立最強硬派のシャミル・バサエフイスラム原理主義思想を持つ[要出典]アミール・ハッターブに率いられた1500名程のチェチェン人武装勢力が隣国ダゲスタン共和国へ侵攻し一部の村を占領するという事件が発生する。また同時期にモスクワではアパートが爆破されるテロ事件が発生し百数十名が死亡した。これを受けてロシア政府はチェチェンへのロシア連邦軍派遣を決定。ウラジミール・プーチン首相の強い指導の下、9月23日にはロシア軍がテロリスト掃討のため再びチェチェンへの空爆を開始し、ハサヴユルト協定は完全に無効となった。

紛争の拡大[編集]

戦争の最初の数ヶ月間、ロシア軍は自軍の死傷者数を抑えるために[要出典]制空権の優位性をうまく利用し、チェチェン・イチケリア共和国の事実上の首都であるグロズヌイや他の主要都市への激しい絨毯爆撃弾道ミサイルによる攻撃を行った[要出典]。 チェチェン共和国の回廊地帯は都市の市民たちの避難場所になった。 独立派は彼らの避難を妨げることがあったとの証言もある[要出典]

西側諸国はロシア連邦軍による抵抗運動の処遇や、ロシア側、チェチェン側双方で行われた[要出典]拷問、強姦、略奪、密輸出入、横領などの犯罪を非難した。 ロシア側は武装勢力に対する攻撃の中でクラスター爆弾[要出典]燃料気化爆弾[要出典]、弾道ミサイルなどを使用したが[要出典]、これらの攻撃によって民間人への被害も発生している。

2002年3月、アミール・ハッターブが殺害され アミール・アブ・アルワリドが後を引き継いだ。

紛争のテロリズム化[編集]

第二次チェチェン紛争以降にテロが過激化してきたことについては、イスラム原理主義の思想を持つ[要出典]イスラーム過激派の勢力が加伸張してきたことがあげられている[要出典]。 チェチェン領内でのゲリラ戦に加えて、2002年10月のモスクワ劇場占拠事件や2004年9月のベスラン学校占拠事件など、チェチェン共和国外での一般市民や政府などに対する攻撃や自爆テロも数多く起きている。自爆テロの中にはチェチェン人の女が関わっているケースがあるが、これは殺害された独立派武装勢力兵士の妻などが仇討ちのためにテロに身を投じていると考えられている[誰?]。一説には夫を失った妻のテロ組織「黒い未亡人」というグループが存在するともいわれる。チェチェン独立派は事件直後には犯行声明を出さないことが多く、むしろ発生後しばらくの間は自分たちの関与を否定するかのような発言を行い、ある程度時間が経ったときに初めて声明を出すことが多い。世間の関心が薄れた頃に犯行声明を出すことにより「テロリスト」のイメージを薄めようとしているものと考えられる[要出典]。また独立派は捕らえた一般市民やロシア兵を殺害する様子をビデオテープに記録しインターネット上に配信したこともある[要出典]

このような紛争のテロリズム化に対して、ロシアは2003年から2006年にかけて独立派最高指導者のチェチェン・イチケリア共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフ、第3代アスラン・マスハドフ、第4代アブドル・ハリムを殺害し、シャミル・バサエフ等の最強硬派の過激派指導者も殺害した。これ以外にもアフメド・ザカエフのような穏健な独立派指導者も大半は国外へ脱出していることから、チェチェン・イチケリア共和国の弱体化が指摘されることもあった[誰?]

このような状況の中、チェチェン・イチケリア共和国の第5代大統領だったドク・ウマロフは、2007年に北カフカースでのイスラム国家の建設を目指すカフカース首長国の建国を宣言した。2009年の戦争終結宣言以降も、カフカース首長国等のイスラム過激派達はロシア連邦軍とチェチェン共和国政府に対するゲリラ戦を継続し、兵士や市民を殺害する事態が続いている。

独立派は、この戦争によりこれまで6万人の市民が死んでいると主張している[要出典]。またロシア国防省はこの紛争で、6000人以上のロシア兵が死亡したと発表した。独立派指導者の一部は西側諸国に対して仲介を要望しロシア連邦の軍事行動等に対しては抗議をしている。独立派に対するロシアのプーチン政権の強硬策に対する批判も一部から出て、独立派は紛争当初こそ各国から支援を得ていたものの、世界的な「テロとの戦い」という流れの中でチェチェン紛争もこの一部とされることが多く、紛争後期には独立派もアルカーイダ等の国際テロ組織との関係を疑惑視[誰?]され孤立無援となった[要出典]

第2次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧[編集]

2002年
2003年
  • 共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
  • モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡
2004年
2005年
2006年
  • イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からのロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
  • アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件
2007年

2007年モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

紛争終結宣言以降の第2次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧[編集]

2009年

2009年モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

2010年

モスクワ地下鉄爆破事件

2011年

ドモジェドヴォ空港爆破事件

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府機関[編集]

NGO[編集]