九州王朝説

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九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ)がその首都であったとする説である。

本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論である。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。

邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から、戦後では長沼賢海らがいるが、古田により7世紀まで、敷衍(ふえん)され、体系的なものに整備された。

ただし現在、本説は、井上光貞榎一雄山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書[1]においては記載されずに無視されている説であることに留意する必要がある[2]後述)。

注:下記に記された内容は、古田史学会で発表された論文や九州王朝説支持者の著作の内容などを含むため、古田説とは異なる。また互いに矛盾する箇所もある[3]

九州周辺の地形図

目次

概要 [編集]

これは古田説の概要ではありません。学者・在野を問わず、各論者の説を執筆者が纏めたものです。
  • 紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、(ゐ)、大倭(たゐ)、(たゐ)と呼ばれていた[4]
  • 1世紀には倭国が北部九州を中心とした地域に成立し、倭国王は博多湾近くに首都をおいてに朝貢し「漢委奴國王」を受領していた。
  • 「邪馬壹国」は福岡平野の奴国(当時としては大都市の2万戸)を中心としていた。[5]
  • 卑彌呼(ひみか)は、筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)は、風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
  • 日本神話神武東征にある畿内ヤマト王権は、九州倭国内の豪族の一派が東征してこれが成立した(天孫降臨の地である筑紫の日向とは福岡市糸島市との間にある日向峠付近であり、高千穂とは糸島市の高祖山のことである)。
  • 倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
  • 筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王(武烈天皇)であり、継体は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である。[6]
  • 九州倭国の継体朝において日本で初めて独自の元号九州年号)が建てられた。
  • 王朝との対等外交を行った「王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩彌」[7]は、九州倭国の倭国王であった。
  • 白村江の戦い」では、総司令官である九州倭国の天皇「筑紫君薩夜麻(さちやま・倭薩)」が唐軍の捕虜になり、九州倭国側の敗北が決定した、これにより、日本国内での九州倭国の権威は失墜し、衰退に向かった。
  • 日本書紀』『古事記』の殆どは九州倭国の史書からの盗用であり、第10代崇神天皇-第39代弘文天皇は九州倭国の系譜である。欠史八代に第1代神武天皇と第40代天武天皇を含めた10代はヤマト日本の系譜である。通説飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト日本はまだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかった。
  • 太宰府は倭京元年(618年)から九州倭国の滅亡まで倭京と呼ばれる九州倭国の都であり、日本最古の風水四神相応を考慮した計画都市であった。
  • 壬申の乱」は九州を舞台としており、吉野とは佐賀県吉野ヶ里遺跡の吉野であり、倭京とは飛鳥宮ではなく大宰府で、大津宮とは近江ではなく肥後の大津のことである。
  • 「壬申の乱」とは乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の高市皇子のこと)と薩夜麻が不在中に政務を代行していた中宮天皇(十市皇女)-大友皇子(弘文天皇)との対立に畿内大和の豪族大海人皇子(天武)が介入し日本列島の覇権を得た事件で、勝敗を決したとされる美濃からの援軍とはヤマト日本軍である。
  • 「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借りる為に吉野の盟約で大海人皇子(天武)の息子(草壁皇子)を次期天皇に指名し、大友皇子を破ることができたが、戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより天皇(高市皇子=薩夜麻)の基盤も弱体化した。天皇(高市皇子=薩夜麻)は戦乱とそれに続く天災で荒廃した九州からヤマトへ移り藤原京を建設した。
  • 大化の改新乙巳の変)」は草壁皇子が天皇に即位せずに逝去した為に草壁皇子の息子の軽皇子(文武天皇)と中臣鎌足藤原不比等と同一人物)が九州年号の大和(大化)元年(695年)に藤原京で九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)を暗殺した、下克上クーデターである。
  • 大化2年(696年)軽皇子(文武天皇)は、自分が九州倭国の皇女である鸕野讚良皇女(持統天皇)の孫であり、次期天皇の予定であった草壁皇子の子であることや宇佐八幡宮の託宣等を根拠として即位した。
  • 神亀6年(729年)藤原氏は、九州倭国の嫡流である長屋親王を長屋王の変で抹殺。
  • それまで八代市にあった伊勢神宮が第3回式年遷宮(729年-732年)により現在の伊勢市に移された。
  • 天平9年(737年藤原四兄弟天然痘の流行によって全滅、九州倭国の皇統である鈴鹿王橘諸兄が台頭し、失脚した藤原広嗣は、天平12年(740年)九州倭国の旧都である大宰府において反乱を起こし討伐された。
  • 天平勝宝9年(757年孝謙天皇藤原仲麻呂を利用して、橘諸兄の子橘奈良麻呂等443人を粛清。
  • 天平宝字8年(764年)孝謙上皇・道鏡と対立した藤原仲麻呂が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗。
  • 神護景雲3年(769年)、称徳天皇(孝謙天皇)は宇佐八幡宮の託宣により道鏡に皇位を継がせようとしたが、吉備真備の妨害で失敗。
  • 神護景雲4年(770年)称徳天皇崩御(暗殺?)により天武朝が断絶、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。
  • 天応元年(781年)天武天皇の曾孫の氷上川継が謀反を計画し、事前に発覚して失敗。

根拠 [編集]

九州 [編集]

九州」の呼称は9国(豊前豊後筑前筑後肥前肥後日向大隅薩摩)からなっていたことに由来すると俗に言われるが、「九州」という用語は本来古代では天子の直轄統治領域を意味するもので、9つの国の意味ではなく天下のことである(代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣から九州=天下(参考:九州 (中国)))。また新羅の九州の実例もある。

山島(九州倭国の継続性) [編集]

古代において津軽海峡蝦夷国(『新唐書』における、「都加留(つがる)」、「麁蝦夷(あらえみし)」、「熟蝦夷(にきえみし)」)にあり、倭人および漢人にとって本州が島であるか半島であるかは長い間不明であった。津軽海峡が現われる正史は、脱脱(トクト)の著わした『宋史』からで、紀元前から島と認識されていたのは九州四国だけである。漢代から隋代までの正史によれば、倭・は「山島」と明記されているので、倭・とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない[8]。(参考:Harris, 1748 本州が大陸と地続きの18世紀の地図)

  • 後漢書』「卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人」
    • 「倭在韓東南大 海中依山島為居 凡百餘國」
  • 三国志『魏書』巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」
    • 「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
  • 晋書』四夷傳(東夷条)
    • 「倭人在帶方東南大海中 依山島爲國」
  • 隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 國」[9]
    • 「倭國在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居」

金印 [編集]

漢委奴国王印』印影

以下のことから博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の印綬であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があった。つまり博多湾の近くに倭国の首都があったと考えられる。

  • 皇帝冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い[10](金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない。卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられる。
  • 旧唐書』倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也」等との記事がある(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだという意味)。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものであり[11]、倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王[12]と認められた者の住む国である [13]
  • 「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる[14]。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。
  • 現在でも韓国・朝鮮では日本を「倭奴(ウェノム)」と呼ぶことがあることがある[15]
  • 奴国王」の存在を記した文献資料は一つも無い。『後漢書』に記載されているのは「倭奴國」と「倭國王」だけである。3世紀の『魏志倭人伝』でも王が居る国は「女王国(邪馬壹国,伊都国)」」および敵国の「狗奴国」だけである。[16]

邪馬壹国 [編集]

  • 邪馬壹国邪馬臺国)は奴国を中心国邑とした26か国の国邑の連合体であり九州の北半分ほどの地域にあった、倭王は伊都国に居して倭の国々を支配していた。
  • 『魏志倭人伝』は正確を期するため同じ行程を距離と所要日数とで繰り返し併記しているのである。この解釈の方式であれば、従来は矛盾しているとされていた距離や方角、その他の問題も完璧に説明できる。[17]。(この里は東夷で使われた短里であり1里≒76mであるとする)[18]
  • 目的地まで(帯方郡郡治-奴国)を各距離(里数)と各所要時間(20日+10日+1日)と総距離(12,000里)とで3重に、旁國(奴国-奴国)を通過する国名と総距離(5,000里)とで2重に、(女王国-裸国 黒歯国)でも同じ行程を距離(4,000里)と時間(12日)とで2重に併記している。

参考→魏志倭人伝イメージ図

概要 [編集]

  • 伊都国(福岡県糸島市)が魏使の目的地であり、卑弥呼・壹與など代々の倭王は『魏志倭人伝[19]に「世有王 皆統屬女王國」「(伊都国には魏の)世に王(卑弥呼、壹與)がいて、(倭の国々は)皆、女王国に統屬していた」[20]と記された伊都国[21]に居して[22]倭の国々を支配していた。[23]
  • 伊都国の説明で「世有王」と伊都国が王都であると解説し、王都近郊の奴国、不弥国まで紹介し終え距離(里数)での説明は終了。[24]「南至投馬國水行二十日」から行程の説明が時間(日数)に替わり、この文からは再度、帯方郡の郡治からの行程を時間で説明し直しているのである。[25]
同じ行程(帯方郡郡治-奴国)を各距離(里数)と各所要時間(日数)と総距離(12,000里)とで3重に併記している。
郡治-狗邪韓国-対馬国-一支国-末盧国-伊都国-奴国
七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里[26]
= 帯方郡-投馬国-邪馬壹国
水行二十日 + 水行十日 + 陸行一月(陸行一日)
= 帯方郡-萬二千餘里-女王國
  • 邪馬壹国は北部九州一帯にあった国邑の連合体であり、構成国は、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国斯馬国-烏奴国の計26か国。[27]
  • 「女王之所都」「女王の都のする所」[28]と記された邪馬壹国の中で、跳びぬけて大きい人口を持つ奴国が女王国の中心国邑であり、行程や地理を説明する場合には基点として使われているが、女王国の都は前述した様に伊都国である。
  • 投馬国は朝鮮半島南部の倭人の国邑が集まった連合体、投馬国の中心国邑が狗邪韓国。[29]
  • 狗奴国は、南部九州一帯。[30]
  • 「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」「倭の地について聞き取り調査すると、海中の島の上に孤立して在り、途切れたり連なったりしているとのことだ。一周は5,000里と推察される。」[31]
ここでも同じ行程(奴国-奴国)を通過する国名と総距離(5,000里)とで2重に併記しているのである。
「周旋可五千餘里」とは北部九州一周のことで、「奴国」からはじまり「奴国」に戻る道程。まず「奴国」から「不弥国」に向かい、その後は次々に「斯馬国」「已百支国」「伊邪国」「都支国」「彌奴国」「好古都国」「不呼国」「姐奴国」「對蘇国」「蘇奴国」「呼邑国」「華奴蘇奴国」「鬼国」「爲吾国」「鬼奴国」「邪馬国」「躬臣国」「巴利国」「支惟国」「烏奴国」「奴国」と21か国を通るのである。
「周旋可五千餘里」の5000里は推定値であり、[32]実測した末盧国-伊都国の500里、伊都国-奴国の100里、奴国-不弥国の100里を用いて計算で推定したものである。[33]
  • (女王国-裸国 黒歯国)でも同じ行程を距離(4,000里)と時間(12日)とで2重に併記している。[34]
女王國-裸国・黒齒国=四千餘里=船行一年可(船行十二日可)
侏儒国は、永納山城を中心とする愛媛県伊予国)であろう。
裸国は、鬼城山城(鬼ノ城大迴小迴山城を中心とする岡山県吉備国)や播磨城山城を中心とする兵庫県南西部(播磨国)であろう。[35]
  • 卑弥呼の国璽である「親魏倭王」印の前の国璽である「漢委奴國王」印が博多湾岸から出土しているので卑弥呼の都は博多湾の近くにあった(漢が滅亡したことにより漢から冊封を受けていることを示す「漢委奴國王」が効力を失った為、卑弥呼は急いで新たに魏から「親魏倭王」印を授けた。これにより漢の「漢委奴國王」印は不要になり廃棄されたと考えられる、「漢委奴國王」印が出土した場所が卑弥呼の墓である可能性が高い)。

解説 [編集]

  • 『魏志倭人伝』の記述から魏使は伊都国まで来ていることは確実で、伊都国について詳しく紹介し官や副の名称も記している。伊都国には「世有王」と記されており王が居た。官、副の名称を記しながら王の名称を記さないはずはなく、別に記された倭の女王、卑弥呼・壹與が伊都国に居た王である。
  • 「到」=「至」+「人」であり、人が至るの意味が含まれている。狗邪韓国と伊都国だけに「到」の文字が使われそれ以外の国は「至」であるので、郡使の目的地が投馬国の狗邪韓国と邪馬壹国の伊都国であることがわかる[36]
  • 一見して魏志倭人伝には多くの誤植が存在する。壱岐国を減筆しても一支国にしかならず「一大國」は明らか誤植である[37]。また「東冶」を「東治」[38]「真朱(水銀鉛丹各五十斤」と記すべきところを「真珠 鉛丹各五十斤」とするなど明らかな誤植もある。[39]道路や橋の整備されていなかった古代において最も便利な交通手段は船であった。また船旅は盗賊等に襲われる心配も少なく安全である。古代の旅においては目的地の直近の港まで船で行きそこから陸路を採ったと考えられる。古代から近代まで徒歩の旅において1日の行程の目安は約30kmである[40]。日本には海岸から1か月 (900km) も掛かる場所は無いので白鳥庫吉の言うように「陸行一月」は「陸行一日」の誤植であると考えられる。[41]日本国内を端から端まで船で旅しても1年は掛らない。「船行一年可」も誤植で元の資料では「船行十二日可」であったのが「船行十二月可」と見間違がわれ、「船行一年可」と書き改められた可能性が高い[42]
  • 隋書伝等によると邪馬壹国は邪靡堆と標記してあり、国ではなく地域である。また邪馬壹国と投馬国の人口は国邑(都市国家)としては多過ぎる。邪馬壹国の人口は7万戸、1戸5人としても35万人にもなる。『三国志魏書』によると辰韓 ・弁辰は4-5万戸、馬韓は10万戸である。奈良時代の日本の人口でさえ500万人弱といわれている。奈良時代と農業生産技術に大差がない3世紀の人口は、奈良時代より若干少ない程度であろう。日本の約1割近くの人口を擁した邪馬壹国の領域は、最低でも九州の北半分程度と考えられる。[43]
  • 帯方郡から奴国までに記された行程を合計すると、帯方郡から女王國までの距離と同じ12000里となり、奴国は女王国の中にあったことになる。奴国は2万戸と記され倭の中心として十分な人口があった[44]。また福岡市博多区那珂遺跡群(奴国の遺跡)では3世紀頃の「都市計画」によって造られたとみられる国内最古の「道路(幅7メートル・南北へ1.5キロ以上の直線)」跡が見つかっている。地理的にも7世紀に倭の首都であった大宰府にも極めて近い(倭国王が1世紀に漢から受領した「漢委奴國王」の金印発見場所とされる志賀島にも近い[45])。この計画都市(奴国)こそ3世紀の倭の中心であったと考えられる。
  • 「出真珠 青玉」とは天草等九州産の真珠 [46]と九州産のクロムを含む緑色の白雲母岩で、[47]「山有丹」とは阿蘇黄土(リモナイト)を原料とするベンガラ。「以朱丹塗其身體」の朱丹も身体に塗る物なので水銀朱ではなく人体に無害なベンガラである。
  • 「方可四百餘里」「方可三百里」[48]について島の面積を示しているとする意見もあるが、面積を求めるには島を一周し全体の形状を把握する必要がある。郡使は旅の途中に船で島の横を通過しただけであり、島の片面しか見ていない。郡使が島の面積を求めることは不可能であり、「方可四百餘里」「方可三百里」は郡使が通った航路から導き出された島の外寸である。また対馬(北島と南島は陸続きであった)は壱岐より遥かに広く、面積が四百里四方と三百里四方では比率が全く合わない。「方可四百餘里」を対馬南島の外寸とすると「方可三百里」の壱岐と合致する。航路から導き出された島の外寸を記しているのだから、これを行程距離に含めるのは自然なことである。[49]
  • 古代山城神籠石式山城」は、戦争の際に都市国邑)の人々が避難する「逃げ込み城」である。古代山城があったということはその近くに都市(国邑)があったということである。古代において国家の多くは都市国家である。つまり、古代山城があるということはその近くに都市(国邑)があり、その都市(国邑)を中心とした国家があったということである。古代山城の分布(=古代国家の分布)と想定される「邪馬壹國」「倭種」「侏儒國」「黒齒國」「裸國」の位置は実に良く一致する。[50]

倭の五王は九州の大王 [編集]

以下のことから、「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王であったと考えられる。

  • 畿内地方には多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら[51]同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないので、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったとみられる。また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではない。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが[52]根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲吉備等にも独立した勢力が存在したことを示している。
  • 都城の出現が国家確立の要件の一つであるが、古代博多(奴国)では、日本最古の計画都市の存在が確認されている。
  • 『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???、となり、比定地を特定することができない。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」=畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能である[53][54]

九州倭国の大陸との交流 [編集]

以下のことから、漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったと考えられる。

  • 広開土王碑、『三国史記』等の倭・倭人関連の朝鮮文献、『日本書紀』によれば、倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している[51]。ヤマト王権にはこれらの軍事活動に対応する記録は存在せず、ヤマト王権の王が畿内を動いた形跡もない。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない。政治、祭事、軍事が未分化の時代、必然的に王は司令部のある北部九州に常駐することとなる。つまりヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる。
  • 漢-唐の正史によると、漢代から倭とは代々使者を送ったり迎えたりしているのに、『日本書紀』『古事記』には遣唐使以前に使節を送った記録も、迎えた記録も無い。また、倭は長い交流を通じて隋・唐の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、ヤマト日本は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使したとされる(第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「遣唐使」となっている)。更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内ヤマトに唐の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前はヤマト日本には隋・唐の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、倭とヤマト日本とは明らかに別物である。遣隋使・遣唐使がヤマト日本と隋・唐の初の直接交流である。[55]
  • 倭は朝鮮半島で数世紀に渡って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト日本の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかなく、航海技術が極めて稚拙である。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為である。

磐井の乱 [編集]

継体は地方豪族 [編集]

  • 『日本書紀』継体記末尾に『百済本記』(百済三書の一つ、三国史記の『百済本紀』とは異なる逸失書)から531年に「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕」という記述が引用されている。しかし、継体の子の安閑宣化は、継体の死後も生きていたので、この記述は継体のことではない。
  • 継体21年(547年)、天皇は「社稷の存亡ここにあり」という詔を発しているが、一地方豪族の討伐としては大げさである。
  • 継体が物部麁鹿火に磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言っている。磐井を討伐しないと継体は日本の支配権を得られなかったということであり、継体には政権は無かったということである。

磐井は九州倭国の天皇 [編集]

  • 『日本書紀』に『百済本紀』から〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。「磐井の乱」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していた。[56]
  • 福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは九州に律令があったことを示すもので、九州に王朝があった証拠である。
  • 古代わが国では「曲水の宴」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。ヤマト日本で「曲水の宴」が開催されはたのは8世紀以降であるが、福岡県久留米市には、8世紀以前の「曲水の宴」の遺構があり、九州に王権があったことを窺わせる。
  • 福岡県久留米市の高良山にある高良大社は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせる。
    • 高良大社が三種の神器、「干珠・満珠」の宝珠や七支刀を所蔵している。
    • 高良神社の神職は丹波物部・安曇部・草壁・百済の五姓である。
    • 中世末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「」(つら)などと言った称号を持った者がいる[57]
  • 「筑紫の君・葛子は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったということは、葛子が朝廷の人物であったということである。

磐井の乱は九州内の反乱・王朝交代 [編集]

継体は南九州の豪族

  • 乱が起きたのが、継体が都に入った直後であり、継体軍の九州上陸等の記事が無い。
  • 日本書紀に「継体22年(528年)11月筑紫の御井郡で戦い、磐井は斬られた。筑紫の君・葛子は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、継体軍が北から攻めてきて御井郡で戦闘が起きたのなら、糟屋は既に継体軍に制圧されているはずであり、葛子が糟屋を献上しても意味は無い。つまり継体軍は南(肥後方面)から攻めてきたと考えられる。また「筑後国風土記」によると磐井は、単身豊前に逃げたことになっているが、この場合も継体が北から攻めてきたとは考え辛い。
  • 継体の出身地の一つとされる淡海は、八代市付近と考えられる(参考→#伊勢神宮
  • 近江毛野臣の渡海を阻止した時、磐井は、筑紫火の国豊の国の勢力を集めたとされている。鹿児島や宮崎等は入っておらず、南九州は磐井の勢力ではなかったと考えられる。
  • 磐井は継体が派遣した近江毛野に対して、「昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき」(かつて同じ飯を食った仲間)と言っている。また、近江は南九州と考えられる(→#伊勢神宮)ので、近江毛野も南九州の豪族であったと考えられる。
  • 福井県滋賀県等は人口も少なく天皇を輩出するような強力な勢力があったとは考えられないが、継体が南九州の豪族だとするとその配下には、熊襲隼人等の軍団を擁する勢力があったと考えられる。
  • この時期巨大な古墳の造営が続いたヤマト日本にはまだ九州倭国に対抗する力は無かったと考えられる。

継体は新王朝の祖

  • 継体とは「体制を引継ぎ維持する」を意味する諡号である。[58]
  • 「二中歴」によれば、九州年号はこの時期「継体」から始まっている。続日本紀によれば、漢風諡号「継体」は天平宝字6-8年(764)に天智天皇の玄孫、淡海三船が撰進したとあるが、ヤマト日本が滅亡させた九州倭国が制定した『九州年号にある「継体」』を淡海三船が参考にした可能性がある。
  • 磐井の墓が破壊されたままになっている。磐井が敗北し王朝が交代したためと考えられる。

磐井とは武烈天皇のことである [編集]

「磐井の乱」は継体が、武烈朝を武力討伐した記事と考えられる。

  • 継体は、武烈朝を倒して即位したと考えられるが、武力討伐の記事が無い。
  • 上記のように磐井が天皇であったとするなら、磐井も武烈天皇も継体に倒された天皇ということになる。
  • 「日本書紀」には、「大化の改新」のように万世一系の思想に都合の悪い記事を時代を変えて2度記し、事実を隠匿・改ざんした箇所がある。

聖徳太子 [編集]

聖徳太子?/厩戸王子(菊池容斎・画、明治時代)

以下のことから厩戸王子と「日出處天子」は別人であり、「日出處天子」は九州倭国の人物[59]で、冠位十二階、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子はヤマト日本の人物で、これといった実績はないと考えられる。

  • 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 國」によれば、国王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、国には阿蘇山があると明記されているので、国は九州のことである[60]
  • 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思北孤」「倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤。」は男王であり「王妻號彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」「王の妻は彌(キミ)と号す。後宮に女が6-700人いる。太子の名を利歌彌多弗利となす。」とあるので、国王自身は太子でも女帝推古天皇)でもない。また、当時の国の王が女性なら、儒教の影響の強い隋では大変珍しいので、隋の使者は見逃さずに必ず記録に留めたと考えられる[61]
  • 古事記には 用明天皇記において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1か所あるだけで業績に関する記載は無い。
  • 聖徳太子が師事したという伝説がある日羅は、火(肥後国)葦北(現在の葦北郡八代市国造刑部靭部阿利斯登の子であり、大分県大野川流域や宮崎県などに多くの密教系寺院を開基し、 磨崖仏を建立したとされている。

評を制定したのは九州倭国 [編集]

「評」を制定していたのはヤマト朝廷に先行した九州倭国である。九州年号では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わりヤマト日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えられる。

  • 『日本書紀』は「大化の改新」の時に「」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定(701年)以降であり、それ以前は「」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている[62]
  • 九州倭国の都だったとされる太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり都督府跡のことで都督-評督制の名残と考えられる。[63]
  • 斉明7年(661年)6月・天智7年(688年)に逝去記事がある伊勢王の次の記事は34年前の事であり、640年代に九州倭国は制度を樹立改革していたと考えられる。
    • 朱鳥元年(686年)9月の天武天皇の葬儀 → 白雉3年(652年)の孝徳天皇の葬儀[64]
    • 天武12年(683年)12月天下を巡行し、諸国の境界を分限 → 649年
    • 天武13年(684年)10月諸国の境界を定めた → 650年
    • 天武14年(685年)10月東国へ向った → 651年

壬申の乱 [編集]

壬申の乱の舞台は、九州 [編集]

  • この記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だ「京」と呼べるような都市は無く[65]「倭京」とは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。
  • この乱では、大分恵尺大分稚臣等の九州の豪族が活躍している。多臣品治多氏などの本貫肥後国である。また、大海人皇子は九州の豪族である宗像氏の娘(胸形尼子娘)を妃にしていた。
  • 大津京は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津(大津町)にあったと考えられる。
    • 近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近は条坊制の跡らしき東西と南北に直交する道等が残る広い平野が存在する。
    • 滋賀県の瀬田川に架かる瀬田の唐橋は長大で、日本書紀の記述のように壬申の乱で甲を重ねて刀を抜いて突破することは困難であるが、これが大津町瀬田付近の白川に架かっていたとすると橋は短くなり記述とおり突破が可能である。
    • 近江大津では大津京への遷都の理由説明が困難であるが、肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍の侵攻に備えた太宰府から内陸部の大津京への首都の疎開である」と説明がつく[66]
  • 大分県には竹田市三重町大野町犬飼町佐伯市など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。
  • ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、佐賀県鹿島である。
  • 源氏八幡神氏神とし祀ったことから、八幡神が軍神とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えられる。[67]
  • 勝敗を決したとされる美濃から来た援軍は畿内大和軍のことだったと考えられる。
    • 奈良時代になっても、濃尾平野の農民には、勲位を持つ者が多かった。これは壬申の乱の恩賞が残ったためと考えられる。

壬申の乱は、易姓革命(王朝交代) [編集]

  • 『古事記』や『日本書紀』には、同父同母の天智が「兄」で天武が「弟」と書かれているが、天智は671年に46歳で没し、天武は686年に65歳で逝去しているので天武のほうが4歳天智よりも年上である。また天武は天智の娘を4人も妃にしているので、天武と天智が兄弟であることはない。
  • 天武は壬申の乱のおりに、自分を百姓侠客)上がりの漢の高祖劉邦になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。
  • 「天智」は、()最後の暴君とされる(紂王)の愛した「天智玉」に由来し、「天武」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智」「天武」の諡号は、殷王朝から王朝への易姓革命を意識して付けられたものである(森鴎外『帝謚考』)。

〈史書の国号改称記事〉

『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」
  • 『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国とヤマト日本とは別の国であり、倭がヤマトにより征服され、ヤマトが日本の名前を使い始めたからである[68][69]つまり、倭(九州)と日本(ヤマト)とは別の国であり、九州倭国がヤマト日本により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたと考えられる[70]
  • 天皇家の最も重要な祭祀である大嘗祭は、673年まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである。
  • 天武2年(673年)8月条に、「詔耽羅使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。
  • 漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武10年(681年)である。

高市皇子が薩夜麻であり天皇 [編集]

次のことから高市皇子が薩夜麻であったと考えられる。

  • 「壬申の乱」の前年の671年に筑紫君薩夜麻が、唐の郭務と2千余人の兵に送られ捕虜から解放されて倭(九州)に帰国している[71]
  • 高市皇子の母は、九州の豪族である宗像氏の娘(胸形尼子娘)とされている。
  • 「藤原京は周礼によって建設されているが、これは建設の中心であった高市皇子が薩夜麻であり、8年間も唐に抑留され武則天(則天武后)の周礼への復古調の強い影響を受けたことによると考えられる。

次のことから天武は天皇ではなくヤマト日本の一豪族に過ぎなかったと考えられる。

  • 氏姓は天皇が臣下へ賜与するものであり、古代日本において天皇は氏姓を持たなかった。しかし天武の倭風諡号は天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)であり八色の姓真人」を持っていた。
  • 天皇家の菩提寺である泉涌寺に天武系天皇の位牌が無い。
  • 天武が天皇であればその息子が天皇を継ぐのは当然である。ところが天武は吉野の盟約において皇族達に、自分と野讚良皇女(持統天皇)の間の息子「草壁王子」を天皇にすることを誓わせている。[72]

次のことから高市皇子が天皇であったと考えられる。

  • 旧唐書には麟徳2年(665年高宗泰山封禅を行った際に劉仁軌が、新羅百済耽羅・倭4国の酋長を率いて参加したと記録されている。このとき唐にいたのは筑紫君薩夜麻であるので、薩夜麻が倭の酋長(天皇)である。
  • 壬申の乱では大伴吹負が「高市が来た」と偽の情報を流しただけで近江軍は戦わないで引き上げている。高市皇子は近江軍から大変畏怖されていたと考えられる。
  • 懐風藻』の「葛野王伝」には、「高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議粉紜なり」とあるが、 高市皇子が亡くなって後の皇位を立てる衆議は、高市皇子が天皇でなかったなら不要である。
  • 高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から「長屋親王」「長屋皇宮」「長屋皇子」と記した木簡が多数発見されている上に、『日本霊異記』で「長屋親王」と称されていることなどから、長屋王は王ではなく親王であったと考えられる。律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王であるから、親王の父である高市皇子は天皇である。[73]
  • 高市皇子は、壬申の乱において、不破から全軍を指揮して戦っている。また乱後の処罰や論功行賞を行っている
  • 天武・持統期において実質的に最高責任者として政治を行っていたのは高市皇子である。
  • 万葉集の高市皇子への挽歌で、柿本人麻呂は、高市皇子を天皇のみに使われる「わが大王」という言葉で表現している。
  • 天皇が交代すれば元号は必ず改元されるが、九州年号の白鳳は661年から684年まで続いているので、少なくともこの間は天皇は交代しておらず、同じ天皇の在位が続いていたと考えられる。従って中大兄皇子(天智)の即位(668年)・大海人皇子(天武)の即位(673年)は史実ではない。
  • 『懐風藻』では、後皇子尊(高市皇子)が薨去の時の持統を「皇太后」と記しているので、持統も天皇ではない。
  • 『日本書紀』では後皇子尊(高市皇子)が亡くなったのは持統10年(696年)7月10日、持統が譲位したのは持統11年8月1日。『日本書紀』には軽皇子(文武天皇)の立太子の記事がなく『続日本紀』持統11年に立太子記事がある。高市皇子の薨去によって、立太子できる状況になったと推測される。

次のことから天武と高市皇子は実の親子ではない。[74]

  • 壬申の乱のとき大海人皇子(天武)は、「自分には幼い子供しかいない」と嘆いている[75]が、高市皇子は当時既に19歳前後[76]とされ、また全軍を指揮していたので幼くはない。
  • 高市皇子と十市皇女(天武の娘)は恋愛関係または夫婦であったとされている[77]。実の姉弟や兄妹で恋愛関係にあったとは考えられないので高市皇子と十市皇女は、姉弟や兄妹ではない。

666年ヤマト王権の正史にはない「中宮天皇」という天皇がいたと考えられる。

  • 青龍山野中寺弥勒像台座の下框(かまち)部分には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」という陰刻があり、これが丙寅年(666年)の四月に「中宮天皇」が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像であることが分かる。しかし、666年には、既に斉明天皇は亡くなっており、穴穂部間人皇女が即位したこともなく、天智天皇が「中宮天皇」と呼ばれた文献資料も残されていない。

大化の改新 [編集]

藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)

以下のことから「大化の改新」は、695年に藤原京で軽皇子と中臣鎌足こと藤原不比等が中大兄皇子鉄砲玉として使って九州倭国の天皇(高市皇子)を暗殺し皇権を簒奪した下克上クーデターであり、一方では藤原氏の政権掌握の功績は記述したいが、他方では皇権簒奪の事実は隠匿したいという欲求から生まれた年代・背景を改竄した記事であると考えられる。[要出典](古田武彦の乙巳の変解釈はこの項目とはあまり関係ないため省略)

大化の改新の矛盾 [編集]

『日本書紀』の「大化の改新」に関する記事からは、新興勢力の豪族を誅した程度で、何故、政権を改新したり、改革したりすることができたのか全く不明である。もし既存の権力を倒して政治の大改革を行ったのであれば、倒された権力は、それ以前長期に亘り権力を掌握し、政治体制を維持してきた者であり、倒した側はそれまでの権力者とは全く違わなければならない。しかし『日本書紀』の記述では、倒された蘇我氏の歴史は100年にも満たない新興勢力であり、倒した側は代々の天皇であり最高権力者である。『日本書紀』の記述には明らかにこのような矛盾がある。

大化の改新は7世紀末 [編集]

下記のように「大化の改新」は7世紀末の出来事であると考えられる。

  • 『日本書紀』は「大化の改新」の時に「郡」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定(701年)以降であり、それ以前は「評」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている[62]
  • 大化の改新のは文体が奈良時代のものと酷似している。
  • 646年正月の改新の詔の第一条で公地公民、(私地私民の廃止)をうたっていながら646年から後も伴造国造が所有する部曲田荘の領有権が認められていた。
  • 改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあるが、戸籍・計帳・班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
  • 改新の詔に「初めて京師を修む」とあるが、ヤマト王権で初めて都城制が導入された都は、694年の藤原京が最初である。
  • ヤマト王権最初の年号は大宝である。『続日本紀』で「対馬嶋、金を貢る。建元して大寶元年と為す」とあり大宝と改元(年号を変えた)したのではなく建元(年号を開始した)したとしている。
  • 大宝律令が発布されたのは701年である。律令制度が定着したのは、大宝律令からである。
  • 『日本書紀』大化元年七月の条に高句麗百済の使者に「明神御宇日本天皇」と示したという記事があり、日本における「日本」という国号の最初の使用例となっている。しかし、唐の正史(『旧唐書』『新唐書』など)で日本の国号が「倭」から「日本」に変わっているのは7世紀末である。
  • 以下のことから大化元年は『日本書紀』に記された645年ではなく、50年後の695年であると考えられる。
    • 二中歴』など九州年号では、大化(大和)元年は695年である[78]
    • 元号は連続するものであるが、『日本書紀』では、大化から大宝の間の年号が飛んだり無かったりしている。
藤原京条坊

ヤマト王権初の本格的都城である藤原京が建設されたのは694年であるので、ヤマト王権の成立もこの頃と考えられる。

中臣鎌足は藤原不比等である [編集]

以下のことから「乙巳の変」の功績で中臣鎌足が藤原の姓と不比等(他に比べることができる者がいないくらい優れている)の名を賜り、自分の功績と姓を賜った時期を50年前の父の代のこととしたと考えられる。[要出典]

  • 「乙巳の変」の主役の中臣鎌足が藤原不比等自身だから多くいる中臣鎌足の息子とされる中で不比等だけが藤原姓を名乗ることが許されたのである。
  • 藤原氏という一族がいるのに藤原宮という家臣の名の付く宮を朝廷が建設するとは考えられない。藤原宮が先に有って藤原の姓が贈られたと考えられる。
  • 不比等が鎌足自身だから、11歳の時に父の鎌足が死去し政治的な後ろ盾が無い筈の不比等が、軽皇子(文武天皇)を擁立し、その後見人になることができたのである。
  • 「乙巳の変」があったのが695年だから、不比等が権力を握るまで645年から50年間も藤原氏が権力を得ることがなかったのである。
  • 鎌足が不比等自身だから、「乙巳の変(645年)」以降の鎌足の業績がないのである。
  • 鎌足が不比等自身だから、藤氏家伝に不比等の条が無いのである。
  • 日本書紀には、乙巳の変のときに「中大兄皇子が、衛門府に命じ一斉に12の通門を封鎖し往来を禁止した。また衛門府を1か所に集め、賄賂を渡した。」とある。衛門府は、律令制における宮門を守る官司であり、645年には存在しない。また飛鳥板蓋宮は規模が小さく通門が12もあったとは考えられない。この記述に合う宮は12の門を持ち周囲を5mの塀で囲まれた新益京藤原宮だけであるので、乙巳の変が起きたのは藤原宮(694年-710年)である。
  • 軽皇子(孝徳天皇)と軽皇子(文武天皇)、間人皇女穴穂部間人皇女、同じ人物が50年毎に現れる。また、この時期としては例外的に現役天皇が譲位するうということが645年皇極天皇から軽皇子(孝徳天皇)へ、697年持統天皇から軽皇子(文武天皇)へと行われ、50年毎に女帝から軽皇子への譲位という同じ構図が繰り返されている。
  • 乙巳以来の功を大上中下で査定確認した記事が、続日本紀の天平宝字元年(757年)12月9日にある。乙巳の変が645年ならば112年も経ってからの功の査定確認で、これ程時が経過しての査定確認は不自然であり、極めて困難である。しかも、乙巳の変で活躍し死後91年経った佐伯古麻呂に、上功として功田四十町六段(上功なので三世)等とある。一世とは30年であり、三世では90年となり、上功でも既に失効したはずの功に対してである。しかし、乙巳の変が695年ならば62年しか経っておらず、証人もまだ生きていて査定確認可能であり、佐伯連古麻呂の上功の理由も納得できる。
  • 木梨軽皇子などは近親相姦で失脚して伊予の国へ流されるなどしているのに、この時期近親婚が多発している。これは記事と人物の入れ替えによって書記の血縁関係が混乱しているためと考えられる。
  • 鹿児島と河内和泉南部には同じような鹿から生まれた鹿足の美少女の伝説(大宮姫伝説・光明皇后伝説)が残るが、この美少女を育てたのは鹿児島では中臣鎌足であり和泉では藤原不比等である。このように全国には中臣鎌足と藤原不比等が混同された伝承が多く残る。また鎌足や不比等の墓といわれる所は数多くあるが、殆どが鎌足と不比等を混同している。

蘇我氏は九州倭国の皇室 [編集]

以下のことから蘇我氏とは九州倭国の天皇家のことであったと考えられる。[要出典]

  • 蘇我稲目以前の蘇我氏の先祖が分からない。
  • 蘇我氏が何故、短期間で権力を掌握できたか分からない。
  • 蘇我氏は、渡来人の集団を支配し進んだ知識や技術を持っていたとされている。
  • 当時、ヤマト日本で唯一蘇我氏だけが仏教を崇拝していたとされている。
  • 蘇我氏の名は、馬子入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になる[79]ことや蝦夷[80]など、実名ではないと考えられる点がある。
  • 蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。
  • 蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。
  • 国記』・『天皇記』といった皇室が代々受け継ぐべき史書を蘇我氏が所持し邸宅で保管していた。

皇権の継承 [編集]

以下のことからヤマト日本が皇権を九州倭国から継承した方法は、倭の姫(女帝)との婚姻と宇佐神宮神託を利用したと考えられる。[要出典]

  • 道鏡事件で称徳天皇(孝謙天皇)は、宇佐神宮の神託をもって愛人の道鏡に皇位を継がせようとした。これには先例があったからだと考えられる。
  • 乙巳の変の中心であった中臣氏は、古代の日本において、神事・祭祀を掌っており、神託の捏造は容易であったと考えられる。道鏡事件のとき「道鏡が皇位に就くべし」との信託を受けたとされる大宰府の主神(かんづかさ)も中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげの あそまろ)であり、中臣氏である。
  • 645年に皇位にあった皇極天皇も695年に皇位にあった持統天皇も女帝であったとされる。九州倭国からヤマト日本への皇位の異動は、女帝→軽皇子であると考えられる。
  • 九州倭国とヤマト日本は、政略結婚により姻戚関係にあって当然と考えられる(天武は天智の娘を四人も妃にしている。)。
  • 血統の異なる皇位の継承には、正統性を保証する演出が必要である。
  • 藤原京(新益京藤原宮)は、大化の改新(695年)の前、690年(持統4)に着工され、694年(持統8)には完成している。皇権や皇位もないのに京や宮が建設されたとは考えられない。この時期既に畿内に天皇がいて、その天皇のために藤原京(新益京藤原宮)が建設されたと考えられる。
  • 「持統」とは、「正当な血統を維持した」という意味の諡号である[58]。つまり持統天皇とは九州倭国の血を引く女帝であると考えられる。
  • 藤原宮の名称は衣通姫の故事に由来する。「日本書紀」では天皇が姫を寵妃にして住まわせたところが藤原宮である。ところが「古事記」ではこの姫は、軽皇子と情を通じた天皇の皇女とされている。

704年に文武天皇が、藤原宮に住んでいた九州倭国の天子を故郷九州へ戻らせて、自ら藤原宮の主人となったと考えられる。

  • 鹿児島県『開聞古事縁起』には、「長らく外朝に暮らした天皇が、天智天皇10年(671年)または大長元年(704年)に九州に戻った」という大宮姫伝説がある。
  • 続日本紀では「慶雲元年(704年)、11月20日、始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百煙、賜布有差。(704年11月20日に始めて藤原宮の地を定む。(藤原の)宮中の住人1,505世帯に布を賜う。)」とある。

九州倭国滅亡後も九州倭国の皇族の一部は、引き続き太宰府や中央の官僚の地位を維持しており、天武朝断絶の後は九州倭国の末裔から天皇が擁立されたと考えられる。[81]

  • 光仁天皇は天智天皇の末裔とされており、九州倭国の皇統であると考えられる。
  • 天平9年(737年)になっても高市皇子の次男の鈴鹿王が知太政官事に任ぜられている。
  • 左大臣を務めた橘諸兄も九州倭国の王族の子孫であると考えられる[82]
  • 9世紀半ばになっても九州倭国の皇族の末裔とみられる大宰少典従八位上筑紫公文公貞直・筑紫公文公貞雄など「筑紫公(君)」が太宰府の官僚として実在していた[83]

九州倭国からヤマト王権 [編集]

記録が語る王朝交代 [編集]

以下のことから九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であると考えられる。

  • 『魏志倭人伝』の邪馬壹國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州倭国からヤマト日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の正史旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に国号が変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定される[68]
  • 漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すための歴史書正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。
  • 日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州倭国が定めたとも考えられる「九州年号」(継体元年(517年)-大長九年(712年)下記参照)が多数散見される。「九州年号」も8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定される。
  • 日本書紀によると敏達13年(584年)にヤマトへ仏教を伝えたのは播磨にいた高句麗の還俗僧の恵便である。ヤマト以前に既に播磨へは仏教が伝来していたということであり、6世紀末播磨はヤマトにとって別の文化圏(=外国)だったということである[84]
  • 天武より前の天皇の墓が無い(現在天武より前の天皇陵とされている古墳は、宮内庁が参考地にある古墳の中から『記紀』の記事や伝承・規模を基に適当に指定したに過ぎないもので、それが天皇の墓であった証拠は全く無い。)
  • 前述のように発掘された木簡では700年と701年を境に評から郡に変わっている。

記録の消滅 [編集]

次のことから、記紀の編纂時にヤマト王権以前の都合の悪い記録を意図的に消しさった(徹底した焚書があった)と考えられる。

  • 漢委奴国王印親魏倭王印等の金印は倭が文字を理解したから皇帝から賜ったのであり、また倭も手ぶらで漢や魏に朝貢したのではなく上表文を携えて行っていることからも、倭では既に1世紀には文字の使用が一部では始まっていたことが推定できる。従って記紀の編纂時には古墳時代や飛鳥時代の多くの外交文書や歴史書等の資料が存在していたはずであるが、現在そのような物は一つも存在しない[85]。「正倉院文書」の日付の最も古いものは、大宝2年(702年)のものである。
  • 『日本書紀』冒頭の神代紀には「一書に曰く」という表現が数多くあり、参考にした書物の存在を示している。
  • 『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。(禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。)」とありこの時期にはヤマト王権の「正規のイデオロギー(日本書紀)」と相反する書物が残っていたことを示している。
  • 持統天皇5年(691年)8月13日条に、「十八氏に詔して其の祖等の墓記を上進らしむ」とある(「墓記」とは氏族の発祥・由来・顕彰事項を記した氏族の史書)。日本書紀の記述に合わせて各墓記を改竄したと考えられる。
  • 『隋書』に「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」「邪靡堆(ヤマたゐ)に首都をおく、(この邪靡堆は)すなわち『魏志』の言う所の邪馬臺である。」とあり、7世紀までは邪馬壹国の流れを汲む王朝が続いていたと考えられるが、8世紀初めに編纂された「日本書紀」や「古事記」には邪馬壹国や卑弥呼について記述が無い。
  • 古事記が4か月で書かれたのに比べて、日本書紀は企画から完成まで数十年と異常に時間が掛かっている。また、九州と近畿・東海には、同じ地名や同じ名前の神社等が多数存在する。数十年掛けて日本書紀に合うように近畿・東海へ遺跡・遺物・伝承・住民等を移植したと推測される[86]

九州倭国の抵抗 [編集]

以下のことから、九州倭国の抵抗は723年頃まで続いていたと推測される。

  • 九州年号は大長(704年-712年)まで続いている。
  • 続日本紀に下記のような記述がある。
    • 養老元年(717年)11月17日 亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初(武器を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)。
    • 養老7年(723年)4月8日 大宰府言。日向。大隅。薩摩三国士卒。征討隼賊。頻遭軍役(大宰府の報告によれば、日向・大隅・薩摩の3カ国の士卒は、隼人の反乱軍征討に頻繁に軍役に狩りだされている)
    • 養老7年(723年)5月17日 大隅・薩摩二国隼人等六百廿四人朝貢(大隅・薩摩の2カ国の隼人ら624人が朝貢してきた)

防人 [編集]

  • 『日本書紀』では、664年以降に防人が置かれたとされているが、防人が置かれたのは九州倭国が滅亡した7世紀末頃と考えられる。
    • 『萬葉集』には8世紀以前の防人の歌が無い。
  • 防人の当初の目的は外敵に対する防衛ではなく九州制圧にあった為と考えられる。
    • 当初、防人は東国から徴発されたが、(ヤマト王権の体制が固まった)757年以降は九州からのみの徴用となっている。

8世紀のヤマト王権 [編集]

8世紀は異常に多くの反乱やクーデターが発生しておりヤマト王権は、政権が安定していない。

欠史八代 [編集]

欠史八代(第2代綏靖天皇 、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇、第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇、第9代開化天皇)に第1代神武天皇と第40代天武天皇を含めた10代はヤマト日本の系譜である。[87]

  • 第10代崇神天皇は別名ハツクニシラススメラミコトといい、その名称から初代天皇であったことを物語っている。
  • 上記各説より第10代崇神天皇-第39代弘文天皇は九州倭国の系譜であると考えられる。
  • 記紀の殆どは九州倭国の史書からの盗用であるが、天武は自らの先祖の記録も残したかったと考えられる。
  • この間、畿内周辺の狭い領域のことしか記されていない。
  • この間、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない。
    • 書記官等がいなかった地方豪族には詳しい記録が残ってなかったため、系譜程度しか伝わっておらず詳しい事績が分からなかったと考えられる。また、すべて父子相続であるのは、情報が少なかったために実際には兄弟相続であったものも誤って父子相続とされたと考えられる。
  • 河内平野に巨大古墳が出現する4世紀末を神武東征(神武によるヤマト征服)の時期とすると、そこから10代目である天武の治世が7世紀末頃となる。
1世=30年として10代×30年=300年
4世紀末+300年=7世紀末

太宰府(倭京) [編集]

国指定特別史跡、大宰府政庁跡

以下のことから太宰府は、九州倭国の首都(倭京)であったと考えられる。

名称 [編集]

  • 「太宰」の本来の意味は宰相総理大臣)であり、「太宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に取れる。に朝貢していた倭王武は皇帝の最高位の臣(太宰)を自称していた[88]
  • 太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていたが、「遠の朝廷」とは「遠くにある首都」という意味であり、遠くとは距離的に遠いだけでなく時間的に遠い、昔の首都という意味である。[89][90]
  • 太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる。[91]
  • 太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり本来は都督府と呼ばれていた。[92]都督府とは中国の官職である都督に任ぜられた者が居る場所である。7世紀までは全国各地に評督が置かれていたことが判明しているが、評督とは都督の支配管理下にいる者である。

記録の空白 [編集]

  • 日本書紀』などのヤマト王権の史書に太宰府を何時設置したか記録がない。また都城本体の建設の記録もない。
  • 古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が畿内特に大和ではなく、太宰府であった事は明らかである(水城や所在の明瞭な古代山城は、北九州に多い。またヤマト王権に建設の記録が無い古代山城「神籠石(こうごいし)式山城」が北九州から瀬戸内沿岸に存在するが、神籠石式山城の大半も北九州に集中している)。

都城 [編集]

日本最古の都市 [編集]
  • 下記のことから大宰府は、ヤマト王権最古の条坊制都城である藤原京694年)より古い、本格的な計画都市である。
    • 条坊の建設は単なる区画化した都市計画事業に過ぎず、城砦や城壁を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である水城等が建設されたとされる664年には、既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたことになる。
    • 7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはない、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる。
    • 新羅が西暦250-300年頃には金城を整備し、高句麗も427年に都を平壌に遷している。更に百済は538年都城を建設している。の皇帝から安東大将軍に任命され、朝時代には天子を自称した倭王が、7世紀末まで都城を建設しなかったとは考えられない。また博多では日本最古の計画都市(奴国)が発掘されている。
    • 九州年号に倭京元年(618年)とあることから、この年に建設されたと考えられる。
太宰府条坊復元図
唐の首都(長安)をモデルとした都市 [編集]
  • 都市の区画割が明らかに長安を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる)。
  • ヤマト王権でこのように北に政庁を配置した条坊制の都は、平城京710年)以降であり、これより46年-92年早い。
  • ヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったと考えられている。
日本最古の風水都市 [編集]
竈門神社の縁起にあるように「四神相応の地」といわれ、首都としての立地条件を備えており、また、これは水城等の建設された664年や太宰府が建設された618年には確定していたから、ヤマト王権唯一の日本式風水陰陽道)都市である平安京794年)よりも130年-176年以上も早い。

『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』の記録 [編集]

  • 711年-800年蓄銭叙位令などが示すように畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『続日本紀769年神護景雲3年)10月の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。」「この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように太宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。
  • 魏志倭人伝』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。また畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。」「国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
  • 『日本書紀』「壬申の乱(672年)」の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だと呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。
  • 『万葉集』に小野老が大宰府に着任した時の宴席で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府の繁栄を詠ったものである「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有(青丹よし 寧楽の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり)」万3-238
    • 歓迎の宴席で前任地(平城京)を称える歌を詠うのは無礼で非常識である。小野老は新任地(大宰府)を称える歌を詠って歓迎に答えたと考えられる。
    • 歌からは左遷された者の悲哀も都を思う切なさも感じられない。
    • 「寧樂」は、「なら」とは読めない。平城京は他の歌では「平城」と表記されている。寧楽の都は単に「安らかで楽しい都」という意味である。
    • 「あおによし」という枕詞は平城京建設(710年)以前に使用された例があり、「奈良の都」とは無関係にそれ以前に成立したと考えられる。

測定調査・発掘 [編集]

  • 通説では、約300年にも亘って当初の計画に基づき建設され続けたことになるが、単なる区画整理事業に過ぎず、数か月から数年で可能な条坊の建設に何故300年も要したのか、300年にも亘って計画を維持する事が可能か、実施した者の正体は何か、 目的は何か、などの疑問や矛盾が発生する。
  • 現在の太宰府の年代測定は、年輪年代測定放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。水城の建設等は、理科学的測定によれば『日本書紀』の記述等より90年以上も古くなり、太宰府本体も古くなる可能性がある。
  • 学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、太宰府遺跡の竹内焼土層は1600年ほど前の物である。

伊勢神宮 [編集]

伊勢神宮の興りは福岡県糟屋郡久山町猪野の天照皇大神宮である。倭姫命の定めた伊勢とは熊本県八代地方のことで、現在の伊勢に移る前の伊勢神宮は全て九州内だった。[93]。万葉集などの淡海とは八代海であり、後世に、淡海と近江が混同されたのである。

伊勢神宮の起源は福岡県久山町 [編集]

日本書紀には、第10代崇神天皇の6年、宮中にあった天照大神を皇女・豊鍬入姫命に託して笠縫邑に移したとある。一方、第14代仲哀天皇は筑紫で神のお告げを受けたが、これを信じず非難したので神の怒りに触れ亡くなったとある。以下の事からこれらの記事は順序を入れ替えられたもので、仲哀天皇の話が先で伊勢神宮の始まりの物語であり、神功皇后が初代の斎宮である。崇神天皇の宮も福岡の近くにあったと考えられる。

  • 福岡県糟屋郡久山町猪野には神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる天照皇大神宮[94]が現存するが、この神社は天照大神を祀っており「九州の伊勢」と呼ばれている。近くには、神功皇后が建てたとされる斎宮もある。
  • 天照皇大神宮で祀られている神は天照大神なので、仲哀天皇を祟った神は天照大神である。既に笠縫邑で皇室から手厚く祀られている天照大神が筑紫にも現れ、筑紫の天照大神が天皇を祟り殺しているのは奇怪である。
  • 伊勢神宮は神の祟りを怖れて祀った神社であると推測される。
    • 元々宮中にあったものを遠く伊勢で祀っている。
    • 20年毎に遷宮を行わなければならない。
    • 未婚の皇女あるいは女王を斎宮として送らなければならない。
    • 明治天皇まで天皇が誰も伊勢神宮に参拝していない。
    • 分霊されることがない。
  • 仲哀天皇の話以外に、記紀には伊勢神宮の起源らしき記事が無い。
  • 日本書紀には、事実を隠すため大化改新など記事の入替とみられる箇所が他にも多数ある。

淡海は古代球磨川河口 [編集]

  • 万葉集に現れる「淡海」は、鯨や魚を取りに船出して行くといった歌(巻2 153番)があるので、湖でなく海である。また淡海の千鳥を詠った歌(巻3 266番)があるが、琵琶湖には千鳥が生息するような場所はない。一方、球磨川河口はシギ・チドリ等の水鳥の大生息地である。
  • 「淡海」は、「塩味の淡い海」の意味。古代の球磨川河口(現在の八代市高田-金剛)は浅い海であり、海底から球磨川の伏流水が噴きあげ海水が薄まっていたと考えられる。[95]
  • 淡海の枕詞「石走(いわばしる)」は、「水が岩に当たってしぶきをあげる」の意。急流「球磨川」にこそ相応しい。
  • 『倭姫命世記』には淡海浦の西に7個の嶋があったと記されている。琵琶湖には竹生島・沖島・多景島・沖の白石の4島しかないが、八代市内には大島・高島・白島・大鼠蔵・小鼠蔵・水島・加賀島の7つの島がある。(現在は干拓により水島と加賀島を除く五つの島が陸続きとなり小山のように見える。)

古代の伊勢は南九州 [編集]

  • 現在でも鹿児島県伊唐島では、八代海のことを伊勢海と呼ぶ。また下記のように鹿児島県の北薩一帯を中心に「伊勢」関連地名が多く存在し、鹿児島県には24社と日本で最も多くの伊勢神社と称する神社が存在する。
  • 古代伊勢の枕詞は「神風」である。しかし三重県は台風が多くないし紀伊半島に遮られ大風も吹かない。一方、南九州は台風が頻繁に接近・通過する。
  • 「万葉集」には長田王の歌として伊勢に遣われた時に詠った歌や筑紫の旅の歌とされる6首があるが、長田王が遣わされた伊勢は現在の八代周辺の南九州にあったと考えられる。
    • 「伊勢の斎宮に遣わされる途中で、御井で作った歌」として次の歌があるが、御井郡は磐井が敗死した所であり都からみて南にあるので、伊勢は更にその南になければならない。
      • 山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども あひ見つるかも(“山辺の”御井を見物するついでに、“神風の”伊勢の乙女たちと逢うことができたよ)(万1-81)[96]
    • (万1-81)と一緒に詠われたとされる次の歌があるが、近畿地方に立田山という名の山はない。日本に立田山は、熊本市にある立田山しかないので、この歌は熊本で詠まれたものであり、(万1-81)も九州で詠まれたものである。
      • 海の底沖つ白波立田山いつか越えなむ妹があたり見む(万1-83)
    • 長田王は伊勢に派遣されたことになっているが、万葉集に残るその歌は、御井および八代市とその周辺ので謡われたものばかりで現在の伊勢で謡われたものが無い。
      • 聞きしごとまこと貴く奇しくも神さびをるかこれの水島(万3-245 水島で詠まれたもの)
      • 葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ(万3-246 芦北町で詠まれたもの
      • 隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我は今日見つるかも(万3-248 黒之瀬戸を詠んだもの)
      • うらさぶる心さまねし久かたの天のしぐれの流らふ見れば(万1-82 不明)
  • 『日本書紀』巻六垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥十や『倭姫命世記』には、伊勢國は「傍國可怜國(かたくにのうまし国)」との表現があり、これは「その海岸には干潟が出来て、それがだんだん陸地となるというまことに結構な国である」との意味である(喜田貞吉「伊勢人考」)。この表現通り八代平野の大部分は球磨川からの堆積物による自然陸化と干潟の干拓によるものであるが、三重県には、このような土地はない。

倭姫命の定めたのは八代市 [編集]

  • 八代市には『倭姫命世記』に現れる「二見」という地名が遺存し、熊本県には「御船」という地名も遺存する。
  • 18世紀後半に編纂された『肥後國史』によると「八代」の地名は天照大神を祀る社(やしろ)が上古に在ったことに由来する。
  • 古来、球磨川の河口は、九州内陸地域と海外を結ぶ貿易港として栄え、中世には「徳渕津」と呼ばれ5万の人口があり、平氏北条氏豊臣氏が直轄地にするなど博多と並ぶ九州経済の中心地であった。
  • 以下のことから安濃津・阿漕ヶ浦は、三重県津市ではなく八代の港「徳渕津」等であったと考えられる。
    • 阿漕ヶ浦は、伊勢神宮に供える神様専用の漁場であったとされるが、津市から伊勢市までは約50kmもあり、倭姫命の命令どおり朝夕鮮魚を運ぶには離れすぎている。
    • 阿漕(アコギ)←阿漕(アコウ)←アコウ→安濃(アコウ)→安濃(アノウ)となったと考えられる。阿漕ヶ浦(安濃津)とは、アコウの木の生える場所の意味である。八代を含む不知火海沿岸にはアコウの木が自生するが、津市を含む伊勢湾のような北国ではアコウの木は自生しない。
    • 安濃津は、博多津(福岡県福岡市)、 坊津(鹿児島県坊津)とならんで日本三津に明代の歴史書(「籌海図編」(1561年)、「日本風土記」(1591年)、「武備志」(1621年))で数えられているが、漢人に知られる程の貿易港が三重県にあったとは考えられず、津市には貿易港だった痕跡もない。前述のように八代は古代から中世九州まで博多と並ぶ海外貿易港であり、坊津の記述があるのに八代の「徳渕津」の記述が無いのは異常である。安濃津とは「徳渕津」のことだと考えられる。
    • 三重県の安濃津は室町時代の明応地震で破壊したとされるが、紀伊半島(都の近く)に古代から海外貿易港が在ったのなら平清盛が平安末期に福原大輪田泊神戸港)に海外貿易港を建設する必要は無く、近畿地方では貨幣経済が古代から浸透していたはずである。しかし実際に近畿地方で貨幣経済が発達するのは、平清盛が大輪田泊を整備し大量の宋銭を輸入してからであり、それ以前に近畿地方に海外貿易港が在った痕跡はない。
  • 八代市の宮地町には懐良親王の菩提寺「悟真寺」があり、宮内庁が認定した御陵があるが、懐良親王が亡くなったのは福岡県八女郡矢部であり、その御陵とされる場所も福岡県星野村の「大円寺」や久留米市の「千光寺」にもある。八代市の御陵は、伊勢神宮の跡地を利用して造られたものではないかと推定される。
  • 島根県大田市久利町久利にある「山辺八代姫命神社」の縁起には(山辺)八代姫命は天照大神の別名とある。

姫戸町は元伊勢 [編集]

姫戸は元伊勢である。

  • 上天草市姫戸町姫戸の由来は、この地に辿り着いた謎のお姫様である。[97]
  • この謎のお姫様は倭姫命であると考えられる。
    • 町内の「姫石神社(姫石さん)」でこの謎のお姫様を祭っているが、奈良県にも「姫石明神(姫石さん)」があり倭姫命に関係する神社である。

九州倭国滅亡と遷宮 [編集]

伊勢神宮が現在の伊勢に移ったのは、第3回宮式年遷宮(729年-732年)であると考えられる。

  • 第1回神宮式年遷宮は、九州倭国滅亡直前の690年である。式年遷宮の始まった理由は不明であり、神宮を九州から移動させる意図があったと考えらる。
  • 和銅5年(712年)長田王は万葉集で八代の伊勢を唄っているので、この時は未だ伊勢神宮は熊本県八代市に在ったと考えられる。
  • 天平9年(737年)九州の太宰府で藤原広嗣の乱が起り、朝廷は伊勢神宮へ幣帛を奉納し戦勝祈願を行ったが、伊勢神宮が九州の八代に在ったのでは祈願することは出来ないので、既にこの時には伊勢神宮は現在の伊勢に移っていたと考えられる。

通貨貨幣経済 [編集]

次のことから、7世紀以前に無文銀銭富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和同開珎等の貨幣を発行したと考えられる。

  • 西日本を中心に弥生時代の遺跡から秦や前漢の通貨である半両銭、前漢から隋の通貨である五銖銭、新の通貨である貨泉等が多数出土している。
  • 魏志倭人伝に「乘船南北市糴(船に乗って南北に出かけて米の買い付けを行う)」「國國有市、交易有無、使大倭監之(町々には市場があり、交易の有無を位の高い者に監視させている)」とあり倭は交易が盛んであったと記されている。
  • 『続日本紀』769年の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也(この府は人の行き来や交易が盛んで、日本一の都会である)」と報告しているように北部九州では8世紀既に経済活動が活発であった。
  • 『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の貨幣は和同開珎(708年)である。しかし、古代日本には和同開珎より以前に無文銀銭や富本銭(683年)などの貨幣が存在している。
  • 和同開珎等の銅銭でさえ周防国(山口県山口市鋳銭司・下関市長府安養寺町)等の西日本でその多くが鋳造されていた。
  • 九州には古代から博多港坊津八代港(安濃津?)などがあったが、畿内周辺には、外洋航海ができるような大型商船が着岸できる貿易港は、平清盛12世紀福原神戸港)を整備するまで無かった。
  • 蓄銭叙位令(711年-800年)などが示すように畿内周辺では8世紀になっても通貨経済は未発達であった。畿内周辺で通貨経済が発展するのは、12世紀に平清盛によって多量の宋銭が輸入されてからである。

関連する主張 [編集]

  • 人類学では骨格の研究により、北部九州福岡県北部、佐賀県北部、山口県西部)に東北アジア系の渡来人集団が弥生時代中期以後定住し、徐々に勢力を西日本一帯に拡大し、それまで日本列島で暮らしていた縄文系の人々を征服し、あるいは混血しつつ古墳時代までには近畿地方まで広がったとする説(≒埴原和郎の仮説)がある。この人類学が描く弥生人の広がりと九州王朝説の九州倭国の勢力の拡大は極めてよく一致すると考える意見がある。
  • 景行天皇の九州大遠征説話は「筑前」を拠点として「九州統一」を成し遂げた九州倭国の史書からの盗用である。
    • 景行天皇には九州出身の妃が複数いる。
    • 畿内の大王が、本拠地を遠く離れ7年間も九州に遠征したとは考え難い。
    • 筑後肥後では現地側の歓迎を受けながら、豊前球磨大隅では現地側の勢力と戦闘を行っている(東が討伐で、西が巡行)のは、東の大和から来た遠征軍としては不自然である。
    • 浮羽まで来ていながら、九州の中枢筑前へ入っていないのは、不可解である。
    • 遠征の出発地点から最終地の浮羽まで詳述しながら、突如浮羽から、日向・大和へ帰り着いている。
    • 遠征の出発地点から終点の浮羽まで地名が、異常に詳細に、かつ長大に記述されている。
    • 古事記の景行記には「九州遠征」についての記述が全くない。
  • 神功皇后の筑後平定説話は九州倭国の史書からの盗用である。
  • 日本書紀』によれば持統天皇は、持統3年(689年)1月から持統11年(697年)4月までの間に、31回も吉野に行幸している。これは、34年前の白村江の戦直前の九州倭国の天子の軍事的目的を持った佐賀県吉野への視察記事から盗用されたものである(部隊は機密保持のため有明海に集結し、有明海→五島列島→韓のコースを辿ったと考えられる)。
  • 遣隋使」はもちろん、「遣唐使」も7回目(669年)までは九州倭国が派遣したものであり、小野妹子らのヤマト日本の者は九州倭国の遣隋使に同伴させてもらったのである[98]
  • 正倉院文書」中の正税帳によると、当時の税は、などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は鷹狩のための養鷹人と猟犬白玉青玉縹玉などの玉類などである。鷹狩曲水の宴などの貴族趣味は畿内大和にはなく、筑後にはあった。
  • 奈良正倉院の宝物の殆どは天平10年(738年)に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州倭国の宝物である。
  • 法隆寺西院伽藍は筑紫の寺院(太宰府都城の観世音寺又は福岡市難波池の難波天王寺又は筑後国放光寺)が移築されたものである。
  • 道鏡事件和気清麻呂が宇佐神宮の神託を訊きに行く等、古代において国家の大事や天皇の即位時には宇佐神宮勅使が必ず遣わされ、古代日本では伊勢神宮より九州の宇佐神宮が重要視されていた。つまり、古代日本では九州に権威があった。
  • 君が代」は九州倭国の春の祭礼の歌である。
    • 千代・・・福岡市の中心街の地名。
    • 細石(さざれいし)・・・福岡県糸島市に細石神社がある。
    • 巌(いわお)・・・福岡県糸島市に井原(いわら)という地名あり。
    • 苔のむすまで・・・福岡県糸島市に桜谷神社があり、祭神は「苔牟須売神(コケムスメ・苔むすめ)」他である。
  • 源氏物語』はもともと九州『倭国』における作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たものである。物語の舞台の中心は7世紀前半の太宰府都城である。また『住吉物語』等も九州『倭国』の物語を作り改めたものである。
  • ヤマト王権は694年に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、701年に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、これに必要とされた多くの人材は、滅亡した九州倭国の官僚を再雇用したものである。7世紀末に突如として畿内大和に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたのである。また、知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の奴隷的な扱いはこの為である。
  • 2004年秋に中華人民共和国陝西省西安市の西北大学が西安市内から日本人遣唐使「井真成」の墓誌を発見した。以下のことから、この「井真成」は、九州倭国の皇族であると考えられる。
    • 「井真成」は死後に皇帝から「尚衣奉御」(尚衣局の責任者)の位を授けられていたが、「尚衣奉御」は歴代皇帝の親族がその任に当たっていた。
    • 現在「井」というは九州熊本県産山村南小国町一の宮町などに多く存在する。
    • 井は倭(ゐ)に通じる。
  • 大宰府政庁の「蔵司」「老司」、北九州市の「門司」、大分県の「佐賀関」等々は、九州倭国の役所と考えられる。
  • 大分県の「国東半島」の国東とは、九州倭国の東という意味である。
  • 萬葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである。万葉集の古い歌の殆どは九州で詠まれたものである。
    • 九州王朝時代の5~8世紀にかけて詠まれた主に口誦歌を集めた歌集である。
    • 太宰府(九州倭国)の花は、ヤマト日本の花はであるが、梅118首、桜40首、菊は1首も詠まれていない。
    • 北朝で使われた「紅葉」ではなく九州倭国が朝貢した南朝で使われた「黄葉」が多く使われている。
    • 代表的歌人でありながら正体不明な「柿本人麻呂」や「額田王」等は九州倭国縁の人物である。山上憶良等も元は九州倭国の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。
    • 「白村江の戦」に関する歌が無い。
    • 奥書がなく、誰が何時編纂したのか不明である。続日本紀・日本書紀にも編纂の記事がない。
    • 巻末に置くべき雑歌(その他、雑)から始まっている。
万葉集での地名 実際の地域
飛鳥 小郡市井上字飛嶋(とびしま)
寧楽乃京師・都 大宰府
三笠山 御笠山(宝満山
天香具山 別府鶴見岳
三輪山 香春岳
御井 久留米市周辺
立田山・龍田山 熊本市の立田山
吉野 佐賀県吉野ヶ里
淡海・近江 球磨川河口(不知火海)
伊勢 熊本県八代地域
  • 住吉神社八幡宮など九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州倭国の信仰をヤマト王権が引き継ぎ広まったものである[99]

九州年号表 [編集]

日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には私年号(逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号。)が多数散見される。[100]九州年号は鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。

九州年号が制定された理由としては、南朝との交流が502年への朝貢で最後となり、冊封体制から外れた為に自前の年号が必要になったからと考えられる。また倭のライバル高句麗では391年好太王(永楽太王)が永楽の年号を用いており、倭や高句麗に従属されられていた新羅でさえ536年には建元と云う年号を建元している。554年には、百済より暦博士が来日しており、代には天子を自称していた倭の大王が通説のように701年まで年号を定めなかったことは考えられない。

次に挙げるのは『襲国偽僣考』の考証を修正したものである[101]

開始年
(西暦)
元号名 読み 干支 天皇年代
517 継体 けいたい 丁酉 継体11年
522 善化(善記) 壬寅 継体16年
526 正和 丙午 継体20年
531 発倒(教到) 辛亥 継体25年
536 僧聴 丙辰 宣化 1年
541 同要(明要) 辛酉 欽明 2年
552 貴楽 壬申 欽明13年
554 結清(法清) 甲戌 欽明15年
558 兄弟 戊寅 欽明19年
559 蔵和 己卯 欽明20年
564 師安 甲申 欽明25年
565 和僧 乙酉 欽明26年
570 金光 庚寅 欽明31年
576 賢接(賢稱) 丙申 敏達 5年
581 鏡當 辛丑 敏達10年
585 勝照 乙巳 敏達14年
589 端政 己酉 崇峻 2年
594 従貴(告貴) 甲寅 推古 2年
601 煩転(願転) 辛酉 推古 9年
605 光元 乙丑 推古13年
611 定居 辛未 推古19年
618 倭京 戊寅 推古26年
623 仁王 癸未 推古31年
629 聖徳(なし) しょうとく 己丑 舒明 1年
635 僧要 乙未 舒明 7年
640 命長 庚子 舒明12年
647 常色 丁未 孝徳 3年
652 白雉 はくち 壬子 孝徳 8年
661 白鳳 はくほう 辛酉 齊明 7年
684 朱雀 すざく 甲申 天武12年
686 朱鳥 しゅちょう・あかみとり 丙戌 天武14年
695 大化 たいか 乙未 持統 9年
704 大長 甲辰 文武 8年

説の歴史と問題点 [編集]

説の歴史 [編集]

古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。一時期は高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって主張する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。また古田は『東日流外三郡誌』に深く関与しており、『東日流外三郡誌』関連文書にある一節「磐井王は筑紫の邪馬壹之系なり」が本説を補強すると考えていた[102]こともあり、上記のように本説内容とは全く関係ないにもかかわらず本説をも誤謬であると断ずる声もあがった。

歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、自らの考古学の資料解釈の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとしており[103]、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、現在では主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されることなく無視されている。

その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。

問題点 [編集]

九州王朝説は現在のところ、日本古代史学界からは黙殺されている。それは以下のような理由による(ただし上記解説は特殊な資料を用いた説や漢文を恣意的に解釈した説は省略しているため批判2.3は当たらない)。

  1. 日本古代史学界の多くの研究成果を否定することになる。[104]
  2. 古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。[105]
  3. 古田武彦の漢文の読み方が恣意的である。[106]

飛鳥時代以前を記録した一次史料が金石文や発掘された木簡など僅かしか存在しない、従って説の論拠となる史料は、僅かな一次資料と記紀や漢-唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府、神籠石など僅かに残されたものに止まっている。この資料の少なさが、九州倭国否定論の論拠の一つとなっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。通説側から九州倭国の存在を仮定しての日本書紀等の既存資料の解釈が恣意的であると問題視されているが、九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける一次資料は全く無く、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト一元論を前提にその他の資料を曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる[107]

また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州倭国の歴史と見る、壬申の乱までを九州倭国の歴史と見る、大化の改新まで九州倭国の歴史と見る[6] 等考え方は様々であり定まっていない。中小路駿逸(元追手門学院大学教授)は、雑誌「市民の古代」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張が突拍子もないと言う類であることを認めている。

関連書 [編集]

肯定側 [編集]

否定側 [編集]

  • 岡田英弘 『倭国—東アジア世界の中で』 中央公論新社、1977年 ISBN 4121004825
  • 山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986年 ISBN 406148835X
  • 安本美典 『虚妄(まぼろし)の九州王朝—独断と歪曲の「古田武彦説」を撃つ』 梓書院、1995年 ISBN 4-87035-066-1
  • 安本美典 『古代九州王朝はなかった—古田武彦説の虚構』 新人物往来社、1986年 ISBN 4-404-01352-3
  • 安本美典 『邪馬一国はなかった』 徳間書店、1988年 ISBN 4195986060
  • 高木彬光 『邪馬壱国の非論理』 私家版、1977年
  • 高木彬光 『邪馬壹国の陰謀』 日本文華社、1978年
  • 原田実 『幻想の多元的古代—万世一系イデオロギーの超克』 批評社、2000年 ISBN 4826502958
  • 原田実 『トンデモ日本史の真相』 文芸社、2007年 ISBN 4286027511
  • 久保田穣 『古代史のディベート』 大和書房、1994年 ISBN 447995029X
  • 鷲﨑弘朋 『邪馬台国の位置と日本国家の起源』 新人物往来社、1996年 ISBN 4404024053
  • 西野凡夫 『古代天皇の系譜と紀年 さらば九州王朝論』 高城書房出版、1997年 ISBN 4924752584
  • 張明澄 『誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば』 久保書店、1992年

参考 [編集]

外部リンク [編集]

史料 [編集]

肯定側 [編集]

否定側 [編集]

参考 [編集]

関連項目 [編集]

脚注 [編集]

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  1. ^ 最新の邪馬台国論争史研究書である『邪馬台国論争』(佐伯有清、岩波書店、2006年)にも片言も掲載されていない。
  2. ^ 古田武彦は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「これに対する学会の応答欠乏し」と述べている。
  3. ^ 九州王朝の二都制」「唐軍の北九州進駐」などは、執筆者の判断によって省略した。古田による邪馬台国説を改良、「壬申の乱九州内説」を採用、「大化の改新」の解釈を加え、九州倭国の滅亡・ヤマト王権の成立を701年ではなく695年とした(「乙巳の変」による政権簒奪時を政権交代時とした)。#問題点で批判のあるような『通典』の解釈・古田による『魏志倭人伝』邪馬台国への所要日数(水行十日陸行一月)についての解釈なども省略した。そのほかにも古田武彦と違う面がある。
  4. ^ 「委」は、上古音(周・秦・漢の音)では「uar、わ」。中古音(隋・唐音)では「ui、ゐ」(両唇音のwはなかった)。「法華義疏」に「大委国上宮王私集非海彼本」とある。倭を委としており、上古音で委の発音は倭(わ)と同じであった証拠の一つである。万葉仮名では「委」は「わ、ゐ」。藤原京出土の木簡に、「伊委之」(=鰯、いわし)。藤堂明保著『漢字語源辞典』(学燈社、1965、ISBN 4312000018)によると、魏代の「倭(委)」は「( I ) uar 」という読みである。
  5. ^ 魏志倭人伝」に見える3世紀の「邪馬壹国」(邪馬台国)を記録どおり「邪馬壹国」とする(邪馬壹国説)。古田は、魏志倭人伝など古い記録は、邪馬壹国であり邪馬臺国の表記は誤り、邪馬壹国(やまいちこく)であるとしているが、後漢書倭伝に「邪摩惟(やまたい)」、隋書伝に「邪靡堆(やまたい)」等とあることから、南朝滅亡後の倭(ゐ)→大倭・(たゐ)への変化に伴い邪馬壹国→邪馬臺国になったとする説もある。
  6. ^ a b 古田は「磐井の乱」を畿内大和の九州倭国に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ている。
  7. ^ 「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」)と号す」(※「大王」の使用例 伊予風土記逸文(「釈日本紀」)「法興六年十月歳在丙辰我法王大王与慧慈法師及葛城臣」万葉集 雑歌 柿本朝臣人麻呂「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」)
  8. ^ 『日本書紀』によれば津軽海峡まで達したのは658年の阿倍比羅夫の蝦夷征討・粛慎討伐であり、8世紀には日本列島最古の地図(行基図)が作られ、日本国内では津軽海峡の存在が認識されていたと考えられる。 宋書「國之東境接海島夷人居所 身面皆有毛 東奥州産黄金 西別島出白銀以爲貢賦」「國の東境は夷人の住む島に接し、身体や顔の毛が濃い。東の奥州は黄金を産出し、西の別島は白銀を産出するので、これらを税金にしている。」
  9. ^ 通説では『隋書』の「山島」は、『隋書』以前の史書の記述を単に再録したものであり、この時代には九州は倭国(ヤマト王権)の領土であったと見る。
  10. ^ 「漢匈奴悪適尸逐王」の印を「漢の匈奴の悪適尸逐の王」と読み三段の国名の例が存在するとの意見もあるが、「悪適尸逐王」は匈奴の王号であり二段の国名である。また、この印は銅印である。
  11. ^ この解釈は古田の解釈とは異なる
  12. ^ 『漢書(前漢書)』地理志の「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」「楽浪海沖に倭人が現れる。100か国余りに分かれているが、季節になると貢物を持って挨拶に来る。と云う。」から前漢の時代は100国あまりの小国分立の状態であったのが『後漢書』東夷傳では「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統」「武帝が朝鮮を滅ぼして以来、30国ていどが漢と交流している。(それらの)国は全て代々王を称することを伝統としている。」となり国の数が30国あまりに減り統一が進むと共に、一時的に自称王が乱立していたことが察せられる。倭奴国は自己の申告により漢の皇帝から家臣としての王に任命されたもので倭国内の統治の実態は不明だが、王を自称していた他の30あまりの国にから異議が無いところから建武中元二年までに倭国内の他の国々の自称王を降し、初めて倭国を統一した者であろう。この後「桓 靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」「桓帝と霊帝の間、倭国が内戦状態になり、互いに攻め合い。長い間、君主が居なかった。」となり再び統一が乱れたことが察せられる。
  13. ^ 後漢書に「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」「建武中元2年に倭奴國が朝貢してきた。使いの者は大夫と自称した。倭奴國は倭國の最南端である。光武帝は印章を授けた。安帝永初元年に倭國王の'帥升等が奴隷160人を献上して謁見を願ってきた。」とある。倭国が倭奴国と区別されており、倭奴国について「倭國之極南界也」とあることから倭奴国は倭国の一部であると考えられる。王については倭国の王、帥升(等)しか記されず倭奴国の王については記されていないことから、建武中元二年に「倭國之極南界」に在った倭奴国が使いを遣し漢より印を綬かって倭国全体の王に任ぜられ、倭国王になったと考えられる。
  14. ^ 「ゐ」は隋唐音であり、「倭」「委」はともに「わ」であるとする反論もある。
  15. ^ 「倭奴」は日本の蔑称であり、しかも金印には「倭」の字が減筆されニンベンの無い「委」が用いられている(王莽匈奴に与えた「新匈奴單于章」の金印と同じ「漢の皇帝が属国の蛮王に与えた印」という侮辱的印と同じ)。
  16. ^ 「奴国」は文中に二度登場するが一度目は官の正・副の存在が明記され、二度目は国名が紹介されたのみで王の存在は記されていない。
  17. ^ 古田は、この他にも『魏志倭人伝』では壱岐、対馬の外周を行程距離に算入しなければならない点など重要な指摘をしているが、朝鮮半島内陸行説や不弥国傍線行程説など強引な論理も展開している。
  18. ^ 『魏志倭人伝』の距離に関する記述を太字にすると下記のようになる。
    「從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里 始度一海千餘里至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北糴 又渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之 東南陸行五百里到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 東南至奴國百里 官曰馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家」
  19. ^ 正式な名称は『三国志』魏書東夷伝倭人であるが説明には通称の『魏志倭人伝』を用いる。
  20. ^ 「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味でありAについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有るが「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き魏の世を示しており、「世有」は代々と訳してよい場合でも親子二代程度で魏代内の世で、何代も続いたとの意味ではない。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、世(魏の治世)は王が居たの意味なのである。そして文はここで一旦切れて、次に続く皆は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、それは倭の国々のことである。これを裏付ける資料として『魏志倭人伝』と同時代に書かれた『魏略』逸文がある、『魏略』逸文では「東南五百里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰曳渓觚 柄渠觚 其国王皆屬王女也」とあり『魏志倭人伝』にある「世有王」が『魏略』にはなく、『魏略』の文中で皆が指しているのは其国王倭国の王達のことである。従って同一の資料(又は『魏略』)を参考に作成されたと見られる『魏志倭人伝』の「皆統屬女王國」の皆も同様に倭国の国々を指していると考えられる。「皆統屬女王國」とは倭の国々は皆、女王国に統屬していたの意味なのである。すると前文の世(魏の治世)は王が居たの王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。また「世有王」とは魏の時代に(卑弥呼、壹與)王が伊都国に居たことを指すと結論される。
  21. ^ 尹は神杖をもつ形で、神意を媒介する聖職の人をいう。伊は神の憑りつくその呪杖をもつ人の意味。伊都=呪杖をもつ人の都=卑弥呼の都。
    「伊」は、「治める人」の意も表す。伊都=治める人の都=首都。
    なお古田は、「伊闕」を「天子の居所たる宮殿の近く」の意味、「伊邇」を「コレチカシ」の意味と解釈し「伊都」とは「女王の都に遠からず伊邇たる地」の意味としているが、「伊」単独では「コレ」の意味しかなく「チカシ」の意味は無い。
  22. ^ 「郡使往来常所駐」「郡使の往来では常に駐まる」とあるので、郡使は毎回伊都国までしか来ていない。しかし、親魏倭王として魏の柵封を受けていた女王卑弥呼は、宗主国の使いが来れば、必ず合うのが柵封国の王の務めである。女王卑弥呼は郡使が来る度に常に伊都国で郡使と対面していたことになるが、「自為王以來 少有見者」「王となって以来見たものは少ない」で「唯有男子一人給飲食 傳辭出入」「ただ一人の男が食事の世話を行い、言葉を伝え居処に出入する」状態の卑弥呼が都から使者に会う為に特別に出向いていたとの記述はない。つまり卑弥呼は伊都国に住んでいたことになる。
  23. ^ 古田は『邪馬台国論争は終わった』と全ての問題は解決したかの如く述べているが、古田の説明では九州の人口が3世紀にしては過剰になる上に邪馬壹国の位置について特定できていないので改良を加えた説を記載する。
  24. ^ 隋書』東夷傳では、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里(都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里)とあり、帯方郡から邪馬台国までが、一万二千里であると明記されている。つまり「水行二十日」+「水行十日陸行一月」は出発地の帯方郡から到着地の奴国(邪馬台国)までを再度日程で記述したものである。
  25. ^ 「 南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
    古田は、「南至投馬國水行二十日」の基点は女王国。「水行十日 陸行一月」の基点は帯方郡の郡治であるとしている。
  26. ^ 方可○○里(土地が正方形の場合一辺が○○里ほど)とあるので、対馬南島と壱岐をそれぞれ半周したと考え、2辺分の(四百里×2)(三百里×2)を行程に加えた。
  27. ^ 邪馬壹国70,000戸の内訳は、1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
    (1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
    奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
  28. ^ 邪馬壹国の解説に「女王之所都」「女王の都のする所」と記してあるのは直前の投馬国と区別して目的地である邪馬壹国を明確にし、邪馬壹国と「世有王」と記された伊都国を結び付ける為であり、邪馬壹国の中に女王の都である伊都国があったのである。
  29. ^ 『三国志』魏書東夷伝馬韓の冒頭に「韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接(韓は帯方の南に在り、東西は海を以って限りと為す、南は倭と接す)」とあり、韓と倭は接していた(陸続きであった)。 続いて「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里(帯方郡より倭に至ること、海岸を水行し循って韓国を歴する。たちまち南し、たちまち東す。その北岸狗邪韓國に到る。7,000余里である。)」とあり帯方郡より倭までは、7,000余里である。 韓半島南部にあったにも係わらず狗邪韓国は『魏志倭人伝』に記されており、また「其北岸狗邪韓國」「其(倭国)の北岸の狗邪韓国」とあるので、狗邪韓国は倭人の国である。つまり、倭地は韓半島南部にもあり、この倭地の名称が投馬国である。
  30. ^ 古田は、「其の南狗奴国あり」(魏志、要約)「女王国の東千里狗奴国あり」(後漢書、要約)より「狗奴国=讃岐」だとしている。
  31. ^ 「参問倭地」とは、倭について情報(問)を集める(参する)こと。古田は参問を訪問の意味としているが、参とは「集める」「集まる」の意味であり、二次的に「集まりに行く」「会いに行く」の意味はあっても単に「行く」との意味はない。この文で参を「集まりに行く」「会いに行く」としては意味が通じず参問を訪問と訳すのは誤り。
  32. ^ 「可」は日本語訳では「ほどか」などと意訳されるが、直訳すると「推測可能」の意味で実測値でないことを示している(古田は「可」を「べし」と訳しているが、「べし」と訳した場合でも意味は推量の「…であろう」である)。既に「可七萬餘戸」をどの様にして推定されたか説明したが「方可四百餘里」「方可三百里」の場合も島の周囲を歩いたのではなく、離れた船上から遠望して島の寸法を推測したことを示しており、「周旋可五千餘里」も行ったことのない土地について推測したものである。「南至投馬國水行二十日」や「水行十日 陸行一月」も「二十日可」や「水行十日 陸行一月可」とは書かれていないので実体験に基く実測値であることを示している。
  33. ^ : 奴国-不弥国の100里に末盧国-不弥国間の平均距離を21(不弥国から奴国までの国邑間の数)倍し加えた。
    100里 + (500里+100里+100里)÷3 × 21 = 5000里
    奴国-不弥国 末盧国-不弥国の平均距離 周旋可五千餘里
  34. ^ 「女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國 在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 齒國 復在其東南 船行一年可至(女王国の東、海を渡る千餘里。 また国が有り皆、倭種である。また侏儒國が其の南に在る。人長は三四尺である。女王を去る四千餘里また裸國・齒國が有る。また其(女王国)の東南に在って、船行では一年(十二日)で至と推定される。)」「可至」で終わっているのでこの文章全体が伝聞であろう。
  35. ^ 古田は、裸国や黒歯国をペルーエクアドルに比定し、実際に南米調査を行い、『なかった 真実の歴史学[第四号]』2008年ISBN 9784623050567で「アリカ」「アタカマ」「トリタ・ハマ」「マナビ」「チチカカ」など、日本語由来と推察される地名がある等としている。
  36. ^ 硬骨文字で「到」は「至人」と書かれている。硬骨文字で刀と人は似た形をしており、「到」では人が刀部(りっとう)に変化した。白川静著『字統ISBN 978-4582128017 1984年8月平凡社「字の初形は、至と人に従う。至は矢の到達するところ、そこに人の立つ形である。」)
  37. ^ 壱岐国一大国
  38. ^ 古田は後漢書の「会稽東冶」などを安易な誤植扱いは危険だとして会稽東治は会稽山の東の地域であるとしている。
  39. ^ 古田は、通説のような安易な誤植説は危険だとし『魏志倭人伝』の記述には全く間違いが無いとの仮説の元に推論を進めているが、最終的には狗奴国を瀬戸内海領域に比定するなど誤植説を用いている。
  40. ^ 人間の歩く速度は1時間に3-4kmであり、1日に7-8時間歩いたとして21-32kmとなる、古代から現代まで、世界中何処でも、人が旅する速度はほぼ同じで、旧日本陸軍でも歩兵の連続行軍は1日24km、強行軍で40kmである。
  41. ^ 古田は韓国を横切るのに1か月も必要とはしないので「陸行一月」を「韓国内を1か月掛けてジグザグに陸行した」と主張しているが、韓国内にはそのようなジグザグな街道は存在せず。また正始7年(246年)には帯方郡太守の弓遵辰韓の8か国を割譲させようとして韓に反撃され戦死しており、敵地である南韓を郡使が下贈品の財宝などを持って旅したとは考えられない。倭人伝では「一支國」を「一大國」と誤って記しているが、同様に毛筆で書かれた「日」も「月」と見間違われる可能性が極めて高い。
  42. ^ 隋書「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」通典「其國界東西五月行、南北三月行、各至於海。」等も五月が五日の三月も三日の誤りとすると東西五月行 = 5日×30km = 150km、南北三月行 = 3日×30km = 90kmとなり、国 = 九州。 また『隋書』百済伝に、「其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里(その南の海行三月に耽牟羅国(済州島)があり、南北千余里、東西数百里。)」とある。半島南岸~済州島 = 海行三月 = 3日×30km = 90km 済州島は東西80km×南北30km
  43. ^ 古田は、投馬国を九州南部に比定しているが、古田の説によると九州の人口が末盧国(4千戸)、伊都国(千戸)、奴国(2万戸)、不弥国(千家)、斯馬国-烏奴国の20国(2万-4万戸)、邪馬壹国(7万戸)、投馬国(5万戸)、狗奴国(5万戸)の20万戸以上となる。1戸あたり5人としても100万人以上となり、奈良時代の日本列島の人口が500万人弱であったことと比べて高密度となる。また韓の15万戸と比べても多くなり過ぎる。現在でも韓国の人口は4千8百万人で九州の人口千3百万人より遥かに多い。
  44. ^ 魏志倭人伝の奴国は2万戸(1戸5人平均としても10万人)とされている。ヤマト日本の拠点は藤原京が建設される694年まで京域も持たず転々と移動し、その人口は僅かであった。平城京でさえ役人程度しか居住せずその人口は数万人程度であったと考えられており3世紀の奴国(古代博多)より少ない。
  45. ^ 「漢委奴國王」の金印について糸島市にある細石神社には「当社の宝物であったものが江戸時代に市中に流出した」との伝承がある。
  46. ^ 倭人伝では真珠について「貢白珠五千孔」として白珠とも記されているが、この白とは単に白いの意味ではなく清い、汚れが無の意味で白珠とは献上品にされるような上等の真珠のこと。
  47. ^ 「産経新聞2008年1月12日」九州の縄文人が愛好!? 緑色装身具7割が雲母 産地は熊本県南部有力[リンク切れ]「共同通信2008年1月12日」緑色の装身具は7割が雲母 縄文人好み、九州に広まる「asahi.com 2007年06月06日」「新潟産ヒスイ」地元の石だった 交易史の書き換えも必要?
  48. ^ 方○○とは一辺が○○の正方形のこと、漢籍では一辺が○○の正方形の面積としても使われる。
  49. ^ 韓伝にも「方可四千里」とあり1里=76mとした場合、(4000×76m) × (4000×76m) = 92,416km2となり現在の大韓民国の面積 (98,480km2) と略一致する
  50. ^ 「古代山城には石垣があるが3世紀の集落遺跡には、V字の堀があるだけで石垣は存在しないので古代山城は3世紀の建設でない。従って、古代山城は3世紀の国とは無関係であるという反論があるが、城砦である山城と居住空間である集落の構造を比べることには意味が無い。また5-6世紀に建設された神籠石と3世紀の邪馬台国とは関係ないとの反論もあるが、200-300年程度で国(国邑)の配置が大きく変化することはないし、神籠石が5-6世紀に建設されたとする根拠も希薄なものである。
  51. ^ a b 倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている(邪馬台国の位置と日本国家の起源>倭の五王と九州王朝説より)。九州王朝説でも九州では軍事が民生を圧迫していたと考えるが、九州の勢力は独自に軍事活動を行っていたとする。
  52. ^ (1)出現期の前方後円墳の分布の中心は近畿の大和(2)出現期の前方後円墳の分布は瀬戸内海沿岸各地から北部九州。(3)九州南部では東西に地下式横穴墓、地下式板石積石室墓という二大分布圏が存在。前方後円墳は沿岸部のみに分布する。(4)古墳時代前期後半に東日本、近畿、西日本各地で前方後方墳から前方後円墳への転換が確認されている。(5)3世紀中葉すぎ、近畿、中国地方→北部九州への土器の移動が顕著に認められる。逆の動きはほとんど認められない。(参考→「前方後円墳と前方後方墳」 白石太一郎講演))等を根拠であるとする反論。
  53. ^ 現在でも、九州の北西部に広がる海域を玄界灘と言う。「玄」は「玄武」と同様に「北」の意味であり、玄界灘とは(荒い)北の海を意味する。なお、日本書紀にも2か所「北海」の表記はあるが、これは九州倭国の史書からの盗用であると考えられる。
  54. ^ 倭王武が九州倭国の王であるとすると、古事記や日本書紀が伝えるところの「ニニギノミコト」「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」「ウガヤフキアエズノミコト」は九州倭国の人間で、そこから東征に派遣された「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)」の子孫が巨大古墳を築造したヤマト日本であることになる。多元王朝説では神武東征は単なる神話ではなく史実の反映であり、神武がヤマトに入植したのは2世紀の頃ではないかと推定している。九州倭国は半島等での軍事活動で疲弊し高句麗のような強力な競争相手のいない新天地に入植した神武の子孫ヤマト日本はその後も東征を続け発展に向かい、近畿地方から東日本にかけて大勢力を築いたとする。
  55. ^ 『日本書紀』には遣唐使の記録はあっても遣隋使の記録がない。『隋書』にある600年の第一回遣隋使は『日本書紀』に全く記載がなく、第二回の607年の遣隋使も隋ではなく大唐国に派遣したと記している。唐は618年に建国しており607年は隋代であり、唐に行ったことが事実とすると618年以後のこととなる。『日本書紀』の記す第二回遣隋使は実は唐代の619年であり、『日本書紀』では年代を12年繰り上げた為に隋代を大唐国と書いてしまったと考えられる。607年の遣隋使は九州倭国の派遣したもので、隋の従八品文林郎裴世清国に来たのであり、619年にも唐の家臣となり降格した後の正九品鴻臚寺掌客の裴世清が小野妹子と供に来たと考えれば辻褄が合う。約12年の誤差
  56. ^ 以下のように日本書紀と朝鮮側記録等の間には3年のずれがあるので、528年と記録のある「磐井の敗死」も3年ずらして、531年の「日本天皇・皇太子の同時死亡」のこととするのが妥当である。
    • 継体18年(524年)百済の太子明、即位(日本書紀(百済本紀))⇒527年百済聖明王即位(遺事百済王暦)
    • 継体22年(528年)磐井滅亡(日本書紀本文) ⇒531年日本天皇太子皇子の死(日本書紀(百済本紀))
    • 継体23年(529年加羅金官国滅亡(日本書紀本文) ⇒532年(三国史記)
    • 継体25年(531年)継体の死(日本書紀本文(継体紀)) ⇒534年継体の死・安閑即位(日本書紀或本(安閑紀))
  57. ^ (1)物部日良仁光連、(2)日往子明連、(3)日男玉頼連、(4)神力玉依連、(5)日光玉一連、(6)日往玉尊連、 1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩
  58. ^ a b 「継体持統」とは「体制(皇室)を引継ぎ、正当な血統を維持する」という意味の四文字熟語
  59. ^ 九州年号に「聖徳」(629年)とあることを聖徳太子と結びつけ、伝説の聖徳太子は九州倭国の王の一人であった(聖徳太子の太子は本来は、仏教に深く帰依した大師である)とする説もある。しかし、古田武彦はこの説をとらない
  60. ^ 「有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行祭 有如意寶珠 其色青 大如卵 夜則有光 云魚眼精也」「阿蘇山がある。その石は訳も無く火が起り天に接するもの。習慣が異なり、よって祈祭をおこなう。如意宝珠あり、その色青く大きい卵のようだ。夜はすなわち光あり、魚の眼精だという」
  61. ^ 毎字多利思北孤(アメ又はアマ・タラシホ(ヒ)コ)は『古事記』、『日本書紀』に見られる呼称と一致し、大王・天君は首長以外にも用いられた尊称であるとして、『隋書』の「王姓阿毎字多利思北孤」を厩戸王子を指すとする説もあるが厩戸王子は天皇ではない。
  62. ^ a b 名古屋市博物館の常設展示の藤原宮出土木簡には「庚子年(700年)四月/若狭国小丹生/木ツ里秦人申二斗」「尾治国知多/大宝二年(702年)」などの記載がある奈良文化財研究所 木簡データベース
  63. ^ 『日本書紀』天智六年条に「筑紫都督府」とある。
  64. ^ 書記には天武天皇には何度も葬儀記事がるが、孝徳天皇には一度も葬儀の記事が無いのはこの記事の入れ替えによると考えられる。また天皇が逝去したので九州年号白雉元年(652年)へ改元したと考えられる。
  65. ^ 飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない6世紀末から7世紀末にかけて、飛鳥地方に諸天皇の宮殿が置かれた都の総称を飛鳥京と呼んだりするが、当時の飛鳥には宮の他には貴族の館や寺院が数軒あった程度であり、一般市民の住む市街地や毎日開かれるような大きな市場は無く京と呼ぶには、あまりにも貧弱である。(参考:バーチャル飛鳥京
  66. ^ 古田史学会報 81号 伊倉2 天子宮は誰を祀るか 古川清久
  67. ^ 藤原広嗣の乱の時も鎮圧に当った大野東人は戦いの前に宇佐神宮で勝利を祈願している。
  68. ^ a b
  69. ^ 唐代には科挙に合格し唐の高官となった阿倍仲麻呂のように、遣唐使として多くの日本人が唐に渡っており、また白村江の戦でも多くの日本人が捕虜として唐に連行されている。これらのことからも、唐代には日本についての情報は豊富であり、旧唐書新唐書の日本についての情報には事実を反映したものがあると考えられる。旧唐書や新唐書で日本國と倭國が別の國であるように記述されているのは、当時の日本が、漢や魏、南朝に臣従していた過去を否定するために、かつて册封をうけ臣従していた倭國と日本國は別であるとしたものとする解釈がある。
  70. ^ 続けて「長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物(長安3年(703年)、その国の大臣の朝臣真人が朝貢して来た。)」とあることから、九州倭国からヤマト日本への政権交代を唐に伝え、唐に日本を承認させたのはこの朝臣真人だと考えられる。
  71. ^ 668年に高句麗が滅亡した為、唐と新羅の対立が深まり670年から676年の羅唐戦争が勃発している、新羅の後方にある倭を味方に付けたい唐が捕虜となっていた九州倭国の天皇を解放したものと考えられる。669年に唐が郭務と2千余人を倭・筑紫に派遣したのは筑紫君薩夜麻を復位の為の準備であろう。
  72. ^ 壬申の乱が九州のことであったとすると「吉野の盟約」の吉野も九州の吉野のことと考えられる。乱後7年も経って皇族が揃って九州旅行をしたとは考えられないので、「吉野の盟約」は壬申の乱の直前672年の5月のことと考えられる。天武と高市皇子は親子ではなく、乱の主役は大友皇子対、高市皇子(倭薩)であり「自分の息子を次期天皇にする」は、天武が出した高市皇子への援軍要請の交換条件であったと考えられる。野讚良皇女(持統天皇)は九州倭国の皇女だったと考えられ息子の草壁皇子にも皇位継承権があったと考えられる。
  73. ^ 「雅学寮移長屋王家令所」と記した木簡なども見つかっているが、「親王」が「王」と称されることはあっても、「王」が「親王」と称されることはないことから長屋は「親王」であったと考えられる。
  74. ^ 小林惠子は、『扶桑略記』の天智条に「三人即位一人不載系図」とあることから、大友と元明が即位していたとすると、系図に載っていない一人とは高市皇子のことであろうとし、高市は天智の息子であり、大友の兄弟であるとしている。
  75. ^ 日本書紀「其近江朝、左右大臣、及智謀群臣、共定議。今朕無與計事者。唯有幼少孺子耳」
  76. ^ 高市皇子は白雉5年(654年)生まれで壬申の乱の時にはほぼ19歳となるが、軍の指揮や賞罰を行っていることから実際の歳はもっと多かったと考えられる。白村江の戦から8年間唐に抑留されていたとすると30-40歳であろう。通説では恋人である十市皇女は高市皇子より1-6歳年上であるが、高市皇子が5-15歳年上であろう。
  77. ^ 十市皇女が死んだとき、高市皇子が贈ったその死を惜しみ、恋慕うような追慕の歌から、2人は恋愛関係にあったとされている。
    • 万葉集 薨りましし時、高市皇子尊の作りませる御歌三首歌の解釈
      • 諸の神の神杉夢にだに見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き
      • 三輪山の山辺真麻木綿短木綿かくのみゆゑに長しと思ひき
      • 山振の立ち儀いたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
  78. ^ 江戸時代天保九年(1838年)春に出土の『大化五子年土器』は「大化五子年二月十日」と記されているが、『二中歴』では大化六年(700年)が庚子で子の年となっており、この土器とは干支が1年ずれているが、干支が1年ずれた暦法が採用されたためと考えれば一致する(二つの試金石 九州年号金石文の再検討より)。一方、『日本書紀』の大化年間には全くこの年はない。従って、この土器の大化五子年は7世紀末の699年のこととなり、『二中歴』の「大化」の方が実際に使用されていたと考えられる。
  79. ^ 馬鹿の語が文献で確認できるのは、室町時代の『太平記』での「馬鹿者(バカノモノ)」の使用が初出である。
  80. ^ 蝦夷」は「毛人」と同じ意味である。蘇我蝦夷についても、「蘇我豊浦毛人」と記した記録がある。「毛人」は、小野毛人佐伯今毛人といった例があり特殊な名ではないとする反論もある。
  81. ^ 鎌倉幕府北条氏源氏嫡流滅亡の後に摂家将軍宮将軍を擁立したのと同じ様に、実力の無い者を天皇に擁立した方が当時の権力を持っていた藤原氏には都合が良かったと考えられる。
  82. ^ 『古田史学会報』96号
  83. ^ 市民の古代第12集 九州王朝の末裔たち『続日本後紀』にいた筑紫の君古賀達也
  84. ^ 百済への仏教伝来は沈流王元年(384年)と記録されている。一方、日本への仏教公伝6世紀半ば頃とされ欽明天皇代に百済の[[聖王 (百済)|]]によって伝えられたとされる。 しかし倭国と百済は親密な関係にあり、倭国への伝来が百済より200年も後とは考えられない。倭国(九州)への仏教伝来は4世紀末から5世紀初頭の頃であり、6世紀半ばの伝来は日本(畿内大和)への仏教伝来のことである。
  85. ^ 「畿内では九州より遅れて文字の使用が開始されたため、古い記録が残っておらず記紀の編纂に当たっては九州倭国の記録が多く参考にされた」とする意見がある。
  86. ^ 九州と近畿では地名の名付け方が一致している。十一組の似た地名を取り出す事が出来る。しかも位置や地形までが一致している。例えば、金印の出た志賀島の志賀と、近畿の滋賀は、どちらも音が『シガ』で、笠置山、三笠山の北にあり、水の近くにある。( 鏡味完二『日本の地名』(角川書店)昭和39年より) 安本美典はこれを発展させ、北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば、北九州・畿内二十四個の地名は、発音がほとんど一致していると指摘している。(ただし、安本美典は邪馬台国東遷説である)
    北九州:笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田→山田市→田原→笠置山
    畿内:笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田→山田→田原→笠置山
    古事記は第40代天皇の天武の序文があり、天武の勅撰とも考えられ712年には献上されたとされるのに、第33代天皇の推古までしか記されていない上に欠史十代(第24代仁賢天皇-第33代推古天皇)が存在する。日本書紀の第24代仁賢天皇-第41代天皇持統記は改竄されたものであり、特に第34代天皇舒明-第41代天皇持統記は、これが激しいと考えられる。
  87. ^ 古田は、皇室(=ヤマト王権の長)以外の豪族の王であるという説を採っている→欠史八代#その他(実在説側の主張)
  88. ^ 倭王武の上表文に「竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節」「ひそかに、みずから開府義同三司を仮に与え、その余はみな仮に授けて、もって忠節を勧める」とあり、宋代には三司が(三公も含めて)最高クラスの官位になっていることから
  89. ^ 大槻文彦『大言海』「(一)京都ヨリ遠ク隔リテ、朝政ヲ行フ所。筑紫ノ太宰府、陸奥ノ鎮守府、諸国ノ國衙ナドナリ。コレヲ、ひなのみやこ(都)トモ云フ。(二)専ラ、太宰府ノ稱。(三)又、三韓ヲモ稱ス。」『日本国語大辞典』「(1)都から遠く離れた地にある官府。陸奥の鎮守府や諸国の国衙(こくが)などがこれにあたる。(2)特に、太宰府のこと。 (3)新羅(しらぎ)に置かれた官家」
  90. ^ 柿本朝臣人麻呂筑紫国時海路作歌「大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念(細い水路を蟻が通り抜けるようにして大王の昔の首都(太宰府)に通う時、門のように並んだ二つの島(志賀島、能古島)を見ると、いよいよ繁栄していた神代の時代のことがしのばれる)」
  91. ^ 吉田東伍大日本地名辞書』、『筑前國続風土記』によると、紫宸殿、内裏の名称は安徳天皇に由来するとされるが、『平家物語』『源平盛衰記』などの記録では庁舎が戦火で消失していたため平家は大宰府政庁に宮を置いていないので、これは地名の由来を説明するための後代の創作であると考えられる。
  92. ^ 『日本書紀』天智六年条に「筑紫都督府」とある。
  93. ^ 古田史学会報No.69 阿漕的仮 さまよえる倭姫
  94. ^ 天照皇大神宮は伊野皇大神宮(倭の皇大神宮の意味か?)とも呼ばれる。
  95. ^ 日本書紀の景行天皇18年4月の条によれば、球磨川河口にある水島から真水の湧水があったとされ、最近まで大島や白島などでも湧水が自噴していた。(農業や工業用水の大量汲み上げにより近年自噴井は少なくなっている。)
  96. ^ 神風が伊勢に掛かる枕詞であるなら、山辺も御井に掛かる枕詞であると考えられる。御井も「聖泉」等の意味ではなく伊勢のように固有名詞であると考えられる。御井は日本書紀に現れる御井と考えられ、久留米市周辺である。長田王が見物したのは、久留米市近郊で発見されている曲水の宴の庭、高良大社、磐井の墓や古戦場等であったと考えられる。
  97. ^ その昔、姫様が宝物を入れた袋を船に乗せてこの地にやって来た。姫様は、美しい浜辺が気に入り、神が宿る地として永住することにした。この時の船が「船石」、宝物を入れていた袋が「袋石」となり、2つの石を合わせて「姫石」と呼ばれるようになった。
  98. ^
  99. ^ 神道発祥の地は壱岐市の月読神社といわれており、日本最古の住吉神社は壱岐市にある住吉神社や福岡市の住吉神社である。また八幡様の総本宮は宇佐神宮であり、宇佐神宮の本宮は飯塚市大分八幡宮である。
  100. ^ 「白鳳」は、『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)「白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明」という記事があり、「法興」は、法隆寺金堂(こんどう)釈迦三尊像の光背金石文や「伊予温湯碑」(愛媛県道後温泉、碑は現存せず、伊予風土記逸文(「釈日本紀」)による)などに記載がある。
  101. ^ 二中歴」によれば、「継体」という年号をもって「開始年号」としている。二中歴以外の文献では、「継体」を欠いて二つ目の「善記(善化)」から始まる。二中歴では大化は6年(700年)で終わり九州年号は終了するが、大化を9年(703年)までとし更に大長を加え、大長9年(712年)を九州年号の終わりとする説を紹介する。
  102. ^ 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版
  103. ^ 安本美典 『古代九州王朝はなかった』(新人物往来社)には、井上光貞が九州王朝説を「空中楼閣」と評したとしている。東アジアの視点で、日本の歴史を学ぶヤマト王権は鉄を使って勢力を広げたって本当?
  104. ^ 日本古代史考古学界では年輪年代学の成果から3世紀中葉に畿内を中心とする連合が形成されたとする見解が主流となりつつある(参照:白石太一郎 『古墳とヤマト政権』 文藝春秋、1999 ISBN 4166600362)。
  105. ^ 一例を挙げると、同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書を優先、自国史書より利害関係のない外国史書を優先という方法により立論していながら自説と矛盾する『通典』を無視していると思われる発言を支持者がしている。(出典:古田史学の会 横田幸男の発言に「最後に当会は、屁理屈も理屈であると言われる日野陽仁(川村明)氏の九州王朝説批判を批判することはありません。これは、当会の考えとして元の史料である『通典』『唐会要』『太平御覧』の史料批判から出発すべきだと考えるからです。それらの史料性格については、大昔に古田氏が『邪馬臺国の常識』(松本清張編 毎日新聞社)で論じているところであり、新しい知見や再解釈が行なわれば公開させていただきます。そんなことは当面ありそうにないです。」とあり、『通典』とそれを根拠にした批判を無視していくことを公言している。なお、別の九州王朝説論者による批判は存在する。)。
  106. ^ 山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986 ISBN 406148835X P62、P255-参照。張明澄「誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば』久保書店、1992 は「古田説はただの帳尻合わせ」とする。謝銘仁 『邪馬台国 中国人はこう読む』 立風書房、1983は「水行十日・陸行一月」を帯方郡からのトータルの所要日数とする古田説について、極端な漢文の読み方であり問題にならないとする。『歴史と旅』秋田書店、1984「東アジアからみた邪馬台国」「魏志倭人伝の読み方、日本人のここが間違っている 謝銘仁vs張明澄 司会安本美典」は「水行十日陸行一月」について「帯方郡から邪馬台国まで、すなわち全行程(たとえば古田説)に要した距離ではない。漢文上そういう読み方は無理。その場合は「自帯方郡・・・至邪馬台国…」のようになる。」とする。
  107. ^ 『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説では上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとするものもある。