伊都国
伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』にみえる倭国内の国の一つである。『魏志倭人伝』によれば、末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に比定されている。
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[編集] 概要
『魏志倭人伝』には、次のように記されている。
- 東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐(『魏志』倭人伝)
- 原文のおよその意味は、「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。1000余戸の家があり、世[1]に王があり、みなは[2]女王國に属する。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来する時、常にここにとどまる。」ということである。
伊都国は朝鮮半島中央部の西海岸にあった、帯方郡の支配を受けていたことが「魏志倭人伝」から窺える。支配と言っても、実際の統治は伊都国の王が行っていて、帯方郡からは役人が派遣され常駐していたと言われる。帯方郡は、西暦238年から中国の魏の支配下に入ったため、3世紀の半ば頃からは倭人を巡る国際関係は一変したと言う。
『魏志倭人伝』の中で王が居たと明記されている倭の国は伊都國と女王國と狗奴國で、他の国々には長官、副官等の役人名程度しか記されていない。
漢字の伊の字は「神の意志を伝える聖職者」、あるいは「治める人」の意を表す。都は「みやこ」の意味だが…。
[編集] 一大率
一大率は、卑弥呼の王権によって任命された派遣官である。倭国の官人である。その官名は城郭の四方を守る将軍である大率に由来する(道教の古典とされる『墨子』の「迎敵祠」条)。『魏志倭人伝』には、次のように書かれている。
- 自女王國以北、特置一大率、検察諸國畏揮之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳邊文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。
- 原文のおよその意味は、「女王国より北には、特別に一(人)の大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割を持っている。王が京都(洛陽)や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、いつも津(しん・水上交通上の関)で、文書や賜与された物品を点検して、伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」ということである。
この地域が伝統的に朝鮮・中国との交流の拠点として重要な意味を持っていた。そのため一大率は、伊都国に常駐して北部九州を行政的・軍事的にも統括する任務や女王の行う外交の実務を厳格に監督し実行する任務を持っており、女王の命を受けて全ての外交実務を伊都国で掌握していた。
[編集] 三雲南小路遺跡
糸島市を中心とした糸島平野の地域に伊都国があり、弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ、王墓)が4基連続して営まれた。それが青柳種信『柳園古器略考』に記されている三雲南小路遺跡である。現在は単に三雲遺跡と呼ぶ。糸島市の平野には川原川、瑞梅寺川(ずいばいじかわ)、雷山川(らいざんかわ)が流れ、三雲、井原遺跡は川原川と瑞梅寺川に挟まれている。1974年(昭和49年)11月より発掘が開始された。1975年度(昭和50年度)も調査は続行された。
その中で最も古いのは三雲南小路一号甕棺墓である。最大幅3.5メートル、長軸4メートルの墓壙を掘り、甕棺を南北に埋納している。出土品は、ガラス璧[3]片5個体分、ガラス勾玉2個、ガラス管玉60個以上、銅鏡14面以上[4]、金銅製四葉座金具[5]8個体分などである。この他にも鉄鏃1、ガラス小玉1が出土している。鏡の多くは「潔清白」に始まる重圏文または内行花文鏡であり、福岡市聖福寺に伝えられている内行花文鏡に合う外縁部が出土している。この鏡の直径は16.4センチである[6]。
一号甕棺墓の北西に近接して二号甕棺墓があり、墓壙の3分の1程が破壊されている。甕棺は、墓壙の東側により北壁側にあり合口式で、半分以上破壊されていたが、破片の大部分は発見されている。棺内に内行花文鏡一面が元の位置のまま発見された。直径6.5センチ、「見日之光天下大明」(日の光あらわれれば、天下大いに明らかなり)という銘文が鋳出されていた。さらに朱を塗った甕棺面には4面分の鏡の影が残っていた。棺内の土の中に多くの朱や甕片、鏡片10面以上、ガラス勾玉2個、硬玉勾玉1個、銅ツボのガラス象嵌用のガラス飾りを再加工したガラス製垂飾品(大きさは1センチ弱で紺色)が出土している。鏡は棺外も含めると15面以上になる。 鏡の直径12センチ以上のものが一例あるが、6.5センチ前後のものが多い[6]。
一号墓を「王」とすれば、二号墓は「王妃」に当たるものと推定されている。この墓地は甕棺何基で構成されていたかは推測不可能であるが、1.5メートル以上の盛り土の墳丘墓であることは、青柳種信が記すところである。
[編集] 井原鑓溝遺跡
三雲遺跡の周辺に井原鑓溝遺跡(いはらやりみぞいせき)がある。青柳種信の著した『柳園古器略考』によると天明年間(1781年 - 1788年)に、この遺跡からは21面の鏡が出土している。拓本からは全てが方格規矩四神鏡[7]であることが分かっている。後漢尺で六寸のものが多く、王莽の新時代から後漢の時代にかけての鏡である。これらの鏡に加え、巴形銅器3、鉄刀・鉄剣類が発見されているが、細形銅剣・銅矛などが出ていない[6]。
1974年(昭和49年) - 1975年(昭和50年)の調査では、この遺跡の所在を確かめることはできなかった。しかし、甕棺墓であったことは間違いない[6]。
三雲・井原の両遺跡は、怡土平野の中央部に位置し、大陸舶載の鏡と金属利器を独占する階級が存在したことが推定できる。
[編集] 平原遺跡
平原遺跡(国の史跡)は福岡県糸島市にある弥生時代後期から終末期の墳墓遺跡である。日本最大の40面ある銅鏡「内行花文鏡」、瑪瑙や鉄刀、ガラスの装身具など、王の墓に相応しい高貴な副葬品が多く数出士し、それらが一括して国宝に指定されている。副葬品の内容から被葬者は女王ではないか、出土した銅鏡40面すべてが、バラバラに割られていたのは何故かなど、未だに謎の多い遺跡である。
[編集] 脚注
- ^ 「世」を代々と訳したものが多いが原文では「世」であり、「世世(代々)」ではないので原文通り世とする。
- ^ 「みな」は王を指し、「世」を代々と読み替えた訳が多いが、「みな」を倭の国々とする訳もある。
- ^ 金印に記されている「奴国」の王墓と目されている須玖・岡本D地点墓からもガラス璧が出土しており、この一号墳の被葬者も中国の皇帝から「王」として待遇された人物であるといえる。この王墓の方が「奴国」の王墓よりも古いとされている。学者により同じ時代とも言い、須玖岡本遺跡の方が古いとも言う。
- ^ 重圏素文鏡・四乳雷文地鏡各1、重圏渦文精白鏡1、重圏文清白鏡1、内行花文清白鏡10面以上。
- ^ 金メッキされた銅製の木棺の飾りで、前漢の皇帝が「王」であった人物の死に際して贈るものである。
- ^ a b c d 岡崎敬「三雲・井原遺跡とその年代」『魏志倭人伝の考古学』第一書房 2003年
- ^ 流雲文、草葉文、波文、忍冬様華文などの縁がある。
[編集] 資料文献
「原田大六論」原田大六
「実在した神話」原田大六著