大奥

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大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の子女や正室奥女中(御殿女中)たちの居所。あるいは、江戸時代大大名家の奥向の別称でもある[1]。本稿では、江戸城大奥について述べる。

千代田之大奥 歌合 橋本(楊洲)周延画

沿革[編集]

初代将軍・徳川家康の時代から、江戸城に「大奥」と呼ばれる区画は存在していた。しかし当時は、政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。この境界が江戸城に現れたのは、元和4年(1618年)に2代将軍・徳川秀忠が「壁書」を制定した時である。以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分された。3代将軍徳川家光乳母春日局によって組織的な整備がなされていき、こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。

慶応4年(1868年)4月に江戸城の明け渡しが決定し、大奥は終焉を迎える。同年4月9日(旧暦)、14代将軍徳川家茂正室・静観院宮と同生母・実成院清水邸へ、翌10日には、13代将軍徳川家定正室・天璋院と同生母本寿院一橋邸へ引き移った。4月11日、海江田信義木梨精一郎水野彦三郎渡辺清の4人が新政府代表として大手門より入城し、江戸城の引渡しを終了させた。

構造[編集]

江戸城内曲輪は、本城(本丸二の丸三の丸)、西丸、紅葉山、吹上御庭、西丸下で構成されていた。この内、大奥が置かれたのは本丸、二丸、西丸の3つの郭である。本丸は将軍夫妻、二丸は将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が住まいとしていた。ただし本丸の非常時には、二丸や西丸が代わりとして機能した。[2]

図面は江戸城 大奥御殿向惣絵図[3]がある。


本丸御殿は、先述したように表、中奥、大奥に区分されている。この内、表と中奥は一続きの御殿であった。しかし大奥は表・中奥御殿とは切り離されており、銅塀で仕切られていた。中奥と大奥を繋ぐ唯一の廊下が、御鈴廊下である。将軍が大奥へ出入りする際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていたことからこの名が付いた。後に火事等の緊急事態を想定して作られたのが「下御鈴廊下」であるとされている。

大奥は大別して広敷向・長局向・御殿向に区画される。

広敷向
広敷は大奥の玄関口である。広敷には男性の広敷役人(広敷用人)がいたため、御殿との間の錠口、長局との間の七ツ口によって仕切られていた。七ツ口は、女中たちの部屋方や商人たちが用いていたが、七ツ時(午後4時)に閉められたためにこの名が付いた。
御殿向
将軍の寝所である御小座敷、御台所居所、「千鳥之間」、「呉服之間」といった大奥女中詰所などがあった。御台所の居所は、時代によって「松御殿」、「新御殿」などと呼ばれていた。歴代将軍の位牌がある「御仏間」や「御対面所」も、御殿にあった。
長局向
奥女中たちの2階建ての居所である。一之側から四之側までの4棟に加え、東長局、御半下部屋があり、格式に応じて一之側が上臈御年寄御年寄、二之側、三之側がその他の御目見以上の女中、四之側がお目見え以下の女中たちに配分された。

大奥女性の身分と立場[編集]

御台所[編集]

大奥一の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。御台所は、公家・宮家・天皇家から迎えるのが慣例となっていた。11代将軍家斉の御台所・広大院と13代将軍家定の御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身であったが、近衛家養女となった上で輿入れしたため、形式的には例外はない。

江戸時代初期においては大抵の場合、御台所は形式上の主宰者であった。例えば、3代家光夫人・鷹司孝子は夫との仲が極めて険悪で、正式に「御台所」と称することのないまま、結婚後程なくしてその居所を本丸から中丸に移され、大奥の実権はもっぱら春日局らが握っていた。その立場に変化が現れたのは、6代将軍徳川家宣の時代で、家宣が、御台所・天英院の父・近衛基煕を儀礼指南役として重用し敬意を表したことで、幕府役人はもちろん、大奥の儀礼も整えられた。それによって御台所の立場は不動のものとなったが、御台所不在の期間が合わせて約100年ほどあり、その間は先代将軍の正室や将軍子女らが大奥を主宰した。

生前に官位を賜ったのは

の6人だけで、世嗣となる子供を産んだのは2代秀忠正室のお江与の方だけである。御台所は自らの夫が亡くなった場合は落飾して本丸から退き、西丸で余生を過ごした[4]

側室[編集]

将軍の側室は基本的に将軍付の御中臈から選ばれる。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合って寝間の準備が行なわれた。

寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」(おはらさま)、男子を出産すれば「お部屋様」(おへやさま)となり、ようやく正式な側室となる[5]。さらに、我が子が世嗣に選ばれ将軍職に就くと将軍生母となり、時代によっては御台所をはるかに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院はその最たる例で、従一位に叙せられている。[6]

しかし側室や将軍生母の力は、時代が下るとともに低下していった。江戸時代後期になると、側室はたとえ我が子が将軍世子であっても自身の地位は一介の女中のそれと同等にとどまり、我が子が将軍になって初めてお上(おかみ、将軍家の一員)として遇された。その他の側室は二丸御殿や桜田御用屋敷で静かに余生を過ごした。

徳川将軍家側室一覧
将軍名 側室名
初代 家康 西郷局 下山殿 養珠院 長勝院 良雲院 茶阿局 清雲院 英勝院 西郡局 雲光院 正栄院 相応院 泰栄院 養儼院 蓮華院 法光院 三条氏 他 
02代 秀忠 浄光院[7]
03代 家光 宝樹院 桂昌院 順性院 自証院 永光院 芳心院 定光院 おまさ
04代 家綱 養春院 円明院
05代 綱吉 瑞春院 寿光院 清心院
06代 家宣 月光院 法心院 蓮浄院 本光院
07代 家継
08代 吉宗 深徳院 本徳院 深心院 覚樹院
09代 家重 至心院 安祥院
10代 家治 蓮光院 養蓮院
11代 家斉 香琳院 妙操院 勢真院 真性院 芳心院 速成院 清昇院 皆春院 本性院 専行院 慧明院 青蓮院 超操院 智照院 本輪院 宝池院 
12代 家慶 本寿院 清涼院 妙華院 お波奈 殊妙院 見光院 妙音院 秋月院
13代 家定 豊倹院
14代 家茂 不明
15代 慶喜 新村信 中根幸 一色須賀 お芳

出生の子が将軍になった人物は名前を太字で、孫が将軍になった人物は斜字で表示

大奥女中[編集]

大奥に住む女性たちの大部分を占めていたのが女中たちであった。ちなみに幕府から給金を支給されていた女中たちすべてを「大奥女中」と言い、実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる。

女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別されているが、役職名はほとんど同じである。ただし、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。また、特定の主人を持たない女中たちを「詰」と呼んだ。

序列や役職名は時代によって異なるが、江戸時代後期の奥女中の役職は以下の通りであった。

大奥女中一覧
階級 読み方 主な役職
上臈御年寄 じょうろうおとしより 将軍や御台所の御用や相談役を担当。御台所に同伴して京から来た公家出身の女性が多い(上臈御年寄を参照)。
小上臈 こじょうろう 上臈御年寄の見習い役。
御年寄 おとしより 大奥の万事を取り仕切る最高権力者。「表」の老中に相当する(御年寄を参照)。
御客応答 おきゃくあしらい 諸大名からの女使が大奥を来訪した際の接待役を担当する。
中年寄 ちゅうどしより 御年寄の指図に従う代理役。献立のチェックから毒見役までをこなした。
中臈 ちゅうろう 将軍・御台所の身辺世話役。家柄や器量の良い女性が選ばれこの中から側室が選ばれていた(御中臈を参照)。
御小姓 おこしょう 御台所の小間使。7歳~16歳くらいの少女の場合が多かった。
御錠口 おじょうぐち 大奥と中奥の出入り口である錠口の管理を担当した。
表使 おもてづかい 外公役。御年寄の指図で物資調達を広敷役人に要請していた。
御右筆 ごゆうひつ 日記から書状に至る一切の公文書管理を担当。諸大名からの献上品の検査役も担っていた。
御次 おつぎ 御膳や様々な道具の運搬から対面所掃除などを担当。
切手書 きってがき 七ツ口を通ってやってくる外部からの来訪者の持つ「御切手」という通行手形をあらためる役職。
呉服之間 ごふくのま 将軍、御台所の衣装仕立て係。
御坊主 おぼうず 将軍の雑用係。剃髪姿で羽織袴を着用している。中高年の女性が就く事が多く、場合によっては中奥へ出入りすることもあった。
御広座敷 おひろざしき 表使の下働き。大奥を来訪した女使たちの御膳の世話をした。
御三之間 おさんのま 御三之間以上の居間の掃除一切をこなす。
御仲居 おなかい 御膳所にて料理一切の煮炊きを担当。
火之番 ひのばん 昼夜を問わず大奥内の火の元を見回る。武芸に長けており警備員的な役割も担っていた。
御茶之間 おちゃのま 御台所の茶湯を出す役。
御使番 おつかいばん 広敷・御殿間の御錠口の開閉を管理する。
御半下(御末) おはした(おすえ) 大奥の雑用一切を受け持つ下女。

奥女中のうち、上臈御年寄から御坊主までがお目見え以上と言い、将軍と御台所への目通りを許されていた上級の女中たちである。女中たちのお禄(手当)は主に切米、合力金、扶持(月々の食料)、湯之木(風呂用の薪)、五菜銀(味噌や塩を買うための銀)、油などの現物が多かった。また老女(上臈御年寄、小上臈、御年寄の3役を総称して「老女」と言う。)になると町屋敷が与えられることもあった。

奥女中には通常旗本御家人などの武家出の女性が雇用された。しかしそれも建前で、時代が下るにつれて裕福な町人出の女性が「行儀見習い」目的に奉公に上がることが多くなる。町人の場合、初めの頃こそは親戚や知り合いの先輩女中の口利きを頼ったり、旗本や御家人の家へいったん養女入りしたりという、迂遠な根回しや手続きを経て大奥入りしたが、後代になって武士と町人の経済力が完全に逆転すると、今度は旗本や御家人の方から持参金付き養女縁組みの話を持ちかけてくることも珍しくなくなっていった。

「大奥総取締」[編集]

大奥を舞台にした小説・舞台・映画・ドラマなどで「大奥総取締」が登場する場合があるが、「大奥総取締」という職名は大奥には存在しなかった[8]。実際には、大奥の万事差配は老女が合議によって担っていた。

しかし時代によっては、大奥においても一人のいわば「総取締」とも言える役割が存在することもあった。大奥の制度が完全に確立されてはいなかった3代将軍家光の時代、乳母である春日局が「将軍様御局」という立場で大奥総取締の任に当たった。また、5代将軍綱吉時代の将軍付上臈御年寄・右衛門佐局は、綱吉から「大奥総支配」を命じられたとされる。この2人はどちらも老女筆頭であったが、大奥総取締を担う女性が必ずしも老女筆頭であったわけではない。12代将軍家慶時代の将軍付上臈御年寄・姉小路は、大奥で権勢をふるった女性として知られているが筆頭ではなかったと考えられている[9]

このように、時代によっては将軍の個人的な意向が大奥の重要人事に絡んだこともあった。幕政の主導権を将軍が握った際、将軍を補佐する側用人御側御用取次が力を持ったのと同様である。とはいえ、大奥は幕政において贈答儀礼などの重要な側面の一翼を担っていたため、将軍付老女は幕府のために働いていたという側面が否めず、将軍個人の意向で人事が動くことはまれであったと言える[10]

有名な大奥の女性[編集]

明治の大奥もの[編集]

解雇された女中たちは面白おかしく大奥内情を暴露した。ただし、これらの資料は事実と虚構が入り混じっている。

  • 『旧事諮問録』 明治24年(1881年) - 大奥の中臈・箕浦はな子の口述
  • 『千代田之大奥』上下 明治25年(1882年
  • 『大奥の女中』上下 明治27年(1884年
  • 『お局生活』明治の女官 明治40年(1907年
  • 『御殿生活』6篇、桜井秀 明治44年(1911年) - 旗本の回想
  • 『御殿女中』 三田村鳶魚、昭和5年(1930年) - 元八王子千人同心の家に生まれた

関連文献[編集]

関連作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 東海道二川宿の「御休泊記録」には、薩摩藩の奥女中を「薩州奥女中」や「薩州大奥女中」などと記している。一説によれば、中奥あるいはそれに類する空間が存在する場合、それと区分するために「大奥」という名称が用いられたと唱えられている。
  2. ^ 文久3年(1863年)の火災で本丸は焼失して再建されなかったため、明治維新まで西丸が本丸の代わりとして用いられた。大奥も西丸に増築されたという。
  3. ^ 江戸城 大奥御殿向惣絵図(色彩図):妻木文庫 日本建築学会 日本建築学会図書館蔵
  4. ^ 天璋院は、家茂将軍就任後も本丸御殿に留まり、和宮降嫁後もしばらくは本丸御殿に住んでいたと考えられる。
  5. ^ これらの呼称は時代によって異なる。
  6. ^ 文書における桂昌院の名前は御台所・鷹司信子よりも先に銘記されており、官位面でも信子より上であった。
  7. ^ 自身の生前には正式な側室として認められていない。
  8. ^ もっとも、江戸城以外の奥向には取締という役名が存在した可能性がある。畑尚子著「徳川政権下の大奥と奥女中」では、水野家老女・千代山が万延元年に奥向取締になったことが述べられている
  9. ^ 姉小路については、将軍家慶とのただならぬ関係を主張する説も存在している。
  10. ^ このことは、大奥老女の人事異動が将軍の代替わりにほとんど影響されていないことからも明らかである。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]