レブロン・ジェームズ

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レブロン・ジェームズ
LeBron James
マイアミ・ヒート  No.6
Lbjheat.jpg
名前
本名 LeBron Raymone James
愛称 "King James"
"The Chosen One"
"L-Train"
ラテン文字 LeBron James
基本情報
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 1984年12月30日(27歳)
出身地 オハイオ州アクロン
身長 203cm
体重 113kg
足のサイズ 35.0cm
選手情報
ポジション SF
背番号 6
ドラフト 2003年 1位
経歴
2003-2010
2010-
クリーブランド・キャバリアーズ
マイアミ・ヒート

レブロン・ジェームズLeBron James(発音 /ləˈbrɒn/;, 1984年12月30日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州アクロン出身のプロバスケットボール選手である。プロバスケットボールリーグNBAマイアミ・ヒートに所属。愛称は「キング・ジェームズ」。 背番号は「6」。クリーブランド・キャバリアーズに在籍していたときは、憧れだったマイケル・ジョーダンと同じ「23」を着用していた。身長203cm、体重113kg。ポジションスモールフォワードだが、ポイントガードシューティングガードもこなせるオールラウンダー。現在のNBAを代表する選手の1人である。最年少得点記録をハイペースで更新中。

目次

[編集] 生い立ちと高校時代

レブロンはアクロンの低所得者地区で生まれた。父親は側におらず、住居を転々としながら16歳の母親と継父によって育てられた。バスケットとアメリカン・フットボールに熱中した少年時代に、レブロンはバスケットのコーチの家に居候するようになった。新しい環境でさらにバスケットの腕を磨いたレブロンは、アマチュア・アスレチック・ユニオンの大会で頭角を現すようになった。

高校はセント・ビンセント=セント・メアリー高校でプレイ。レブロンは1年目からエースとなり、20得点6.2リバウンドの成績でチームを牽引、27戦全勝で州の第3部チャンピオンに上り詰めた。

2年目には25.2得点7.2リバウンド5.8アシストとさらに成績を伸ばす。レブロンの評判はすぐに広まり、高校はこのシーズンの開幕戦をアクロン大学のアリーナで開催し、観客5000人を集め、さらに連覇が掛かった州タイトルの決勝戦では17,000人が集まり、レブロンとチームは大観衆の前で見事に優勝を果たした。またレブロンは州史上2人目となる2年生でのオハイオ州ミスター・バスケットボールに選ばれ、またUSAトゥデイ紙選出のオールUSAファーストチームにも名を連ねた。すでに全国区となっていたレブロンはNBAのスカウト陣の注目も集め、NBAのワークアウトにも招かれた。アメリカン・フットボールワイドレシーバーとしても優秀だったレブロンは、このシーズンに州のオールファーストチームにも選ばれていたが、この頃からバスケットに専念するようになった。

3年目のシーズン、チームは州の第2部に昇格したが、州タイトル3連覇は果たせなかった。レブロンは29.7得点8.3リバウンド5.7アシストの成績で、ゲータレード選出の年間最優秀選手に選ばれた。また高校生としてはケビン・ガーネット以来となるスラムマガジンの表紙を飾った。他にもスポーツ・イラストレイテッドESPNマガジンなど有名誌でも表紙を飾り、全米から大きな注目を集めた。

4年目のシーズン、レブロンは31.6得点9.6リバウンド4.6アシストの成績で3年連続のミスター・バスケットボール、オールUSAファーストチーム、2年連続のゲータレード年間最優秀選手に選ばれ、高校オールスターゲームであるマクドナルド・オールアメリカン・ゲームではMVPを受賞した。全米にテレビ中継された試合は高視聴率を収め、また州タイトル決勝戦では18,454人の観客を集めた。チームは40-36で勝利を収め、1年ぶりに州チャンピオンに返り咲いた。このシーズン中、レブロンの誕生日のために母親が高級車(ハマーH2)を贈ったことを、オハイオ高校体育協会が問題視し、レブロンは2試合の出場停止処分を受けている。

大学には進学せず、NBAドラフトにアーリーエントリーした。在学中にナイキと7年間で総額9,000万ドル(他にもアッパーデックUpper Deck Company)と5年間で総額500万ドル)という契約を結ぶなど、商業的にも注目を集めていた。

[編集] NBA

[編集] キャリア初期

セント・ビンセント=セント・メアリー高校を卒業後、レブロンは2003年のNBAドラフト全体1位でクリーブランド・キャバリアーズに指名され、18歳の若さでNBA入りした。この年のドラフトはレブロンの他にもドウェイン・ウェイドカーメロ・アンソニーなど将来を嘱望される選手が多く、彼らを総称してレブロン世代と呼ぶこともある。

ルーキーイヤーとなった2003-04シーズン、レブロンは開幕戦で25得点6リバウンド9アシスト4スティールと前評判どおりのオールラウンドな働きをしてみせた。11月から翌年の4月までのイーストのルーキー・オブ・ザ・マンスを独占し、シーズン成績は20.9得点5.9アシスト5.5リバウンドだった。ルーキーイヤーに20得点5アシスト5リバウンド以上を達成したのは、オスカー・ロバートソン、マイケル・ジョーダンに続いて史上3人目であった。また、オールスターには出場できなかったものの、ルーキーチャレンジでは1年目選手のチーム最多の33得点を挙げた。キャバリアーズは前年より勝ち星を18勝増やし、35勝47敗の成績を残すがプレーオフ進出は叶わなかった。ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)の投票では得点、リバウンドで新人1位の成績を残しプレイオフに出場したデンバー・ナゲッツのカーメロ・アンソニーとの争いになったが、レブロンは508ポイントを獲得(カーメロ・アンソニーは430ポイント)し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

翌04-05シーズンにはこれまで苦手とされていたアウトサイドシュートが向上し、さらに得点力をアップ。2005年1月19日には最年少(20歳と20日)でのトリプルダブル達成、同年3月20日には最年少(20歳と80日)での1試合50得点以上を達成し、オールスターにも初出場を果たした。シーズン成績は27.2得点7.2アシスト7.4リバウンドで、オスカー・ロバートソン、ジョン・ハブリチェックラリー・バード、マイケル・ジョーダン以来5人目の27得点、7アシスト、7リバウンド以上達成となった。しかし、チームは42勝40敗と前年から更に勝ち星を増やすもののカンファレンス8位のニュージャージー・ネッツと同率の9位になり、プレーオフ出場はならなかった。

[編集] スーパースターへ

05-06シーズンは、レブロンにとってもチームにとっても勝負の年となった。レブロンはプロ入り3年目としてチームでの結果を求められ、チームはこのシーズン後にFAとなるレブロンと契約延長するためにも、より勝てるチーム作りをしなければならなかった。チームは補強に乗り出すが、目玉であったラリー・ヒューズは怪我でシーズンの大半を欠場し、その他の補強組も期待したほどの活躍を見せず、レブロンを取り巻くチーム状況にさして変化はなかった。しかしレブロンは自身初の決勝ブザービーターを決めるなど、これまで足りないと言われてきた勝負強さも兼ね備えるようになり、チームを勝利に導ける選手にまで成長。チームは大きく躍進を果たし、50勝32敗の成績で8年ぶりにプレーオフ進出。自身も2度目のオールスターゲーム出場で29得点6リバウンドをあげて最年少のオールスターMVPに輝き、レギュラーシーズンでは初の30得点オーバーとなる31.4得点7.0リバウンド6.4アシストという好成績を残した。またトッププレイヤーの証明であるオールNBAファーストチームに初めて名を連ね、MVP投票ではスティーブ・ナッシュに次いで2位だった。初のプレーオフでは1回戦のワシントン・ウィザーズとの第1戦で、いきなり31得点11リバウンド11アシストのトリプルダブルをたたき出す。シリーズを4勝2敗で制すると、カンファレンス準決勝ではレギュラーシーズン1位のデトロイト・ピストンズ相手に3勝2敗とリードを奪うが、そこから2連勝されて惜しくも敗退した。

06-07シーズン、チーム戦績は50勝32敗で前シーズンと変わらなかったが、プレーオフでは順調に勝ち上がり、自身初の、またチームとしては1992年以来のカンファレンス決勝に進出。前シーズンに敗れたデトロイト・ピストンズ相手に、ダブルオーバータイムまでもつれたシリーズ第5戦では48得点(オーバータイムではチームの全得点)をあげるなどのスーパースターにふさわしい活躍を見せ、4勝2敗でこのシリーズを制し、自身初の、そしてチーム史上初のNBAファイナルに進出した。夢のチャンピオンリングまであと4勝となったが、ファイナルサンアントニオ・スパーズとの対戦ではディフェンスのスペシャリストであるブルース・ボウエンのマッチアップと、スパーズの強固なチームディフェンスの前に苦しみ、4戦全敗で敗退。ファイナル中のレブロンはフィールドゴール成功率35%と精彩を欠いた。

07-08シーズンのレブロンの活躍は華々しく、得点の分野では年2月27日のボストン・セルティックス戦で通算10000得点を達成。史上最年少の23歳59日での達成はこれまでの最年少記録のコービー・ブライアントの24歳193日を大幅に更新した。またトリプルダブル7回達成はチーム最多記録、2試合連続トリプルダブル2回達成は1988年のマジック・ジョンソン以来の快挙であった。3月5日のニューヨーク・ニックス戦では50得点10アシスト以上を記録したリーグ3人目のプレイヤーとなった。オールスターゲームでは、2回目のオールスターMVPに輝いた。このシーズンの成績は30.0得点7.9リバウンド7.2アシストとMVP級の数字を残し、自身初のリーグ得点王に輝いた。目覚しい活躍を見せたレブロンだが、一方でチームはオフの補強が上手くいかず、シーズン序盤から苦戦を強いられ、45勝37敗とレブロンがキャブス入りして以来初めて勝率を落とした。プレーオフ1回戦ではウィザーズと3シーズン連続で対戦。このシリーズではウィザーズのデショーン・スティーブンソンによるレブロンへの挑発行為が話題を集めたが、チームは4勝2敗でウィザーズを退け、カンファレンス準決勝に進出した。準決勝の対戦相手はこのシーズンリーグ首位の成績を収めたボストン・セルティックス。レブロンはセルティックスの強力ディフェンスの前に苦しみ、得点が伸び悩んだが、チームはセルティックスを追い込み、最終第7戦まで粘った。第7戦でようやく本来の姿を取り戻したレブロンは、45得点を記録してセルティックスを追い詰めたが、惜しくも勝利は逃し、2シーズン連続のファイナル進出はならなかった。

08-09シーズン、レブロンは28.4得点7.6リバウンド7.2アシストを記録し、チームも両リーグトップの66勝16敗をマーク。チームをカンファレンス1位に導きNBA最優秀選手を獲得した。プレーオフに入っても絶好調を維持し、1回戦、カンファレンス準決勝を共に4勝0敗で突破するなど優勝候補の最右翼となった。しかし、一転、オーランド・マジックとのカンファレンス決勝では激戦の末、ホームでの第1戦を落とす。第2戦、2点ビハインドで迎えた残り1秒で、スローインからボールを受けたレブロンが劇的な3ポイントのブザービーターを沈め1勝1敗としたが敵地オーランドで計3敗を喫し、結果として2勝4敗でプレーオフを終えた。試合後、相手のマジックの選手の健闘を称えず無言でコートを後にし、試合後の記者会見も受けずに帰った事で批判を浴びてしまった。レブロンはこの件について「チームは負けたかもしれないが、俺は勝者だ。」などと後に語っている。

09-10シーズン、レブロンは29.7得点7.3リバウンド8.6アシスト1.6スティール1ブロックFG50%という驚異的な成績を残し2年連続でシーズンMVPを獲得した。チームとしてもアンソニー・パーカージャマリオ・ムーンシャキール・オニールらを新たに迎え入れ、シーズン半ばにはパワーフォワードのアントワン・ジェイミソンを獲得するなど、レブロンのための補強を卒なくこなして2年連続で60勝を達成して優勝の準備は整ったように思われた。しかしプレーオフではボストン・セルティックスの厳しいチームディフェンスの前に苦しみ本来の力を発揮できずにまさかの敗退を期してしまった。キャバリアーズは、レブロンのためのチーム作りを行ってきたが故に、レブロンが抑えられてしまえば機能しないチームとなってしまっていることがこのシリーズで露呈されてしまった。また、一人でなんでもしてしまうレブロンのプレイスタイル自体がチームプレーとして健全では無いという評価を受けてしまった。

[編集] 新天地

シーズン終了後、フリーエージェントとなった彼はキャバリアーズ、シカゴ・ブルズとも契約交渉を行っていたがマイアミ・ヒートと契約。ドラフト同期のドウェイン・ウェイドクリス・ボッシュらとチームメートとなった[1]。移籍の理由についてレブロンは「一人でチームの全責任を負いたくなかった」と答えている。

10-11シーズン、3人のスターが集まったヒートは大きな注目を集めたが、開幕一ヶ月は勝率5割前後と低迷し大きな批判を受けた。その後もチームプレーの完成度は一進一退であったがスリーキングス個々の圧倒的な個人技で勝ち星を重ねディビジョン優勝を果たした。3人のスターが存在する為ボールをシェアすることから個人成績は低下すると予想されたが、レブロンは26.7得点・7.5リバウンド・7.0アシストとキャブス時代と変わらぬハイレベルのスタッツを記録し、新チームでもエースとしての役割を務めオールNBAファーストチームに選出された。

プレーオフも順調に勝ち上がり、自身4年ぶりとなるNBAファイナルに進出しダラス・マーベリックスと対戦。しかしファイナルを通して低調な内容に終わり、特に勝負所の4Qでの勝負弱さ、消極性にメディアからは批判が集中した。レブロンがファイナルで記録した平均17.8得点は、レギュラーシーズンの平均26.7得点からは実に8.9得点も下がっており、この落差はNBA歴代ワースト記録となってしまった。また、第5戦の試合前、風邪を押して出場していたダーク・ノビツキーをウェイドと共に茶化すような仕草がカメラに捉えられて騒動となった。結局ヒートは2勝4敗で敗退し、またしても優勝には届かなかった。オフシーズン、ヒートに移籍した経緯やファイナルで期待された活躍が出来なかった事からも、自身の評価を大きく下げると共に、NBAファンや関係者、メディアから激しいバッシングが巻き起こるのは避けられない状況となってしまった。

[編集] 移籍騒動とその経緯

レブロンのマイアミ移籍及びスリーキングス結成は全米で大きな物議を醸した。それは、キャリア絶頂期のリーグを代表するエースが3人同じチームに集結するというのは極めて稀なことだからであろう。記憶に新しいのが、2008年にセルティックスで結成されたビックスリーであるが、彼ら3人は共にキャリア末期であり、今回マイアミで結成されたビックスリーとは本質が全く異なるものである。それに加えてレブロンの移籍に及ぶまでの経緯も批判の対象となっている。ことの始まりは、2009年の延長契約交渉であった。当時所属していた、キャバリアーズから最高額での提示があったがレブロンは契約延長を保留しチームに補強を示唆した。そして、補強が進展しなければ移籍するとチームに脅しをかけたのである。キャバリアーズは何としてでもレブロンを留めようと全力を尽くした。チームの献身的な経営もありクリーブランドの補強は順調に進み、チームは2年連続でリーグ最高勝率を達成し、レブロンも2年連続でシーズンMVPを受賞した。しかしプレイオフでは2年連続で敗れており、レブロンはプレイオフでなかなか勝つことができないチームに見切りをつけて、同期のライバルが所属するチームに本当に移籍してしまったのである。

今回レブロンがここまで激しい批判を受ける結果になってしまったのはヒートに移籍した事だけでなく発表の仕方にも大きな問題があったとされている。レブロンは去就を発表する場としてESPNで「The Decision(決断)」と銘打たれたこの為だけの1時間の特別番組を組んで、全米生中継で大々的に発表するというアメリカスポーツ界でも過去に類を見ない異例の方法をとったのである。そしてレブロンがクリーブランド首脳陣に移籍を決断した旨を伝えたのは、この番組が始める僅か数時間前のことである。この配慮の欠けた発表の仕方にクリーブランド市民は激怒し、NBAファンや関係者からは「傲慢、エゴ、ナルシスト」とレブロンに対する激しいバッシングが巻き起こった。特にクリーブランドではレブロンのユニフォームを燃やす市民の姿がテレビで多く映し出された。今回の一連の移籍騒動によりレブロンの社会的イメージは「スーパースター」から「裏切り者」へと大きく移り変わり、NBAの一大ヒールとなってしまった。

[編集] NFL転向?

2011-2012シーズンのNBAは、チームオーナー側と選手会の間での収益配分に関する労使交渉がまとまらず、プレシーズンゲームは全て中止となっただけでなく、当初11月始めに開幕する予定が少なくとも2週間以上遅延することが決定。このためオーナー側はチーム施設に対するロックアウトを行い、レブロンを含む選手はチームとしての練習が行えない状況となった。

この間にレブロンは、トレーニングを兼ねて高校のアメリカンフットボールの練習に参加したため、NFLへの転向が取りざたされた[2]。これを受けて、シアトル・シーホークスピート・キャロルヘッドコーチが「NFL最低年俸でなら獲得しても良い」との意向を表明し、レブロンも「(ロックアウトで一銭も稼げない)今よりは良い」として同意していることから[3]

[編集] ナショナルチーム

北京オリンピック、2008年8月10日の対中国戦にて

NBAでの1年目が終わった2004年の夏にアテネ五輪アメリカ代表として出場したが、ベテラン重視のラリー・ブラウンHCの方針により平均14.6分と満足な出場時間を得られず5.8得点、2.6リバウンドの成績にとどまり代表チームは4大会ぶりに金メダルを逃し、現役NBA選手が参加して初めて金メダルを逃すこととなり銅メダルに終わった。

2006年に日本で開催されたバスケットボール世界選手権ではドウェイン・ウェイドカーメロ・アンソニーと共に3人のチームキャプテンの1人に指名され[4]主力選手の1人としてプレイし、14.8得点4.8リバウンド4.1アシストの成績を残したが、代表チームはまたしても銅メダルに終わった。

2008年開催の北京オリンピックでは、全試合安定した成績を残し、スペインを破って見事金メダルを獲得した[5]

[編集] プレイスタイル

ルーキーシーズンにはポール・サイラスヘッドコーチによってポイントガードとして起用されたように[6]パスセンスに、パワーフォワード並の肉体を備えたNBA現役屈指のオールラウンダー。ナチュラルポジションはスモールフォワードとされているが、実際にはセンターを除く役割を1人でこなし、ポジションの枠に収まらない選手と言える。その能力の高さ故か、NBA選手の中でもボール保持率が非常に多く、良くも悪くもレブロンから始まりレブロンで終わるというプレイスタイルのため、得点、アシストリバウンド全てがチームハイという試合も珍しくない。

203cmの長身に頑強な筋肉の鎧を纏いながらも、リーグ最高峰の瞬発力をもち、毎試合高得点を叩き出す。最大の武器は驚異的なフィジカルの強さを活かしたドリブルペネトレイトで、一度トップスピードに乗せてしまえば、立ち向かう相手を吹き飛ばしながらも得点を高確率で獲得する能力がある。デビュー時より成功率にムラがあったフェイダウェイや3Pシュート等のジャンプシュートも近年では安定して決めてくるために封じ込めるのは非常に難しい。その一方で広いコートビジョンとトリッキーなテクニックでチームメイトにパスを供給することもできる。若くして既にトッププレーヤーでありながらも、練習熱心で向上心が非常に高く、また現役最高クラスのスラムダンカーでもある。

長らく課題だったディフェンスも2008-09シーズンにオールディフェンシブ1stチームに入るなど、守備面もトップクラスの選手になった[7]。特に敵のファーストブレイク時に見せる、まるでバレーボールのバックアタックの様な豪快なブロックショットは、最も会場を沸かせるプレーの一つである。

[編集] その他

  • 集中力が高まると、爪を噛みだすという癖がある。
  • 背中にはタトゥーで「Chosen 1(選ばれし者)」と彫られている。
ゲーム開始前、滑り止めの粉を巻き上げるのが恒例となっている
  • 試合前には解説者席の近くで両手を高々と掲げ宙に滑り止めの粉をばらまくのが恒例となっている。
  • ルーキーシーズンから6年間のキャリアで1シーズン6試合以上を欠場する大怪我は今まで一度もない。
  • 交際中の相手とは未婚だが、2人の子持ち[8]
  • 左利きであるがバスケットボールに関することは右手で行い、食事や文字を書くのは左手で行う。
  • BET2009でベストアスリート男性部門獲得。 Jay-ZのD.O.A(Death of Autotune)のPVにも出演。
  • 2011年6月、米経済誌フォーブス誌が「最も稼いでいる30歳未満のセレブ」のランキングを発表し、2010年の5月からの1年間で4,800万ドル(日本円で約38億4,000万円)を稼いで3位にランクインした。[12]

[編集] 個人成績

略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発試合  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール%  3P%  スリーポイント%  FT%  フリースロー%
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック  PPG  平均得点   TO  平均ターンオーバー
 太字  キャリアハイ

[編集] NBAレギュラーシーズン

シーズン チーム G GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
2003–04 CLE 79 79 39.5 .417 .290 .754 5.5 5.9 1.6 0.7 3.5 20.9
2004–05 CLE 80 80 42.4 .472 .351 .750 7.4 7.2 2.2 0.7 3.3 27.2
2005–06 CLE 79 79 42.5 .480 .335 .738 7.0 6.6 1.6 0.8 3.3 31.4
2006–07 CLE 78 78 40.9 .476 .319 .698 6.7 6.0 1.6 0.7 3.2 27.3
2007–08 CLE 75 74 40.4 .484 .315 .712 7.9 7.2 1.8 1.1 3.4 30.0
2008–09 CLE 81 81 37.7 .489 .344 .780 7.6 7.2 1.7 1.1 3.0 28.4
2009–10 CLE 76 76 39.0 .503 .333 .767 7.3 8.6 1.6 1.0 3.4 29.7
2010–11 MIA 79 79 38.8 .510 .330 .759 7.5 7.0 1.6 0.6 3.6 26.7
Career 627 626 40.1 .479 .329 .744 7.0 7.0 1.7 0.8 3.3 27.7

[編集] NBAプレーオフ

シーズン チーム G GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
2005–06 CLE 13 13 46.5 .476 .333 .737 8.1 5.8 1.4 0.7 5.0 30.8
2006–07 CLE 20 20 44.6 .416 .280 .755 8.0 8.0 1.7 0.5 3.3 25.0
2007–08 CLE 13 13 42.5 .411 .257 .731 7.8 7.6 1.8 1.3 4.2 28.2
2008–09 CLE 14 14 41.4 .510 .333 .749 9.1 7.3 1.6 0.9 2.7 35.3
2009–10 CLE 11 11 41.8 .502 .400 .733 9.3 7.6 1.7 1.8 3.8 29.1
2010–11 MIA 21 21 43.9 .466 .353 .763 8.4 5.9 1.7 1.2 3.1 23.7
Career 92 92 43.6 .460 .323 .746 8.4 7.0 1.6 1.0 3.6 28.0

[編集] 1試合自己最多記録

[編集] 受賞・タイトル

  • 新人王:2004
  • オールスターMVP:2006, 2008
  • オールNBAチーム
    • 1stチーム:2006, 2008, 2009, 2010, 2011
    • 2ndチーム:2005, 2007
  • オールディフィンシブ1stチーム:2009, 2010, 2011
  • オールルーキー1stチーム:2004
  • オールスター出場:2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011
  • 得点王:2008
  • シーズンMVP:2009, 2010

[編集] 最年少記録

  • 1試合40得点(19歳85日)
  • 新人王獲得(19歳)
  • トリプルダブル達成(20歳20日)
  • 1試合50得点(20歳80日)
  • シーズン通算2000得点達成(20歳)
  • オールNBAチーム選出(20歳)
  • オールスターMVP獲得(21歳55日)
  • シーズン平均30得点以上達成(21歳)
  • オールNBAファーストチーム選出(21歳138日)
  • 通算1000~17000得点達成

[編集] 脚注

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[編集] 外部リンク

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