ティナ・ターナー

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1985年、ノルウェーでのライブ

ティナ・ターナーTina Turner、本名アンナ・メイ・ブロック・バーク、Anna Mae Bullock- Bach、1939年11月26日-)は、女性歌手ダンサー女優[1][2]。著作も著している。血液型 は A型。彼女の芸歴は50年以上に及び、幅広い層のファンに認められており、多くの受賞歴を持つ。アメリカ合衆国南部に生まれ南部で育ち、現在はスイス市民権を持っている。

概要[編集]

ターナーのミュージシャンとしての経歴は1950年代半ばに始まる。最初は、アイク・ターナーキング・オヴ・リズムの看板歌手としてのデビューだった。最初の録音は1958年に「リトル・アン」の名義で行われている。ティナ・ターナーとして初めて舞台に立ったのは、1960年、アイク・アンド・ティナ・ターナー・レヴューの一員として活動を始めた時である。デュオの名義で売り出した一連の曲がヒットとなり、キャリア上意義ある成功を収めている。その曲は、「ア・フール・イン・ラヴ」(1960)[3]、「リヴァー・ディープ-マウンテン・ハイ」(1966)、「プラウド・メアリー」(1971)、「ナットブッシュ・シティ・リミッツ」(1973)といったもので、いずれもティナ・ターナーが自分で作曲したものである。彼女は自叙伝の中で、1976年にアイクと別れ1978年に離婚が成立する以前には、アイクのひどい家庭内暴力によって苦しめられたことを、いくつか具体例を挙げて明かしている。バプティスト派の信徒として育てられたが、1971年からは仏教徒としての生き方も採り入れるようになり、仏教を信じて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え、辛い時期を乗り越えてきたのである[4]

アイク・ターナーと離婚した後、ティナ・ターナーは公演を積み重ねて自らの経歴を改めて作り直してきた。ソロ・アーティストとして音楽チャートに衝撃を与えようとまずは頑張っていたのである。1980年代の初期にターナーはヒットを再び連発し、カムバックを果たす。1983年、シングル「レッツ・ステイ・トゥゲザー」から始まって、1984年には5枚目のソロ・アルバムである「プライヴェト・ダンサー」を発売、世界中で成功を収める。このアルバムの収録曲の中で一番売れた曲「愛の魔力(ホワッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット)」は、後にターナーの自叙伝に基づいて創られた自伝的映画のタイトルにもなった。音楽面での経歴に加えて、ティナ・ターナーは女優としても成功を収めている。1975年のロック・ミュージカル「トミー」を始め、1985年メル・ギブソンとともに主演を務めている超大作映画「マッドマックス/サンダードーム」、そして顔見せ役で登場する1993年の「ラスト・アクション・ヒーロー」などが挙げられる。

世界中で最も人気のある芸能人の一人として、彼女は「ロックンロールの女王」とも呼ばれている[5][6][7] 。ティナ・ターナーは、「最も成功した女性ロック・アーティスト」と呼ばれてきた[8]。8度のグラミー賞に輝き、歴史上の他のどのソロ・ミュージシャンよりも多くのコンサート・チケットを売り上げてきた[9]。ターナーの全世界でのアルバムとシングルの売り上げ枚数は、総計でおよそ100万枚を数える[10]。ステージ上でのその精力的な演技と力強い歌声、そして彼女の経歴の長さは非常に有名である[6][11]2008年にはなかば引退していた状態から再びカムバックして、「ティナ・ターナー50周年記念ツアー」を行っている[12]。2008年から2009年にかけて、ティナ・ターナーのツアーは、最もチケットの値段が高いショーのひとつとして知られることになった[13]ローリング・ストーン誌は、「時代を超えて偉大であり続けるアーティスト100人」のうちの63番目に彼女をランク入りさせている[14]。なお、ティナ・ターナーは、1991年にはロックの殿堂入りを果たしている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第17位[15]

幼少期~デビュー以前[編集]

ティナ・ターナー(本名アンナ・メイ・ブロック)は、1939年11月26日テネシー州、ヘイウッド・カウンティ、ナットブッシュ(Nutbush)に生まれる。両親は、母ゼルマ・プリシラ(旧姓キュリー)と、父フロイド・リチャード・ブロックである。アンナ(これ以後ターナーと表記)は、幹線道路180号線に面したポインデクスター農場で生まれている。この農場は、父フロイドが小作人達の監督として働いていた農場だった。[16][17][18][19][20]ターナーはアフリカ系アメリカ人だが、先祖にはいくらかヨーロッパ人の血も入っている[21][22][18][23][24]。彼女がPBSのドキュメンタリー番組である「アフリカン・アメリカン・ライヴズ2」で取り上げられた際、血液検査を受け、その結果番組のホストであるヘンリー・ルイス・ゲイツから告げられたのは、「1パーセント、ネイティヴ・アメリカンの先祖の血が入っている」ということだった[25][26][20]

ターナーには、ルビー・アイリーンという歳上の姉がいた。第二次大戦中、両親がテネシー州ノックスヴィルに引っ越して防衛施設で働いた際には、まだターナーが小さかったため、ターナーと姉のアイリーンは別々に別れて暮らしていた[17]。というのもターナーは、厳格で宗教心の強い父方の祖父母に預けられたからである。父方の祖父母アレックス・ブロックとロクサナ・ブロックは、二人ともバプティスト派の教会ウッドローン・ミッショナリーで執事を務めていた。この教会は幹線道路19号線沿いのウッドローン通りに位置していた[27][17]。戦後、姉妹は再び両親と一緒に暮らすようになり、一家そろってノックスヴィルに移った[17]。2年後、一家はナットブッシュに戻り、フラッグ・グルーヴで暮らすようになった。ターナーは、1年生から8年生までフラッグ・グルーヴ・スクールに通っている。この学校は、ターナーの曾祖父の兄弟が土地を売り、その土地に管財人を立てて、学校を建設したものだった[20][28]

子供の頃、ターナーは、ナットブッシュにあるスプリング・ヒル・バプティスト教会の聖歌隊の一員として歌っていたのだが[29][30]、彼女が11歳の時、母親が父親との間の辛い関係に耐えかねて何の前触れもないまま出奔してしまった[31]。母ゼルマは、ターナーの祖母の姉妹の一人と共に暮らすため、セント・ルイスに移ったのである[31]。ターナーが13歳の時、父親が再婚しデトロイトに引っ越していったが、姉妹は祖母ジョージアンナと一緒に暮らすため、ブラウンズヴィルに居を移すことになった[31]。ターナーは後に自伝「私、ティナ」の中で、自分は母親から愛されておらず、必要とされていないのだと感じた、と述べている。そしてさらに、自分の母親は、自分を妊娠していた時にも父親を捨てようとしたことがある、とも言っている[32]。「私の母は、当時まだ若く、もう子供はいらないと思っていたのよ」とターナーは言っている。まだ10代前半だったが、ターナーはヘンダーソン家でお手伝いさんとして働くことになった。

自分でいうところのおてんば娘だったターナーは、ブラウンズヴィルにあるカーヴァー・ハイ・スクールで、チア・リーダーのチームと女の子のバスケット・ボールのチームの両方に入って、「どんな機会も逃すことなく友人達との交流に務めた」[16][31]。16歳の時、突然祖母が亡くなる。葬儀の後、ターナーは自分の母親と暮らすため、ミズーリ州セント・ルイスに移ることになった。セント・ルイスで姉と再会した。セント・ルイスで1958年、サムナー高校を卒業する[33]。卒業後、バーンズ・ジューイッシュ病院で看護師の助手として働いた。そして看護師になることを夢見るようになった。

アイク&ティナ・ターナー[編集]

バンドの端緒[編集]

アンナと姉は、この頃、セント・ルイスやイースト・セント・ルイスのナイトクラブに頻繁に出入りし始めた[31]。クラブ・マンハッタンというイースト・セント・ルイスにあるナイトクラブで、アンナは初めてアイク・ターナーと彼のバンドである「キングズ・オヴ・リズム」が演奏するところに遭遇した[31]。アンナはバンドの音楽とアイクの才能に好感を持った。そしてその時のことについて「バンドリーダーの音楽に私は恍惚としたわ」と言っている[34][31]。アンナは、女性達が自発的に参加している様子を見て、アイクのバンドと一緒にステージに立って歌いたいという衝動を覚えた[30]1958年のある夜、キングズ・オヴ・リズムのドラマー、ジーン・ワシントンがマイクロフォンを自分のドラム・セットから取り出してアンナとアイリーンのテーブルに置いた。アイリーンはマイクを拒んだが、アンナはマイクを取り上げて、バンドの残りのメンバーが休憩している間に歌い始めた。アイクは彼女の声に唖然とさせられ、結局その夜はバンドと一緒に最後まで歌わせることにした。そしてその後、正式にバンドの一員として迎え入れたのだった[35][36][37]。この時期、アイクはアンナに声のコントロールと舞台上での振る舞い方とについて、要点を教え込んでいたのである[35]。アンナの最初のスタジオでの録音は、1958年に行われた。「リトル・アン」という名でアイク・ターナーの曲「ボックス・トップ」にバックコーラスとして参加したのが最初である。他に歌手のカールソン・オリヴァーが参加していた。

1960年にはアイクが「ア・フール・イン・ラヴ」を書き上げた。もともとキングズ・オヴ・リズムのリード・ヴォーカルだったアート・ラシターのために書いた曲だったのだが、ラシターがこの曲のレコーディングの際に姿を現さなかった時に、後日彼女の歌声を消してラシターの声を録音し直すという意図のもと、アイクがアンナに「にせの歌声」として歌って欲しいと頼んだのである[35]。デモ・テープを聴いて、アンナの声を「甲高くて」「金切り声」だと感じた人もいたが、この曲はセント・ルイスでその内容に相応しい扱いを受け、ラジオの電波に乗ったのである[38]。セント・ルイスのDJ、デイヴ・ディクソンは、アイクを説得してこのテープをR&Bのレーベルであるスー・レコーズの社長、ジャギィ・マレイのところへ送らせた[38]。曲を聴いてマレイはアンナの声を気に入った。「汚い叫び声だったが…ファンキーな音だった」と後に述べている[39][38]。マレイはこの曲を買い取ることにし、録音権と出版権を得る代わりにアイクに2万5千ドルの前金を支払った。マレイはまた、アンナを「ショーの目玉」にすべきだとアイクを説得した[40]。アイク・ターナーがアンナ・メイ・ブロックのことを「ティナ」と名付けたのは、この時である。というのも、ティナという名前が、アイクが一番好きだったテレビの登場人物の名である「シーナ」と韻を踏んでいるからだった[38][41]。ティナ・ターナーと名付けた理由については、アンナが逃げ出さないようにするため、また彼女だけが有名になるのを防ぐためだとも言われてきた。アイクは、もしアンナがバンドを辞めた場合には、別の歌手を連れてきてティナとして歌わせればよいと考えていたのである[38]。アイクは、ティナと名付けたもう一つの理由として、アンナの恋人達のうちの一人が彼女を取り戻しにくるのをやめさせるためだったと後にしぶしぶ認めている。

初期の成功[編集]

「ア・フール・イン・ラヴ」は1960年7月に発売され、即座にヒットとなった。最新R&Bチャートでは第2位まで上がり、1960年10月のビルボードの最新ヒット100のチャートでは第27位まで上がっている。カート・ロウダーはこの曲について「レイ・チャールズが昨夏にゴスペルスタイルで歌った『ホワッ・ド・アイ・セイ』に次いで白人のポップ・チャートにいつの間にか入り込んできた最も『黒い』曲だよ」[38][42]。そして続いてヒットした「イッツ・ゴナ・ワーク・アウト・ファイン」(1961年)はトップ20に届き、アイク&ティナの二人組は「ベスト・ロック・アンド・ロール・パフォーマンス部門」でグラミー賞にノミネートされることとなった。スー・レコーズに在籍していた期間に発売された重要なシングル・レコードとしては、R&Bのヒットである「アイ・アイドライズ・ユー」、「プア・フール」、「トゥラ・ラ・ラ・ラ」などが挙げられる。1964年には、アイク&ティナはスー・レコーズを離れ、ケント・レコーズと契約している。成果としてはやや売り上げが落ちたが、「アイ・キャント・ビリーヴ・ホワット・ユー・セイ」がある。翌年、二人組は、ワーナー・ブラザーズの子会社であるローマ・レコーズと契約する。ボブ・クランショウが経営に当たっていたのだが、二人組がスー・レコーズを離れた直後、ほどなくして彼らのマネージャーとなったのがクランショウだった。1964年から1969年までの5年の間に、アイク&ティナは10以上のレーベルと契約を交わしている[43]

デュオは、アメリカ国内全域に及ぶ厳しいツアーを通じてその人気を確固たるものにしていった[44]。90日連続のギグを全国で行ったのである。黒人の芸人が出演する劇場で毎日公演を行い、アイク&ティナのショーは、ロックの歴史について書くライターが「最も熱く、最もタフで、すべてのR&Bのバンドの内で、いまにも爆発しそうなバンドのひとつ」と書くほどの評判を打ち立てたのだった。そして彼らのショーは、音楽の公演という観点から見た時に、ジェイムズ・ブラウンのショーに匹敵するものになっていたのである[45]。アイクが創り上げたショーによって、彼らは経済的に成功した。彼らの公演が素晴らしいものだったため、このデュオは、アメリカ南部で、様々な客層の観衆の前で演奏することができたのである[46]。1963年から1966年にかけて、バンドはヒットシングルこそなかったものの、休みなくツアーを続けた。ティナ自身は、例えば「アメリカン・バンドスタンド」や「シンディグ!」といったテレビ番組に一人で出演して頭角を現した。一方、バンド全体としては「ハリウッド・ア・ゴウ・ゴウ」、「アンディ・ウィリアムズ・ショー」といった番組や、1965年の暮れには「ザ・ビッグ・TNT・ショー」といった音楽映画に出演している。

略歴[編集]

夫となるアイク・ターナーに見い出され、1960年アイク&ティナ・ターナーとしてデビュー。野性的でパワフルな歌唱と激しいステージングで人気を博し、R&B界で多くのヒットを飛ばす。1971年には、CCRのカバー曲「プラウド・メアリー」がポップチャートでも大ヒットする。

夫アイクの暴力や麻薬中毒が深刻になり離婚。契約上の問題からアイク&ティナ・ターナー時代の曲を歌うことができず、1970年代後半は不遇をかこっていた。しかしこの頃、イギリスのB.E.F(ブリティシュ・エレクトリック・ファンデーション)のリーダーであるマーティン・ウェアより、カバー曲のゲストボーカルになることを強く促され、グレン・グレゴリーと満を持してレコーディングしたBall of confusion(That's what the world is today) (テンプテーションズ)のカバーが全英シングルチャートでスマッシュヒットし、再び脚光を浴びることになった。

1984年、アルバム『プライヴェト・ダンサー』からシングルカットされた「愛の魔力(What's Love Got to Do with It?)」が全米1位を記録。グラミー賞最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀女性ポップボーカル賞に輝き、トップスターとして華麗なる復活を遂げた。

1985年の映画『カラーパープル』での歌手役を監督のスティーヴン・スピルバーグから直々にオファーされるが、ウーピー・ゴールドバーグが演じる主人公の姿があまりにも自分の苦い過去と似通っているため、冷静に演技ができないと断った。 同年、映画『マッドマックス/サンダードーム』に準主役で出演した。

デヴィッド・ボウイとの「Tonight」、ブライアン・アダムスとの「It's Only Love」、エリック・クラプトンとの「Tearing Us Apart」といったデュエットでも話題になり、映画『マッドマックス/サンダードーム』の主題歌「孤独のヒーロー(We Don't Need Another Hero)」も大ヒット。1990年代以降も安定した活躍を続けている。

1991年に、アイク&ティナ・ターナーとして、ロックの殿堂入りを果たす。

1995年には、映画『007 ゴールデンアイ』の主題歌が、全英7位のヒットとなる。自伝映画に『ティナ』。

2013年、結婚[47]

ディスコグラフィ[編集]

アイク&ティナ・ターナー[編集]

ソロ[編集]

スタジオ・アルバム[編集]

  • Tina Turns the Country On!(1974年)
  • Acid Queen(1975年)
  • Rough(1978年)
  • Love Explosion(1979年)
  • プライヴェート・ダンサー - Private Dancer(1984年)
  • ブレイク・エヴリ・ルール - Break Every Rule(1986年)
  • フォーリン・アフェア - Foreign Affair(1989年)
  • どこまでも果てしなき野性の夢 - Wildest Dreams(1996年)
  • トゥエンティ・フォー・セヴン - Twenty Four Seven(1999年)

サウンドトラック[編集]

  • Mad Max Beyond Thunderdome(1985年)
  • 「ティナ」オリジナル・サウンドトラック - What's Love Got to Do With It(1993年)

ライヴ・アルバム[編集]

  • Tina Live in Europe(1988年)
  • VH1 Divas Live '99(1999年)
  • Tina Live(2009年)

コンピレーション・アルバム[編集]

  • シンプリー・ザ・ベスト - Simply the Best(1991年)
  • The Collected Recordings(1994年)
  • オール・ザ・ベスト - All the Best(2004年)
  • TINA!/ティナ・ターナー・グレイテスト・ヒッツ - Tina!(2008年)
  • The Platinum Collection(2009年)

日本公演[編集]

1985年
12月28日 日本武道館
1988年
3月14日,15日 日本武道館

脚注[編集]

  1. ^ Diva Devotee: A Blog About Music's Divas: Tina Turner - Vocal Range/Profile”. 2013年1月26日閲覧。
  2. ^ Tina Turner - New World Encyclopedia”. 2013年1月26日閲覧。
  3. ^ Ike and Tina Turner – A Fool in Love - YouTube
  4. ^ “CBS News”. CBS News. (2002年9月21日). http://www.cbsnews.com/stories/2000/09/11/60minutes/main232429.shtml 2011年3月9日閲覧。 
  5. ^ Rafferty, Terrence (2008年7月27日). “Tina Turner: Queen of Rock 'n' Roll”. The New York Times. http://movies.nytimes.com/movie/50095/Tina-Turner-Queen-of-Rock-n-Roll/overview 2008年10月27日閲覧。 
  6. ^ a b Wolman, Baron. “Tina Turner on Stage”. Gallery of The Popular Image. San Francisco Art Exchange. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月19日閲覧。
  7. ^ "Tina Turner Covers Vogue Germany" Billboard Magazine
  8. ^ Biography on Tina Turner”. Biography.com. A&E Television Networks. 2008年9月3日閲覧。
  9. ^ Silva, Manushi (2013年12月8日). “Ever-green Tina Turner”. The Nation (Sri Lanka). http://www.nation.lk/edition/lifestyle/item/23386-ever-green-tina-turner.html 2014年5月9日閲覧。 
  10. ^ Silva, Manushi (2013年12月8日). “Ever-green Tina Turner”. The Nation (Sri Lanka). http://www.nation.lk/edition/lifestyle/item/23386-ever-green-tina-turner.html 2014年5月9日閲覧。 
  11. ^ “Amway Global to be Presenting Sponsor of 'Tina Turner Live in Concert' 2008”. Reuters.com. (2008年7月10日). http://www.reuters.com/article/pressRelease/idUS169798+10-Jul-2008+PRN20080710 2008年10月31日閲覧。 
  12. ^ Gundersen, Edna (2008年9月30日). “Tina Turner is back by popular demand”. USA Today. http://www.usatoday.com/life/music/news/2008-09-30-turner-main_N.htm 2008年10月27日閲覧。 
  13. ^ Terry, Al (2008年9月21日). “Tina Turner Live Tickets – One Of The Biggest Selling Concert Tickets Ever”. Pressemeldungen.at. 2008年10月27日閲覧。
  14. ^ "100 Greatest Artists of All Time" Rolling Stone
  15. ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Tina Turner”. 2013年5月26日閲覧。
  16. ^ a b Norris 2000, p. 25–30.
  17. ^ a b c d Gulla 2008, p. 170.
  18. ^ a b Bego 2005, p. 15.
  19. ^ Preston 1999, p. 4.
  20. ^ a b c Gates 2005, p. 114.
  21. ^ African American Lives - YouTube
  22. ^ Tina Turner | Happy Birthday Tina Turner”. Contactmusic. 2012年3月31日閲覧。
  23. ^ Bullock, Zelma (1993年). Tina Turner: Girl from Nutbush (video). Strand Video Entertainment. 
  24. ^ Celebrities of Native American Heritage”. U.S. Department of Housing and Urban Development. 2010年2月9日閲覧。
  25. ^ Duster, Troy (2008年). “Deep Roots and Tangled Branches”. Chronicle of Higher Education. 2008年10月2日閲覧。
  26. ^ Genetic Ancestral Testing Cannot Deliver On Its Promise, Study Warns”. ScienceDaily (2007年10月20日). 2008年10月2日閲覧。
  27. ^ Norris 2000, p. 107.
  28. ^ Norris 2000, p. 27.
  29. ^ Norris 2000, p. 28.
  30. ^ a b Gulla 2008, p. 174.
  31. ^ a b c d e f g Gulla 2008, p. 171.
  32. ^ Bego 2005, p. 16.
  33. ^ “Black History in St. Louis”. The New York Times. (1992年5月10日). http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CE2DC1331F933A25756C0A964958260 2007年12月11日閲覧. ""Sumner High School, the first school west of the Mississippi for blacks established in 1875 (among graduates are Grace Bumbry, Arthur Ashe and Tina Turner)..."" 
  34. ^ Turner 1986, p. 50.
  35. ^ a b c Gulla 2008, p. 175.
  36. ^ Turner 1986, p. 62.
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  38. ^ a b c d e f Gulla 2008, p. 176.
  39. ^ Quaglieri 1991.
  40. ^ McKeen 2000, p. 252.
  41. ^ McKeen 2000, p. 253.
  42. ^ Turner 1986, p. 79.
  43. ^ Callahan, Michael. “The Sue Records Story”. Both Sides Now. Mike Callahan. 2011年10月31日閲覧。
  44. ^ Gulla 2008, p. 179.
  45. ^ Ike and Tina Turner”. History-Of-Rock.com. 2012年3月14日閲覧。
  46. ^ “The musical legacy of Ike Turner”. BBC News entertainment, 13 December 2007 (BBC). (2007年12月13日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/7142242.stm 2011年10月1日閲覧。 
  47. ^ “スイスに「黒人差別存在」 年収74億円、米セレブと知らず…店員「あなたには買えない」”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2013年8月11日). オリジナル2013年8月11日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20130811063735/http://sankei.jp.msn.com/world/news/130811/erp13081109360001-n1.htm 2013年8月13日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]