エル・アラメインの戦い

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エル・アラメインの戦い
2 Battle of El Alamein 001.png
エル・アラメインの作戦地図
戦争北アフリカ戦線
年月日:1942年7月1日~31日(第一次)
1942年10月23日~11月3日(第二次)
場所エジプト エル・アラメイン周辺
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
イタリア王国の旗 イタリア王国
イギリスの旗 イギリス
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
British Raj Red Ensign.svg イギリス領インド帝国
南アフリカの旗 南アフリカ連邦
指揮官
ナチス・ドイツの旗 エルヴィン・ロンメル
イタリア王国の旗 エットーレ・バスティコ
イギリスの旗 ハロルド・アレクサンダー
イギリスの旗 バーナード・モントゴメリー
戦力
98,000(58,000のイタリア兵)
戦車585輌
航空機500未満
150,000
戦車1,100輌~
航空機1,500~
損害
15,000
捕虜7,000
13,250
北アフリカ戦線
1942年7月17日、防御陣地で配置につくイギリス兵士
北アフリカにおけるII号戦車
M4シャーマン戦車。IV号戦車を上回る性能を持っていた

エル・アラメインの戦い(エル・アラメインのたたかい)は、第二次世界大戦における枢軸国軍と連合国軍の戦いである。第一次会戦は1942年7月1日から31日。第二次会戦は同年10月23日から11月3日に行われた。

戦いの背景[編集]

ガザラの戦いトブルク前面の陣地線(ガザラライン)を突破したドイツ軍は、1942年6月18日にはトブルク要塞を包囲した。次に控えるエジプト侵攻を考えると、戦車部隊での突破は難しかった。そこで航空戦力の支援の元、歩兵と砲兵による攻撃を主体とした。十分な安全が確保された後、戦車隊を突入させた。英軍に反撃の余力は無く、20日朝に始まった戦闘は21日朝には終結した。

これが英軍に与えた打撃は大きく、英軍はエジプト領内奥部のエル・アラメインに最終決戦陣地を敷いた。エル・アラメインを占領されると北アフリカの主要な軍港は全て陥落した事となり、これにより輸送船による増援が不可能となるだけでなく、その先にあるエジプトまでもが征服されると、中東の産油地帯はドイツ軍に蹂躙され、同時期にソ連南部コーカサス地方を攻撃していたドイツ軍A軍集団に挟撃され、ソ連の油田まで占領されてしまう恐れがあった。英軍にとって幸いなことに、エル・アラメイン南方に広がるカッターラ低地は、半ば干上がった湿地帯であった。半ば干上がっていても湿地帯は湿地帯であり、塩水の沼地と生乾きの泥と泥が乾いた微細で底深い流砂は装甲車両の通行を阻み、ドイツ軍はそれまでの常勝策であった内陸部経由の戦略的な迂回を行えず、エル・アラメインへの攻撃を繰り返すしかなかった。

こうした状況の中でアメリカ軍の本格的な参戦が決定し、レンドリース法(武器貸与法)によってイギリス軍は米国から300輌以上のM4中戦車と大量の航空機の増援を受けた。対してエルヴィン・ロンメル指揮下のドイツ装甲師団は連戦連勝を収めていたものの、補給の途絶えた中で初期とは見る影もなく消耗しており、戦車はドイツ製のものが90輌[1]、イタリア製の旧式戦車が130輌で残りは鹵獲戦車であった[2]

ロンメルはせめて弾薬と燃料の欠乏を解決する為に、イタリア軍総司令部と空軍司令アルベルト・ケッセルリンクに戦争継続に必要な物資と1万5000トン以上の燃料を輸送するよう約束させたが、輸送船の到着するベンガジ港から前線まで約900km、最寄のトブルク港からでも約450kmと離れており補給線が延びた為に時間がかかった。トブルク港への輸送はマルタ島駐留の英軍を主力とする連合軍に制空権を握られていた為に輸送船は途中で撃沈され、東部戦線ではスターリングラード攻防戦が起きドイツはほぼ全軍を投じた為、北アフリカ戦線は二の次三の次とされ補給は一向に届かなかった[3]

こうした状態で、連合軍の大反攻が開始された。

前哨戦、アラム・ハルファの戦い[編集]

アメリカ軍の戦車を大量に陸揚げし、物量に勝る英軍は植民地徴収兵(オーストラリアニュージーランド南アフリカインドなど)に、エル・アラメイン前面から南へ向けて堅固なボックス陣地(Cf.ガザラの戦い)を敷かせた。それに対し、ドイツアフリカ軍団(DAK)ほかドイツ・イタリア枢軸軍の司令官エルヴィン・ロンメルは、英軍陣地ラインはイタリア軍と歩兵に任せ主力の第15、21装甲師団をはるか南から長躯迂回(海岸寄りの地域には地雷や戦車用の罠が敷設され、強化された塹壕に兵士が立てこもっていたのでこうせざるをえなかった[4])させ地中海側から英軍を包囲しようと8月31日進撃を開始する。

英第7機甲師団の前衛にロンメルは猛攻を加えたが、奥行きのある広範囲の地雷原により攻撃の鉾先が鈍り、しばしば予期せぬ地雷に打ちのめされた。[5]そうして突破に手間取る間に、北からモントゴメリーが満悦の態で差し向けた英第8機甲師団の一部が、東からは第7機甲師団の主力が圧迫してきた。一方のロンメルは、自分の部隊の燃料が枯渇しそうになるのを眺めていた(真の独立した大国になるには石油が足りないという戦前の不満材料を作戦行動のたびに思い知らされるので、皮肉な成り行きだった)。[4]そこでロンメルは当初の計画をあきらめ、第21装甲師団が防御しつつ第15装甲師団には、さらに迂回してアラム・ハルファ高地に陣取る英軍本陣を突こうとした。しかし補給不足の中、必死に進軍する第15装甲師団の前に現れたのは敵本陣ではなかった。英第22戦車旅団が立ち塞がり、ドイツ装甲師団は敗走した。

この戦いは防御側(英軍)が勝っただけではなく、反攻せずに、反攻を試みるような本気の動きさえせずに、防御のみで勝負を決した戦いだった。[4]

第二次エル・アラメイン会戦[編集]

英軍はM4中戦車300両を陸揚げするなど、兵員数・戦車数で枢軸軍の二倍以上の数を集めたが、勝利を確実にするため大規模なカモフラージュ作戦を行った。南方から攻めるように見せかけて実際には北側から攻めることを秘匿するためと、攻撃開始時期が差し迫っていないと思わせるために、偽補給品集積所をはるか南方後方に設置。戦車・大砲は張りぼてを置く一方、本物はトラックに偽装。偽水道パイプラインを南方に延伸した。モントゴメリーはチャーチルに行動をせっつかれていたが、増援が毎週スエズ運河を遡ってくるので、制空権と制海権という傘の下で着々と準備を整えていた。[6]

10月23日、モントゴメリーは1000門以上の砲で一斉砲撃を開始した。この時の連合軍の砲の数と火力は、海空の戦力と同じく、敵をはるかに凌いでいた(英軍2300門、枢軸1350門(内850門は極めて貧弱なイタリア軍))。さらに、第8軍の砲兵連隊は、戦場に散開せずに集中して強力な集団を形成していた。1200両以上の戦車の内500両は強力なシャーマン戦車やグラント戦車で、火力、航続距離、装甲ともにドイツ・イタリア軍装甲師団を圧倒していた。ただ、ロンメルの敷設した地雷の除去などで当初進軍は捗らなかった。[6]

騙されたドイツ軍はロンメルが持病の治療のために帰国したままで奇襲を受け、代理指揮官のシュトゥンメ将軍が戦死する。ロンメルは急いで北アフリカに戻ったが、あらかじめ敷いてあった地雷原や構築した陣地も英軍指揮官バーナード・モントゴメリーの巧みな戦術で突破された。物量的に勝利の不可能な戦いでロンメルは善戦したが、戦車不足と敵の物量に追い詰められていった。唯一対抗できるのは88mm高射砲だったが、それも度重なる戦いで24門を残すのみとなった。

皮肉なことに、ロンメル不在の10月23日から11月1日にかけて、連合軍の反攻を効果的に阻害したのは、ドイツ軍がお荷物扱いをしていたイタリア陸軍であった。南部地区を守る第185空挺師団『フォルゴーレ』(伊語)は兵力比1:13、戦車比1:70、歩兵用の対戦車装備は火炎瓶と地雷だけという絶望的な状況にもかかわらず、大胆な肉薄攻撃によって連合軍の戦車部隊に損害を強要し、本格的な攻勢を2度に渡って退けている。イタリア軍部隊の思わぬ抵抗とそれによる損害を知ったチャーチルは「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛したと言う。ただし同師団の損害も著しく、DAKと共にイタリア軍がこの地を撤退したときには壊滅状態であった[7]

11月2日、ロンメルは更なる敵の大攻勢を知り、撤退を決意した。今回、モントゴメリーは全面攻勢をかけ、容赦ない圧力をかけていたのだ。ロンメルは連合軍の猛爆を掻い潜り、味方の戦車が吹っ飛ばされる中、英軍が把握していないような道を通り、主力をフカの防衛線まで撤退させる事に成功した。大概の場合、機動性の低いイタリア軍が多数取り残される。[8]ロンメルは3日、ロンメルはアドルフ・ヒトラーからの命令を受け取った。内容は「現在地を死守し不退転の決意で戦うべし」というものだった[9]

最前線にいた将校はロンメルにいかに状況が絶望的であるかを報告した。どの師団も消耗が激しく、兵員は1000を数えれば良い方であった。高級将校すら車輌の不足で徒歩で司令部に向かう有様だった。こうしている間にも連合軍は米国から底なしの増援を受けていた。

11月4日にロンメルは総退却命令を出した。連戦連勝を誇ったドイツアフリカ軍団にとって初めての大敗北となった。

以後枢軸軍は次々と防衛線を突破され、アルジェリアモロッコへの連合軍の上陸作戦(トーチ作戦)の成功により翌年にはチュニジアに追い詰められ、北アフリカから姿を消す。大勝利の知らせを聞いたイギリス首相チャーチルは、「これは終わりではない、終わりの始まりですらない、が、おそらく、始まりの終わりであろう。」と語った。後に「エル・アラメインの前に勝利無く、エル・アラメインの後に敗北無し」と言われる、歴史の転換点となった。

今回の英軍の勝利を単に”兵力の優位”と言い切るのは、あまりに単純すぎる。クレタ島やトブルクで苦戦した時よりも連合軍の指揮統制システムは格段に向上しており、ドイツ軍を欺くための欺瞞作戦についてもモントゴメリーとその広報チームの苦労と深慮が報われた。[10]

脚注[編集]

  1. ^ 大半は旧式のIII号戦車IV号戦車は僅かであった
  2. ^ 『ロンメル将軍―砂漠の狐』172項
  3. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』216項 ジョン ピムロット
  4. ^ a b c 「第二次世界大戦 影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p198
  5. ^ 「第二次大戦 影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p198
  6. ^ a b 「第二次世界大戦 影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p202
  7. ^ 吉川和篤・山野治夫『イタリア軍入門 1939~1945 ──第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち』(イカロス出版) ISBN 9784871497886
  8. ^ 「第二次世界大戦 影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p203
  9. ^ 『ロンメル将軍―砂漠の狐』174項
  10. ^ 「第二次世界大戦 影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p209

この戦いを舞台とした作品[編集]

関連項目[編集]