ラウル・デュフィ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ラウル・デュフィRaoul Dufy, 1877年6月3日 - 1953年3月23日)は、野獣派に分類される、19世紀末から20世紀前半のフランス画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。

画風[編集]

アンリ・マティスに感銘を受け彼らとともに野獣派(フォーヴィスム)の一員に数えられるが、その作風は他のフォーヴたちと違った独自の世界を築いている。デュフィの陽気な透明感のある色彩と、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は画面から音楽が聞こえるような感覚をもたらし、画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとしてヨットのシーンやフランスのリビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。 また本の挿絵舞台美術、多くの織物のテキスタイルデザイン、莫大な数のタペストリー陶器の装飾、『VOGUE』表紙などを手がけ多くのファッショナブルでカラフルな作品を残している。

生涯[編集]

  • 1877年 北フランス、ノルマンディーのル・アーヴルの港街に 貧しいが音楽好きの一家の9人の兄弟の長男として生まれる。父親は金属会社の会計係で、才能ある音楽愛好家。教会の指揮者兼オルガン奏者。母はヴァイオリン奏者。兄弟のうち2人はのちに音楽家として活躍。家計を助けるため14歳でスイス人が経営するコーヒーを輸入する貿易会社で使い走りとして働くためにサン・ジョセフ中学校を離れる。後にル・アーヴルとニューヨークを結ぶ太平洋定期船、ラ・サヴォアで秘書をする。
  • 1895年 18歳のときに美術学校ル・アーヴル市立美術学校の夜間講座へ通い始めた。生涯愛したモチーフとなるル・アーヴルの港をスケッチ。右利きのデュフィは技巧に走り過ぎることを懸念し、左手で描いた。学校の友人フリエスらと共にアトリエを借り彼らとアーブル美術館でウジェーヌ・ブーダンを模写。ルーアン美術館でニコラ・プッサンジャン=バティスト・カミーユ・コローテオドール・ジェリコーウジェーヌ・ドラクロワを学ぶ。
  • 1898年~99年 兵役。戦争から戻り、病身でヴォージュ地方のヴァル・ダジョルに滞在。
  • 1900年 兵役の1年の後にル・アーブル市から1200フランの奨学金を得て、23歳のときに一人故郷を離れパリの国立美術学校エコール・デ・ボザールへ入学。モンマルトルのコルトー街で暮らす。レオン・ボナのアトリエで学ぶ。ジョルジュ・ブラックと学友だった。印象主義の画家クロード・モネポール・ゴーギャンフィンセント・ファン・ゴッホカミーユ・ピサロなどに影響を受ける。
  • 1902年 ベルト・ヴェイルを紹介されて、彼女のギャラリーにパステル作品を納入。
  • 1903年 アンデパンダン展に出品。
  • 1905年 アンリ・マティスアルベール・マルケと知り合い、アンドレ・ドランモーリス・ド・ヴラマンクパブロ・ピカソなどの若いアーティストの作品をサロン・デ・ザンデパンダンで見て、フォービズムに関心を向けリアリズムに興味を失う。
  • 1906年 ベルト・ヴェイル画廊で個展を開く。
  • 1907年 34歳の時に結婚。生活の為、木版画の制作を始める。
  • 1908年 ブラックとレスタックで制作。セザンヌ風様式を採用。フォービズムから離れていく。
  • 1909年 フリエスとミュンヘンに旅行。
  • 1910年 ギヨーム・アポリネールと親交を結ぶ
  • 1911年 当時豪華王と呼ばれたファッション・デザイナーのポール・ポワレと知り合う。彼との仕事で木版刷りで布地のテキスタイルデザインをプティット・ユジーヌ工場で創る。アポリネールの動物誌の木版挿絵を制作。
ファイル:Dufy - La Fée Électricité.JPG
1938年にデュフィが描いた巨大壁画「電気の精」(パリ市立近代美術館蔵)

代表作[編集]

画集[編集]

  • 小学館ウィークリーブック 週間美術館 ルソー/デュフィ 小学館
  • ユーリディス・トリション=ミルサーニ著 太田泰人訳 デュフィ 岩波世界の巨匠 岩波書店
  • 島田紀夫 千足伸行編 世界美術大全集 第25集 フォービズムとエコールド・パリ 小学館
  • ドラ・ベレス=ティピ著 小倉正史訳 デュフィ作品集 リブロポート

収蔵[編集]

映像[編集]

  • NHK教育テレビ「新日曜美術館」歓喜の画家 ラウル・デュフィ
  • テレビ東京「美の巨人たち」

個展[編集]

  • NHKサービスセンター「ラウル・デュフィ展 ―美、生きる喜び―」
  • 読売新聞社文化事業部「デュフィ展」ポンピドゥーセンター所蔵

その他[編集]