ゴールデンエイジ・ヒップホップ
ゴールデンエイジ・ヒップホップ(golden age hip hop)は、ヒップホップ・ミュージックの歴史において、オールドスクール・ヒップホップに続く「成長期」である。日本では、ミドルスクール・ヒップホップと呼ばれたりもするが、世界的にはこの言葉はそれほど一般的な言葉ではない。この世代は、Run-D.M.C.のアルバム「レイジング・ヘル」のヒットから、1993年頃のGファンクの隆盛までを指す。この世代の特徴は、多用されるソウル、ジャズ、ファンクの(ジェームス・ブラウン風やカーティス・メイフィールド風)サンプリングとアフリカ中心主義的な詩にある。黄金世代たちは、ニューヨーク市を拠点とした。ジュース・クルー・オールスターズ、ラキム、KRS-One、チャックDといった面々は、ラップの芸術表現様式の向上を促し、主題の深さ、機知に富んだ洒落、効果的な言葉運び、などに対する要求水準を引き上げていった。さらには、デラソウル、ア・トライブ・コールド・クエスト、ブラック・シープ、リーダー・オブ・ザ・ニュースクールといった面々は、自分たちの周りに存在する世界に関する深い理解を語っていく思想に富んだ製作を行い、後に続くコンシャス・ヒップホップの先駆けとなった。ゴールデンエイジ・ヒップホップから、数々の新たな様式が生まれていく。芸術的進歩はニューヨークのみに留まらず、フィラデルフィア、ニュージャージー州、シカゴ、カリフォルニア州、南部地域へと波及していく。現在までに、地元の代表としての地位を獲得したラッパーたちを育むだけの風土が確立されていったのは、この時期のことであった。例えば、現在ではテキサス州の伝説として君臨するゲトー・ボーイズのスカーフェイスやUGKのバンBは、この時期にその技量を発揮し始め、現在の地位まで駆け上がってくることになったのである。またこの時期に、デフジャムがヒップホップ初の独立レコードレーベルとして立ち上げられ、LLクールJの活躍により成長を遂げていった。
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新技法 [編集]
この時期、ヒップホップの人気が高まると共に、次々と新たなスタイルと様式が出現してきた。Run-D.M.C.は、エアロスミスの代表曲の一つ「ウォーク・ディス・ウェイ」で、スティーヴン・タイラ、ジョー・ペリーの2人と共演を果たした。今では珍しく無くなってきたロックとヒップホップの融合ではあるが、この共演はその先駆け的存在である。また、1985年の「ショウストッパ」のヒットと共に、黒人女性グループのソルト・ン・ペパが頭角を表してきた。1986年には、初めて西海岸ヒップホップが全国的な成功を収めた曲、アイスTの「シックスン・ダモーニング」が発売された。この曲をきっかけとして、ギャングスタ・ラップの隆盛も始まったと言われている。1987年にパブリック・エネミー、翌年にはブギ・ダウン・プロダクションズがデビューを果たした。両者とも切れ味鋭い政治的な作品を世に送り出した。1988年と89年には、ネイティブタンポッセがアルバムを発表し、コンシャス・ヒップホップが産声を上げた。彼らの楽曲はジャズバンドの音をサプリングし、そこに多様で風変わり、かつ政治的な色合いを帯びた詩をのせたものであった。またアフリカ・バンバータのズールネーションが発したアフリカ中主義思想からも大きな影響を受けていた。1988年、パブリック・エネミーの2枚目のアルバムが発売され、当時最高のヒップホップアルバムの1つとして賞賛を受ける。彼らの特徴は、激しくが無機質なトラックに、激烈な政治声明が絡み合うことで、それまでのヒップホップでは聞いたことも無いような、全く新しい楽曲を提供したことにある。
黒人の誇り、アフリカ回帰、そして政治 [編集]
この時期、ヒップホップには、黒人の自尊心、民族団結、自己覚醒などを高揚していく流れが高まってきた。パブリック・エネミー、クール・モー・ディー、エックス・クラン、(スコット・スターリング亡き後の)ブギーダウンプロダクションズといった面々は、アメリカの社会/政治状況に対する嫌悪感を露にし、そしてそれらが黒人社会に与える影響を問題視し始めた。またこの時期、ラキム、ビッグ・ダディ・ケイン、プア・ライチャス・ティーチャーズ、ブランド・ヌビアンといったファイブ・パーセントネーションに所属する人々が、その詩の中で、「シュプリームアルファベット」や「シュプリームマスマティクス」といった教義の伝導を行った。 更にヒップホップは、暴力廃絶運動である「ストップ・ザ・ヴァイオレンス・ムーブメント」も展開。KRS-Oneが中心となり、MCライト、パブリック・エネミー、ヘビーD、クール・モー・ディーらと共に、『セルフディストラクション(自滅)』という曲を世に送り出した。
女性の躍進 [編集]
80年代中頃まで、ヒップホップ界で活躍する女性はごく稀な存在であり、その僅かな女性アーティストたちも、ラジオ放送で流されることは、殆ど無かった。しかし、ロクサーヌ・シャンテが「ロクサーヌリベンジ」を、ソルト・ン・ペパが「ショーストッパ」を、それぞれ発表して以来、ヒップホップ界における女性たちは、男性によって牛耳られている市場の中でも、より華やかな舞台で活躍できることが明らかになった。MCライト、クイーン・ラティファ、モニー・ラブなどの女性ラッパーたちがオリジナル・アルバムを発表し、次々とラジオで流されるようになっていった。
新たなるスタイル [編集]
この時期、新たなスタイルが確立し始め、人気を博すようになった。それは、ネイティブタンポッセの面々たち、つまり、ア・トライブ・コールド・クエスト、デ・ラ・ソウル、ブラック・シープ、ジャングル・ブラザーズなどが確立していったスタイルである。またステッツァソニックやギャング・スターの手によって、ジャズ・ラップも確立していく。加えて、ダグEフレッシュ、ビズ・マーキー、ファット・ボーイズなどの活躍で、ヒューマンビートボックスの人気も高まっていく。
マーリーマールの仲間たち [編集]
この時期の最も重要なアーティストたちとして、マーリー・マールのコールド・チリン・レコーズに終結し、創作集団「ジュースクルー」を結成した面々を忘れてはならない。ビッグダディーケーンは流暢な詩の流れや性的な魅力で名を馳せ、クールGラップは複雑な言葉運びで頭角を表した。さらに滑稽かつ、悪ふざけかと思えるようなパフォーマンスを見せたビズ・マーキー、ブギ・ダウン・プロダクションズとの「ブリッジバトル(ブリッジウォー)」と呼ばれる悪名高きビーフを繰り広げたマスタ・エース、クレイグG、MCシャンといったラッパーたちである。現在のラッパーの中にも、その影響力に対して、ケーンやクールGラップに敬意を払う者も多い。
西海岸の隆盛 [編集]
当時、ニューヨークを中心とする東海岸地帯がヒップホップの中心勢力ではあったが、ロサンゼルスを中心とする西海岸地帯がヒップホップをさらなる表舞台へと導く役割を担ってきたことに疑いの余地は無い。アフリカ色が濃く、政治的な色合いを帯びた東部のラッパーたちとは異なり、トーン・ロック、ヤングMC、サー・ミクス・ア・ロット、MCハマーといった西部のラッパーたちは、ポップ・ラップというジャンルの基盤を固めていった。しかしながら、そのように一方では、毎日が「愉快な宴」のように思えた西海岸であったが、ギャングスタ・ラップが成熟度を高めていく中で、別の部分、ギャング抗争、警察の蛮行、薬物、貧困、といった闇の部分が暴かれていった。N.W.A.が「ストレイト・アウト・コンプトン」で脚光を浴びることになった時、彼らはアメリカの貧民街の残忍性や露骨な生活ぶりを明らかにした。これは、ブギーダウンプロダクションズ、ジャストアイス、パブリックエネミーといった西部ハードコア・ヒップホップの流れでは、あまり見られない手法であった。東海岸のラップでは、毒舌表現や性的表現は、格好や巧みな言葉回しほど重視されず、多くの場合、不快であり不適切であると見なされた。但し、東海岸と同様の政治的なラップを行ったアイスキューブなどラッパーもおり、彼は90年代初めに賞賛を集め、商業的な成功も収めた2枚のアルバムを世に送り出した。2パックも方向性がギャングスタ・ラップに向かう以前、90年代初頭には、様々な政治的/社会的問題についてラップしている。当時、ヒップホップで育ってきた者たちは、この新たな西海岸からの波を重要視した。なぜならば、ラップの複雑な流れよりも、衝撃や毒舌表現にはまったのである。そのため、MTVの「Yo!MTV Raps」やBET「Rap City」などの番組では、急激に西海岸の音楽ビデオが放映されるようになっていった。
南部の開拓 [編集]
南部では、重低音が特徴のマイアミベースが、エレクトロホップや他のヒップホップに影響を受けたダンス音楽などから発展してきていた。ルーサー・キャンベルや彼のグループである2ライブクルーなどが代表的な存在である。1989年の「ナスティ・アズ・ゼイ・ワナビー」の発売以来、2ライブクルーは名うての存在にのし上がった。2ライブクルーを筆頭とするマイアミベースは南部ラップの1形態にすぎず、そのクラブ志向の強い音楽性は、ヒップホップ通の人々からは、それほど重視されることはなかった。南部ヒップホップは、「穴振り」音楽と呼ばれることもあった。しかしながら、この時期にゲトー・ボーイズなどが頭角をあらわしてきたことで、西海岸のヒップホップと同じように、南部ヒップホップも都市部の生活ぶりを明らかにしていくのである。