家永三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本歴史家(日本思想史)、東京教育大学名誉教授文学博士東京大学)。

来歴[編集]

学歴[編集]

職歴[編集]

学内事務・研究歴[編集]

東京教育大学では文学部の人事権の「民主化」と教授会の創設に尽力した。

  • 教育二法の制定(1954年 )などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加。
  • 東大ポポロ事件を巡り、松川事件を取り上げる演劇を監視していた私服警官に暴行を加えた学生に対して大学自治を理由に無罪判決を下した1954年第一審判決を支持。
  • 1959年 東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこなった。

東京教育大改組移転関係史[編集]

  • 1963年 キャンパスの敷地の狭隘さを理由として三輪知雄学長により提案された東京教育大学の筑波移転計画を巡っては、教育学部、理学部、農学部、体育学部が賛成する一方で、家永をはじめとする文学部は人文科学の研究・教育にとっては史料が豊富にある東京に残ることが必須であると主張し強く反対。
  • 1967年 長期にわたる議論を経ても合意に至らず、東京教育大学評議会は筑波における土地取得を開始。
  • 1968年 筑波移転に反対する文学部自治会の所属学生が校舎と大学本部のある本館を占拠するなど紛争が激化。自治会学生たちは教授陣はすべて権力側であるとみなし、移転反対派の家永に対しても団交などで激しい罵声を浴びせた。
  • 1969年 宮島竜興学長事務取扱(学長代行)が機動隊の入構を許可し学生を排除、家永はこれをクーデターであると批判。
  • 1969年9月 文学部が授業を再開しようとしたところ学長は学生のキャンパス入構を拒否、学生による学長に対する提訴により執行停止。
  • 1970年 同大学評議会、文学部の教授、助教授、専任講師の人事権に制限を加え、筑波移転に賛同しないものの採用を停止。元文学部長の星野慎一、前文学部長の入江勇起男、および家永の3人の文学部教授の辞職を文学部教授会に要求したが、文学部教授会はこれを拒否した。家永は筑波移転問題を「反動文教政策」の一環であると述べており、教授陣による自治的な大学の運営体制から学長を中心とした中央集権的な運営に移管させること、政府および財界が大学への介入をもくろんでいたことが原因であると主張している。
  • 1973年 筑波大学法が制定、筑波移転が正式決定。家永は筑波大学について「きわめて非民主的な、従来の国立大学とは全く異質」な大学であると述べている[1]。筑波移転と改組に伴い文学部の学生募集が停止、家永の定年退官である1977年には同学部定員がほぼゼロとなっていた。

高校日本史教科書関係史[編集]

  • 1955年 自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立
  • 1957年 第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出した[1]
  • 1963年 「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年年に条件付きで合格。この際には300余りの修正意見が付された。教科用図書検定制度に対する反対意見を強める
  • 1965年 教科書検定違憲訴訟を提起
  • 1967年 「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟を提起。

研究業績[編集]

日本思想史研究[編集]

当初の専攻は日本古代思想史であり、特に仏教思想史研究で成果をあげたが、次第に研究領域を広げ、後半生では反権力的姿勢を強め、その立場からの社会的発言をおこなったほか、植木枝盛美濃部達吉津田左右吉田辺元など、同様の傾向を持った近代思想家に対する共感を込めた研究や第二次世界大戦に関する反省からの思想史的アプローチを試みた論著を多く発表した。中でも『太平洋戦争』は広く読まれ、大きな影響力を持った。

反権力的自由主義者[編集]

家永の活動は表現の自由を求める運動として海外において評価され[4]2001年には、日本の国会議員・大学教授83名のほか、中国韓国アメリカカナダEUの14名の閣僚・国会議員、ノーム・チョムスキーハーバート・ビックスブルース・カミングスジョン・ダワーイマニュエル・ウォーラステイン、鄭在貞等144名の学者によって、ノーベル平和賞候補者に推薦された。

家永三郎文庫[編集]

家永の蔵書の大部分(約12,000点)は遺族の希望に基づき、中国天津市にある南開大学の日本研究所に寄贈された。また、家永が『植木枝盛研究』(岩波書店)等の執筆に際して蒐集した明治期の出版物を中心とする文献資料は、町田市自由民権資料館に収蔵されており、それぞれ「家永三郎文庫」と命名されている。

評価[編集]

家永は当初から反権力的志向だというわけではなく、青年期には陸軍士官学校教官を志望し受験するも、胃腸に慢性的な持病があったため身体検査で落とされるという経歴を持っている。また戦後も、昭和天皇に進講したり、学習院高等科の学生だった皇太子(後の今上天皇)に歴史を講ずるなど皇室との係わりを持っていた。

家永は日本国憲法下で『教育勅語成立の思想史的考察』(史学雑誌第56巻第12号1-19頁1947年12月、「日本思想史の諸問題」P119-146斎藤書店1948)という論文を発表しているが、この中で明治天皇と教育勅語を高く評価[5]している。また、『新日本史』(1947冨山房)にも明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も数年間は穏健かつ保守的な史観に依拠する立場をとっていた。それは、敗戦直後のてのひらを返したような言論界・思想界の豹変ぶりや、歴史学界における史的唯物論の風靡に、違和感をいだき反発の姿勢を示したことによる[6]

家永の思想が反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる1950年代の社会状況に対する反発が背景にあり、そのころに憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている[7]

特に1960年に刊行した『植木枝盛研究』以降は、人権理念を自らの思想の中核に据えて、国家権力と対峙するような問題に取り組むようになっていった。

沖縄戦集団自決の記述[編集]

 問題の箇所を示す。

『太平洋戦争』岩波書店1968年初版
 沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊の赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供出して自殺せよと命じ、柔順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。米軍に占領された伊江島の住民が投降勧告にくるとこれを殺し、島民の防衛隊員で命令違反という理由で殺されたものも何人かいた。
 座間味島の梅沢隊長は、老人こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った。

改訂版では、渡嘉敷島の箇所のみ修正されたが、訴訟で原告からきびしく指摘された。

『太平洋戦争』岩波書店1986年2版
 沖縄の慶良問列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。


この裁判は原告の全面敗訴で決着しており、現在も本書は、この記述のまま出版が続けられている。

『日本占領秘史』絶版の真相[編集]

秦郁彦の講演をまとめた『日本占領秘史』下巻(1977朝日新聞社P102-103)に「戦争中に心ならずも…軍部に迎合したり戦争を礼讃するような論文などを発表した人たちが今度はアメリカ民主主義の礼讃者あるいは平和主義者に早変わりする。清水幾太郎とか家永三郎とかいう人たちはこの変節組です」という記載があったため、家永が厳重に抗議した。
1977年12月、佐伯真光の立会いの元で秦は家永と交渉した。秦は表現の修正には応じるとしたが、家永は納得せず、1.問題部分の全面削除、2.再版に陳謝の意味で断り書きを入れる、3.初版についての措置を別に要求、4.応じなければ名誉毀損で告訴するとした。 秦は『変節』の一例をあげた。

『新日本史』(1947冨山房)
「(日露開戦を決め)天皇は大奥入御の後も御悲しみのためしばらく御言葉がなく御目には御涙をたたえさせられていたと伝えられる」
「無益なる戦争を中止して国民を戦火より救おうと決意遊ばされた天皇陛下の聖断により…降伏が通告された」
『昭和の戦後史』(1976):天皇とマッカーサーの第1回会談
「開襟シャツスタイルの連合軍最高司令官マッカーサーの横に背の低いモーニング姿の日本人が並んで立つ写真が新聞紙に掲載されたのを見た国民は…」

家永は「皇室への見方が徐々に変わったが、知識面で戦前の後遺症があり、当時は知的水準が低かった。節操が変わったのではない。」と反論した。会談は物別れに終わり、結局本書は絶版となり、1978年元日の読売・産経で報道された。
佐伯は読売(1978年1月5日)に「戦前から戦後にかけて、家永氏の思想は180度の転換をとげている」との投書をのせ、家永は同紙(同年1月10日)に「文献をゆがめて引用」と反論の投書をのせた。
その後朝日ジャーナル(1978年1月20日)は家永の反論記事をのせたが、秦の投稿は掲載しなかったため、秦は産経(同年1月22日)で家永批判を続けた。
また、西義之は正論(78年3月pp88-93)に『津田左右吉博士は変節者か―家永・秦論争に関連して』[8]を著し、家永が自著で津田を「ろくろく勉強もせず、資料も事実認識もなしに」と酷評している点に関し、「死者の名誉毀損にならないだろうか」と批判した。
家永はマスコミ市民(1978年4月)で再び反論し、「新日本史」は「終戦直後に早変わりしておらず、軍部に迎合も戦争礼賛もしていない」と著した。
この『変節論争』は、秦の批判は「昭和史を縦走する」(1984)と「現代史の争点」(1998)にまとめられ、家永の反論は「憲法・裁判・人権」(1997名著刊行会)にまとめられた。
本書は問題の箇所を改訂せずに1986年に早川書房より文庫化された。巻末の解説に金原左門は、家永は変節組の代表ではないと著した。
秦は1987年、家永第3次訴訟の国側証人として東京地裁で証言したとき、天皇観の極端な振幅を示した「新日本史」(1947)の例をあげ、「こういう振幅の多い方は、次代の青少年を教育する教科書執筆者には適当でない」と述べた。
1990年になり、家永は「私と天皇制・天皇」を書き留めたが、内容は死後に初めて公表された。

『一歴史学者の歩み』(2003岩波)
・・・「新日本史」(1947)は皇室に関し敬語を用い、天皇中心史観とでもいうべき見方(ただし天皇不親政を日本君主制の伝統とする点で、戦前の天皇親政を「国体の本義」とする正統的皇国史観と同じではないが)が随所に散見する。(中略)
このような天皇崇敬の意識は、十五年戦争の終結について昭和天皇の「聖断」を特筆することにもなっている。

731部隊と従軍慰安婦[編集]

第三次家永訴訟で国側証人の秦郁彦は、1983年の教科書検定の時点では731部隊に関しては信用に堪え得る学術研究論文や著書が発表されていないと、同部隊に関する記述の全面削除を検定合格の条件とした文部省を支持した[9]。しかるに最高裁大野判決では、検定当時すでに731部隊に関して多数の文献・資料が公刊され、同部隊の存在等を否定する学説はみあたらず、文部省は裁量権の範囲を逸脱したとした。
家永は『戦争責任』(岩波書店1985,pp104-107)で吉田清治の『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房1983)の記事を4頁にわたり転載し、済州島での従軍慰安婦の強制連行の記事を掲載した。また『太平洋戦争2版』(岩波書店1986,pp198)でもやはり吉田の著書を引用して著した。秦は1992年現地調査を行い、吉田の記事が事実無根と報告した(吉田清治の項参照)。
731部隊に関しては家永が勝訴した。一方で、従軍慰安婦に関しては秦に軍配が上がった。

『上代仏教思想史研究』と変節[編集]

『上代仏教思想史研究』は(1)1942年初版(畝傍書房)、(2)1948年再版(目黒書房)、(3)1950年三版(目黒書房)、(4)1966年四版(法蔵館)の4種の版が存在する。秦は産経新聞(78/1/22)で本著に関し家永批判を著した。「『上代仏教思想史研究』は(1)の序文に『この意義深き時に当たり学界の一兵卒として学問報国の鮮烈に参加することの出来た吾人は誠に願っても無き幸せ者…以て君国に報じたい』とある。しかるに(2)ではこの箇所が削除改変され、(3)(4)では復活した」

これに対し家永はこう反論した。

『誹謗に抗して』マスコミ市民(1978/4)、「憲法・裁判・人権」(1997名著刊行会)pp152-170より抜粋
官憲の網にひっかからないようにくふうして表現した苦心の文章にほかならない。(中略)
文章の全体は文脈は今日そのまま私の信念として少しも変わっておらず、恥かしい文章であるとは全然考えていない。
だからこの一節は1950年版にも1966年版にも、そのまま活字として載せてあるのである。秦氏によると、1948年版には削られているという。
あいにく私の手許に48年版がなく、削った記憶もないが、削られているとすれば、占領軍の検閲でひっかかるのを避けるためであったにちがいない。恥かしいと思ったからでないことだけは確実で、その2年後の50年版に初版どおり復原してあるのがその証拠である。

しかしこれでは、同じ占領下の(3)に復活した理由付けにならない。そもそも『新日本史』(1947)の記載は占領軍の検閲をパスしているはずである。これに対して佐伯真光は「『上代仏教思想史研究』の象嵌」[10]を著し、(1)~(4)各版を詳細に比較し、家永の旧著を引用した。

『歴史の危機に面して』(1954東京大学出版会)pp236-239
自分の書いたものが活字になる、というのは、うれしいようで、一面恐しいことでもある。一度活字になったら最後、どんな恥しいまちがいがあつても、抹殺する方法がないからである。
 ある大先輩は、一生に何千という論文を雑誌に発表したが、ほとんど単行本らしい単行本を作らなかった。雑誌に発表した論文なら、すぐまた前のを訂正した論文が出せるけれど、単行本にまちがったことを書くと、世を誤る責任が重い、というのが理由だったそうである。その学者的良心のきびしさには敬服するが、ちと単行本の読者を見くびり過ぎてはいないだろうか。私なぞは反対に、読者からまちがいを教えてもらおうという虫のよい考えで、本を出している。
 まちがいを抹殺する方法はないが、訂正する方法はないではないのである。日本の出版界は改版ごとに組みかえを許してくれるほどの余裕はないようだが、象嵌訂正くらいならできる。
もっとも、私は象嵌訂正でにがい経験を味わった。「上代仏教思想史研究」という本を、目黒書店で再版するというので、象嵌訂正をした。その次に重版を出すとき、再度の象嵌訂正をしたが、本が出て見て驚いたことには、二度目の訂正はちゃんと出ているかわりに、最初の訂正がまたいつのまにか初刷通りにもどっている。最初の象嵌訂正で紙型を改めたとき、古い紙型が廃棄されずに残っていて、それが二度目の重刷のときに誤って使用されてしまったのである。
再版と三版との間にこんな複雑な閑係があることは、おそらく書誌学者も御存知ないことと思うから、参考のために書いて置く。

つまり(2)で訂正したはずだが、(1)の紙型が残っていたため、(3)を出版する時に誤って使ってしまった訳である。

それでは(4)でどうして(1)の内容が掲載されたかという疑問が生じる。昭和30年代後半から家永を変節者として攻撃する声が高まった。『津田左右吉の思想的研究』(1972岩波書店)で、家永は津田の文章が戦前と戦後とでどう改訂されたか詳細な調査をしたが、家永自身も将来他の研究者により調査されると感じていた。自身の首尾一貫性を主張するために、(2)の存在を抹殺する必要があったが、結果的に変節を証明したと、佐伯は結んでいる。大倉山論集での批判に、家永はまったく反論していない。

『津田左右吉の思想史的研究』への評価[編集]

『津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店1972) 序文ⅱ~ⅲ  たまたま、一九六五年以来、私は教科書裁判という前例のない裁判の原告としてはげしい攻防戦の渦中に立つ身となったが、その争いの中で、争点の一つとなっている検定不合格箇所が、戦前の津田の研究成果に立脚して書かれたものでありながら、これを不合格とした文部省は、その不合格処分を正当化する証拠として戦後の津田の著作を法廷に提出するという、奇怪なできことに遭遇した。
訴訟当事者として理論的にゆるぎのない裏づけをするためにも、私は、戦前の津田と戦後の津田とを統一的に再認識することにより、文部省に右のような手口で利用されることとなった客観的根拠をきびしく洗い出してみなければならないと考え、津田左右吉の総合的な研究を、一日も早く完成する必要を、改めて強く感ずるにいたったのである。
P596~597 教科書訴訟は二つの訴訟の総称であるが、ここでは便宜第二次訴訟のほうだけによって述べると、昭和四十二年三月二十九日、教科書検定権者である文部大臣は家永三郎著作高等学校用教科書原稿の一説「『古事記』も『日本書紀』も『神代』の物語から始まっている。『神代』の物語はもちろんのこと、神武天皇以後の最初の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語であるが」とある部分を不合格処分に付したので、著者はその取消しを求める訴訟を東京地方裁判所に起し、この叙述は、津田左右吉の学説によったものであって「学界の殆んど異論のない最大公約数的命題」であり、著者の学問的見解に基く記述の当否を公権力により審査する検定処分は憲法に違反する、と主張した。
このように津田の学説に立脚した叙述の検定不合格処分の取消しを求めるこの訴訟は、津田学説が皇室の尊厳を冒涜したと称して行なわれた戦争中の刑事裁判のいわば復讐戦ともいうべき性格を帯びていたが、被告文部大臣は、戦後の津田の論文の一部を乙第二一号証・乙第五二号証として提出し、原告の主張に対する抗弁のために用いた。

本書に対する学術評価を列挙すると、ひろたまさき[11]は「本書は教科書裁判闘争によって産み落とされた成果であるとともに、その裁判のための学問的な武器としてもつくられた」と評価した。兵頭高夫[12]は「家永氏が津田の『思想史的変貌』あるいは『転向』と呼ぶものが必ずしも十分に根拠のあるものではないことが理解できよう」と述べ、西義之[13]田中卓[14]も家永の論理の弱点を指摘した。木村時夫[15]も「家永氏の今度の書物は、津田の学問的業績を日本の思想史上に位置づける学問研究ではない」と批判した。

教育勅語に関する見解の変遷[編集]

家永は、戦後に教育勅語についての皇国史観に満ちた論文を『史学雑誌』(1947年12月)に発表した。

「教育勅語成立の思想史的考察(史学雑誌56巻12号pp1-19)
(教育勅語は)立憲政治の道徳を積極的に高揚してゐる。「常ニ國憲ヲ思シ國法ニ遵ヒ」の一句がそれであつて…(中略)
でき上った勅語の内容は……頗る普遍性豊かにして、近代的国家道徳を多分に盛った教訓となつたのである。(中略)
勅語の不当不偏精神の由つて来る処は昭々として明と云はなければならぬ。(中略)
教育勅語にある「常ニ國憲ヲ思シ國法ニ遵ヒ」と云ふ此の一句に就ては、……明治天皇は、久しき間、其案を御手許へ御留置になつて、この点に就ては、深く叡慮を悩ませられたのであつたが、遂に此句は現今の時勢に於いては必要である、と云ふことに御裁定遊ばされたとのことである。(中略)
……明治の時代精神、個別的に云へば明治天皇の進歩的御精神を考へないではゐられない。天皇が如何に進取の御精神に富ませ給うたかは御製によって明白にうかがうことができる。(中略)
教育勅語はかくの如くにして今日拝するが如き形となって渙発せられた。(中略)
明治天皇の御思想を最も直接に拝すべき資料は御製である。詔勅には輔弼の臣僚の思想が多く加はつてゐるが、御製にはそのことがない上に、もともと他に示す御意なくして御詠みになつたものであるから(井上通泰博士「明治天皇御製編纂に就て」)、御胸裏の精神が最も明に流露してゐると解しまつつてまちがひなからう。

翌年、下記の部分を加筆し、単行本化した。

教育勅語成立の思想史的考察」:『日本思想史の諸問題』pp119-146斎藤書店1948年4月
(140頁) 何故ならば、「常ニ國憲ヲ思シ國法ニ遵ヒ……扶翼スヘシ」といふ近代的国家道徳を掲げているこの勅語には、「忠」といふが如き君臣の個人的関係を主とする儒教的な道義はもはや必要ないからであつて、勅語が儒教的道徳に跼蹐してゐないことをきはめて明白に示してゐるのである。これを要するに、勅語は、明治といふ時代的制約を逃れてゐないことは勿論にせよ、比較的よく封建道徳の思想を脱却し得たのであつて…

1963年4月12日に文部省で検定不合格理由の説明を受けた家永は、国会の参考人としていきさつを述べた。

43回国会参院文教委員会(1963//6/25) [5]
家永三郎:まず最初に問題になりました教科書原稿の本文をちょっと朗読いたします。それは「教育勅語」という小見出しでありまして、「憲法によって、法律上から天皇主権の国家体制を確立した政府は、――これは明治憲法の制定を意味しておりますが、――「精神的にも国民のこの体制に対する忠誠を確保しようとして、1890年(明治23年)教育勅語を発した。」そのあと小文字にかわりまして、「その翌年、勅語に対して礼拝しなかったキリスト教徒内村鑑三は、不敬漢として排斥され、第二局等中学校教師の職を失った。そのころから学校では、御真影への最敬礼や教育勅語の捧読を行なって、国民精神の統一をはかろうとした。」こうございますが、これに対して、これが不合格理由の一つとなっております。
その際に、文部省の渡辺調査官が申されましたことを、私の記憶であとからメモしたメモによりますと、教育勅語の内容を少しもしるさないで、このようなことだけをしるしているのは一面的な扱いである。そういう趣旨のことを言われたと記憶しております。
そこで私は、直ちにその場において、これに反駁いたしまして、ここでは確かに教育勅語の内容は書いてない。しかし、私の学問的な研究の結果によりますれば、教育勅語の社会的役割というものは、その内容によってというよりも、むしろそれがこの三大節あるいは四大節などの祝日において、おごそかな口調で捧読され、子供たちが頭をたれてこれを聞くというような儀式を通じて子供たちの精神に影響力を与えたということが主であって、あのむずかしい漢文口調の教育勅語が、小学校の低学年の児童などに全部理解されたはずはないわけであり、したがって、教育勅語の内容ということは私は客観的な、社会的役割においては、それほど大きなものであったと認めることはできない。
むしろ教育勅語の精神に基づいて、修身教科書その他の国定教科書が編さんされ、その中で教育勅語の定めていることが、具体的にこの子供たちに伝えられた。その点がむしろ重要であるから、自分は別の場所において国定教科書の特色を具体的にあげてある。
したがって、実質的にはこの教科書原稿では、教育勅語の実質的内容に触れてあるわけであって、教育勅語の内容が書いてないということは、これは意識的に書く必要がないということを判断したから書かなかったので、決して一方的な取り扱いではなく、むしろ勅語が出たとたんに内村鑑三事件などが起こっているところにこそ、大きな歴史的意義があるのである、そういう説明をいたしましたが、これに対しては、調査官からは別に再反論はございませんでした。そのいきさつは以上のとおりでございます。

家永はこの検定内容を不服として、家永教科書裁判・第一次訴訟をおこした。

『太平洋戦争』1968初版P40
勅語中にも「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」という軍国主義的至上命令がふくまれているのはみのがせない。
また、勅語には「国憲ヲ重ジ国法二遵ヒ」の一句があり、形式的には立憲政治を前提とするたてまえをとっているけれど、本来国家権力の限界を画し人権の保障を究極目的とする近代憲法の基本理念が逆転し、権力の制限ではなく国民の一方的遵法のみを強調するという形でしか憲法にふれえなかった勅語に、人権尊重の精神の全然欠如していたことはいうまでもない[16]
教育勅語の精神にしたがって展開される公教育が、近代杓憲法理念とは全く相反する権力への無条件服従の方向に傾斜して行ったのは、当然であった。

家永は自著の引用文献として『日本近代憲法思想史研究』をあげたが、『教育勅語成立の思想史的考察』には触れていない。
後年「日本歴史大事典6」「国史大辞典4」「家永三郎集3」に教育勅語についての解説文を掲載したが、内容は1948年当時とは大幅に変更された。
90年になって『教育勅語成立の思想史的考察』について、「戦時下の知識・思想への反省と改造とにただちに着手するのを怠るという失敗を犯してしまった。そのひとつとして戦時下に教育勅語について考えてたことをそのまま…公表し…」と自己批判した[17]

高校日本史教科書執筆と教科書裁判[編集]

家永は、戦後間もなく編纂された歴史教科書『くにのあゆみ』の執筆者の1人であったが、その後長く高校日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)の執筆を手がけた。通常、歴史教科書は、専門分野を異にする複数の著者によって執筆されるが、『新日本史』は、全体の照応、前後の照応や教科書著述の一貫性を貫くため、家永の単独著作で発行された。

自身の執筆した日本史教科書における南京大虐殺731部隊沖縄戦などについての記述を認めず、検定基準を不当に解釈して理由をこじつけた文部省に対して、検定制度は違憲であるとして三次の裁判を起こし、教科書検定を巡る問題を世間に広く知らしめた。訴訟における最大の争点であった「教科書検定は憲法違反である」とする家永側主張は、最高裁にて「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」として、家永側の主張の大部分が退けられ、家永側の実質的敗訴が確定した。一方で、個別の検定内容については一部が不当とされ、家永側の主張が容れられた。

教科書の発行に関しては、自由発行・自由採択であるべきだとの持論を教科書裁判提訴の頃より一貫して明らかにしており、80年代半ばの『新編日本史』を巡る議論が盛んだった時期には、記者の取材に「立場は違うが、検定で落とせとは口が裂けても言えない」と語り検定を否定し続けた[18]

著書[編集]

著作集[編集]

  • 家永三郎集全16巻 岩波書店、1997-1999年[6]
    • (1)思想史論
    • (2)仏教思想史論
    • (3)道徳思想史論
    • (4)近代思想史論
    • (5)思想家論1
    • (6)思想家論2
    • (7)思想家論3
    • (8)裁判批判 教科書検定論
    • (9)法史論
    • (10)学問の自由 大学自治論
    • (11)芸術思想史論
    • (12)評論1 十五年戦争
    • (13)評論2 裁判問題
    • (14)評論3 歴史教育・教科書裁判
    • (15)評論4 大学問題・時評
    • (16)自伝

全集にすると50巻にもなるため、高価すぎて売れないと岩波書店は判断し、代表作のみの出版とした。文庫・新書で版を重ねた「太平洋戦争」「戦争責任」「日本文化史」は最初から除外し、家永の了解を得て16巻にまとめた[19]。その結果、恩賜賞の対象となった『上代倭絵全史』『上代倭絵年表』、『教育勅語成立の思想史的考察』『植木枝盛研究』や『津田左右吉の思想史的研究』は収載されなかった。16巻の著作目録には、すべてタイトルが掲載されている。16巻の『一歴史学者の歩み』は2003年に文庫本化された。

単著[編集]

  • 『日本思想史に於ける否定の理論の発達』(弘文堂、1935年)
  • 『日本思想史に於ける宗教的自然観の展開』(斎藤書店、1942年)
  • 『上代倭絵全史』(高桐書院、1946年)学士院恩賜賞受賞
  • 『上代仏教思想史』(畝傍書房、1947年)
  • 『新日本史』(冨山房、1947年)
  • 『日本思想史の諸問題』(斎藤書店、1948年)
  • 『新しい日本の歴史』(毎日新聞社、1950年)
  • 『新国史概説』(富士書店、1950年)
  • 『中世仏教思想史研究』(法藏館、1952年)
  • 『新日本史』(三省堂、1952年~1994年)
  • 『上宮聖徳法王帝説の研究』(三省堂、1953年)
  • 『外来文化摂取史論:近代西洋文化摂取の思想的考察』(岩崎書店、1953年)
  • 『歴史の危機に面して』(東京大学出版会、1954年)
  • 『革命思想の先駆者:植木枝盛の人と思想』(岩波書店、1955年)
  • 『日本の近代史学』(日本評論新社、1957年)
  • 『植木枝盛研究』(岩波書店 1960年8月)ISBN 4000001590
  • 『近代日本の思想家』(有信堂、1962年)
  • 『大学の自由の歴史』(塙書房、1962年)
  • 『司法権独立の歴史的考察』(日本評論新社、1962年)
  • 『美濃部達吉の思想史的研究』(岩波書店、1964年)
  • 『権力悪とのたたかい 正木ひろしの思想活動』(弘文堂、1964年)
  • 『教科書検定:教育をゆがめる教育行政』(日本評論社、1965年)
  • 『新講日本史』(三省堂、1967年7月)
  • 『近代日本の争点』(毎日新聞社、1967年)
  • 『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店、1967年)
  • 『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)
  • 『教育裁判と抵抗の思想』(三省堂、1969年)
  • 『津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店、1972年)
  • 『田辺元の思想史的研究:戦争と哲学者』(法政大学出版局、1974年)
  • 『検定不合格日本史』(三一書房、1974年)
  • 『日本人の洋服観の変遷』(ドメス出版、1976年)
  • 『東京教育大学文学部:栄光と受難の三十年』(現代史出版会/徳間書店、1978年2月)
  • 『歴史と責任』(中央大学出版部、1979年)
  • 『猿楽能の思想史的考察』(法政大学出版局、1980年4月)
  • 『親鸞を語る』(三省堂、1980年6月)
  • 『戦争と教育をめぐって』(法政大学出版局、1981年4月)
  • 『「密室」検定の記録』(教科書検定訴訟を支援する全国連絡会、1983年1月)
  • 『刀差す身の情なさ―家永三郎論文創作集』 (中央大学出版部、1985年)
  • 『戦争責任』(岩波書店、1985年7月)ISBN 4-00-001167-7
  • 『太平洋戦争 第2版』(岩波書店、1986年11月)ISBN 4-00-004536-9
  • 『日本思想史学の方法』(名著刊行会、1993年3月)
  • 『真城子』(民衆社、1996年)ISBN 4-8383-0519-2
  • 『一歴史学者の歩み』(岩波書店2003年5月16日ISBN 4006030797

編著[編集]

論文[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d 「人間の記録 35巻 家永三郎」(日本図書センター 1997年)
  2. ^ 日本学士院紀要6巻2・3号pp10~12
  3. ^ 博士論文書誌データベース
  4. ^ Jonathan Watts(2002) Saburo Ienaga: One man's campaign against Japanese censorship. The Guardian, 3 December 2002 (ジョナサン・ワッツ(2002)家永三郎:ある男の日本の検閲制度への反対運動 2002年12月3日付ガーディアン紙)
  5. ^ 教育勅語は1948年に国会本会議で排除・失効決議がされたが、1946年10月からGHQの意向によって公教育における教育勅語の奉読が禁止され始めていた。
  6. ^ 『家永三郎集』16 pp.104-105
  7. ^ 『家永三郎集』16 pp.108-123
  8. ^ 再編され『変節の知識人たち』(PHP研究所1979)に収録された
  9. ^ 『現代史の争点』(文藝春秋社1998)
  10. ^ 大倉山論集13号pp135-159,1978/3
  11. ^ 歴史学研究391号pp60-65
  12. ^ 比較文學研究24号pp162-168
  13. ^ 『変節の知識人たち』(PHP研究所1979)
  14. ^ 『祖国再建⑦』正論2004年7月pp350-361, 『祖国再建・上』(青々企画2006):家永教科書裁判に秘められた陥穽
  15. ^ 早稲田人文自然科学研究10号pp23-52 [1]
  16. ^ 家永三郎『日本近代憲法思想史研究』
  17. ^ 「教育勅語をめぐる国家と教育の関係」(日本近代思想大系6巻月報(1990/11)pp2-4、「憲法・裁判・人間」pp16-21<1997名著刊行会>。両著とも『教育勅語の思想史的考察』と誤記)
  18. ^ 1993/03/18 読売新聞朝刊[2]
  19. ^ 日本古書通信64(7)pp6-8 (1999.7)

外部リンク[編集]