氷上川継の乱

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氷上川継の乱(ひがみのかわつぐのらん)は奈良時代のクーデタ未遂事件。天武天皇の曾孫の氷上川継が謀反を計画し、事前に発覚して失敗したというものである。

宝亀元年(770年)8月に称徳天皇が死に、天智天皇の孫の白壁王が践祚した(光仁天皇)。壬申の乱以来、天武天皇の子孫が皇位を世襲してきたが、打ち続いた政変で天武系の皇族の多くがあるいは殺され、あるいは処罰されて政治生命を失い、あるいは賜姓されて臣下の身分となっていた。称徳の死によりそれまで維持されてきた〈天武-草壁-文武-聖武-称徳〉という皇位の直系継承は途絶え、天智系の天皇が復活することになった。ただし、光仁の即位については、彼が聖武天皇の娘井上内親王を妻とし、井上とのあいだに子息他戸親王をもうけていたことが大きく与っており、女系では天武系の天皇ということもできる。

氷上川継は、新田部親王の子息塩焼王(「氷上真人」の氏姓を与えられて「氷上塩焼」となっていた)と、聖武天皇の娘不破内親王(井上の同母姉妹)のあいだに生まれた子で、天武の曾孫にあたる。しかし、父の塩焼が藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとして殺害され、母の不破も称徳を呪詛したとして皇親の身分を奪われており、称徳死後の皇位継承候補には挙げられていない。しかし、父と母の双方を通じて天武につながっているその血統は、反政府勢力の期待を集めるとともに、政府側の警戒をも招いた。

天応元年(781年)4月、光仁は皇太子山部親王に譲位した(桓武天皇)。太上天皇となった光仁は同年12月に死去する。翌天応2年(782年)閏正月10日、川継の資人であった大和乙人が、密かに武器を帯びて宮中に侵入し発見されて逮捕されるという事件が起きた。乙人は尋問を受けて川継を首謀者とする謀反の計画があることを自白する。内容は、同日の夜、川継が一味を集めて北門から平城宮に押し入り、朝廷を転覆しようというものであった。翌11日、川継を召喚する勅使が派遣されたが、川継はこれを知って逃亡したので、三関固関と川継の逮捕が命じられた。14日に至って川継は大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。

川継の罪は死刑に値するところ、光仁の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国へ遠流とされた。川継の妻藤原法壱も夫に同行した。母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流された。さらに連坐して、法壱の父である参議藤原浜成はおりから大宰員外帥として大宰府に赴任していたが参議を解任された。浜成の属する藤原京家はこれをきっかけに凋落に向かう。この後、京家出身の公卿は、浜成の子藤原継彦が非参議の従三位、孫の冬緒大納言となったのみで、やがて歴史から消えてゆくこととなる。

また、山上船主隠岐介三方王日向介に左遷されている。この2人はさらに同年3月、天皇を呪詛したとして船主は隠岐に、三方は共謀したとされた妻弓削女王とともに日向に流された。参議左大弁大伴家持右衛士督坂上苅田麻呂もその官職を解かれた。伊勢老人大原美気・藤原継彦の3名はときに散位であったため平城京内への居住を禁止されている。『続日本紀』同年閏正月14日条によれば、そのほかにも連坐する者が35名いたという。6月には右大臣藤原魚名が罷免されて大宰帥に任じられ現地に赴任している。これも事件に関連した事実上の配流である。なお、家持と苅田麻呂は同年5月には復職している。

すでに宝亀3年(772年)7月に他戸が皇太子を廃され、宝亀6年(775年)4月、幽閉の身で母井上と同日に変死をとげており、この事件によって天武系の皇族は皇位継承から完全に排除された。

川継は、延暦24年(805年)3月に罪を許され、その後帰京して大同元年(806年)3月には従五位下に復している。

[編集] 参考文献

  • 阿部猛 「天応二年の氷上川継事件」 『平安前期政治史の研究・新訂版』高科書店、1990年。
  • 亀田隆之 「氷上川継事件」 『奈良時代の政治と制度』吉川弘文館、2001年。
  • 木本好信 「氷上川継事件と藤原浜成」 『文化情報学科研究報告』1 甲子園短期大学、2006年。
  • 中川収 「桓武朝政権の成立(上)」 『日本歴史』288号、1972年。
  • 林陸朗 「奈良朝後期宮廷の暗雲」 『上代政治社会の研究』吉川弘文館、1969年。
  • 宇治谷孟 『続日本紀 全現代語訳』 講談社〈講談社学術文庫〉、1992年。
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