シンディ・ローパー

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シンディ・ローパー
シンディ・ローパー(2011年)}
シンディ・ローパー(2011年)
基本情報
出生名 シンシア・アン・ステファニー・ローパー
出生 1953年6月22日(61歳)
学歴 Johnson State College
職業 歌手
活動期間 1978年 - 現在
公式サイト

www.cyndilauper.com


Cyndi's signature.png
シンディ・ローパーのサイン

シンディ・ローパーCyndi Lauper、本名:シンシア・アン・ステファニー・ローパー(Cynthia Ann Stephanie Lauper)、1953年6月22日 - ) は、アメリカ合衆国歌手女優グラミー賞エミー賞トニー賞の受賞経験がある。

略歴[編集]

幼少期 - 1980年[編集]

1953年6月22日-ニューヨーク州ニューヨークブルックリン地区において、スイスおよびドイツ系アメリカ人の父と、シチリア系アメリカ人の母との間に生まれる。5歳の時、両親が離婚。母親、姉、弟と共にクィーンズ近郊のオゾン・パークへ移住[1]

12歳の時に、ギターの弾き方を学び、作詞を始める。学校では周りになじめず、授業を受けるかわりに、絵を描いたり、歌を歌ったりして過ごす。17歳の時、自分のおかれている環境に嫌気がさし、高校を退学しついに愛犬スパークルと共に家をでる[2]General Educational Developmentをパスし高校卒業認定資格を受け、ジョンソン州立大学でArtのクラスの講義などを受けた。 その間、生活のためウェイトレス、絵のモデル、競馬調教師の助手、空手教室の呼びこみ等様々な職につきながら、アートスクールに通ったり、トロント北部にある森でテントを張り、スケッチをしながら過ごした。このころ、付き合っていた男性からの提案で名前をCindyではなくCyndiと綴るようになる[3]。カナダを旅行した後、ニューヨークに戻る。

ロングアイランド出身のバンドDoc Westに加入し、バックグラウンドシンガーとして活動するが、後に別のバンドFlyerに加入しリード・シンガーとして働く。

1977年、歌い続けることによって喉を酷使してしまい声帯に損傷を受けたために声が出なくなり、1年間音楽活動を休止し、ヴォイス・トレーナー、ケイティ・アゲストラの指導のもと、集中的なヴォーカルトレーニングを受けて、歌声を取り戻す。

1978年、キーボード兼サックス・プレイヤーのジョン・テュリと知り合い、意気投合し、自身のバンドブルーエンジェル(Blue Angel)を結成する。

1980年、ポリドール・レコードより、アルバム『Blue Angel』でデビュー。多くの評論家に絶賛されたにもかかわらず、ロカビリーサウンドが理解されなかったり、商業的成功を収められず、バンドはその後すぐに解散。彼女は自己破産を申請し、小売店で働き始め、生活のためにまた歌い始める。

1983 - 1989年[編集]

ブルーエンジェル解散後、活動を続けていた頃に後の恋人兼マネージャーとなるマネジメント業のデビッド・ウルフと知り合い、ウルフの紹介を経て、ポートレート・レコードと契約を結ぶ。

ポートレートレーベルのエクゼクティブ・プロデューサー、レニー・ペッツやプロデューサーのリック・チャートフ、後にザ・フーターズを結成する、ロブ・ハイマンの全面的な協力によって制作されたアルバムで1983年に『シーズ・ソー・アンユージュアル/She's So Unusual』でソロ・デビュー。

1984年、ファースト・シングルの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」がヒット・チャートに急上昇して第2位に輝き、セカンドシングルの「タイム・アフター・タイム」は全米第1位になり、サードシングルの「シー・バップ」は第3位、「オール・スルー・ザ・ナイト」が第5位とデビューアルバムから4曲連続トップ5入りした初の女性ソロ・アーティストとなった。「タイム・アフター・タイム」はマイルス・デイヴィスらにもカヴァーされるスタンダードとなる。

第1回MTVミュージック・ビデオ・アワードで最優秀女性歌手賞を受賞し、ローリング・ストーン誌の1984年度の最優秀新人賞など数々の賞を総なめに。

映画『グーニーズ』のオリジナル・サウンドトラックに参加し、シングル「グーニーズはグッド・イナフ」も全米第10位のヒットとなった。

プロモーションのために3月に初来日、フジテレビ系列『笑っていいとも!』とテレビ朝日系列の『ベストヒットUSA』に出演。

1985年、5枚目のシングル「マネー・チェンジズ・エヴリシング」は全米第27位になり、第12回アメリカン・ミュージック・アワードでは最優秀女性ポップ・ロック・ヴォーカル賞や最優秀女性ポップ・ロック・ビデオ・アーティスト賞を、グラミー賞では最優秀新人賞と最優秀アルバム・パッケージ賞を受賞。USAフォー・アフリカの『We Are The World』のレコーディングに参加。とても印象深い熱唱を披露し、音楽監督のクインシー・ジョーンズに「アドリブ入れてもいい?」と尋ね、彼を喜ばせたという有名なエピソードも残している。

デビューしてわずかな時間で80年代を代表するシンガーとなり、パワフルなヴォーカル、独自のファッション性も話題となった。

1986年、2枚目のオリジナル・アルバム『トゥルー・カラーズ/TRUE COLORS』を発表。ファースト・シングル「トゥルー・カラーズ」は全米第1位を2週連続獲得し、セカンド・シングル「チェンジ・オブ・ハート」は第3位に、サード・シングルの「ホワッツ・ゴーイン・オン」は第12位に記録した。

1987年、映画『バイブス秘宝の謎』の撮影に入ってから、スランプに陥ってしまい、私生活ではマネージャーでもあり婚約者で共に暮らしていたデヴィット・ウルフと別離。

1988年、旧ソ連で行われた『米ソ・ソングライター・サミット』に参加したことが転機となり、様々な刺激を受けてスランプを抜け出すきっかけとなり活力を取り戻し、ほとんど出来上がっていたニュー・アルバムを白紙に戻して作り直して、1989年、3枚目のオリジナル・アルバム『ア・ナイト・トゥ・リメンバー/A NIGHT TO REMEMBER』を発表。自身初の全曲ラヴ・ソングとなった。

ファーストシングル「涙のオール・ナイト・ドライヴ/ I DROVE ALL NIGHT」は全米第6位を記録した。

1990 - 2000年[編集]

1990年、デビュー前から思うがままに、自由奔放に活動していたが、デビューしてからの商業的成功や名声を得たことにより、レコード会社や周りのスタッフからサウンドの面から様々な面で制限され、創作活動の自由を失っていた頃、再び映画出演をし、『マイアミ・ムーン/Off And Running』の撮影がマイアミで始まる。

そんな頃にオノ・ヨーコからリバプールで行われる『ジョン・レノン生誕50周年コンサート』への参加を依頼され、「Hey Bulldog」「Working Class Hero」をローパー自身でアレンジし、バンドメンバーと演奏する。

さらにベルリンの壁崩壊を記念してベルリンで行われた、『ザ・ウォール・コンサート』に参加したり、湾岸戦争反対のためのプロジェクトにオノ・ヨーコやレニー・クラヴィッツ達と共に参加する。

第41回NHK紅白歌合戦には中継ではなく来日して出演。

1991年、映画共演がきっかけで俳優の デヴィット・ソーントンと11月に結婚する。

1992年、ミュージカル『タイクーン』のサウンド・トラックに参加し、シングル「The World Is Stone」がヨーロッパ各国、特にフランスでは3ヶ月間トップ5内を記録するなど大ヒットする。

1993年、フーターズのロブ・ハイマン、エリック・バジリアンやアリー・ウィリス、夫のデビッド・ソーントンらの助けを借りて製作された4枚目のオリジナル・アルバム『ハット・フル・オブ・スターズ/HAT FULL OF STARS』を発表。ローパー自身で全曲曲作りに携わり、アルバム・カバーやさらにビデオ監督までプロデュースして全てを手掛けた。このアルバムはローパー自身がやりたいことを貫き通し、信じられる歌を歌い、周りの人たちにもっと自分の意見を提示してもいいことに気付き、妥協することなく製作された。自分の真実を語った新しいアルバムを一人一人に聞かせるために、アメリカでのクラブ・ツアーを行い、大きな話題を呼んだ。サンフランシスコのクラブのステージ上で、商業的な理由から外されたという8年の歳月を経て発表した「ア・パート・ヘイト」のことや自身の葛藤や苦悩を明らかにした。この年の年末、来日公演を行いその後、シンガポール、台湾と回る。

1994年、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ/TWELVE DEADLY CYNS...AND THEN SOME』を発表。 全世界で400万枚以上のセールスを記録し、ワールド・ツアーも南米、ヨーロッパ、日本と行われた。

1995年、阪神淡路大震災の被災者へ寄付。ツアーも引き続きイギリス、オランダ、アメリカと行われ年末に再来日公演を行った。

オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!!』(正月特番)にも出演。本人によれば「正月のパーティーがあると聞かされた」とのこと。

1996年、5枚目のオリジナル・アルバム『シスターズ・アヴァロン/SISTERS OF AVALON』を発表。4年連続となる年末来日公演を行う。アルバムには上々颱風も参加しており、武道館公演では飛び入りでライヴに参加した。生田神社 (神戸市) の「震災復興節分祭」で豆まきを行うために来日。しかし、豆まきは参拝客が殺到してわずか2分で中止になる。

1997年、11月に44歳にして長男デクラン・ワレスを出産。念願だった子供を授かる。

1998年、クリスマス・ソングやクリスマスに関係した曲を集めた初のシーズナル・アルバム『メリークリスマス…ハヴ・ア・ナイス・ライフ!/ Merry christmas...Have a nice life!』を発表。ジャケットには夫のデヴィット、ブックレットにはデクランと共に写っており、収録曲の「New Year's Baby(First Lullaby)」には当時乳幼児であったデクランの声が収録されている。このアルバムを最後にソニー・レーベルとの契約が一旦終わった。

1999年、『グラミー賞 Best Dance Recording』部門にノミネートされた「Disco Inferno」がJellybean Recordsから発売されクラブチャートでヒットし、シェールと共に3ヶ月半に及ぶ大規模な北米ツアーにでる。またアメリカのTV番組「Mad About You」に再出演したり、クリストファー・ウォーケンと共演した映画『The Opportunists』の撮影が始まる等、女優活動も精力的に行う。

2000年、映画『The Opportunists』が公開され、各方面で高い評価を受ける。またこの年、ジョニ・ミッチェル・トリビュート・コンサートに出演したり、シェリル・クロウ、ハート、ディスティニーズ・チャイルド達と共にガン撲滅のためのチャリティー・ライブ『Girls With Guitar Concert』に出演する。

2001年 - 現在[編集]

2001年、坂本龍一の呼びかけで地雷撲滅の為のチャリティーレコード『Zero Landmine』に多くのミュージシャンと共に参加したり、この年9月にアメリカで起こった同時多発テロの為、当初予定より延期され、趣向を変更し開催された『ジョン・レノン・トリビュート・コンサート』に参加し、セントラル・パークで、「Strawberry Fields Forever」を歌う。

ロブ・ハイマン、ジャン・パルスフォード、坂本龍一等との共作曲を収録したウィリアム・ウィットマンとの共同プロデュースで6枚目のオリジナルアルバム『SHINE』を完成させ、夏にEdel America Records(エデル・レコード)から発売される予定であったが、発売直前にEdel America Records が倒産し、アルバム発売は中止されてしまう。

2002年、アルバム『Shine』に収録予定であった曲の中から、それまでライブやイベント等で歌ってきてファンのリアクションの良かった曲を選曲し収録された5曲入りのミニアルバムがOglio Records(オグリオ・レコード) から発売される。また、ラスベガスで行われたディーバーズ・ライブにスペシャルゲストとして出演し、シェールとデュエットを披露した。その後再びシェールと共に6ヶ月にも及ぶ大規模な北米ツアーを行い、延べ100万人以上の観客動員数を記録し、ローパーの以前と変わらないライヴパフォーマンスに各方面から大きな賞賛を受ける。

またシェールとのツアーの合間には、ソロライブを行ったり、店頭でのサイン会&ミニライブを行うなど、原点に戻った地道な活動を行い、『Shine EP』はマイナーレーベルからの発売にもかかわらず、好セールスを記録した。

2003年、ソロ・ツアーやミート・ローフとのジョイント・ツアーを行うなど精力的にライブ活動を行う。ソニーと再契約を結び、幼少の頃に聴きながら親しんでいた1940年から1960年代の曲をカヴァーしたカヴァー・フル・アルバム『アット・ラスト/AT LAST』を発表。10月下旬から、久々の大規模なソロ・ツアーが始まり、大晦日のニューヨークでは、タイムズ・スクエアでのニューイヤーズ・イブのイベントにも参加する。

2004年、諸事情(上記参照)でお蔵入りとなっていた6枚目のオリジナル・アルバム『シャイン/SHINE』を日本限定でフル・アルバムとして発表。6月には8年ぶりとなる日本ツアーが実現し、6都市全8公演を行い、変わらないパワフルなライブパフォーマンスを披露した。その後ツアーはオーストラリア、再び北米へと9月まで続けられる。2003年から続けられた『At Last Tour』の地元ニューヨーク公演を収めた、ライヴDVD『Live...At Last』が発売される。また、11月にオランダで行われた『Night of the Proms』に参加、12月にはノルウェーで行われた『ノーベル平和賞コンサート』にも参加した。翌年の2月に行われたグラミー賞では、『At Last』に収録された「Unchained Melody」が『Best Instrumental Composition Accompanying a Vocal』部門にノミネートされる。

2005年、ジェフ・ベックサラ・マクラクランシャギー、アニー・ディフランコ、ヴィヴィアン・グリーン、パフィーなど、多くの豪華ゲストを迎えて、過去のヒット曲や人気曲を自らカヴァーしたセルフカヴァー・アルバム『ボディー・アコースティック/The Body Acoustic』を発表。 それにあわせて、プロモーション来日を果たし、様々なメディアに登場し、東京で開催された『GO LOHAS! 2005』のイベントでは、新作から3曲を披露した。 帰国後は北米ツアーを開始し、ツアーの合間にはアメリカン・ミュージック・アワードのステージで、サラ・マクラクランと「Time After Time」をデュエットで披露した。 アメリカ同性愛者支援団体参加。

2006年、『THE THREEPENNY OPERA(三文オペラ)』(ベルトルト・ブレヒト作、クルト・ヴァイル作曲)で娼婦「ジェニー」役でブロードウェイ・ミュージカルデビューを果たし、4月から6月までSTUDIO 54にて出演。 6月に行われたトニー賞では、共演者のAlan Cummingとパフォーマンスを披露した。また、7月には同性愛者のオリンピック『ゲイ・ゲームズ』閉会式に出演した。

2007年、6月に多数のアーティスト達と『True Colors 2007 Tour』を行う。ツアーの目的は同性愛者の権利の擁護推進のためのもので、チケット1枚につき1ドルが『Human Rights Campaign』と題された人権擁護活動に寄付された。5時間にも及ぶ大規模なショーは北米16都市で公演されて大成功を収め、参加したアーティストが曲を提供した記念盤のCDが発売される。 また、8月にはペットショップボーイズシャギー等とともにシンガポールで行われたSingfestに参加した。 同8月、SUMMERSONIC 07 出演のために来日。11日の大阪舞洲サマーソニック特設会場、12日の千葉幕張メッセにて変わらないパワフルなライヴパフォーマンスをし、改めて高い評価や新たなファンを得た。その後、東京、名古屋で行われた単独ライヴでは、東京ではセカンド・アンコールが起こったり等、両日共に大盛況に終わった。

2008年5月14日に7枚目のオリジナル・アルバム『ブリング・ヤー・トゥー・ザ・ブリンク〜究極ガール/BRING YA TO THE BRINK』を発表。 オリジナル・アルバムとしては7年振り、メジャーでレコーディングしたフル・オリジナル・アルバムとしては12年振り。 TOYOTA MARK X ZiOのCFソングとしてOAされていた収録曲の『セット・ユア・ハート/SET YOUR HEART』をはじめ、全曲、ダンス・ミュージックとなっている。 アルバム発売日に合わせて来日し、東京 丸の内 丸ビル1F MARUCUBEにてニュー・アルバム発売記念ライヴをし、新曲を含めた数曲を披露。 靴を脱ぎ、ステージから降りて客席でパフォーマンスをしたり等、イベント当選者や仕事帰りの人々を楽しませ、様々なメディアにも出演した。 2008年9月にCYNDI LAUPER JAPAN TOUR2008と題し、12年振りの日本武道館公演を含む3都市全4回の来日公演が行われる。その後、ヨーロッパ、南米でのツアーを行う。

2011年3月4日にアルゼンチンのブエノスアイレス空港で、フライト遅延や欠航が続出し空港側に抗議が殺到する中、たまたまその場に居たシンディが空港アナウンス用マイクで「Girls Just Wanna Have Fun」[4]を即興で歌い、乗客の怒りを収めて大喜びさせるというエピソードが起きた。

2011年3月11日に起きた日本における東日本大震災の直後、日本でのコンサートツアーのために来日(彼女の乗った飛行機は地震による閉鎖のため成田空港に降りられず、米軍横田基地に着陸した)。他の海外ミュージシャンが日本での公演を中止して帰国ないし、来日をキャンセルし、レコード会社からも帰国するように勧めら­れていた中、2011年3月16日から、予定通りコンサートを行った。更に会場でチャリティのための募金を呼び掛け、コンサートをチャリティイベントにした。

また、大阪滞在時に湯川れい子へ「こういう時こそ、日本にくることが出来て、私の人生の中でも名誉なことでした。ありがとう」と綴ったメールを送っている。

2012年6月18日にプロレス団体WWERAWにゲストホストとして登場[5]。過去には1985年に開催された第1回レッスルマニアウェンディ・リヒターのセコンドとして出場している。同年、ミュージカル『キンキーブーツ』(原作は2005年公開の同名映画)を作曲。第67回トニー賞でオリジナル楽曲賞を受賞した。

人物[編集]

アーティスト・歌手

  • デビュー当初は、古着の様な格好と後にハリウッドメイクと言われるメイクやハリウッドスマイルと呼ばれる上唇をめくり上げ四角く口をあけるユニーク笑顔などでメディアを驚かせた[6]
  • 様々な曲調を歌いこなすことから「七色の声を持つ歌手」と称される[7]
  • デビューから現在まで変わらないパワフルなアーティスト活動や独自のファッションから「永遠のガール」と称されている。

内面

  • 非常に思慮深く感受性が強い人柄で、一時期、急激に有名人になったことの戸惑いと、いつも注目を浴びることのプレッシャーから孤独感に苛まれ引きこもりがちになり、自身のパーティーでさえ、周りに人が集まれば集まるほど孤独を感じ、ホテルの部屋に閉じこもってしまい主役不在のことさえあったという[8]

日本との交流[編集]

大の親日家として知られる。

社会活動

  • 1995年に阪神・淡路大震災の被災者へ寄付。1996年2月3日に阪神・淡路大震災のチャリティーとして行われた生田神社震災復興節分祭にて「豆まき神事」に参加した。
  • 日本の有名な戦争悲話「かわいそうなぞう」のCDの英語吹き込みを担当した。2008年8月13日発売。「戦争は動物までも不幸にする」というメッセージを社会に向けて発信している。
  • 2011年3月16日の来日コンサート終了後、急遽、観覧しに来ていた日本の芸能人とともに、募金箱を持ちコンサートの観客に募金を募った。
  • 2011年3月17日にには、CNNからの取材を受け、見聞きした範囲で、日本の現状・窮状を伝え、日本に対する支援や募金などの助力を求め、その訴えは、CNNの番組であるHLNを通じて、現地時間の2011年3月17日に世界へ向け報道された。

日本人との親交

  • 1989年、日本の番組 夜のヒットスタジオに出演した際にニューヨークの『ミホ』というジャパニーズレストランで働いていたことがあったと話した。いきさつは定職もなくブラブラしていた時にそのレストランを経営している鈴木サクエという日本人女性と出会い、「それじゃ駄目だから自分の店で働きなさい」と誘ってもらったとのこと。鈴木はシンディに限らず、シンディのバンド仲間やまだ活躍していない色んなアーティスト達を助けていた。鈴木は常にシンディに「いつか売れる日が来るから頑張りなさい」と激励をしていたという。この鈴木との出会いがシンディを日本贔屓にさせる切っ掛けとなった。番組では内緒で鈴木を探し出し、シンディの来日とは関係なくたまたま偶然に諸事情で日本に帰ってきていた鈴木とシンディはスタジオで再会を果たした。シンディは感激のあまり歌う前に涙ぐんでしまった。
  • オノ・ヨーコと親交がある。
  • 1986年吉田拓郎安井かずみに「ホイットニー・ヒューストンに会わせてあげるから」と誘われアルバムのレコーディングをニューヨークで行ったが、安井が実際に連れてきたのはシンディだったという逸話がある[9]

日本語

  • 上述のとおりデビュー前の下積み時代、ニューヨークのジャパニーズレストランでウェイトレスアルバイトをしていた。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」が初めて覚えた日本語である。
  • ジャパニーズレストランの寿司職人から日本語を教えてもらい自信がつき日本に来てステージでしゃべったら

  実は教えて貰った日本語は全て赤ちゃん言葉だった。レコード会社からはダメ出しを受けたが一時的に流行ったと語った。[10]

  • そのほか「お父さん・はい・少し」や「おしぼり・寿司・さしみ・水割り」など、レストランで使われる言葉や、簡単な日本語も喋れる[11]

日本を訪れて

  • 上記にも記載されているが、来日し、1990年のNHK紅白歌合戦に出演している。
  • 日本にはたびたび「お忍び」で訪れて、旅行をしている。もっぱら移動手段は新幹線で、乗り込むとすぐにビールもしくは日本酒スルメを買い込んで一杯やりつつ、車窓からの景色を眺めるのが好きだとのことである[12]
  • 来日公演で阪神タイガース掛布雅之選手の縦じまのユニフォームを着たことがある。
  • 1995年、『ニュースステーション』に出演した際に、当時社会現象となっていた女子高生の「ルーズソックス」のニュースにコメントを求められ、「あのソックスは格好いいし、いいじゃない?!」とスタッフの思惑と正反対のことを言い出し、「あの年頃の少女たちは、自分が何か特別の存在でありたいと願い、同時に一人で突出する勇気はまだない。そんな少女たちが社会においては特別な自分たちであるという主張としてのルーズソックスなのではないだろうか」と続け、コメントの最後に「でも誰が何と言おうとあのソックスは格好いい!」と結んだ。

日本食

  • 日本酒・寿司・刺身・味噌汁・梅干・スルメ・枝豆などが好きである[13]

エピソード・その他

  • 1986年の誕生日に恋人兼マネージャーのデビッド・ウルフら数人のグループでNYマンハッタンのイーストビレッジにあるCANDYB1を数時間貸し切り誕生パーティーを行った。CANDYB1は本店が福岡にある日本人経営の生バンド・カラオケバーでこの店を選択したのはシンディ本人だったと言われている。
  • 2011年3月4日アルゼンチンのブエノス・アイレス空港で、フライト遅延や欠航が続出し、空港側に抗議が殺到する中、たまたまその場にいたシンディはその状況をみかね、[14]いきなり空港のアナウンスのマイクをひっつかみ、「Girls Just Wanna Have Fun」を歌い出した。突然の空港ライヴにその場の乗客や乗務員も大喜び、みんなと大合唱となり、みんなの表情は一変して歓喜の笑顔になり乗客たちの怒りを収め楽しませた。続いて「True Colors」もアカペラで歌っている。

ディスコグラフィ[編集]

アルバム[編集]

  • シーズ・ソー・アンユージュアル - She's So Unusual(1983年)
  • トゥルー・カラーズ - True Colors(1986年)
  • ア・ナイト・トゥ・リメンバー - A Night to Remember(1989年)
  • ハット・フル・オブ・スターズ - Hat Full Of Stars (1993年)
  • シスターズ・オブ・アヴァロン - Sisters Of Avalon(1996年)
  • メリー・クリスマス…ハヴ・ア・ナイス・ライフ - Merry christmas...Have a nice life!(1998年)
  • アット・ラスト - At Last(2003年)
  • シャイン - Shine(2004年)
  • ブリング・ヤー・トゥー・ザ・ブリンク - BRING YA TO THE BRINK(2008年)
  • メンフィス・ブルース - Memphis Blues (2011年)

ベスト盤[編集]

  • グレイテスト・ヒッツ - Twelve Deadly Cyns...And Then Some(1994年)
  • ザ・ボディ・アコースティック - The Body Acoustic(2005年)*セルフカバー
  • シンディローパー はじめてベスト〜Mighty 80's(2007年)
  • ジ・エッセンシャル 究極ベスト (2008年)
  • シンディ・ローパー・フロア・リミキシーズ(2009年)

シングル[編集]

  • You Make Loving Fun(1977年)
  • ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン - Girls Just Want to Have Fun(1983年)
    • 発売当初の邦題は「ハイスクールはダンステリア」だった。1994年に「Hey Now」として再レコーディングし、2005年には日本のPuffy Ami Yumiが参加して再々レコーディングしている。
  • タイム・アフター・タイム - Time after Time(1984年)
  • シー・バップ - She Bop(1984年)
  • オール・スルー・ザ・ナイト - All Through the Night(1984年)
  • マネー・チェンジズ・エヴリシング - Money Changes Everything(1984年)
  • アイル・キス・ユー - I'll Kiss You(promo-only single)(1984年)
  • ホエン・ユーワー・マイン - When You Were Mine(1985年)
  • グーニーズはグッド・イナフ - The Goonies 'R' Good Enough (The Goonies: Original Motion Picture Soundtrack)(1985年)
  • トゥルー・カラーズ - True Colors(1986年)
  • チェンジ・オブ・ハート - Change of Heart(1986年)
  • ホワッツ・ゴーイン・オン - What's Going On(1987年)
  • ボーイ・ブルー - Boy Blue(1987年)
  • メイビー・ヒル・ノウ - Maybe He'll Know(1987年)
  • ホール・イン・マイ・ハート - Hole in My Heart (All the Way to China)(1988年)
  • I Drove All Night(1989年)
    • 元々はロイ・オービソンのために書かれた曲で、ロイのレコーディングも1987年に行われていたが、シンディのバージョンが先にリリースされることとなった(ロイ・オービソンのバージョンは1992年にリリースされている)。2003年にはセリーヌ・ディオンがダンス・ポップアレンジでカバーしている。
  • My First Night Without You(1989年)
  • Heading West(1989年)
  • A Night to Remember(1989年)
  • Primitive(1990年)
  • The World Is Stone (Tycoon: Various Artists)(1992年)
  • Who Let In The Rain(1993年)
  • Sally's Pigeons(1993年)
  • That's What I Think(1993年)
  • Hat Full of Stars(1993年)
  • Hey Now (Girls Just Want To Have Fun)(1994年)
  • I'm Gonna Be Strong ('94 Version)(1994年)
  • Come On Home(1995年)
  • You Don't Know(1996年)* このPVには日本人のベーシスト「Norihito Yanagawa」が参加している。
  • Sisters of Avalon(1997年)
  • Ballad of Cleo and Joe(1997年)
  • Early Christmas Morning (Japan-only)(1998年)
  • Disco Infern (A Night at the Roxbury Soundtrack)-1999年)
  • Shine(2001年)
  • Walk on By(2003年)
  • Until You Come Back to Me (That's What I'm Gonna Do)(2004年)
  • Stay(2004年)
  • Time After Time (with Sarah McLachlan)(2005年)
  • Above the Clouds (with Jeff Beck)(2005年)

VHS・ DVD[編集]

  • In Paris(1987年)
  • Twelve Deadly Cyns...And Then Some [Import](1994年)
  • グレイテスト・ヒッツ(2003年)
  • Live...At Last [Import](2004年)
  • ライヴ・アット・ラスト (2009年)
  • To Memphis With Love [Import] (2011年)
  • メンフィスへ愛を込めて (2011年)

Blue Angelのディスコグラフィ[編集]

アルバム

  • ブルー・エンジェル - Blue Angel(1980年)

シングル

  • I'm Gonna Be Strong(1980年)
  • I Had a Love(1980年)
  • Late(1980年)
  • Fade(1980年)

映画[編集]

テレビCM[編集]

テレビ[編集]

日本公演[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ "Cyndi Lauper - and Lou Reed."
  2. ^ 後の1988年、転校を繰り返した4校の高校のうち、ニューヨーク州リッチモンドにあるリッチモンド高校より名誉卒業生として認められることになり、卒業式にも出席した。Back To School With Cyndi Lauper, 1988 -Girl just wants to have a diploma-
  3. ^ 『シンディ・ローパー自伝』p.58(白夜書房)
  4. ^ ブエノス・アイレス空港[1]
  5. ^ WWE JAPAN.com 「シンディ・ローパー、27年ぶりにWWE登場!」
  6. ^ 1984年3月の『ベストヒットUSA』出演時。
  7. ^ 2008年6月号「日経エンタテインメント!」
  8. ^ 2005年11月19日のCXテレビ『僕らの音楽2』放送、PE'Zとの対談にて。
  9. ^ 「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」2009年10月20日放送
  10. ^ 2008年5月の『情報プレゼンター とくダネ!』出演時
  11. ^ 1996年11月30日の日本テレビ系列『THE夜もヒッパレ』の放送、シンディ・ローパー、スペシャルメドレーのコーナーにて。1984年、フジテレビ笑っていいとも!』出演時。
  12. ^ 2005年11月19日のフジテレビ僕らの音楽2』放送、PE'Zとの対談にて。
  13. ^ 2005年11月19日のフジテレビ『僕らの音楽2』放送、PE'Zとの対談にて。1984年、フジテレビ『笑っていいとも』出演時。
  14. ^ ブエノス・アイレス空港カウンター[2]

外部リンク[編集]