マイケル・ジョーダン

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マイケル・ジョーダン
Michael Jordan
Michael Jordan.jpg
名前
本名 Michael Jeffrey Jordan
愛称 エアー (Air)、MJ
ラテン文字 Michael Jordan
基本情報
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
誕生日 1963年2月17日(51歳)
出身地 ニューヨークブルックリン区
身長 198cm
体重 99kg(現役時)
足のサイズ 31.0cm
選手情報
ポジション シューティングガード
背番号 23(永久欠番)
ドラフト 1984年 3位  
最高到達点 約392cm(全盛期)
経歴
1984-1993
1995-1998
2001-2003
シカゴ・ブルズ
シカゴ・ブルズ
ワシントン・ウィザーズ

マイケル・ジェフリー・ジョーダンMichael Jeffrey Jordan, 1963年2月17日 - )は、アメリカ合衆国の元バスケットボール選手。NBAシカゴ・ブルズワシントン・ウィザーズでプレーした。その実績からバスケットボールの神様とも評される[1]

15年間に亘る選手生活で得点王10回、年間最多得点11回、平均得点は30.12点でNBA歴代1位、通算得点は32,292点で歴代3位。1990年代にシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、5度の年間MVP、6度のNBAファイナルMVP受賞。また、1984年のロサンゼルスオリンピックと、1992年のバルセロナオリンピックドリームチーム)においてアメリカ代表の一員として2度にわたり金メダルを獲得した。現役時代の背番号23シカゴ・ブルズマイアミ・ヒートノースカロライナ大学永久欠番。1996年、NBA50周年を記念した50人の偉大な選手の一人に選出。2009年にはバスケットボール殿堂入りした。

現役引退後、2010年にシャーロット・ボブキャッツを買収し、現在は実業家として同チームの筆頭オーナーを勤めている。[2]

プレイスタイルと実績 [編集]

ポジションと得点力
ダンクを試みるジョーダン。を出すのが、彼のトレードマークである[3]

2シーズン弱の引退期間を除いて入団から(1984年)二度目の引退(1998年)までの13シーズンをシカゴ・ブルズで過ごした。ポジションはシューティングガード(以下SGと表記)を務めていたが、ポイントガードやスモールフォワードでも難なくプレイできるオールラウンダーであった。

  • シーズン得点王‐‐通算10回
  • 通算29,292得点‐‐歴代第3位
  • 一試合平均31.5得点‐‐歴代第1位

二度目の引退を表明した1997‐98シーズン終了時点で上述の輝かしい記録を保持していた。

得点パターン

インサイドでは華麗なムーヴから生み出すダンク、独創的なステップから繰り出すレイアップを多用。アウトサイドでは長い滞空時間を活かして流麗なフォームからジャンパーを放つなど、幅広いオフェンススキルを駆使して得点を量産した。

初期のジョーダンのトレードマークは“Air”と形容される豪快なダンク、空中で体勢を変えてディフェンダーをかわすダブルクラッチなど、ほかの選手が決して真似できない空中でのプレイであった。運動能力が著しく低下したキャリア後期にはディフェンダーから遠ざかりつつ放つフェイドアウェイを必殺武器にしてミドルレンジから得点を奪った。プレイスタイルに変化はあったが、キャリアを通じて得点能力の高さは維持された。

一方で長距離シュートを担うSGでありながら、スリーポイント試投数・成功数は多くなかった。成功数が100本を超えたのは2シーズンのみ(1995-961996-97)。名シューターと謳われる選手のほとんどがキャリアで1,000本以上を記録する昨今において、ジョーダンの通算成功数は581本(レギュラーシーズンに限定)と決して多くない。また1990年のオールスター前夜祭のスリーポイントコンテスト出場時には、歴代最小の5本に終わる。


大舞台での実績

大舞台での驚異的な勝負強さもジョーダンの特徴のひとつである。プレイオフの緊迫した状況での活躍は数々の名場面を生み出し、その度に勝利を勝ち取る姿はファンの記憶に残ることとなった。

ジョーダンは6度のNBA優勝(1991年-93年1996年-98年)を勝ち取り、5度のレギュラーシーズンMVPに輝いた(1988年、1991年、1992年、1996年、1998年)。1985年にはルーキー・オブ・ザ・イヤー新人王)を獲得。6度の優勝の際にはそれぞれファイナルMVPを受賞した。ジョーダンはレギュラーシーズン、ファイナル、オールスターのMVP三冠を1996年と1998年に2度達成している。他にMVP三冠を達成したプレイヤーは、1970年ウィリス・リード2000年シャキール・オニールだけである。

ディフェンダーとして

オフェンス面で卓越していただけでなく、リーグ屈指の優秀なディフェンダーでもあった。1988年以降は、引退していたシーズンを除いて1998年まで9回オールNBAディフェンシブ1stチームに選出されている。1988年にはシーズンMVPと最優秀守備選手を同時受賞した。最も目立つのはキャリア通算2514スティールで、これはジョン・ストックトンに次ぐ歴代2位(現在はジェイソン・キッドに更新され3位)、1試合平均で2.35スティールは(クリス・ポールに更新されたが)歴代5位の記録(なおストックトンの一試合平均は2.17で確率はジョーダンの方が高い。ストックトンの平均確率は2013年時点で9位)。キャリア初期は、その跳躍力に物を言わせてガードとしては異例の1試合平均1本以上のブロックショットを記録していた。NBAの重鎮ジェリー・ウェストをして、「ジョーダンのディフェンス能力はオフェンス以上に強烈だった」と言わしめるほどであった。1998年のNBAファイナル第6戦のウィニングショットも、ユタ・ジャズカール・マローンからのスティールから生まれた。リバウンドでも1試合平均で6.2本と、同ポジションとしては非常に高い数字を残している。

生い立ち[編集]

ディーン・スミス・センターの天井に飾られたジョーダンのジャージ

マイケル・ジョーダンは、ジェームズ・ジョーダンとデロリス夫妻の三男としてニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区で生まれた。とても食欲旺盛で、生後3週間でシリアル食品を食べていたという。少年時代の多くをノースカロライナ州ウィルミントンで過ごした。少年時代には兄にバスケットボールの手ほどきを受けるが、兄にはなかなか勝てなかった。バスケットボールを始めた理由は、ただモテたいと思っていたからだそうである。他に野球アメリカンフットボールもプレーした。特に野球は得意なスポーツの一つで、高校まで続けていた。

地元のE・A・レイニー高校に入学。入学時は学校のバスケットボールチームに入れなかったエピソードはよく知られている。この挫折を乗り越え、1年後にはチーム入りを果たす。その後は注目を集める選手に成長した。

高校卒業後はノースカロライナ大学(UNC)に進学し、地理学を専攻した。後に伝説のショットとして語り継がれている1982年NCAAトーナメントチャンピオンシップで彼はウィニング・ショットを決め、同校2度目のNCAAチャンピオンに導いた。2年次に彼はチームの主力となり、その年に彼は全米ジュニア選抜に選ばれた。3年次の時にはネイスミス賞とウッデン賞を受賞した。

この年のシーズン終了後、当時ヘッドコーチだったディーン・スミスの薦めもありプロ入りを決意。1984年のNBAドラフトシカゴ・ブルズに全体3位で指名された(当時の全体1位はヒューストン・ロケッツアキーム・オラジュワンであった)。

大学を休学した後の夏にアメリカ代表としてロサンゼルスオリンピックに参加、中心選手の一人として金メダル獲得に貢献した。

シカゴ・ブルズ時代(一度目の引退まで)[編集]

キャリア初期[編集]

ジョーダンは早くも入団1年目からレギュラーの座をつかみ、平均得点はリーグ上位の28.2点を記録。2年目は怪我によりシーズンの多くを欠場したものの22.7点。そして3年目にはその才能を完全に開花させ、リーグトップの一試合平均37.1点、シーズン総得点は3,000点を超えウィルト・チェンバレン以来の数字を残した。

得点能力のみならず運動能力、特に空中でのボディコントロールには抜群のセンスを見せることで若手ながらリーグ屈指の人気選手となり、シカゴ・ブルズが遠征で訪れる試合は多くの観客を集め、ホームの試合のチケットは入手が困難になった。しかし、チーム自体は強豪とはほど遠く、ブルズを「ジョーダンとその他4名」とさえ揶揄する記者やファンもいた。ジョーダンはその能力の高さゆえに必然的にボールを持つ機会とシュートの本数が多く、それを独りよがりなプレーだと批判する声もあった。

入団当初のジョーダンは高価なアクセサリーを身に着けて試合することがあり[4]、先輩選手たちには生意気な新人と見られることがあった。1985年には新人ながらオールスター戦出場を果たすが、この試合でジョーダンは味方選手からパスを回してもらえない「フリーズ・アウト」という仕打ちを受ける。のちにジョーダンはこの経験に深く傷ついたと語っている。この事件の首謀者と言われたアイザイア・トーマス(当時デトロイト・ピストンズ)とはしばらく良くない関係が続いた。しかし、トーマスがヘッドコーチを務めた2003年のオールスターゲームで、ファン選出から漏れてしまったジョーダンを最後のオールスターに先発出場させるために、トーマス自らヴィンス・カーターを説得。カーターはジョーダンに先発の座を譲った。

ピストンズの壁[編集]

1980年代が終盤に近づくと、この時代イースタン・カンファレンスを支配していたボストン・セルティックスが徐々に衰退し始め、代わってデトロイト・ピストンズが台頭するようになる。一方のシカゴ・ブルズもまた、若手のダグ・コリンズ監督の下で力を付け始め、ブルズは年間50勝できるチームにまで成長していた。

1987年にセルティックスに敗れた次のシーズンから、ブルズは毎年プレーオフでピストンズと対戦するようになる。この時期、荒いディフェンスでバッドボーイズと呼ばれていたピストンズは、対戦する度にブルズとジョーダンを痛めつけ敗退させた。ピストンズはジョーダン・ルールと呼ばれる方法でジョーダンのオフェンスを封じようとした。これはインサイドに切り込んだジョーダンを数人がかりで抑え込むもので、精神的・肉体的にジョーダンを苦しめた。

1988年に続き1989年もプレーオフでピストンズに敗退すると、コリンズはブルズの監督を解雇され、アシスタント・コーチだったフィル・ジャクソンが監督に昇格した。ジャクソンは新システムトライアングル・オフェンスの導入に取り組むなどチーム強化に努めた。若手のスコッティ・ピッペンホーレス・グラントも次第に成長していき、ついにはレギュラーシーズンの勝ち星を55勝にまで増やした。チームメートの信望が厚いビル・カートライトはキャプテンとしてチームをまとめ、ロールプレーヤーのジョン・パクソンはバックコートでジョーダンと組む選手として定着し、ブルズはジョーダンのワンマンチームからジャクソン監督のシステム下で役割分担のチームワークを持った手堅いチームとなっていた。

しかしプレーオフでは、ピッペンの変調などもあり、3勝4敗でまたしてもピストンズに惜敗。このシーズンと前シーズン、ピストンズは連覇を果たしており、チーム史上の絶頂期にあった。

最初のスリーピート[編集]

翌1990-91シーズン、ブルズはチーム史上最多の61勝を挙げる。ジョーダン自身もそれまでのスタイルを変え、ジャクソン監督の方針通りボールを他のチームメートと分かち合う場面が以前より見られるようになった。このシーズン、チームの勝ち数は過去最高だったにもかかわらず、ジョーダンの平均得点は過去数年で最低の31.5点だった(ただし、それでも得点王となっていた)。

プレーオフでは、カンファレンス・ファイナルでピストンズと4年連続の対戦。この年は4勝0敗でこれまでの雪辱を果たし、NBAファイナルではマジック・ジョンソンロサンゼルス・レイカーズが相手となった。新旧スーパースター対決となったこのシリーズを、シカゴ・ブルズは4勝1敗で勝利し、初優勝を決めた。ジョーダンはファイナルMVPを受賞した。

翌シーズン、ブルズはリーグ史上屈指の67勝を果たした。再びNBAファイナルに進出したブルズは、クライド・ドレクスラーを擁するポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。ジョーダンに似たタイプで得点力のあるシューティングガードのドレクスラーを相手に、ジョーダンは目覚ましいパフォーマンスを見せ、4勝2敗で2年連続の優勝を実現した。ブレイザーズは、1984年のドラフトで全体2位指名権を持ちながらジョーダンを指名しなかった[5]。後にジョーダンは「あの時ブレイザーズに指名されないで本当によかった」と冗談交じりに語っている。

次の1992-93シーズンは、ブルズは57勝と前シーズンより10勝減らしたが、プレーオフでは再びNBAファイナルに進出した。ウェスタン・カンファレンスを制したのはフェニックス・サンズで、ジョーダンの親友でもありチームのエース、チャールズ・バークレーはこのシーズンMVPに選ばれた。レギュラーシーズンの勝ち数がリーグ最多だったサンズはホームコートアドバンテージを持っており、ブルズはホームでの試合数が一つ少ない不利を抱えていた。シリーズは敵地での6試合目を制したブルズが勝利し、3度目の優勝を決めた。このシリーズで平均41得点(NBAファイナル歴代最高)をあげたジョーダンはMVPに選ばれた。

1980年代末より「3連覇」を意味する「スリーピート」という言葉が使われていたが、NBAのチームがこれを実現するのは1960年代のボストン・セルティックス以来のことだった。

父の死と一度目の引退[編集]

3連覇達成後シーズンオフの1993年7月23日、不慮の事件によって父親を失った[6]ジョーダンは、突如引退を表明した[7]。全盛期にあっての引退はNBAとメディアに衝撃を与えた。1993年10月の引退表明の会見でジョーダンは「もはや証明するものはない」と述べたが、以前より続いていたバッシング、3連覇達成によるモチベーションの低下、父を失った衝撃が引退の動機になったとマスコミは推測した。

MLBへの挑戦[編集]

スコッツデール・スコーピオンズでプレーするジョーダン

ジョーダンは、1993-94年のNBAシーズン開幕2日前にMLBシカゴ・ホワイトソックス傘下AA級バーミンガムに入団した。多くのファンがマイケルは父親が殺害された悲しみを紛らわせるため子供の頃のもう一つの夢を追求したのだと解釈した。ホワイトソックスのオーナーは、シカゴ・ブルズのオーナーでもあるジェリー・ラインズドーフであるため[7]、実力ではなくコネで入団したのだと反感を持つ野球の選手やファンもいた。

ジョーダンは一回り年下の選手たちに混じりバスで遠征先を周り、懸命に練習を重ねたが、専門家はプロレベルの変化球を打つのは困難だろうと予測した。彼の成績は127試合の出場で打率2割0分2厘、11エラーというものであり、メジャーリーグに昇格することは出来なかった。

1994年にはMLBストライキが起き、翌年になっても事態は進展しなかった。ホワイトソックス球団は状況を打開するため、選手にオープン戦に出場するよう求め、従わない場合は施設の利用を拒否した。球団社長はジョーダンにはこの処置を適用しないと約束していたが、球団関係者は約束を反故にしようとしたため、ジョーダンとの関係が悪化した。この件はジョーダンがブルズに復帰する一つの契機になった。

シカゴ・ブルズ時代(二度目の引退まで)[編集]

復帰[編集]

1995年3月に再びブルズに復帰。メディアは大々的にジョーダンの復帰を報じた。シーズン末の17試合に参加し、チームはプレーオフに臨んだ。プレーオフでは、1回戦でシャーロット・ホーネッツを3勝1敗で下し、続くカンファレンス・セミファイナルではオーランド・マジックと対戦した。オーランドはシャキール・オニールアンファニー・ハーダウェイという二人の才能ある若手を擁した新進気鋭のチームだった。このシリーズ、ジョーダンは重要な場面で些細なミスを繰り返し、2勝4敗でブルズが敗退する原因の一つとなった。

後期スリーピート[編集]

1994-95シーズン終了後のオフ、ジョーダンはバスケットボールの体型を取り戻すべく、そして再び優勝を狙うために懸命にトレーニングを行った。オフにはジョーダン主演の映画撮影も行われたが、映画撮影の場所付近にジョーダン専用のバスケットボールゴールを設置。ジョーダンの呼びかけに、ピッペン、オニール、レジー・ミラーなどNBAの主力選手が集まり、ジョーダンと共に練習をした。後にジョーダンは、このオフの練習で従来のバスケットボールの感覚を取り戻し、相手選手の動きを把握できるようになったといった。

1995-96シーズンが始まると、ブルズは快進撃を続け、NBA史上最高の勝利数を狙えるほどの勢いだった。ジョーダン、ピッペン、そしてかつての宿敵デトロイト・ピストンズから移籍してきたデニス・ロッドマンはリーグ最強の3人組として注目を集めた。また、ガード/フォワードのトニー・クーコッチ、優秀なディフェンダーであるロン・ハーパーも陰からチームを支えた。ジョーダン自身は、1993年以前の強烈なスラムダンカーというよりは、技巧的なジャンプシューターとしてプレーしていたが、平均得点30.4で8度目の得点王に輝くことになる。

シカゴ・ブルズは72勝10敗でレギュラーシーズンを終えた。この勝ち数はNBA史上最多であり、70勝を超えたチームも歴史上初だった。ブルズは数字上史上最強のチームとしてプレーオフに臨み、NBAファイナルシアトル・スーパーソニックスと対戦。敵地のシアトルで2試合を落としたものの、6試合目にシカゴに戻り4度目の優勝を決めた。ジョーダンは再びファイナルMVPを受賞した。

続く1996-97シーズン、ブルズは前シーズンより3勝少ない69勝でレギュラーシーズンを終える。プレーオフでは、このシーズンもブルズはファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンスからは、ユタ・ジャズが勝ち上がってきた。史上屈指の名コンビと言われるジョン・ストックトンとレギュラーシーズンのMVPカール・マローンを相手に、シリーズは4勝2敗でブルズがものにする。初戦のブザービーターや敵地ソルトレイクシティでの病気を押してのパフォーマンスが注目されたジョーダンが再びMVPに選ばれた。ブルズとジョーダンの優勝回数は5回となっていた。

続く1997-98シーズンは、フィル・ジャクソン監督がシーズン後の退任を早い時期から仄めかしており、ピッペンはチーム経営陣との関係を悪化させていた。強豪ブルズは今年で最後かという観測を、マスコミはジャクソンの表現を借りラストダンスという言葉で表した。復帰以降、マスコミやファンはしばしばジョーダンの年齢を話題にするようになっており、「いつまでプレーするか」が関心の的になっていた。ジョーダンは「ジャクソン監督とピッペンが辞めれば自分も辞める」と発言していたが、自身の進退については明言を避けていた。このシーズンはブルズの2度目の「スリーピート」がかかっており、様々な意味で注目を集めることになった。

ブルズはNBAファイナルに進出し、対戦相手はこの年もユタ・ジャズだった。両チームともレギュラーシーズンは62勝20敗だったが、シーズン中の対戦成績に勝っていたユタ・ジャズがホームコートアドバンテージを得ていた。

5戦目までで3勝2敗でシリーズの舞台をユタに戻し、臨んだ第6戦、ジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピートをもたらした。この時、解説者のアイザイア・トーマスは「第4クウォーターのマイケルは殺し屋 (killer) だ」と述べた。

ジョーダンはシーズン終了後の1999年1月13日に2度目の引退を発表した。

ワシントン・ウィザーズ時代[編集]

オーナーおよび人事部門責任者[編集]

1999年、引退後のジョーダンがシャーロット・ホーネッツ(現ニューオーリンズ・ペリカンズ)のオーナー陣に加わるとの報道がなされた。ジョーダンは実際そのために関係者と協議を行っていたが、結局は物別れに終わり、ジョーダンのオーナー入りは実現しなかった。

翌2000年に彼はワシントン・ウィザーズに出資を行い、オーナーの一人となった。同時に同チームのバスケットボール運営部門の社長となった。これは選手の人事に関する責任者になったことを意味した。

この時期のウィザーズは勝ち数20前後と低迷しており、チーム再建がジョーダンに課せられた使命だった。ジョーダンはかつてのブルズの監督ダグ・コリンズをウィザーズ監督に任命。2001年のNBAドラフトでは、ウィザーズは全体1位の指名権を獲得しており、ジョーダンはクワミ・ブラウンを指名した。高卒の新人が全体で1位指名を受けるのはNBA史上初めてのことであり、当時議論を呼んでいた新人の低年齢化を象徴する出来事となった。

2度目の現役復帰[編集]

NHL選手のマリオ・ルミューの活躍に触発されたジョーダンは、2001年に低迷を続けるウィザーズのために2度目の復帰を果たす。以前はガードのポジションだったが、チーム事情によりスモールフォワードでプレーすることとなった。彼の技術は年相応に衰えてはいたが、2001-02年シーズンはケガに悩まされながらも一試合平均23点の記録を上げた。2002-03年シーズンは1試合平均20点を上げる。ラストシーズンにはリーグ史上唯一の40歳で40得点という記録も樹立した。

復帰当初、ジョーダンはチームをプレーオフに進出させることを目標にすると明言していたが、2001-02シーズンは37勝45敗でイースタン・カンファレンス10位、2002-03シーズンは同じく37勝45敗でカンファレンス9位と目標を果たせずに終わった。

2002年NBAオールスターゲームにおいて、以前は彼の象徴であったスラムダンクを失敗し、視聴者は茫然とした。しかし、2003年のオールスターゲームでは、試合終了間際に逆転フェイダウェイショットを決めた。直後に同点にされたが、既にシーズン終了後の引退を表明していたジョーダンに対し会場からはジョーダンコールが繰り返された。

シャーロット・ボブキャッツ時代[編集]

オーナーおよび選手人事最終決定者[編集]

3度目の引退後、ジョーダンはウィザーズのバスケットボール運営部門の職への復帰を希望したが、2003年5月7日、オーナーのエイブ・ポリンは彼を解雇した。後のインタビューでジョーダンはウィザーズに利用されたと感じ、もし引退後即座に首になるということが分かっていたならば2001年に復帰することもなかっただろうと語った。

しかし、ジョーダンのチーム経営に対する熱意は衰えることなく、2006年6月15日ジョーダンは出身のノースカロライナ州にできた新チームシャーロット・ボブキャッツの共同オーナーの一人となり、選手人事の最終決定に関わる役割を担うこととなった。

筆頭オーナー[編集]

2010年3月にはボブキャッツを買収し、元選手としてはNBA史上初の筆頭オーナーに就任した[2]

有名なプレー[編集]

  • 1986年のプレーオフ、当時史上最強と言われたボストン・セルティックスと対戦したイースタン・カンファレンス第1回戦2試合目で、プレーオフ記録となる63得点を上げた。試合後、ラリー・バードは「あれはマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」とコメントした。試合自体はブルズの負けで、シリーズも3連敗で敗退した。
  • 1989年のプレーオフ、クリーブランド・キャバリアーズと戦ったイースタン・カンファレンス1回戦、2勝2敗で迎えた第5戦終了直前(残り3秒)99対100の場面で、ジョーダンは空中でマーカーのクレイグ・イーローをかわし難しいジャンプシュートを放ち、終了のブザーと同時に逆転を成功させた。このシュートでブルズのカンファレンス・セミファイナル進出が決まった。このシュートを英語圏では The Shot と呼ぶことがある。
  • 1991年のデンバー・ナゲッツ戦、ジョーダンは当時ルーキーだったディケンベ・ムトンボに向かって「これがNBAだ」と語りかけ、目を閉じたままフリースローを決めた。
  • 1991年NBAファイナル第2戦、ダンクに向かって跳躍するジョーダンは、サム・パーキンスのブロックをかわすためボールを左手に持ち替え、落下しながらスクープショットを決めた。このシュートを英語圏では The Move と呼ぶことがある。
  • 1991年のプレーオフ1回戦、ニューヨーク・ニックスとの第3戦、3ポイントライン付近で味方からボールを受け取ったジョーダンは、ベースライン沿いにドライブ。が、ニックスのチャールズ・オークリーに進路を阻まれた為、一旦3ポイント方向へターン、が更に進路を阻まんとジョン・スタークスが立ちはだかり、完全にダブルチームでライン沿いに追い込まれるジョーダン。しかし、オークリーの一瞬の隙を突き、ワンドリブルでオークリーの右脇から抜け出しペイントエリアへ。ここで最後の壁、パトリック・ユーイングがブロックに飛ぶ。が、ジョーダンはユーイングの頭上からカウントワンスローの豪快なダンクを決め、マディソン・スクエア・ガーデンに衝撃が走った。
  • 1992年のNBAファイナル、ブレイザーズと戦った第1戦、ジョーダンが放つ3ポイントシュートがことごとく決まり、前半で6本の3ポイント成功は当時のNBAファイナル記録だった。この試合は前評判では当時ジョーダンと評価を二分していたクライド・ドレクスラーとの戦いという事で盛り上がった。が、結果はジョーダンの一人舞台であった。
  • 1993年敵地でのカンファレンスセミファイナル、対クリーブランド・キャバリアーズ第4戦。勝てばカンファレンスファイナルに進出という試合、序盤からジョーダンは痛めた右手首の影響から、シュートの精彩を欠いていた(ダンクシュートも手首に負担をかけないよう、左手で行っていた)。ゲームは一進一退の攻防を見せ、同点で迎えた第4Q残り1.7秒、フェイダウェイ・ジャンパーで放ったシュートがゲーム終了と同時に決まり、1989年のThe shotの再現となった。なお、それにちなんでこのシュートはThe shot2と呼ばれている。
  • 1993年ファイナル第6戦、試合終了前に、一人でディフェンスを突破し、非常に高い位置でのレイアップを決め、グライダーとよばれる。そしてNBA3連覇を成し遂げた(ジョーダンはMVP)。
  • 1997年のNBAファイナル第1戦、ジョーダンは試合終了と同時にウィニングショットを決めた。
  • 1997年のNBAファイナル第5戦、ジョーダンは食中毒で最悪のコンディションだったが38得点を上げ、ブルズは優勝に王手をかけた。
  • 1997年のNBAファイナル第6戦、ダブルチームを受けたジョーダンはフリーのスティーブ・カーへアシスト。これが決勝点となった。
  • 1998年のNBAファイナル第6戦、試合終了間際にジョーダンはカール・マローンからスティール。そのままボールを運びジャンプショットを放ち、残り5.2秒で逆転に成功。ユタ・ジャズはその後追いつくことなく、ブルズは6度目の優勝を決めた。このシュートはThe Last Shotと呼ばれている。

私生活[編集]

ゴルフはジョーダンの最大の趣味の一つである(2007年、オハイオのSignature of Solonにて)
家族
  • 1989年に結婚、妻との間にジェフリー、マーカス、ジャスミンという二男一女をもうけた。ジョーダンはイリノイ州ハイランドパークに居を構えている。ジェフリーとマーカスは同じ高校に通いバスケットボールをプレーしている。ファニータ夫人は2002年に離婚訴訟を起こしたが、のちに和解した。だが2006年12月29日、ジョーダン夫妻は「17年間の結婚生活に円満に終止符を打つことを決意した」との声明を発表し、離婚した。妻には財産分与として1億5000万ドル(約150億円)以上が渡される見通しである。
  • 2011年12月29日、キューバ系米国人エベット・プリエトとの婚約が発表された[8]。2013年4月、彼女と結婚した[9]
父の死
  • 1993年8月、ジョーダンの父親ジェームズは、友人の葬儀からの帰路の途中に仮眠を取るためノースカロライナ州のハイウエイの路側帯に停車していたところ、二人の強盗により殺害された。犯人らはマイケルからの贈り物であるレクサスを盗み、ジェームズの遺体を近くに遺棄した。ジェームズは行き先を明らかにせずに数日間外泊することがよくあったため、当初マイケルと家族は捜索願いを提出しなかった。捜索が始まると、ジェームズの遺体は川で発見され、身元不明人として条例により火葬されていたことが分かった。メディアは当初ジェームズの殺害をマイケルが公認していた彼のギャンブル癖と結びつけようとした。ジェームズがゴルフでの賭で何万ドルも失ったことをマイケルが認めたことが広く公表された。
ファッション
  • ジョーダンは最も早い時期に頭をスキンヘッドにしたNBA選手の一人だった。彼が年齢のわりに早く禿げあがり始めたことが理由の一つだったが、1990年代初頭以降スキンヘッドは北米の若者、特に黒人男性の間ではファッションとして受け入れられるようになった。同じ時期、ジョーダンは大きめのショーツ(バギー・ショーツ)を穿いて試合に出るようになった。これはユニフォームの下にノースカロライナ大の練習用ショーツを履く為。この頃にはミシガン大学ファブ・ファイブと呼ばれた選手たちも同様のスタイルで話題を集めており、90年代のNBAではバギー・ショーツが主流になった。
  • プロ入り後もユニフォームの下に、母校のノースカロライナ大の練習用ショーツを常に履いていた。主演した映画「スペース・ジャム」でも、これに言及する台詞がある。
  • 毎試合新品のシューズを履いていた。引退後のナイキのCM「What Is Love?」でも自分のバスケットに対する愛情の一つとして挙げている。
趣味
  • 日常生活ではゴルフを愛好しており、試合のある日に数ホール回ることもしばしばあった。ゴルフ好きが行きすぎ、1990年代前半には賭けゴルフが社会の批判を浴びたこともあった。
交友関係
  • もう一人のアメリカの著名な"MJ"、2009年6月に逝去したマイケル・ジャクソンと彼のミュージックビデオ『JAM』の中で共演したことがある。ビデオの最後にはジョーダンがジャクソンにバスケットを教えるシーンと、ジャクソンがジョーダンにダンスを教えるシーンが映っている。
メディアとの関係

一度目のスリーピートの後、メディアからの激しいバッシングにさらされた時期がある。特に以下の諸点が非難された。しかし、父の悲劇的な死が報じられた後はバッシングも下火になった。

  • 優勝したNBAのチームはホワイトハウスに招かれるのが恒例となっていたが、ジョーダンはブッシュ大統領に以前会ったことがあるのを理由に招待を断っていた。マスコミはジョーダンの行動が礼に失していると非難した。
  • ジョーダンのギャンブル癖が報じられ[10]、人々の予想を超える額の金が賭けられていることは失望と顰蹙を買った。特に、ジョーダンのギャンブル相手には殺害された麻薬売人がおり、その遺品から20万ドルの記載とジョーダンの署名入りの小切手が発見されると厳しい批判が起こった(ジョーダン自身は麻薬売人の殺害に無関係であることが証明された)。
  • 1991-1992シーズン期間中にシカゴの新聞記者サム・スミスが出版した Jordan Rules という著書はジョーダンを独裁的な人物として描いており、ジョーダンが圧倒的な実力を持っていたために周りとのレベルの差が理解できず常にチームメイトと罵り合っていたこと等が具体的な情報源をもとに書かれていただけにバッシングに更に拍車をかけた。

人物[編集]

人気[編集]

ジョーダンを主題にした Hang TimeRebound の著者である記者作家ボブ・グリーンはジョーダンがエルビス・プレスリーの再来であり、「アメリカ文化の頂点に登り詰めた」と表現。人々はジョーダンが史上最高のバスケットボール選手であると論じるばかりか、ベーブ・ルースモハメド・アリと比較するなどバスケットボールを超えた文脈で彼の存在を語るようになった。

1990年代には、遠く海を越えた日本でも、バスケットボール人気の過熱とともに当時の若者たち、特にスポーツに親しむ少年たちの最高の憧れの存在となり、多くのメディアを飾り、これに触発されたSLAM DUNKなどの娯楽作品も大いなる人気を博した。
ジダンベッカム等、数々の世界の一流アスリートにもジョーダンに憧れ、尊敬している人物は多い。

ジョーダンがここまでの存在になったのには、いくつかの要因があると考えられる。

運動能力

ジョーダンはNBAの歴史の中で非常に高い運動能力を持っており、見る者の注目を集めるのに十分だった。彼は人が見たこともない動きをしばしば見せ、特に空中でのプレーは見る者を驚嘆させた。実況するアナウンサーはジョーダンがジャンプすると「TAKE OFF(離陸を開始した)」、「人類が空を飛んだ」と表現したほどである。ジョーダンの個人能力が注目されるようになったのは、シカゴの市場が比較的大きかったこと、キャリア初期にブルズの監督を務めていたケヴィン・ローリーがジョーダンを自由にプレーさせる方針を採ったことも要因となった。また、ティム・グローバーを専属トレーナーに雇い、故障に強い体を作り上げた。

ジョーダンの人並み外れた身体能力は先天的なものであると思われることが多いが、その恵まれた才能に加えて彼は早くからウエイトトレーニングを導入し、真夜中や早朝であっても思い立ったらすぐに専属トレーナーを呼んでトレーニングを行った。どんな体勢からでもシュートできるようにバランス感覚を鍛え、怪我の予防のため足首の筋力トレーニングも欠かさず行った。その結果、捻挫しても2~3日で復帰できたという。また、彼は試合後もクールダウンやケアに時間を費やした。このことで彼は故障の少ないキャリアを過ごすことができたと考える専門家も多い。 

また、198cmという体格がバスケットにおいて大きい部類ではなく、むしろ小さい事も影響している。これまでのNBAでは7フッターの巨人たちが支配的だったが、ジョーダンは恵まれた運動能力と鍛え上げた肉体と磨き抜いた技術により2メートルをはるかに超える巨人たちと渡り合った。体は小さくはあるが腕が長く、運動能力とあいまって高さの不利が減少され、速度と技術の有利で勝負できる程度の小さすぎない肢体はある意味で理想的といえた。

1980年代のNBAの隆盛

1970年代末期にはNBAの人気は低迷しており、リーグのイメージもあまり良くなかった。しかし、デビッド・スターンコミッショナーに就任しリーグの再建に努めたこと、マジック・ジョンソンラリー・バードのライバル関係が大いに注目されたことなどから、NBAの人気は上昇していった。マジックとバードがキャリアの末期に入る頃には、次のジョーダン時代への土壌が十分に出来上がっていたといえる。また、同時期にケーブルテレビが普及し始めたこともこの流れを助けた。

商業的な成功

ジョーダンは商業的に最も成功を収めたアスリートの一人である。1998年の時点でFortune誌はジョーダンがプロフェッショナル入り以降100億ドルの経済効果を上げたと述べている。これは本業のバスケットボールだけでなく、ナイキマクドナルドコカコーラゲータレードなどとのスポンサーシップなしには果たし得ない。特に1980年代に、当時新進気鋭の映画監督だったスパイク・リー指揮によるナイキの一連のCMが成功したことが大きい。

ビジネス[編集]

1980年代にNBAでプレーし始めて以降、ジョーダンは多くの企業と広告契約を結び、様々な事業を手がけてきた。ジョーダンはプロバスケットボールのみならず、本業以外で得る収入の大きさではスポーツ界でも際立った存在になった。また、彼の代理人、デビッド・フォークもこのマネーゲームの中心となった。

ジョーダンが最初期にかかわり、以後も最も重要になったのはスポーツ用品メーカーナイキとの関係だった。ジョーダンは新人のシーズンよりナイキとの契約を結び、自身の名前をブランドに取り入れたバスケットボールシューズ「エア・ジョーダン」シリーズの生産・発売が開始された。

エア・ジョーダンシリーズのテレビCMの制作には、当時新人の映画監督だったスパイク・リーが起用された。ジョーダンの運動能力を強調しつつも奇抜な演出を取り込んだリーのCMはヒットし、ジョーダンの人気とも相まってエア・ジョーダンは爆発的な売上を見せた。ジョーダンは当時としては画期的だった歩合制の契約を結んでおり、シューズの売上に比例してジョーダンの収入も上昇した。ナイキ自身も当時業界1位だったコンバースを抜くことになった。以後NBAのスター選手の多くはナイキと同様の契約を結ぶようになった。

バルセロナオリンピックの金メダル授与の式において、ジョーダンはアメリカ代表ジャージのリーボックロゴ星条旗で隠すという行動をとった。これはジョーダン個人がナイキとスポンサー契約していたことが原因である。

エア・ジョーダンに関しては、主に二つの点で批判が起きた。一つは、このシリーズがあまりにも人気を博したため、少年少女たちがシューズを狙った強盗の被害に遭う事件が起きていたことだった。もう一つは、エア・ジョーダンを生産するために発展途上国の児童たちが低賃金で働かされているというものだった。後者に至っては、雇用の確保につながっているという観点もあり、主因は社会の構造的問題であるため、ジョーダンも明確な反論はしていない。

ジョーダンは食品関係の広告も幅広く行った。マクドナルドのCMに出演し、地元のシカゴでは「マクジョーダン・スペシャル」というメニューが出された。ゲータレードのCMで採用された「Be Like Mike」「マイク(マイケル)みたいになりたい」という歌は広く知られた。他にコカ・コーラのキャラクターになったほか、シリアル食品「ウィーティーズ (Wheaties)」でもジョーダンの姿がパッケージに登場した。

ジョーダンは下着メーカーヘインズとも広告契約を結び、香水・装飾品メーカーのビジャンからは「マイケル・ジョーダン・コロン」が発売された。1996年には映画『スペース・ジャム』に出演し、アニメのキャラクターバッグス・バニーラリー・バードチャールズ・バークレー、俳優のビル・マレイらと共演した。

ジョーダンはシカゴやニューヨーク、故郷のノースカロライナ州にレストランを持っている。

また、AMAスーパーバイクシリーズにチームを持っており、Moto-GPを観戦する姿が度々報道されるなど、かなりのバイク好きでもある。2004年のバレンシアGPでは自らの手でMotoGPマシン(ドゥカティ・デスモセディチ)を試乗した。

名言・金言[編集]

ジョーダンはバスケットボール界のみならず、世界中のアスリートの尊敬と羨望を集めた。したがって彼の言動はそのままスポーツをする者・もしくは勝負の場に身をおいている者にとっての名言となった。

いつもネガティブな状況をポジティブな状況に変えろ。

アスリートとしていつも僕らは素早く動こうとしていたが、「さあ行け、止まれ、行け、止まれ……」そういう休止期間が多かったのはすごくハードだったよ。

たとえ私が年寄りの白髪になってプレーが出来なくなったとしても、試合を愛しているだろう。

失敗をすることは耐えられるが、挑戦しないでいることは耐えられないんだ。

私は大事なショットを外した後のことなんて考えたことがない。もし考えたならいつも悪い結果を思ってしまうからさ。

みんなの手本であるからにはネガティブであってはいけないんだ。

私は練習であろうと試合であろうと勝つためにプレーする。何者であろうと私の勝利への意欲の前に立ちはだかることはない。

私は黒人だって知っている。だけど一人の人間として見てもらいたいし、みんなもそう願っているはずだよ。

私はいつも、一度何かを始めたら必ず結果が来ると信じていた。気持ち半分でやることなんて出来ない。結果も半分になってしまうからね。

失敗することを恐れたことはない。

もし他人のネガティブな期待に甘んじてしまったなら、結果は絶対に手に入らない。

何かを成し遂げようと思ったら、必ず障害があるものだ。私にもあったし、誰にでもある。しかしそれが私を邪魔することはない。目の前の壁に突っ込んだなら、絶対に振り向いたり諦めてはいけない。どうやってそれを乗り越えるか、突き進むか、うまく処理するかを考えるんだ。

ただプレーして、楽しく試合をすればいい。

もし自分の弱みとされる部分に立ち向かわなければならなくなったら、私はそれを強みに変えるやり方でやってきた。

私の体はどんなクラッチにも折れたりはしないが、ベンチで指を銜えているなんて精神がへし折れてしまうよ。

私は人生で何度も失敗してきた。だから成功するんだ。

1991年、ボブ・グリーンのインタビューで。のちナイキのCMに脚色して引用された。

私の英雄は両親さ。それ以外には私の英雄はいない。

あることを夢見る人もいれば、やりたいと思う人もいれば、実現する人もいるんだ。

才能で試合に勝つことはできる、だがチームワークと知性は優勝に導くんだ。

試合は私の妻みたいなものさ。真面目に尽くして責任を果たせば、満足と平和をもたらしてくれる。

チームになれば見えなくなるが、だが勝利の後には必ず個々人の力が存在しているんだ。

成功したいと思うなら自己中心的でなければいけない。だがもし最高のレベルに達したなら、自己中心的であってはいけない。他人とうまく付き合い、一人になってはならない。

何かをする前に、必ずそれを予期することだ。

上手くなりたいから練習する、向上心が無くなった時は引退する時さ。

自伝ビデオ「プレイグラウンド」より

背番号に関するエピソード[編集]

  • 1990年2月14日のオーランド・マジック戦の試合前にユニフォームを盗まれ、1試合だけ急遽空いていた番号の12番(背中に"JORDAN"とは記されていない)を付けて出場し、マジックに敗戦しながらも49得点を記録した。
  • 1995年の最初の復帰に際して、今までの背番号を“23”から“45”へ変更した。45番はMLBへの挑戦の際につけていた番号であり、父親が最後に見た23番のユニフォームの歴史を変えたくないという思いがあった。しかし、前述のオーランド・マジックとのプレーオフ・カンファレンス・セミファイナル初戦でミスを連発し、それに対する気分転換のため、ブルズの用具係の提案で23番のユニフォームを着用した。この行為はリーグからクレームがつき45番に戻すよう発表がされたが、ジョーダンが拒否。ブルズもそれを支持したため、シーズン終了後2万5000ドル罰金を科せられた。
  • 元々45番は尊敬する兄が学生時代につけていた番号であり、23番は兄のせめて半分以上、上手くなりたいという想いから選んだものだった。

個人成績[編集]

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
1984–1985 CHI 82 82 38.3 .515 .173 .845 6.5 5.9 2.39 .84 3.55 28.2
1985–1986 CHI 18 7 25.1 .457 .167 .840 3.6 2.9 2.06 1.17 2.50 22.7
1986–1987 CHI 82 82 40.0 .482 .182 .857 5.2 4.6 2.88 1.52 3.32 37.1
1987–1988 CHI 82 82 40.4 .535 .132 .841 5.5 5.9 3.16 1.60 3.07 35.0
1988–1989 CHI 81 81 40.2 .538 .276 .850 8.0 8.0 2.89 .80 3.58 32.5
1989–1990 CHI 82 82 39.0 .526 .376 .848 6.9 6.3 2.77 .66 3.01 33.6
1990–1991 CHI 82 82 37.0 .539 .312 .851 6.0 5.5 2.72 1.01 2.46 31.5
1991–1992 CHI 80 80 38.8 .519 .270 .832 6.4 6.1 2.28 .94 2.50 30.1
1992–1993 CHI 78 78 39.3 .495 .352 .837 6.7 5.5 2.83 .78 2.65 32.6
1994–1995 CHI 17 17 39.3 .411 .500 .801 6.9 5.3 1.76 .76 2.06 26.9
1995–1996 CHI 82 82 37.7 .495 .427 .834 6.6 4.3 2.20 .51 2.40 30.4
1996–1997 CHI 82 82 37.9 .486 .374 .833 5.9 4.3 1.71 .54 2.02 29.6
1997–1998 CHI 82 82 38.8 .465 .238 .784 5.8 3.5 1.72 .55 2.26 28.7
2001–2002 WAS 60 53 34.9 .416 .189 .790 5.7 5.2 1.42 .43 2.70 22.9
2002–2003 WAS 82 67 37.0 .445 .291 .821 6.1 3.8 1.50 .48 2.11 20.0
レギュラーシーズン 1072 1039 38.3 .497 .327 .835 6.2 5.3 2.35 .82 2.73 30.1
1985 CHI 4 4 42.8 .436 .125 .828 5.8 8.5 2.8 1.0   29.3
1986 CHI 3 3 45.0 .505 1.000 .872 6.3 5.7 2.3 1.3   43.7
1987 CHI 3 3 42.7 .417 .400 .897 7.0 4.7 2.4 1.1   35.7
1988 CHI 10 10 42.7 .531 .333 .869 7.1 7.6 2.5 .8   36.3
1989 CHI 17 17 41.8 .510 .236 .799 7.0 7.6 1.7 1.8   34.8
1990 CHI 16 16 42.1 .514 .320 .836 7.2 6.8 2.8 .9   36.7
1991 CHI 17 17 40.5 .524 .384 .845 6.4 8.4 2.4 1.4   31.1
1992 CHI 22 22 41.8 .499 .386 .857 6.2 5.8 2.0 .7   34.5
1993 CHI 19 19 41.2 .475 .389 .805 6.7 6.0 2.1 .9   35.1
1995 CHI 10 10 42.0 .484 .367 .810 6.5 4.5 2.3 1.4   31.5
1996 CHI 18 18 40.7 .459 .403 .818 4.9 4.1 1.8 .3   30.7
1997 CHI 19 19 42.3 .456 .194 .831 7.9 4.8 1.6 .9   31.1
1998 CHI 21 21 41.5 .462 .302 .812 5.1 3.5 1.5 .6   32.4
プレーオフ 179 179 41.8 .487 .332 .828 6.4 5.7 2.10 .88 3.05 33.4
オールスター 13 13 29.4 .472 .273 .750 4.7 4.2 2.85 .46 3.23 20.2
略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ

脚注[編集]

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  1. ^ 1986年、当時のプレーオフ記録となる63得点を上げたジョーダンに、対戦したボストン・セルティックスラリー・バードは、試合後に"God disguised as Michael Jordan."(彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ)と述べている。
  2. ^ a b ジョーダン氏がボブキャッツ買収=元選手の筆頭オーナーは初-NBA、時事ドットコム、2010年3月18日。
  3. ^ この癖は、彼の祖父が車の修理をするときによく舌を出しながら作業していたことに影響されてのものである。
  4. ^ 現在は金属類のアクセサリーは禁止されている
  5. ^ この時指名されたのはサム・ブーイ
  6. ^ James Jordan: shock and sadness follow shooting of Michael Jordan's father”. findarticles.com (1993年8月30日). 2012年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月20日閲覧。
  7. ^ a b Mike Kahn (1999年9月29日). “Midwest teams prove powerful in the '90s”. CBSスポーツ. 2011年6月20日閲覧。
  8. ^ M・ジョーダン氏、モデルと婚約!/NBA”. sanspo.com (2011年12月31日). 2011年12月31日閲覧。
  9. ^ Michael Jordan marries longtime girlfriend”. シカゴ・トリビューン (2013年4月27日). 2013年6月2日閲覧。
  10. ^ Corey Nachman (2011年4月22日). “The Jordan Conspiracy Theory”. businessinsider.com. 2013年6月2日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]