オリエント急行
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オリエント急行(オリエントきゅうこう、Orient Express, 初期には Express d'Orient[1])はヨーロッパの長距離列車である。元は国際寝台車会社(日本での通称ワゴン・リ社)により1883年に運行がはじめられたパリ - コンスタンティノープル(イスタンブル)間の列車であり、2009年現在は国際夜行列車ユーロナイトの一列車としてストラスブール - ウィーン間を走行している。
また、かつての国際寝台車会社の寝台車を復元した観光列車も「オリエント急行」を名乗っており、オリエント・エクスプレス・ホテルズが1982年に運行をはじめたロンドンとイタリアを結ぶ「ベニス・シンプロン・オリエント急行」 (VSOE) と、スイスの旅行会社インターフルーク社による「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行」 (NIOE) がある。また、フランスが主に団体専用列車用として所有する、「プルマン・オリエント急行」 (POE) もある(#国際寝台車会社の寝台車を復元した観光列車のオリエント急行で後述)。
さらにヨーロッパの列車とは特に関係のない観光列車の名称としても用いられている。これにはオリエント・エクスプレス・ホテルズ社がバンコクとシンガポールの間で運行を行っている「イースタン・オリエント急行」 (E&O) 、アメリカン・オリエントエクスプレス社が所有する「アメリカン・オリエント急行」、メキシコを走行する「サウス・オリエント急行」、中国を走行する「チャイナ・オリエント急行」、インドを走行する「ロイヤル・オリエント急行」が存在する(#オリエント急行の名を冠したアジアとアメリカの観光列車で後述)。
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[編集] 歴史
[編集] 登場まで
「国際寝台車会社」も参照
1872年、ベルギーの銀行家ジョルジュ・ナゲルマケールスは国際寝台車会社を設立した。彼は1868年にアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社の寝台車に感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立った。アメリカ人の大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時大陸ヨーロッパに進出しようとしていたプルマン社との参入競争を繰り広げていた。
西ヨーロッパとオリエントを結ぶオリエント急行は同社の看板列車として計画されており、1880年代初めにはパリ・ウィーン間で食堂車や豪華寝台車の運行が始まっていた[1]。
[編集] 開通記念列車
オリエント急行の開通記念列車は1883年10月4日夜にパリ・ストラスブール駅(現パリ東駅)を発車し、6日かけてコンスタンティノープル(イスタンブル)に到着した。なおオスマン帝国では首都の市名を「イスタンブル」と称していたが、西ヨーロッパでは旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、「オリエント急行」の行き先も旧名で表記されていた[2]。
経路はパリ(フランス) - シュトラスブルグ(ドイツ帝国、現ストラスブール) - ミュンヘン - ウィーン(オーストリア=ハンガリー帝国) - ブダペスト - オルソヴァ(ルーマニア王国) - ブカレスト - ジュルジュ - ルセ(大ブルガリア公国) - ヴァルナ - コンスタンティノープル(オスマン帝国)である。ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路は全通しておらず、国際寝台車会社の車両で運行されたのはジュルジュまでで、ドナウ川を船で渡り、ルセ - ヴァルナ間はイギリス資本のブルガリアの鉄道の通常の客車を利用、ヴァルナ - コンスタンティノープル間は汽船で黒海を渡った[2]。
記念列車は寝台車2両、食堂車1両、荷物車(兼車掌車)2両の編成であった。寝台車と食堂車はボギー台車を使用しており、国際寝台車会社創業時の二軸車や三軸車からは大幅に乗り心地が向上していた[3]。
記念列車には沿線各国の高官や鉄道関係者、ジャーナリストなどが招待されたほか、ナゲルマケールスを初めとする国際寝台車会社の幹部も乗車した。途中ルーマニアでは国王カロル1世自ら離宮に招待するなど、沿線各国で歓迎を受けた。招待客の中にはアルザス出身でパリ在住の作家エドモンド・アブーとロンドン・タイムズ紙のパリ特派員アンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツが含まれており、新列車は彼等の筆により西ヨーロッパに紹介された。ドブラヴィッツはさらに到着地のイスタンブルでスルタンアブデュルハミト2世と西ヨーロッパのジャーナリストとしては初の単独会見に成功している[4]。
[編集] 第一次世界大戦前
定期列車としてのオリエント急行は1883年10月25日からパリ - ジュルジュ間で営業を開始した。連絡する船舶等と合わせたパリからコンスタンティノープルまでの所要時間は81時間41分である[5]。当初は週1便の運行であったが、1885年には途中のウィーンまで毎日運行となった。また1885年からは当初のルートのほかブダペストからベオグラード、ソフィアを経由する列車(一部馬車連絡)も運転された。1889年6月には念願のコンスタンティノープルまでの列車の直通運転がベオグラード・ソフィア経由で実現した。これによりパリからコンスタンティノープルへの所要時間は67時間46分にまで短縮された[5]。
1891年には列車名の表記をフランス語の Express d'Orient から英語式語順の Orient Express に改めた。また1896年にはルーマニア国内でドナウ川の鉄橋が開通し、ルーマニア方面へのオリエント急行はブカレスト経由コンスタンツァ行となった。
直通運転が実現したとはいえ、オリエント急行の走る東ヨーロッパの政情は不安定であり、インフラストラクチャーの整備も西ヨーロッパと比べ遅れていた。このため列車の運行にはさまざまな困難が伴った。1891年には盗賊団が列車を襲い、乗客を誘拐して身代金を要求する事件が起こった[2]。また1892年にはバルカン半島でのコレラの流行のため列車が10日間隔離された[6]。
1900年には、ベルギーのオーステンデからブリュッセル、ケルン、フランクフルト・アム・マイン経由でウィーンに至るオーステンデ・ウィーン急行の客車の一部がオリエント急行に併結されてコンスタンツァおよびコンスタンティノープルに直通するようになり、オーステンデ・ウィーン・オリエント急行と名付けられた。オーステンデではイギリスからの連絡船に接続しており、これによってイギリスからバルカン半島方面への所要時間が短縮された[6]。同年にはベルリンからの客車をブダペストでオリエント急行に併結させるベルリン・ブダペスト・オリエント急行が運行を開始したが、こちらは利用者が少なく翌年には直通を中止している[2]。
このころオリエント急行を利用できたのは王侯貴族や高級官吏、富豪などのごく限られた人々だった。パリ・コンスタンティノープル間の一等運賃と寝台料金の合計は当時の召使の給料1年分に相当したという[6]。
[編集] 第一次世界大戦
1914年に第一次世界大戦が勃発するとオリエント急行は運休を余儀なくされた。1915年末のセルビアの敗北により、ベルリンからイスタンブルまでが中央同盟国の線路でつながると、ドイツはこの区間で「バルカン列車(Balkanzug)」の運転を始めた。ドイツはかねてから国際寝台車会社の路線網がパリを中心に構成されており、オリエント急行もドイツ南部を通りすぎるのみで首都ベルリンを軽視していることに不満を抱いていた。バルカン列車はオリエント急行に取って代わろうとしたものであったが、同盟国の崩壊とともに運行を中止した[2]。
[編集] 戦間期
休戦後、オリエント急行は1919年1月18日からパリ - ウィーン - ブカレスト・ワルシャワ間で「軍用豪華列車」として運行を再開したが、利用できるのは連合国の軍人か軍の許可を得た者のみだった[7]。またパリ - ウィーン間の経路はドイツ領を避け、スイスのバーゼル、チューリッヒを経由してオーストリアに入り、アールベルグトンネル(Arlbergtunnel)を通ってリンツ、ウィーンに至るというものだった[1]。
同年4月からは、パリ - ヴェネツィア間のシンプロン急行(Simplon Express)を延長する形で、パリ - ベオグラード間にシンプロン・オリエント急行(Simplon Orient-Express)が運行を開始した。主な経由地はディジョン、ローザンヌ、シンプロントンネル、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステ、リュブリャナ、ザグレブである。オリエント急行をシンプロントンネル経由で運転することは1905年のトンネル開通時から計画されていたが、この経路ではドイツ帝国領を全く経由せず、オーストリア=ハンガリー帝国も南部を通りすぎるのみだったため、両大国の反発を招き実現していなかった。大戦後は両敗戦国の国際列車に関する発言力は低下し、そもそも領内通過自体が困難な状況であったため、シンプロントンネル経由が採用された。シンプロン・オリエント急行は翌1920年にはイスタンブルまで直通するようになった[6]。
1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約には鉄道に関する条項もあり、ドイツは連合国から直通する国際列車を国内の最速列車と同様の待遇で通過させることが義務づけられた。他の同盟国と連合国との講和条約にも同様の条項があった。とはいえドイツ国内の線路の荒廃や石炭の不足、さらにフランスとドイツの間で勃発したルール問題のためオリエント急行のドイツ領通過はまだ困難だった[1][6]。
ストラスブール、ミュンヘン経由のオリエント急行が復活したのは1924年のことである。またアールベルグトンネル経由の経路は1932年からアールベルグ・オリエント急行(Arlberg Orient-Express)と名付けられた[1]。
1930年代はオリエント急行の最盛期であり、シンプロン・オリエント急行がカレーおよびパリからイスタンブルおよびアテネまで毎日運行、オリエント急行(ストラスブール経由)が週3便カレー・パリからイスタンブール(ベオグラードからはシンプロン・オリエント急行と併結)・ブカレストへ、アールベルグ・オリエント急行が週3便(オリエント急行とは別の日)にカレー・パリからブカレスト・アテネへ運行された。このほかボルドー、オーステンデ、ベルリン、プラハなどからの客車が途中駅から併結されることもあった[1]。
第二次世界大戦の勃発により、これらの列車はすべて運休となった[6]。
[編集] 第二次世界大戦後
第二次世界大戦の終戦後、まず1945年11月にシンプロン・オリエント急行がソフィアまで運行を再開し、1947年にはイスタンブルまでの直通が復活した。また1946年にはオリエント急行がパリ - ウィーン間で、アールベルグ・オリエント急行がパリ - イスタンブル・ブカレスト間で運行を再開した。アテネへの直通は1950年に再開している。ただし、これらの列車は座席車や簡易寝台車を含む編成となっており、国際寝台車会社の個室寝台車のみで構成された最盛期の姿は蘇らなかった。モータリゼーション時代の到来や航空機の性能向上により、オリエント急行を利用する長距離旅客は減少していた。また東西冷戦の影響もあり、国境駅での厳格な手荷物検査などが運行の障害となり、所要時間は戦前より大きく延びていた[6]。
この時期「オリエント急行」を名乗った列車にはバルト海沿岸から共産圏のみを通ってバルカン半島に向かう「バルト・オリエント急行」や、オランダや西ドイツからオーストリアのタウエルントンネル(Tauerntunnel)を通ってバルカンに向かう「タウエルン・オリエント急行」があった[6]。
1962年には国際列車の再編が行われ、シンプロン・オリエント急行とアールベルグ・オリエント急行はイスタンブル・アテネへの直通を中止し、列車名から「オリエント」の字を外した。これに代わり、パリからバルカン半島方面への座席急行列車に直通の寝台車を連結する形でダイレクト・オリエント急行(Direct Orient Express, 直通オリエント急行)がイスタンブル及びアテネへ各週2便運行されるようになった[6]。ただしダイレクト・オリエント急行の実態は各国のローカル列車に老朽化した寝台車がわずかに連結されているのみであり、停車駅が多く時間調整のための長時間停車もあった。食堂車は一部区間でしか連結されず。当時の旅行記では食事の確保にすら苦労した様子が描かれている。無論全線を乗り通す乗客は少なかった[2][4][8]。
1971年は国際寝台車会社が寝台車の営業から撤退し、その車両はヨーロッパ寝台車プール(TEN)に引き継がれた[6]。
1977年にはダイレクト・オリエント急行が廃止され、パリ発5月19日、イスタンブル発5月22日の列車が最終列車となった。これによりパリ - イスタンブル間の直通列車は消滅した[6]。
[編集] イスタンブル直通廃止後
ストラスブール・ウィーン経由のオリエント急行は1950年代からパリからブダペストまたはブカレストへの国際夜行列車となっていた。ダイレクト・オリエント急行の廃止後もブカレストへのオリエント急行は運行されていたが、2001年6月のダイヤ改正で運行区間をパリ - ウィーン(ウィーン西駅)間に短縮し、ユーロナイト262・263列車となった[9]。これによりスピードアップが図られたが、食堂車の連結は取りやめられた。
2004年3月時点でののパリ - ウィーン間直通の編成は次のようなものであった。
- 寝台車1両 - クシェット(簡易寝台車)2両 - 2等座席車3両
その他に、パリ - ストラスブール間とザルツブルク - ウィーン間で1等座席車および2等座席車が増結されていた。
2007年6月10日にTGV東ヨーロッパ線が開業したことにともない、運転区間が現行のストラスブール - ウィーン間に短縮され、ストラスブールでTGV列車に接続するダイヤに改められたほか、停車駅の大幅な削減が実施された。
2008年12月のダイヤ改正でオリエント急行の列車番号は468・469と改められた。この時点での停車駅は以下の通りである[10]
- ストラスブール駅
- ケール駅
- バーデン・バーデン駅
- カールスルーエ中央駅
- プフォルツハイム中央駅
- シュツットガルト中央駅
- ウルム中央駅
- ザルツブルグ中央駅
- リンツ中央駅
- アムシュテッテン駅
- ザンクト・ペルテン中央駅
- ウィーン西駅
[編集] 国際寝台車会社の寝台車を復元した観光列車のオリエント急行
1976年、スイスのチューリヒに本社を置いていたインターフルーク社(REISEBURO INTRAFRUG.A.G-イントラフルーク、イントラフラッグと呼ぶ記述も存在した)は、かつての国際寝台車会社の寝台車を購入・復元し、観光用の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行 (NIOE) 」の運行を開始した。NIOEはチャーター運行を基本とし、ヨーロッパ各地を走行した。
1993年にインターフルーク社は経営難のためにNIOEを手放し、客車はあちこちの所有者のもとを転々とするほか、一部が廃車になったが、NIOE編成のチャーター運行は2008年現在でも続けられている。
国際寝台車会社の寝台車を使った観光列車はもう1編成存在する。海運会社であるシーコンテナ社社長のジェームズ・シャーウッドが1977年にオークションで購入、オリエント・エクスプレス・ホテルズ社という子会社を設立し1982年から運行をはじめた「ベニス・シンプロン・オリエント急行 (VSOE) 」である。VSOEはイギリスのロンドンとイタリアのベネチアの間を結んで年24往復運行され、イギリス国内は、かつてのプルマン社のイギリス子会社による豪華車両にちなんだ「ブリティッシュ・プルマン」と呼ばれる座席車、大陸側では1920年代に製造された国際寝台車会社の寝台車で運用されている。大陸側では1泊2日の旅だが、ディナーのドレスコードはフォーマル指定、乗客の要望に対応するスチュワートが同乗する上に、記念として列車内にあるポストから手紙を差出すことが可能である[11]。近年ワゴン・リの車輌の更新改造が施され、160km/h走行に対応した新しい台車に全車交換されている。
またフランスでも「プルマン・オリエント急行(POE)」の名で、主にチャーターにより運行する列車が存在する。登場はNIOE・VSOEのそれとほぼ同時期であるが、食堂車とバー・サロンカーが主体となった編成となっており、200km/h走行への対応他、安全面での強化改造が行われている。
なお、これらの観光列車で用いられている車両は1930年前後に製造されたものであり、スペースや室内設備の機能性などの面では、2000年代の新型列車の個室寝台に見劣りするところもある。これは復元車両でも同様であるが、調度品の質や人的なサービスが充実していたり、車内でのイベント出席の際のドレスコードが設けられているなど、演出としての豪華さのみならず、列車の格調や風格、ステイタス性に関しては他のいかなる観光列車と比べても際立っている。
また、NIOE, VSOEとも寝台車はLx型を使用しているが、Lx型は本来青列車など西ヨーロッパ圏内の列車で用いられていた車両であり、国際寝台車会社のオリエント急行では一部区間でのみ連結されていた[12]。プルマン・カー(サロン・カー)も同様である[12]。
[編集] ORIENT EXPRESS'88
1988年には、フジテレビジョン開局30周年、JRグループ発足一周年記念事業として、フジテレビ・東日本旅客鉄道(JR東日本)主導のもと、各国政府・鉄道各者の協力により、NIOEの車両を利用してパリ→東京間でORIENT EXPRESS'88が運行された(プロジェクトの正式名称は"HITACHIカルチャースペシャル・ORIENT EXPRESS'88")。プロジェクトのきっかけとなったのは、フジテレビが1982年に放映した特別番組「夢のオリエント急行 ロンドン - イスタンブール華麗なる3500キロの旅」と、その番組を担当した当時フジテレビエグゼクティブプロデューサーだった沼田篤良の、オリエント急行に対する熱い想いである。日本国有鉄道(国鉄)時代に交渉を開始したが、その際の相手はVSOEであった。しかし紆余曲折のうえ実際に来日したのはNIOEである。VSOEを断念することになった理由はいくつか存在するが、定期運行しているVSOEを数か月間借り受けることが事実上不可能であったことと、当初契約直前まで漕ぎ着けていたが、所有者であるシー・コンテナーズの社長が交代し、突然態度を硬化させ、フジテレビ側に対し法外な賃貸契約料を持ちかけてきたことが主な理由といわれる。その後交渉に当たったイントラフルーク社のアルビー・グラット社長はこのプロジェクトに快く賛同し、各国鉄道関係者との折衝や、車両技術の提供などに全面的に協力した。また当時JR東日本の副社長を務めており、国際鉄道連合 (UIC) に三年間に渡って赴任していたことのある山之内秀一郎が日本側代表者として、この列車の運行に向けて尽力した。
この列車はD51形蒸気機関車やEF58形、国鉄EF65形電気機関車(1000番台、一般型等)電気機関車などに牽引され、団体列車として日本各地を走行した他、各地での展示公開イベントを開催した。日本鉄道史上現段階で最初にして最後の「国際列車」であることでも注目された。
この運行により当時のJR各社が受けたインパクトは大きく、その後JR東日本は豪華寝台車「夢空間」を試作、北海道旅客鉄道(JR北海道)は寝台列車「北斗星」の個室車両の増備や設備のグレードアップを実施、西日本旅客鉄道(JR西日本)は「トワイライトエクスプレス」を登場させることとなった。
列車はフランスから西ドイツ(当時)、東ドイツ(当時)、ポーランド、ソビエト連邦(当時)、中華人民共和国を経由し香港まで陸路を走行、香港から山口県下松港までは客扱いなしで航送(船で輸送)され、メインスポンサーでもあった日立製作所の笠戸工場で台車をJR線走行可能な狭軌のものに交換のうえ広島→東京間を走行した。大陸側の運行ルートは、パリ・リヨン駅→ランス駅→ストラスブール駅[要出典]→★→フランクフルト中央駅[要出典]→★→ベルリン・リヒテンベルク駅→★→ソハチェフ駅→ワルシャワ駅→★→ブレスト駅→ミンスク駅→モスクワ・ベロルシア駅→モスクワ・ヤロスラヴリ駅→ノボシビルスク駅→イルクーツク駅→ウラン・ウデ駅→ザバイカルスク駅→★→満州里駅→ハルビン駅→北京駅→★→英領香港(九龍)駅、であった(★は国境)[13][14]。なお、この列車の走行距離は実に15,494kmであり、最長距離列車として『ギネス・ワールド・レコーズ』にも登録されている[13][14]。
編成
- 編成は、マニ50形、寝台車6両(WLA Lx16×5両、WLA Lx20×1両)、バー・サロンカー(ARP)、プルマン・カー(WSP)、食堂車(WR)、荷物車(D)、スタッフ・カー(WLA YU)、オニ23形(以上、連結順)の13両編成であった。
- 食堂車「プレジデンシャル」は1927年に製造され、1955年にフランス大統領用専用車に改造された車両で、大統領のシャルル・ド・ゴールがイギリス女王・エリザベス2世やアメリカ大統領・ジョン・F・ケネディと会食を楽しんだことで知られているが、大統領専用車の指定が解除される前後に上記「国際寝台車会社のオリエント急行」の運用に供されたことはなかった。14人が一度に会席できる長いテーブルがこの車両ならではの特徴である。この他にも個室が一部屋備えられている。日本国内の試運転時には、あまりの重さに台車のバネがすべて縮んでしまったため、客車製造当初は未搭載であった冷房装置を撤去し重量の軽減を図った[15]。
- プルマン・カー「コートダジュール」No.4158は本来サロン・カーであり、上記「国際寝台車会社のオリエント急行」に使用されたことはなかったが、運行時は食堂車として使用された。2005年からは神奈川県箱根町の箱根ラリック美術館で「ル・トラン」として展示公開・保存されている(車内見学には事前予約が必要)。1990年代に入り、当時所有していたインターフルーク社が経営破綻したため、車両は散り散りになってしまったが、その内の一両がこのプルマン・カーNo.4158である。現役時の最終所有者は後述するTrans Europ Eisenbahn AG(NIOE-AG名義)であった。来日当時と比較し、窓上部にあった換気用小窓が全て撤去されている他、車体側面の窓上に書かれたロゴがオリジナルのCOMPAGNIE INTERNATIONALE DES WAGONS-LITS ET DES GRANDS EXPRESS EUROPEENSというワゴン・リ社の物から、Trans Europ Eisenbern AG時代のNOSTALGIE ISTANBUL ORIENT EXPRESS Train de Luxeに書き換えられており、原型を損ねている。
- バー・サロンカー「ル・トラン・ブルウ」は1929年にプルマン車として製造されたもので、1952年に改造されている。車内にはグランドピアノが設置され、専任ピアニストであるオットー・ハーンツェルによる生演奏を楽しむことができた。この車両も主に「ル・トラン・ブルウ(青列車)」に主に使用され、「オリエント急行」に使用される機会はなかったといわれている。
- 荷物車は本来の用途の他に、製造年代が古い各車両のメンテナンスを行うための「工作室」が備えられている。日本国内では後述する車両発電機を搭載した。
- この他「シャワーカー」等、日本国内では駅構内の有効長などの関係から改造を受けなかった車両が存在する。それらは全て日立製作所笠戸事業所の構内に保管され、工場の一般公開時に披露された。
- 専任車掌のダニエル・グフェラーはスイス連邦鉄道(スイス国鉄)からの出向者で、丸メガネ、肩から長く提げた赤い改札バッグと、発車の合図に鳴らすホルンがトレードマークであった。身長は約2mで、趣味は鉄道模型[13]。
日本国内運行のための改造
- 日本国内走行用に使用された狭軌の台車は、国鉄末期に大量に廃車されたスハ43系旧型客車の発生品であるTR47形台車を、バネ定数、車輪の直径等を調整のうえ使用した[16]。この結果、オリジナルの台車に装備されていた車軸発電機が使えなくなるため、荷物車にディーゼル発電機を搭載し、各車両へ給電することとした[13]。
- NIOEに使用されているワゴン・リ客車の車体幅(2,850mm程度)は日本の在来線規格 (2,950mm) より狭いため幅は問題ないが、全長が23.5m程度(在来線電車20m、気動車・客車は21.3m)とやや長いため、曲線通過時に車両限界に支障する恐れがあった。このため、走行区間を主要幹線のみに限定したうえで支障箇所の洗い出しが行われ、支障箇所800箇所のうち300箇所については軌道の移動が実施された[16][17]・ また客車側は、ホームに支障するため全車両ドア下のステップ及び一部の床下標識板を撤去した。
- ワゴン・リ客車の連結器・緩衝器はヨーロッパ標準のねじ式・バッファー式でそのままでは日本の機関車と連結できないため、客車編成の前後に1両ずつ控車(マニ50 2236とオニ23 1)を連結した。マニ50形は余剰車の片側連結器をヨーロッパタイプに改造のうえ倉庫として使用、一方オニ23形は一旦廃車となり、国鉄清算事業団の所有となっていたナハネフ23 8を車籍復活のうえ連結器改造・映像放映設備(ハイビジョンテレビ)等の設置を行い「日立パビリオンカー」として使用した。連結器と車端幌はインターフルーク社から借り受けた部品を使用した。運行終了後は用途廃止となり、廃車となっている。
- ブレーキについては、通過国すべて圧力が同じであったため、ブレーキ管同士を接合するための部品を製造するだけで済んだ[16]。
- 荷物車については、屋根上のキューポラと監視窓が車両限界に支障するため、取り外した上で日立製作所が現物を模して作成した若干小型のものを代わりに搭載した[14]。また長距離運行への対応として、調理準備室の改造、6機の冷蔵庫・冷凍庫新設のほか、水タンクもより大容量のものへと交換された[13]。
- 香港到着まで車内に備品として搭載していた観葉植物は、日本国内への持込にあたり検疫の観点から農林水産省の許可が下りず、代用品を搭載した。
- 青函トンネルなど長大トンネル通過にあたっては、木製で石炭焚きボイラーを持つ客車は日本国内の防火基準を満たさないため原則として走行は不可能であった。しかしヨーロッパでは、長大トンネルとして有名なシンプロントンネルで同列車の通過が認められていることに鑑み、全車両に放送装置と火災報知機を追設すること、係員を終夜配置することを条件に特例として認められ、同列車の北海道直通が実現した[13][16]。
- ワゴン・リ客車はJR線での営業のため、日本滞在期間中のみJR東日本東京圏運行本部品川運転所に在籍し、車体妻面には所属区「東シナ」・定員・形式・自重・換算両数・検査施工表記が追記された。また国際列車運行に関与するため、JR東日本が国際鉄道連合 (UIC) に加盟しUICコード (42) を取得している[18]。また列車種別は臨時列車扱いの「急行列車」として扱われた他、日本で書き込まれた車体表記は、インターフルーク社の意向によって「日本を走った証」として長らく存置されていた。
- ワゴン・リ客車自体の製造時期が1920年代から1940年代といずれも古い車両ゆえに、図面も殆ど残っておらず、インターフルーク社からレストア中の車両を借り受けて各部分の調査が事前に行われ、得られたデータに基づいて日本走行に向けての改造竣工を早期に終えることができた。
- 改造作業後の試運転では列車が非常に重い(一両の空車重量が約40t、食堂車は日本の電源車などに匹敵する)ため、機関車の動輪が空転する事態が多々起こった。そのため、列車の加速引き出しは「貨物列車のように行うこと」という通達がなされたという。
- 国内運行終了に当たり、同年12月に日立製作所笠戸事業所に於いて、ヨーロッパ仕様への原型復元作業が行われた。下松港から海路帰国の途に着いたのは、昭和天皇が崩御した1989年1月7日のことである。
- 1992年のインターフルーク社の経営破綻後は同じスイスの旅行会社「ライズビューロー・ミッテルスルガウ」社に引き取られたが、2002年に経営統合に伴って手放す事となった。その後は一部の車輌を除き、オーストリアのウィーンに本社を置く鉄道旅行会社「Trans Europ Eisenbahn AG」に買い取られ、主に団体向けのチャーター列車として運用されていた。しかし、2005年に商標登録されていた「オリエントエクスプレス」という名称の使用権に纏わる権利問題が生じ、オリエントエクスプレス・ホテルズ社とフランス国鉄から訴訟を起こされることとなったため、現在ではNIOEという名称での列車を運行していないといわれている。[19]
運転に際して、各国で動態保存中だった蒸気機関車が牽引機関車に抜擢された[14]。
- フランス国鉄 230G 353号(フランス・パリ - モゥ間)※映画「オリエント急行殺人事件」にも登場した機関車である。
- 東ドイツ国鉄 01-137号・01-1531-1号の重連(東ドイツ・マリエンボルン - ベルリン間)
- ポーランド国鉄 Pt47-112号・Ty51-32号の重連(ポーランド・クトノ - ワルシャワ - ブレスト間)
- ソ連国鉄 P36-0064号(ソ連・ブレスト - モスクワ間)
- 中国国鉄 前進2991号(中国・安達 - 哈爾浜間)
- JR東日本 D51 498号(日本・上野 - 大宮間)
日本ではJR北海道に当時在籍していたC62 3が牽引するのではという噂が鉄道ファンの間で流れたが、実現には至らなかった。
[編集] オリエント急行の名を冠したアジアとアメリカの観光列車
[編集] イースタン&オリエンタル・エクスプレス
「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」で成功を収めたオリエント・エクスプレス・ホテルズ社は東アジアからの顧客誘致を積極的に進めるために、アジアのオリエント急行と題してシンガポールからマレー半島を縦断しタイのバンコクとシンガポールを結ぶ、「イースタン&オリエンタル・エクスプレス」 (E&O) の運行を1993年にはじめた。2008年現在、シンガポールからバンコクを2泊3日、バンコクからシンガポールを3泊4日、そしてタイのバンコクからチエンマイを周遊するコースが通年で運行されている。いずれもヨーロッパの「オリエント急行」と同系列で雰囲気やサービス、食事も豪華そのものである。なお使用される車両はニュージーランド国鉄で使われていた日本製の車両を改装したものである。
[編集] チャイナ・オリエント急行
中華人民共和国の鉄道では、シルクロード沿いで「チャイナ・オリエント急行」が運行されている。これは、カナダの旅行会社が中国国鉄の元貴賓車を観光用に貸し切り、北京とウルムチとの間で運行を行うツアーの名称で、1990年から行われている。
[編集] ロイヤル・オリエント急行
また、インドの鉄道では豪族マハーラージャの専用列車を復元した宮殿列車が1995年から「ロイヤル・オリエント急行」の名前で運行されている。これは、デリーからアラビア海に面したマハーラージャまでの約1,400kmを7泊8日かけて往復する観光列車で、途中各地で下車しての観光が組まれている。
[編集] アメリカの観光列車
「オリエント急行」の名前を冠した観光列車はアメリカにも存在する。これらは東洋には関係がないが、かつての鉄道黄金時代の車両を復元したという点でヨーロッパの「オリエント急行」と似ている。
アメリカの「オリエント急行」は2列車存在する。
- アメリカン・オリエント急行
- 一つは、オレゴン・レイルホールディングス社が所有する「アメリカン・オリエント急行」である。1950年前後に運行されていたアメリカの流線型客車を改造し観光列車に仕立てたもので、ニューヨーク・セントラル鉄道の「20世紀特急」で運用されていた流線型展望車やミルウォーキー鉄道で運用されていたスーパードーム車など、アメリカの鉄道黄金時代の各鉄道の有名な客車が組み込まれている。北はカナダ、南はメキシコまで足を伸ばすが、走行するルートはほぼ決まっていて、季節に応じたツアーが設定されている。しかし、2008年頃に運営していた企業が経営破綻し、現在は運行休止を余儀なくされている。
- サウス・オリエント急行
- アメリカには、「サウス・オリエント急行」という観光列車も存在する。これは「アメリカン・オリエント急行」ほどは知られていないが、やはりかつての流線型車両を復元し、メキシコ北部で運行を行っている列車である。
[編集] その他の「オリエント急行」
オリエントを冠した列車としては、上記の一連の「オリエント急行」の他、アメリカの鉄道会社の一つであるグレートノーザン鉄道(現・バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道)の「オリエンタル特急 (Oriental Limited) 」という列車を挙げることが出来る。この列車は1890年代から1930年代にかけて、シカゴとシアトル間で運行されていたが、シアトルでは日本郵船の太平洋航路に連絡していて、アメリカと東洋を結ぶ列車として機能していた。
この他にも施設として利用された物として、かつて滋賀県に存在したびわ湖温泉ホテル紅葉に「オリエント急行ホテル」が存在した。旧西ドイツの蒸気機関車と、ワゴン・リのLXタイプ寝台車が数両線路の上に乗った状態で、ホテル敷地内の宿泊施設として使用されていたが、後に老朽化の為全て解体撤去されてしまった。ホテルもその後に廃業している。この施設は妹尾河童の書籍にも紹介されたことがある。
[編集] 年表
- 1883年10月4日 パリ発コンスタンチノープル(現・イスタンブール)行き第一号「オリエント急行」列車の運行開始。
- 1889年 コンスタンチノープル(現・イスタンブール)までの直通運転が実現する。
- 1919年 「シンプロン・オリエント急行」の登場。
- 第二次大戦中、運行中止。
- 1946年 座席車や簡易寝台車併結列車として、「シンプロン・オリエント急行」の運行が再開される。
- 1962年5月26日 「シンプロン・オリエント急行」運行休止、「ダイレクト・オリエント急行」として一般列車化。
- 1976年 スイスのインターフルーク社の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行」(NIOE) 運行開始。
- 1977年5月 「ダイレクト・オリエント急行」運行中止。
- 1982年5月25日 オリエント・エクスプレス・ホテルズ社の「ベニス・シンプロン・オリエント急行」(VSOE )、運行開始。
- 1988年 NIOE、フジテレビの開局30周年記念イベントで、日本のJR線を走る。
- 1993年夏 「イースタン・オリエンタル・エクスプレス」(E&O) 運行開始。
[編集] オリエント急行を題材にした各分野の作品
イスタンブール直通の「オリエント急行」は、上流貴顕の乗車が多く、東洋に連なる列車であることから、エキゾチシズムを伴った豪奢な乗り物というイメージが、世界的に広く敷衍していた。また国際的な紛争多発地域であるバルカン半島を経由ルートとしており、第二次世界大戦後の東西冷戦下にはイデオロギーの相違する多数の国々を貫通して運行された。
このような「オリエント急行」の特徴は、古くから興味深い題材として作家たちの関心を集めることにもなり、しばしば小説の「走る舞台」に取り上げられた。モーリス・デコブラの『寝台車のマドンナ』(1925年)にはオリエント急行を初めとする寝台列車が登場する[4]。グレアム・グリーンによる群像劇的な小説『スタンブール特急』(1932年)はイスタンブル行のオーステンデ・ウィーン・オリエント急行が舞台である[4]。またアガサ・クリスティの華やかな推理小説「オリエント急行殺人事件」(1934年)はシンプロン・オリエント急行を舞台としており、1974年にシドニー・ルメットの監督で秀逸な映画化がなされている。アガサ・クリスティ本人も考古学者である夫が中東方面に赴く際に、度々オリエント急行に同伴して乗車したという。
一方東ヨーロッパ側からは、オリエント急行を批判的に描いた作品も存在する。ブルガリアの作家アーレコ・イワニコフ・コンスタンティノフの小説『バイ・ガーニュ』(1895年)はオリエント急行に乗った成金商人を風刺的に描いている[4]。
第二次世界大戦後には、イアン・フレミングがスパイ小説「007シリーズ」の一つとして『ロシアから愛をこめて』(1957年)を書いている。作中でジェームス・ボンドはイスタンブルからディジョンまでシンプロン・オリエント急行に乗車する。この小説はのち1963年にショーン・コネリー主演で『007 ロシアより愛をこめて』として映画化されており、「オリエント急行」でのシーンも見せ場の一つとして魅力的に描かれている。
また、この列車を題材とした音楽としては、イギリスのフィリップ・スパークによるブラスバンド楽曲『オリエント急行 (Orient Express) 』(1986年)がある。この曲はスパークの代表曲のひとつとされ、欧州放送連合(EBU)の"New Music for Band Competition"で第1位を獲得した。急行列車の出発から到着までを描写した、輝かしい曲想を特徴とする。日本国内においても吹奏楽やブラスバンドのコンサートにて頻繁に演奏され、人気がある。なお、吹奏楽版は作曲者スパーク自身の手によって編曲されている。
日本国内で発行された漫画『月館の殺人』(つきだてのさつじん:原作・綾辻行人 作画・佐々木倫子)では、物語の舞台となる夜行列車「幻夜号」の描写において、精緻な作画と各方面からの監修により「オリエント急行」の車両や接客サービス等をかなり精密に模している。
[編集] 脚注
- ^ a b c d e f Guizol
- ^ a b c d e f 平井
- ^ 小池滋 「オリエント急行百年の歴史」 教育社編『オリエント急行』
- ^ a b c d e バースレー
- ^ a b Guizol, p.32
- ^ a b c d e f g h i j k 窪田太郎 「オリエント急行の百年」『オリエント急行』 新潮社
- ^ Guizol, p. 57
- ^ 妹尾河童「『ブルーのプリマドンナ』へ愛をこめて」 『オリエント急行』 新潮社
- ^ Jean-Pierre Malaspina(2006). Train d'Europe Tome 2; La Vie du Rail p. 112
- ^ トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表 2009年冬・春号
- ^ 切手代はVSOEが負担する。
- ^ a b 山之内秀一郎「車両の歴史と変遷」 教育社編『オリエント急行』
- ^ a b c d e f 『鉄道ファン』1989年1月号、交友社
- ^ a b c d 『これがオリエント急行だ』フジテレビ出版
- ^ 運行が秋から冬であったため特に問題にはならなかった。
- ^ a b c d 『鉄道ジャーナル』1989年1月号、2月号、鉄道ジャーナル社
- ^ 東北貨物線赤羽駅構内の軌道調整作業は、NHKの特集番組にも取り上げられた。
- ^ 後に北海道・四国を除くJR旅客各社および日本貨物鉄道(JR貨物)・鉄道総合技術研究所(JR総研)も加盟した。
- ^ http://tamu-douraku.blog.drecom.jp/archive/120 CIWLのこんな楽しみ方って?
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 平井正 『オリエント急行の時代』 中央公論新社〈中公新書〉、2006年。ISBN 978-4-12-101881-6。
- Guizol, Alban (2005). La Compagnie International des Wagons-lits. Chanac: La Régordane. ISBN 2-906984-61-2.
- 『オリエント急行』 教育社、教育社〈Comon sense books〉、東村山、1985年8月。
- 窪田太郎 他 『オリエント急行』 新潮社〈とんぼの本〉、東京、1984年1月。ISBN 1-06-019078-6。
- マイケル・バースレイ 『旅愁オリエント急行』 河合伸訳、世紀社、東京、1978年(原著1966年)。
[編集] 外部リンク

