ティナ・ターナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
1985年、ノルウェーでのライブ

ティナ・ターナーTina Turner、本名アンナ・メイ・ブロック・バーク、Anna Mae Bullock- Bach、1939年11月26日-)は、女性歌手ダンサー女優[1][2]。著作も著している。彼女の芸歴は50年以上に及び、幅広い層のファンに認められており、多くの受賞歴を持つ。アメリカ合衆国南部に生まれ南部で育ち、現在はスイス市民権を持っている。

概要[編集]

ターナーのミュージシャンとしての経歴は1950年代半ばに始まる。最初は、アイク・ターナーキング・オヴ・リズムの看板歌手としてのデビューだった。最初の録音は1958年に「リトル・アン」の名義で行われている。ティナ・ターナーとして初めて舞台に立ったのは、1960年、アイク・アンド・ティナ・ターナー・レヴューの一員として活動を始めた時である。デュオの名義で売り出した一連の曲がヒットとなり、キャリア上意義ある成功を収めている。その曲は、「ア・フール・イン・ラヴ」(1960)[3]、「リヴァー・ディープ-マウンテン・ハイ」(1966)、「プラウド・メアリー」(1971)、「ナットブッシュ・シティ・リミッツ」(1973)といったもので、いずれもティナ・ターナーが自分で作曲したものである。彼女は自叙伝の中で、1976年にアイクと別れ1978年に離婚が成立する以前には、アイクのひどい家庭内暴力によって苦しめられたことを、いくつか具体例を挙げて明かしている。バプティスト派の信徒として育てられたが、1971年からは仏教徒としての生き方も採り入れるようになり、仏教を信じて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え、辛い時期を乗り越えてきたのである[4]

アイク・ターナーと離婚した後、ティナ・ターナーは公演を積み重ねて自らの経歴を改めて作り直してきた。ソロ・アーティストとして音楽チャートに衝撃を与えようとまずは頑張っていたのである。1980年代の初期にターナーはヒットを再び連発し、カムバックを果たす。1983年、シングル「レッツ・ステイ・トゥゲザー」から始まって、1984年には5枚目のソロ・アルバムである「プライヴェト・ダンサー」を発売、世界中で成功を収める。このアルバムの収録曲の中で一番売れた曲「愛の魔力(ホワッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット)」は、後にターナーの自叙伝に基づいて創られた自伝的映画のタイトルにもなった。音楽面での経歴に加えて、ティナ・ターナーは女優としても成功を収めている。1975年のロック・ミュージカル「トミー」を始め、1985年メル・ギブソンとともに主演を務めている超大作映画「マッドマックス/サンダードーム」、そして顔見せ役で登場する1993年の「ラスト・アクション・ヒーロー」などが挙げられる。

世界中で最も人気のある芸能人の一人として、彼女は「ロックンロールの女王」とも呼ばれている[5][6][7] 。ティナ・ターナーは、「最も成功した女性ロック・アーティスト」と呼ばれてきた[8]。8度のグラミー賞に輝き、歴史上の他のどのソロ・ミュージシャンよりも多くのコンサート・チケットを売り上げてきた[9]。ターナーの全世界でのアルバムとシングルの売り上げ枚数は、総計でおよそ2億枚を数える[10]。ステージ上でのその精力的な演技と力強い歌声、そして彼女の経歴の長さは非常に有名である[6][11]2008年にはなかば引退していた状態から再びカムバックして、「ティナ・ターナー50周年記念ツアー」を行っている[12]。2008年から2009年にかけて、ティナ・ターナーのツアーは、最もチケットの値段が高いショーのひとつとして知られることになった[13]ローリング・ストーン誌は、「時代を超えて偉大であり続けるアーティスト100人」のうちの63番目に彼女をランク入りさせている[14]。なお、ティナ・ターナーは、1991年にはロックの殿堂入りを果たしている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第17位[15]

幼少期~デビュー以前[編集]

ティナ・ターナー(本名アンナ・メイ・ブロック)は、1939年11月26日テネシー州、ヘイウッド・カウンティ、ナットブッシュ(Nutbush)に生まれる。両親は、母ゼルマ・プリシラ(旧姓キュリー)と、父フロイド・リチャード・ブロックである。アンナ(これ以後ターナーと表記)は、幹線道路180号線に面したポインデクスター農場で生まれている。この農場は、父フロイドが小作人達の監督として働いていた農場だった。[16][17][18][19][20]ターナーはアフリカ系アメリカ人だが、先祖にはいくらかヨーロッパ人の血も入っている[21][22][18][23][24]。彼女がPBSのドキュメンタリー番組である「アフリカン・アメリカン・ライヴズ2」で取り上げられた際、血液検査を受け、その結果番組のホストであるヘンリー・ルイス・ゲイツから告げられたのは、「1パーセント、ネイティヴ・アメリカンの先祖の血が入っている」ということだった[25][26][20]

ターナーには、ルビー・アイリーンという歳上の姉がいた。第二次大戦中、両親がテネシー州ノックスヴィルに引っ越して防衛施設で働いた際には、まだターナーが小さかったため、ターナーと姉のアイリーンは別々に別れて暮らしていた[17]。というのもターナーは、厳格で宗教心の強い父方の祖父母に預けられたからである。父方の祖父母アレックス・ブロックとロクサナ・ブロックは、二人ともバプティスト派の教会ウッドローン・ミッショナリーで執事を務めていた。この教会は幹線道路19号線沿いのウッドローン通りに位置していた[27][17]。戦後、姉妹は再び両親と一緒に暮らすようになり、一家そろってノックスヴィルに移った[17]。2年後、一家はナットブッシュに戻り、フラッグ・グルーヴで暮らすようになった。ターナーは、1年生から8年生までフラッグ・グルーヴ・スクールに通っている。この学校は、ターナーの曾祖父の兄弟が土地を売り、その土地に管財人を立てて、学校を建設したものだった[20][28]

子供の頃、ターナーは、ナットブッシュにあるスプリング・ヒル・バプティスト教会の聖歌隊の一員として歌っていたのだが[29][30]、彼女が11歳の時、母親が父親との間の辛い関係に耐えかねて何の前触れもないまま出奔してしまった[31]。母ゼルマは、ターナーの祖母の姉妹の一人と共に暮らすため、セント・ルイスに移ったのである[31]。ターナーが13歳の時、父親が再婚しデトロイトに引っ越していったが、姉妹は祖母ジョージアンナと一緒に暮らすため、ブラウンズヴィルに居を移すことになった[31]。ターナーは後に自伝「私、ティナ」の中で、自分は母親から愛されておらず、必要とされていないのだと感じた、と述べている。そしてさらに、自分の母親は、自分を妊娠していた時にも父親を捨てようとしたことがある、とも言っている[32]。「私の母は、当時まだ若く、もう子供はいらないと思っていたのよ」とターナーは言っている。まだ10代前半だったが、ターナーはヘンダーソン家でお手伝いさんとして働くことになった。

自分でいうところのおてんば娘だったターナーは、ブラウンズヴィルにあるカーヴァー・ハイ・スクールで、チア・リーダーのチームと女の子のバスケット・ボールのチームの両方に入って、「どんな機会も逃すことなく友人達との交流に務めた」[16][31]。16歳の時、突然祖母が亡くなる。葬儀の後、ターナーは自分の母親と暮らすため、ミズーリ州セント・ルイスに移ることになった。セント・ルイスで姉と再会した。セント・ルイスで1958年、サムナー高校を卒業する[33]。卒業後、バーンズ・ジューイッシュ病院で看護師の助手として働いた。そして看護師になることを夢見るようになった。

アイク&ティナ・ターナー[編集]

バンドの端緒[編集]

アンナと姉は、この頃、セント・ルイスやイースト・セント・ルイスのナイトクラブに頻繁に出入りし始めた[31]。クラブ・マンハッタンというイースト・セント・ルイスにあるナイトクラブで、アンナは初めてアイク・ターナーと彼のバンドである「キングズ・オヴ・リズム」が演奏するところに遭遇した[31]。アンナはバンドの音楽とアイクの才能に好感を持った。そしてその時のことについて「バンドリーダーの音楽に私は恍惚としたわ」と言っている[34][31]。アンナは、女性達が自発的に参加している様子を見て、アイクのバンドと一緒にステージに立って歌いたいという衝動を覚えた[30]1958年のある夜、キングズ・オヴ・リズムのドラマー、ジーン・ワシントンがマイクロフォンを自分のドラム・セットから取り出してアンナとアイリーンのテーブルに置いた。アイリーンはマイクを拒んだが、アンナはマイクを取り上げて、バンドの残りのメンバーが休憩している間に歌い始めた。アイクは彼女の声に唖然とさせられ、結局その夜はバンドと一緒に最後まで歌わせることにした。そしてその後、正式にバンドの一員として迎え入れたのだった[35][36][37]。この時期、アイクはアンナに声のコントロールと舞台上での振る舞い方とについて、要点を教え込んでいたのである[35]。アンナの最初のスタジオでの録音は、1958年に行われた。「リトル・アン」という名でアイク・ターナーの曲「ボックス・トップ」にバックコーラスとして参加したのが最初である。他に歌手のカールソン・オリヴァーが参加していた。

1960年にはアイクが「ア・フール・イン・ラヴ」を書き上げた。もともとキングズ・オヴ・リズムのリード・ヴォーカルだったアート・ラシターのために書いた曲だったのだが、ラシターがこの曲のレコーディングの際に姿を現さなかった時に、後日彼女の歌声を消してラシターの声を録音し直すという意図のもと、アイクがアンナに「にせの歌声」として歌って欲しいと頼んだのである[35]。デモ・テープを聴いて、アンナの声を「甲高くて」「金切り声」だと感じた人もいたが、この曲はセント・ルイスでその内容に相応しい扱いを受け、ラジオの電波に乗ったのである[38]。セント・ルイスのDJ、デイヴ・ディクソンは、アイクを説得してこのテープをR&Bのレーベルであるスー・レコーズの社長、ジャギィ・マレイのところへ送らせた[38]。曲を聴いてマレイはアンナの声を気に入った。「汚い叫び声だったが…ファンキーな音だった」と後に述べている[39][38]。マレイはこの曲を買い取ることにし、録音権と出版権を得る代わりにアイクに2万5千ドルの前金を支払った。マレイはまた、アンナを「ショーの目玉」にすべきだとアイクを説得した[40]。アイク・ターナーがアンナ・メイ・ブロックのことを「ティナ」と名付けたのは、この時である。というのも、ティナという名前が、アイクが一番好きだったテレビの登場人物の名である「シーナ」と韻を踏んでいるからだった[38][41]。ティナ・ターナーと名付けた理由については、アンナが逃げ出さないようにするため、また彼女だけが有名になるのを防ぐためだとも言われてきた。アイクは、もしアンナがバンドを辞めた場合には、別の歌手を連れてきてティナとして歌わせればよいと考えていたのである[38]。アイクは、ティナと名付けたもう一つの理由として、アンナの恋人達のうちの一人が彼女を取り戻しにくるのをやめさせるためだったと後にしぶしぶ認めている。

初期の成功[編集]

「ア・フール・イン・ラヴ」は1960年7月に発売され、即座にヒットとなった。最新R&Bチャートでは第2位まで上がり、1960年10月のビルボードの最新ヒット100のチャートでは第27位まで上がっている。カート・ロウダーはこの曲について「レイ・チャールズが昨夏にゴスペルスタイルで歌った『ホワッ・ド・アイ・セイ』に次いで白人のポップ・チャートにいつの間にか入り込んできた最も『黒い』曲だよ」[38][42]。そして続いてヒットした「イッツ・ゴナ・ワーク・アウト・ファイン」(1961年)はトップ20に届き、アイク&ティナの二人組は「ベスト・ロック・アンド・ロール・パフォーマンス部門」でグラミー賞にノミネートされることとなった。スー・レコーズに在籍していた期間に発売された重要なシングル・レコードとしては、R&Bのヒットである「アイ・アイドライズ・ユー」、「プア・フール」、「トゥラ・ラ・ラ・ラ」などが挙げられる。1964年には、アイク&ティナはスー・レコーズを離れ、ケント・レコーズと契約している。成果としてはやや売り上げが落ちたが、「アイ・キャント・ビリーヴ・ホワット・ユー・セイ」がある。翌年、二人組は、ワーナー・ブラザーズの子会社であるローマ・レコーズと契約する。ボブ・クランショウが経営に当たっていたのだが、二人組がスー・レコーズを離れた直後、ほどなくして彼らのマネージャーとなったのがクランショウだった。1964年から1969年までの5年の間に、アイク&ティナは10以上のレーベルと契約を交わしている[43]

デュオは、アメリカ国内全域に及ぶ厳しいツアーを通じてその人気を確固たるものにしていった[44]。90日連続のギグを全国で行ったのである。黒人の芸人が出演する劇場で毎日公演を行い、アイク&ティナのショーは、ロックの歴史について書くライターが「最も熱く、最もタフで、すべてのR&Bのバンドの内で、いまにも爆発しそうなバンドのひとつ」と書くほどの評判を打ち立てたのだった。そして彼らのショーは、音楽の公演という観点から見た時に、ジェイムズ・ブラウンのショーに匹敵するものになっていたのである[45]。アイクが創り上げたショーによって、彼らは経済的に成功した。彼らの公演が素晴らしいものだったため、このデュオは、アメリカ南部で、様々な客層の観衆の前で演奏することができたのである[46]。1963年から1966年にかけて、バンドはヒットシングルこそなかったものの、休みなくツアーを続けた。ティナ自身は、例えば「アメリカン・バンドスタンド」や「シンディグ!」といったテレビ番組に一人で出演して頭角を現した。一方、バンド全体としては「ハリウッド・ア・ゴウ・ゴウ」、「アンディ・ウィリアムズ・ショー」といった番組や、1965年の暮れには「ザ・ビッグ・TNT・ショー」といった音楽映画に出演している。

本格的成功[編集]

1965年、フィル・スペクターがアイク&ティナ・ターナーの公演をロサンゼルスで観て、ティナと一緒に仕事がしたいと考えた。話がまとまり、スペクターはアイクに前金として2万ドルを支払った。アイクが了承したスタジオでティナと一緒に作業するためである[47][48]。ティナは、スペクターのプロデュースのもと、「リヴァー・ディープ-マウンテン・ハイ」を吹き込んだ。この曲は1966年にスペクターのフィルズ・レーベルから発表された。アメリカ国内ではまあまあの手応えだったが、海外では成功し、特にイギリスで好評を博し、結果的にシングルチャートで第3位まで上った。この曲の成功により、アイク&ティナ・ターナーは1966年秋のローリング・ストーンズのイギリス国内ツアーで前座を務めることになった。そして、これが契機となって、ヨーロッパ全域とオーストラリアでも演奏することになったのである[49]1968年にはブルー・サム・レコーズと契約し、アイク&ティナ・ターナーは強いブルース志向を感じさせるアルバムを2枚発表する。「アウタ・シーズン」と「ザ・ハンター」である。「アウタ・シーズン」ではオーティス・レディングの「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥー・ロング」のカヴァーを録音している。一方、「ザ・ハンター」が発表されると、ティナの歌ったタイトル曲-もともとアルバート・キングによって吹き込まれたものだが-がグラミー賞のベスト女性R&Bヴォーカル賞にノミネートされた。この2枚のアルバムが好成績を残し、デュオはラスベガスで自分達の公演を行うことになった。このラスベガスのショーには、様々な有名人達が彼らのことを観に来たのである。その中には、デヴィッド・ボウイスライ・ストーンジャニス・ジョプリンシェールジェイムズ・ブラウンレイ・チャールズエルトン・ジョンエルヴィス・プレスリーといった人達がいた[50]

1969年、デュオはローリング・ストーンズのアメリカ・ツアーで前座を務め、ますますその名を高めた。1970年エド・サリヴァン・ショーに出演。ツアーは成功し、リバティ・レコードで録音を行うことになる。アルバムは2枚制作され、「カム・トゥゲザー」が1970年に、「ワーキン・トゥゲザー」が1971年に、それぞれ発表された[51]。「カム・トゥゲザー」からは、このデュオの初めてのトップ40シングルが生まれた。それはスライ&ザ・ファミリー・ストーンのカヴァーである「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」だった。「カム・トゥゲザー」は、このデュオが自分達のレパートリーをR&B中心の曲からよりロックよりの曲を採り入れる方向に切り替えたという意味で、彼らの転機となったアルバムだった。1971年の初めにデュオはクリーデンス・クリア・ウォーターの「プラウド・メアリー」をカヴァーして発表したところ、この曲が過去最高のヒットとなった。ビルボード新曲100のチャートで第4位まで上がり、同時に100万枚を越える売り上げを記録し、そしてデュオもしくはグループ部門で、グラミー賞のベストR&Bパフォーマンス賞を獲得したのである[52][53][54]。後に、1971年になって、彼らのライヴ・アルバム「ホワット・ユー・ヒア・イズ・ホワット・ユー・ゲット」がカーネギー・ホールでの演奏の録音を使用して制作されたが、これが彼らの初のゴールド・ディスクとなった。1972年、アイク・ターナーはスタジオを建設し、ボリック・サウンズと名付けた。このスタジオは彼らのイングルウッドの自宅近くに造られたものだった[55]。リバティ・レコードがユナイテッド・アーティスツ・レコードに買収された後、デュオはユナイテッドと契約し、3年間に10枚のアルバムを制作することが決まった。このデュオの最後のヒット・シングル、「ナットブッシュ・シティ・リミッツ」は1973年に発売され、ビルボード新曲100のチャートで第22位まで上昇している。特にイギリスでは、最高第4位まで上がっている[56]。1974年、ティナは初めてのソロ・アルバム「ティナ・ターンズ・ザ・カントリー・オン」を発表し、グラミー賞にノミネートされた。

この年、ティナは、ロック・ミュージカル「トミー」の撮影に参加するためロンドンまで出向いている。この映画の中で、彼女はアシッド・クイーンを演じ、また同名の曲を歌っている。ティナの歌は、評論家から賞賛されるところとなった。映画の撮影が終わってほどなくして、ティナはアン・マーガレットと共に、ロンドンで、テレビの彼女の特集番組に出演している。アメリカに戻り、ティナはデュオでの活動を再開する。「トミー」が公開されてまもなく後、1975年に、ティナは次のソロアルバム「アシッド・クイーン」を発表したのである。

デュオの凋落[編集]

1975年から1976年の2年の間ずっと、アルコール依存症コカイン中毒のため、アイク・ターナーは良質な音楽を創り出すことができなくなっていた。公演も中止や延期となるものが出てきて、結果としてチケットの売り上げが低落することにつながった[57]。ティナ・ターナーは1971年法華宗に帰依し、「南無妙法蓮華経」を唱えるようになっていた。彼女はこの信仰のおかげで辛い時期を過ごすことができたのだが、彼女を苦しめたのはアイクによる虐待であった。1976年7月2日、一晩コンサートを開いたことがあるテキサス州ダラスにあるダラス・スタットラー・ヒルトンに向かう途中、ティナとアイクは激しい殴り合いの喧嘩をしてしまう。到着後まもなく、ティナはアイクを置いて、わずか36セント(「25セント硬貨と10セント硬貨、そして1セント硬貨を1枚ずつ」とティナは言っている[58])と、モービル・ガソリンのクレジットカードだけしか持たないままで逃げ出した。ティナは1976年7月27日、裁判所に離婚の訴えを起こした。これはデュオを永遠に終わらせることを意味していた。これ以後数ヶ月の間、ティナは色々な友達の家でアイクから隠れて過ごした。アイクが離婚に同意するのを待ったのである[59][60][61]

ティナは後に、法華宗の信心と「南無妙法蓮華経」と唱えること、これが彼女に自分一人で生きていく勇気を与えてくれたと語っている。ともあれ、ツアーの最中にアイクを見捨てて立ち去ったことで、中止されたショーに対して彼女が法的な責任を持たねばならなくなったことを彼女は知ったのだった。一年間法廷で争った後、1978年3月29日に彼らの離婚は確定した。離婚によりティナは完全にアイクとは道を分かち、芸名はそのまま彼女のものとすること、また中止されたツアーにより生じた負債と国税庁が要求していたかなりの額の担保について彼女が引き受けること、こうしたことが決まった[62]

初めてのソロ公演[編集]

1977年ユナイテッド・アーティスツの役員リチャード・ステュワートから資金を援助されて、ティナはコンサートを再開した。ラスヴェガスキャバレーを巡る方法を採用したのだが、かつてアイクと一緒にコンビを組んでいた時に試したやり方だった。ティナはアメリカ国内の小さなキャバレーを会場として選んだ。また、「ハリウッド・スクエアズ」、「ドニー・アンド・マリー」、「ザ・ソニー・アンド・シェール・ショウ」、「ブラディ・バンチ・アウア」といった番組に出演することで収入を増やすことにつとめた[63]。1977年も後半になって、ティナの初めてのソロ・コンサート・ツアーをオーストラリアで行った。1978年、ユナイテッド・アーティストからティナの三枚目のソロ・アルバムが発売された。「ラフ(Rough)」と名付けられたそのアルバムは、北米とヨーロッパにはEMIによって配給されることが決まった。しかしこのアルバムは、続いて発売された四枚目の「ラヴ・エクスプロージョン(Love Explosion)」とともに、ディスコ・リズムを採り入れて新たな方向性を示す曲が収録されていたりしたのだが、結局チャート入りすることはなかった[64]

この二枚のアルバムでユナイテッド・アーティスト/EMIとの契約は終了し、契約が更新されることのないまま、このレコード会社との縁はなくなった。ティナは、二度目のソロ公演の宣伝を行い「ロックンロールのワイルドなレディ」と銘打ってライヴ活動を続けることになった。そしてヒットレコードが出るという見込みがないまま、ライヴは成功を収め続けた[65]1979年オリヴィア・ニュートン・ジョンのアメリカでの特別番組である「ハリウッドの夜」に出演したのが契機となり、ティナはニュートン・ジョンのマネージャーだったロジャー・デイヴィスに自分とも契約してくれないかと申し出た。1980年2月に、フェアモント・サンフランシスコ・ホテルのヴェネイティアン・ボールルームでのソロ公演を観たデイヴィスは、自分がマネージャーとしてターナーと一緒に働くことを決心したのである。

デイヴィスはターナーに、「今のバンドはここで解散して、もっと時代に合ったロックンロールバンドを組んで、ショーの内容を見直したほうがよい」とアドバイスした。1981年、デイヴィスはティナにニューヨークのリッツでの公演の話を取ってきた。この公演の後、ロッド・ステュワートがターナーを雇い入れ、「サタデイ・ナイト・ライヴ」で彼のヒット曲である「ホット・レッグズ」のデュエットヴァージョンを歌うことになった。さらには、ステュワートの全米ツアーの前座を務めることに決定したのである。その後、ローリング・ストーンズの前座を三度務めた。1982年には、ロバート・クレイをフィーチャーしたイギリスのバンドB.E.F.の、テンプテーションズのカヴァー曲である「ボール・オヴ・コンフュージョン」がヨーロッパのダンスクラブでヒットとなった[66]。ターナーは、チャック・ベリーとの共演に続いてイギリスとヨーロッパでの短期間のツアーを行った後、再び1982年12月にリッツでライヴを行った。その結果、デヴィッド・ボウイの後押しもあって、キャピトル・レコードとの間でシングルを発売する契約を結ぶことになったのである。

ソロアーティストとしての成功[編集]

1983年11月アル・グリーンのカヴァー曲である「レッツ・ステイ・トゥゲザー」がキャピトルから発売される。この曲はヒットし、ヨーロッパのいくつかの国でチャート入りした。イギリスでは上位10位以内に入っている。アメリカ、ビルボードのホット100では、最高で26位まで上がった。この曲は、アメリカで、ティナ・ターナー個人で初めてチャート入りした曲となった。同時に、ビルボードの「最新のダンスクラブソング」のチャートと「最新の黒人歌手シングル」のチャートでは、上位10位に入ったのである。この曲の成功によって、キャピトルはターナーとの契約を見直さざるを得なくなり、アルバム三枚を発売する契約を申し出てて、すぐにもまず一枚目を出してもらいたいと言い出した。この結果、ターナーは舞台に再び立つこととなり、これが後にエボニー・マガジンに「驚くべき復活」と呼ばれる復活劇とになったのである。二ヵ月をかけてロンドンで録音されたアルバム「プライヴェト・ダンサー」は、1984年6月に発売された。同じ6月に、キャピトルはこのアルバムからの二枚目のシングルとなる「ホワッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」を発売している。このシングルは一ヵ月もしないうちにチャートのトップ10に入り、9月にはアメリカの「ホット100」で第一位となった。アルバムも、「ベター・ビー・グッド・トゥ・ミー」や「プライヴェト・ダンサー」といったヒット曲が目白押しだったため、「ビルボード200」では第三位まで上り、アメリカ国内だけで500万枚を売り上げ、世界中では1,100万枚を売り上げて、ターナーのアルバムの中で最も売れたアルバムとなった。ターナーの復活は1985年初頭に最高潮を迎え、グラミー賞4つを獲得することとなった(この中には「ホワッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」で獲得した「最優秀レコード賞」が含まれている)。1985年2月には、アルバム「プライヴェト・ダンサー」の販売促進を兼ねて、二度目のワールド・ツアーに出ている。このツアーでは莫大な数の聴衆の前で歌うこととなった。イギリス、バーミンガムのNECアリーナでのライヴは収録され、後に発売された。この頃、ターナーは「ウィ・アー・ザ・ワールド」の録音にも参加している。

ターナーの成功は1985年も続き、映画「マッド・マックス/サンダードーム」に、バータータウンの支配者であるアウンティ・エンティティの役で出演している。10年ぶりの映画出演だった。この映画は、公開後3,600万ドルの売り上げを上げている。後に、ターナーはこの映画での演技を評価され、全米黒人地位向上協会から主演女優賞を与えられている。ターナーはこの映画のサウンド・トラックにも二曲参加している。「ウィ・ドント・ニード・アナザー・ヒーロー」と「ワン・オヴ・ザ・リヴィング」の二曲で、二曲ともヒットとなり、後に「ワン・オヴ・ザ・リヴィング」でターナーはグラミー賞の「最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞」を獲得することになった。1985年7月には、ミック・ジャガーとともにライヴ・エイドに出演した。イギリスでのソロ・コンサートの収録の際に共演したブライアン・アダムズは、この共演からヒントを得て、ターナーとのデュオ曲を発売した。このデュオ曲「イッツ・オンリー・ラヴ」は、結局、グラミー賞デュオ部門の「最優秀ロック・パフォーマンス賞」を受賞することになった。

その後の発売[編集]

ターナーは「プライヴェト・ダンサー」に続いて「ブレイク・エヴリ・ルール」を1986年に発売する。「ティピカル・メイル」、「トゥー・ピープル」や「ウォット・ユー・ゲット・イズ・ウォット・ユー・シー」といった曲が収録されており、このアルバムは全世界で400万枚を越える売り上げをあげた。アルバムの発売に先立って、ターナーは自叙伝「私、ティナ」を出版した。この自叙伝は後にベストセラーとなり、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星を贈られた。ターナーの、ユーロピアン・ブレイク・エヴリ・ルール・ツアーは1987年3月にドイツミュンヘンで最高潮を迎えたが、このツアーfは、レコードの売り上げとコンサートへの観客動員数に関して記録破りの結果をもたらすことになった。1988年1月には、ポール・マッカートニーと並んで歴史的記録を達成している。というのは、ブラジルリオデジャネイロエスタジオ・ド・マラカナンにおいて、入場料を支払って集まった約18万4千人という過去最大の人数の観衆の前で、単独で公演を行ったのである。この公演はターナーのギネス世界記録となった[67]。二つのライヴ・ツアーを成功させたことで、アルバム「ティナ・ライヴ・イン・ヨーロッパ」が制作されることになった。このアルバムは4月に発売された。ターナーはブレイク・エヴリ・ルール・ツアー終了後、時機を待っていた。そして、ターナーの代表曲の一つである「ザ・ベスト」が収録されたアルバム「フォーリン・アフェア」で再びその姿を現した。その後、このアルバムの発売記念ツアーでヨーロッパを回っている。アメリカでは「フォーリン・アフェア」はゴールド・ディスクになり、その中の「ザ・ベスト」と「スティーミィ・ウィンドウズ」はトップ40入りした。また、ターナーが私的に転居した先のヨーロッパでもこのアルバムは大ヒットとなった。

1991年、アイク&ティナ・ターナーはロックの殿堂入りが決定した。フィル・スペクターは後に彼らのために賛成している。同じ91年に、元夫婦は自分達の生き様をドラマ化して半自叙伝的映画「ウォッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」にするという権利を他人に譲渡している。この映画は後に1993年になって公開されたが、ティナ役をアンジェラ・バセット、アイク役をローレンス・フィッシュバーンが演じ、その他アカデミー賞の最優秀女優賞や最優秀男優賞の候補者が共演して、元夫婦とその周囲の人間模様を描くというものであった。ターナーは「ウォッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」をレヴュー時代以来初めて再録音し、サウンドトラックに参加している。また、後にアメリカでトップ10入りすることになる「アイ・ドント・ウォナ・ファイト」など数曲を新たに録音している。ターナーは、サウンドトラックの曲で歌うだけでなく、バセットの衣装選びやダンスの際のステップを教えたりもしたものの、映画に全面的に関わることは拒否している。インタヴューでは、「どうしてアイク・ターナーがもう一度私を叩きのめすところを見たくなるって思うの?そんなこと、もうとっくに忘れたことなのよ。もう全部過去のことなのよ[68]」映画の封切りとサウンドトラックの発売に合わせて、ターナーは7年ぶりのアメリカ・ツアーを開始している。ツアー終了後、ターナーはスイスに移り、以後1年間の休暇を取っている。

1995年、ターナーはU2の曲「ゴールデンアイ」とともに戻ってきた。この曲は同じタイトルのジェイムズ・ボンド映画で使用された曲だった。この曲は、ヨーロッパでは大ヒットとなり、また母国アメリカではほどほどの成功を収めたが、結果としてターナーは新しいアルバムを録音することになった。1996年に「ワイルデスト・ドリームズ」が発売された。アメリカ国内では大きな成功を収めたわけではなかったが、ワールドツアーが行われたこと、そしてヘインズがコマーシャルで楽曲を使用したことによって、結局アメリカでゴールド・ディスクとなった。ヨーロッパではプラチナ・ディスクとなり、「ウォットエヴァ・ユー・ウォント」、「ミッシング・ユー」といったアメリカではチャートにごくわすがな期間入っていた曲がヒットした。「サムシング・ビューティフル」、そして官能的なバリー・ホワイトとのデュエット、「イン・ユア・ワイルデスト・ドリームズ」などもヒットしている。1997年にツアーが終わりを迎えたのに続いて、ターナーは1999年にケーブルテレビVH-1の「歌姫達のライヴ99」で再び聴衆の前に登場するまで、再び休息に入ることになる。

1998年イタリア人ミュージシャンのエロス・ラマッツォッティと「Cose della vita(浮き世の事)」でデュエットを歌い、ヨーロッパでヒットとなった。60歳の誕生日を前に、ターナーは、ダンス音楽そのものである「ホエン・ザ・ハートエイク・イズ・オーヴァー」を、そしてこの曲を収録したアルバム「24/7(24時間週7日、の意)」をその翌月に発売した。北米では2000年に入ってすぐに、このシングルとアルバムの両方を発売している。「ホエン・ザ・ハートエイク・イズ・オーヴァー」の成功と、アルバム発売記念ツアーの結果、このアルバムはアメリカで再びゴールド・ディスクとなった。24/7ツアーは、現在に至るまでターナーの行ったツアーの中で最も成功したツアーとなり、また同時に、2000年に最も収益を上げた(ポールスターによると、1億ドルを超える売り上げ)ツアーとなったのである。ギネス世界記録は後に、「ティナ・ターナーは単独でのコンサートで、音楽史上チケットの最多売り上げをあげた」と発表した[11][13]。その後、ターナーは半ば引退することを発表したのである。

近年の活動[編集]

2002年テネシー州の州道19号線の、ブラウンズヴィルとナットブッシュの間は「ティナ・ターナー・ハイウェイ」と名付けられた[69][70][71]。2003年、ターナーはディズニーの映画「ブラザー・ベア」の中の曲、「グレイト・スピリッツ」をフィル・コリンズとのデュエットで録音している。2004年、ターナーは引退を宣言して以来、初めて公の場に姿を現し、編集盤である「オール・ザ・ベスト」を発売した。そして、この編集盤からはシングル「オープン・アームズ」を発売している。結果、アメリカ国内で100万枚以上の売り上げを上げている。

2005年12月には、ワシントン・DCのジョン・F・ケネディ・センターで、舞台芸術に対してのケネディ・センター名誉賞を授与されている。また、芸能人のエリートの集団に選出された[72]。ジョージ・W・ブッシュ大統領はターナーの持つ「天性の才能、エネルギーと性的魅力だ」と述べ[73]、そしてターナーの両脚のことを「芸能界で一番有名な脚だね」とも言ったのである[74]。その夜は数人のアーティスト達がターナーに対して敬意を表している。オペラ・ウィンフリーメリッサ・エサリッジ(「リヴァー・ディープ-マウンテン・ハイ」を歌っている)、クィーン・ラティファ(「ウォッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」を歌っている)、ビヨンセ(「プラウド・メアリー」)、そしてアル・グリーン(「レッツ・ステイ・トゥゲザー」)。オペラ・ウィンフリーは、「私達にはもう一人別な英雄は要らない。私達には、あなたみたいな、ティナみたいな英雄がもっと存在して欲しいって思うわ。ティナは、私が自分のことを『女性』って綴ることに誇りを持たせてくれるのよ」[75]。11月には、ターナーは「オール・ザ・ベスト-ライヴ・コレクション」を発売する。このアルバムはアメリカレコード協会からプラチナ・アルバムに認定された。ターナーは「オール・ジ・インヴィジブル・チルドレン(英語)」のサウンドトラックに参加し、イタリア人歌手エリザと共にデュエット曲「ティーチ・ミー・アゲン」を録音している。この曲はイタリアでヒットし、第1位まで上昇している。

2007年、ターナーは7年ぶりにライヴを再開した。クロードウェルの子供達のための慈善事業のためのコンサートを、ロンドン自然史博物館で主催した。この年、ハービー・ハンコックジョニ・ミッチェルへの敬意のしるしとして作成したアルバム「River: The Joni Letters」中のジョニ・ミッチェルの曲「Edith and the Kingpin」に参加している。カルロス・サンタナとの「ザ・ゲイム・オヴ・ラヴ」には、もともとティナ・ターナーが参加し、サンタナのグレイテスト・ヒッツにも含まれる予定だったのだが、土壇場になってレコード会社がターナーの歌をミシェル・ブランチのものと差しかえるよう要求したのである。

2007年12月12日、ターナーの前夫であるアイク・ターナーがコカインの過剰摂取が原因で死亡した。アイクはまた、肺気腫と心臓血管疾患も長く患っていた。見解を尋ねられてティナは、代理人を通して簡潔な声明を発表した。「ティナは、アイクとは30年以上、いかなる連絡も取っていなかった。これ以上申し上げることはない」[76]ターナーは、2008年2月に、グラミー賞の授賞式でビヨンセと一緒に出演し、正式に復帰している[77][78]。さらに、「River: The Joni Letters」に参加したアーティストとしてグラミー賞を受賞したのである。2008年10月、「ティナ!50周年記念ツアー」と題してほぼ10年ぶりにツアーを開始した[79]。ツアーを盛り上げるため、新たな編集盤が発売された。ツアーは大成功し、DVD「ティナ・ライヴ」の発売に至って最高潮に達した。2009年、ターナーは仲間であるレグラ・キュルティ、セダ・バグキャン、ディシェン・シャク・ダグセイらとともに、ビヨンド・シンギング・プロジェクトに参加している。このアルバムでは、仏教の詠唱とキリスト教の合唱曲を、ティナが読み上げる宗教的なセリフと組み合わせるということが行われた。このアルバムはドイツと、その他わずかな国でのみ発売された。しかしスイスではチャートで7位まで上昇した。

2010年4月には、主に、グラスゴウ・レインジャーズ・フットボール・クラブのファンによるインターネット上での運動による結果だと思われるが、ティナの1989年のヒット、「ザ・ベスト」がUKのシングル・チャートに再登場し、第9位まで上昇している[80]2011年には、スイスで「チルドレン・ビヨンド」が前回同様再びチャートに入っている。ターナーはこの年の12月にドイツとスイスのテレビに出演し、アルバムの販売促進を行っている。2012年5月には、ジョルジオ・アルマーニ北京でのファッション・ショウに随行している[81]2013年4月にはヴォウグのドイツ版の表紙になっている。この時ターナーは73歳で、世界でヴォウグの表紙に登場した最年長の人物となった[82]2014年2月3日にはパーロフォウン・レコードから新しい編集盤が「Love Songs」という題名で発売された。2014年後半になってティナ・ターナーが何曲かに参加している「Beyond: Love Within」が発売されている。

ディスコグラフィ[編集]

アイク&ティナ・ターナー[編集]

ソロ[編集]

スタジオ・アルバム[編集]

  • Tina Turns the Country On!(1974年)
  • Acid Queen(1975年)
  • Rough(1978年)
  • Love Explosion(1979年)
  • プライヴェート・ダンサー - Private Dancer(1984年)
  • ブレイク・エヴリ・ルール - Break Every Rule(1986年)
  • フォーリン・アフェア - Foreign Affair(1989年)
  • どこまでも果てしなき野性の夢 - Wildest Dreams(1996年)
  • トゥエンティ・フォー・セヴン - Twenty Four Seven(1999年)

サウンドトラック[編集]

  • Mad Max Beyond Thunderdome(1985年)
  • 「ティナ」オリジナル・サウンドトラック - What's Love Got to Do With It(1993年)

ライヴ・アルバム[編集]

  • Tina Live in Europe(1988年)
  • VH1 Divas Live '99(1999年)
  • Tina Live(2009年)

コンピレーション・アルバム[編集]

  • シンプリー・ザ・ベスト - Simply the Best(1991年)
  • The Collected Recordings(1994年)
  • オール・ザ・ベスト - All the Best(2004年)
  • TINA!/ティナ・ターナー・グレイテスト・ヒッツ - Tina!(2008年)
  • The Platinum Collection(2009年)

日本公演[編集]

1985年
12月28日 日本武道館
1988年
3月14日,15日 日本武道館

脚注[編集]

  1. ^ Diva Devotee: A Blog About Music's Divas: Tina Turner - Vocal Range/Profile”. 2013年1月26日閲覧。
  2. ^ Tina Turner - New World Encyclopedia”. 2013年1月26日閲覧。
  3. ^ Ike and Tina Turner – A Fool in Love - YouTube
  4. ^ “CBS News”. CBS News. (2002年9月21日). http://www.cbsnews.com/stories/2000/09/11/60minutes/main232429.shtml 2011年3月9日閲覧。 
  5. ^ Rafferty, Terrence (2008年7月27日). “Tina Turner: Queen of Rock 'n' Roll”. The New York Times. http://movies.nytimes.com/movie/50095/Tina-Turner-Queen-of-Rock-n-Roll/overview 2008年10月27日閲覧。 
  6. ^ a b Wolman, Baron. “Tina Turner on Stage”. Gallery of The Popular Image. San Francisco Art Exchange. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月19日閲覧。
  7. ^ "Tina Turner Covers Vogue Germany" Billboard Magazine
  8. ^ Biography on Tina Turner”. Biography.com. A&E Television Networks. 2008年9月3日閲覧。
  9. ^ Silva, Manushi (2013年12月8日). “Ever-green Tina Turner”. The Nation (Sri Lanka). http://www.nation.lk/edition/lifestyle/item/23386-ever-green-tina-turner.html 2014年5月9日閲覧。 
  10. ^ Silva, Manushi (2013年12月8日). “Ever-green Tina Turner”. The Nation (Sri Lanka). http://www.nation.lk/edition/lifestyle/item/23386-ever-green-tina-turner.html 2014年5月9日閲覧。 
  11. ^ a b “Amway Global to be Presenting Sponsor of 'Tina Turner Live in Concert' 2008”. Reuters.com. (2008年7月10日). http://www.reuters.com/article/pressRelease/idUS169798+10-Jul-2008+PRN20080710 2008年10月31日閲覧。 
  12. ^ Gundersen, Edna (2008年9月30日). “Tina Turner is back by popular demand”. USA Today. http://www.usatoday.com/life/music/news/2008-09-30-turner-main_N.htm 2008年10月27日閲覧。 
  13. ^ a b Terry, Al (2008年9月21日). “Tina Turner Live Tickets – One Of The Biggest Selling Concert Tickets Ever”. Pressemeldungen.at. 2008年10月27日閲覧。
  14. ^ "100 Greatest Artists of All Time" Rolling Stone
  15. ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Tina Turner”. 2013年5月26日閲覧。
  16. ^ a b Norris 2000, p. 25–30.
  17. ^ a b c d Gulla 2008, p. 170.
  18. ^ a b Bego 2005, p. 15.
  19. ^ Preston 1999, p. 4.
  20. ^ a b c Gates 2005, p. 114.
  21. ^ African American Lives - YouTube
  22. ^ Tina Turner | Happy Birthday Tina Turner”. Contactmusic. 2012年3月31日閲覧。
  23. ^ Bullock, Zelma (1993年). Tina Turner: Girl from Nutbush (video). Strand Video Entertainment. 
  24. ^ Celebrities of Native American Heritage”. U.S. Department of Housing and Urban Development. 2010年2月9日閲覧。
  25. ^ Duster, Troy (2008年). “Deep Roots and Tangled Branches”. Chronicle of Higher Education. 2008年10月2日閲覧。
  26. ^ Genetic Ancestral Testing Cannot Deliver On Its Promise, Study Warns”. ScienceDaily (2007年10月20日). 2008年10月2日閲覧。
  27. ^ Norris 2000, p. 107.
  28. ^ Norris 2000, p. 27.
  29. ^ Norris 2000, p. 28.
  30. ^ a b Gulla 2008, p. 174.
  31. ^ a b c d e f g Gulla 2008, p. 171.
  32. ^ Bego 2005, p. 16.
  33. ^ “Black History in St. Louis”. The New York Times. (1992年5月10日). http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CE2DC1331F933A25756C0A964958260 2007年12月11日閲覧. ""Sumner High School, the first school west of the Mississippi for blacks established in 1875 (among graduates are Grace Bumbry, Arthur Ashe and Tina Turner)..."" 
  34. ^ Turner 1986, p. 50.
  35. ^ a b c Gulla 2008, p. 175.
  36. ^ Turner 1986, p. 62.
  37. ^ Hasday 1999, p. 10.
  38. ^ a b c d e f Gulla 2008, p. 176.
  39. ^ Quaglieri 1991.
  40. ^ McKeen 2000, p. 252.
  41. ^ McKeen 2000, p. 253.
  42. ^ Turner 1986, p. 79.
  43. ^ Callahan, Michael. “The Sue Records Story”. Both Sides Now. Mike Callahan. 2011年10月31日閲覧。
  44. ^ Gulla 2008, p. 179.
  45. ^ Ike and Tina Turner”. History-Of-Rock.com. 2012年3月14日閲覧。
  46. ^ “The musical legacy of Ike Turner”. BBC News entertainment, 13 December 2007 (BBC). (2007年12月13日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/7142242.stm 2011年10月1日閲覧。 
  47. ^ Richard Williams, Phil Spector: out of his head, page 111. Omnibus Press, 2003, ISBN 0711998647. http://books.google.com/books?id=a-F4AmTkYgwC&pg=PA109&dq=River+Deep+-+Mountain+High+phil+spector#v=onepage&q=River%20Deep%20-%20Mountain%20High%20phil%20spector&f=false 2009年10月24日閲覧。. 
  48. ^ Gulla 2008, p. 180.
  49. ^ Gulla 2008, pp. 180–181.
  50. ^ Bogdanov, Vladimir; Chris Woodstra and Stephen Thomas Erlewine (2003). All Music Guide to the Blues: The Definitive Guide to the Blues (3rd ed.). Hal Leonard Corporation. ISBN 0-87930-736-6. http://books.google.com/?id=nS2l6Z_J99kC 2009年4月8日閲覧。. 
  51. ^ Gulla 2008, p. 182.
  52. ^ Whitburn 2004, p. 645.
  53. ^ Gulla, p. 182.
  54. ^ Turner 1986, p. 160.
  55. ^ Spin 1985, pp. 37–38.
  56. ^ McCue, Margi Laird (March 1, 2000) [1995]. Domestic Violence: A Reference Handbook. ABC-Clio Inc. ISBN 0-87436-762-X. http://books.google.com/books?id=MXOuAAAAIAAJ&q=087436762X&dq=087436762X&hl=en&sa=X&ei=qQA2UqvFFIjA8ASQ5YCgCQ&ved=0CC8Q6AEwAA 2013年9月15日閲覧。. 
  57. ^ Gulla 2008, p. 174–175.
  58. ^ Ebony 1986, p. 38.
  59. ^ Turner 1986, pp. 187–190.
  60. ^ Bronson 2003, p. 593.
  61. ^ Tyehimba, Cheo (1996年8月2日). “Tina's Independence Day”. EW.com. http://www.ew.com/ew/article/0,,293534,00.html 2012年7月4日閲覧。 
  62. ^ Turner 1986, pp. 190–192.
  63. ^ Mabery 1986, pp. 88–90.
  64. ^ Wynn 1985, p. 70.
  65. ^ Koenig 1986, pp. 20–30.
  66. ^ Fissinger 1985, p. 82.
  67. ^ Jet 1988, p. 54.
  68. ^ Weekly World News 1993, p. 13.
  69. ^ Wilder, John S. (2002年1月17日). “SB 2798: Highway Signs – "Tina Turner Highway" (PDF)”. Legislation Archives – Bills and Resolutions: 102nd General Assembly. Nashville, TN: Tennessee Senate. 2010年6月26日閲覧。
  70. ^ Fitzhugh, Craig (2002年1月22日). “HB 2535: Highway Signs – "Tina Turner Highway" (PDF)”. Legislation Archives – Bills and Resolutions: 102nd General Assembly. Nashville, TN: Tennessee House of Representatives. 2010年6月26日閲覧。
  71. ^ “Highway to Be Named for Tina Turner”. Associated Press. AP Online News Wire. (2002年9月25日). http://www.highbeam.com/doc/1P1-67731655.html 2010年6月26日閲覧。 
  72. ^ Files, John (2005年12月5日). “At Kennedy Center Honors, 5 More Join an Elite Circle”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2005/12/05/arts/05honors.html 2008年10月27日閲覧。 
  73. ^ December 5, 2005, Long Beach Press-Telegram (CA)
  74. ^ December 6, 2005 Kansas City Star
  75. ^ Thomas, Karen (2005年12月4日). “Kennedy Center honors five performing greats”. USA Today. http://www.usatoday.com/life/people/2005-12-04-kennedy-center_x.htm 2008年10月27日閲覧。 
  76. ^ “Tina Turner: 'No Comment' on Ike Turner's Death.”. People. (2007年12月12日). http://www.people.com/people/article/0,,20165923,00.html 2009年2月16日閲覧。 
  77. ^ “Tina Turner wows Grammy crowd with comeback”. Reuters. (2008年2月11日). http://www.reuters.com/article/musicNews/idUSN0955003720080211 2008年2月17日閲覧。 
  78. ^ Grammy Awards: Tina Turner, Kanye West sizzle onstage”. The Dallas Morning News (2008年2月11日). 2008年10月27日閲覧。
  79. ^ “Tina Turner says she's hitting the road again”. USA Today. (2008年4月30日). http://www.usatoday.com/life/television/2008-04-30-2451038577_x.htm 2008年5月21日閲覧。 
  80. ^ “Rangers fans prove Simply the Best, taking Tina Turner hit back into the Top 10”. The Scotsman (Edinburgh). http://sport.scotsman.com/celticfc/Rangers-fans-prove-Simply-the.6252275.jp 2010年12月14日閲覧。 
  81. ^ Ralston, Mark (2012年5月31日). “This picture taken on May 31, 2012 shows singer Tina Turner arriving on the red carpet for the fashion show by 77-year-old designer Giorgio Armani at the 798 art complex in Beijing”. Agence France-Presse. http://abcnews.go.com/meta/search/imageDetail?format=plain&source=http://abcnews.go.com/images/Entertainment/gty_tina_turner_1_jt_120607 2013年3月9日閲覧。 
  82. ^ Wilson, Julee (2013年3月8日). “Tina Turner Vogue Germany Cover, Singer's First Time Gracing Glossy”. Huffington Post. http://www.huffingtonpost.com/2013/03/08/tina-turner-vogue-cover-first-time-gracing-glossy-_n_2838833.html 2013年3月9日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]