金田一春彦

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金田一 春彦(きんだいち はるひこ、1913年4月3日 - 2004年5月19日)は、日本言語学者国語学者国語辞典などの編纂、方言研究でよく知られている。文学博士東京大学1962年)。栄典瑞宝重光章勲三等旭日中綬章紫綬褒章

その他の表彰歴として文化功労者東京都名誉都民など。

金田一京助も言語学者で東京帝大教授。長男の金田一真澄はロシア語学者で慶應義塾大学教授、次男の金田一秀穂日本語教師杏林大学外国語学部教授、長女の美奈子はゴルフ関係のライター。父・京助の従姉妹の夫に実業家金田一国士

主な業績[編集]

  • それまで中国本国でも不明になっていた中国語四声の具体的内容を明らかにし、それによって『類聚名義抄』から契沖本居宣長に至る文献の四声を解釈し、平安時代から現代に至る京都語のアクセントの時代的変化を明らかにしたこと。
  • 「カミ」「クシ」などの二音節名詞のアクセントを5つのに分類し、日本国内のどこの方言でもこれら5種類のパターンの組み合わせで分類できることを明らかにし、また全国の方言アクセントについて平安時代京都アクセントからの変化過程を詳細に推論したこと。
  • 国語辞典及び一般図書を含む著書において、国語学の普及のため、専門的な事項を丁寧かつ理解しやすい表現で記述したこと。ある学生向け古語辞典では、例文の現代語訳に外来語を用いたことがあるという。

言語観[編集]

言葉時代とともに絶えず動いて 変化する」が持論で、ら抜き言葉にも「ら抜き言葉はなくならないし、ら抜きに進んでいくのが自然な流れである」と言っていた。

人物・来歴[編集]

生い立ち[編集]

1913年4月3日東京市本郷区森川町(現在の東京都文京区本郷六丁目)なる母の実家にて誕生する。金田一京助と静江(旧姓・林)の間の長男かつ一人息子。父からは学問への情熱を、母からは世俗性を受け継いだ。春彦の出生当時、京助は三省堂百科事典校正係の職を失って無収入であり、一家は経済的にどん底の状態にあった。しかも京助と同郷で懇意にしていた石川啄木(啄木は岩手郡玉山村、京助は二戸郡金田一村出身)が新婚時代の金田一家に押しかけて静江の晴れ着を入質させ、質屋から借りた金を踏み倒して着物を質流れさせてしまい、そのことを静江から繰り返し聞かされて育った春彦は後年、「石川啄木という人は石川五右衛門か何かかと思って育った」と回想した。

1921年4月、自宅の最寄の小学校は、西片町の教養ある家庭の子弟が多く進学校として評判の高い誠之小学校だったが、父の京助が住民票を移し忘れた関係で、本郷菊坂町の庶民的な商家の子供が多数を占める真砂小学校に入学する。この学校では国語よりも算術地理唱歌に興味を示し、誠之小学校で本居長世から歌唱の指導を受け、頭を撫でてもらったことから、本居の人柄を慕うようになった。4年生のときには、本郷区全体の小学校の唱歌会に真砂小の代表者として出場して独唱する。

この頃、夕食の席で言語学者・佐久間鼎の『国語の発音アクセント』が話題になっていた時、自らの発音に基づいて佐久間の学説を批判し、京助から喜ばれる。このとき褒められた経験が自信となり、後年アクセントの研究者として一家を成すに至ったという。また、盛岡出身で標準語の発音に疎い京助のため、幼時からインフォーマントとして研究に協力した。

1924年2月、東京府豊多摩郡杉並町成宗(杉並区成田東四丁目)への転居に伴い、杉並第二小学校に転校する。6年生のとき、童謡教室「阿佐ヶ谷童謡楽園」に通い、当時小学校2年生だった安西愛子(のちのタレント参議院議員)と知り合う。

1926年4月、東京府立第六中学校(東京都立新宿高等学校)に入学する。折あたかも円本の全盛期であり、芥川龍之介国木田独歩谷崎潤一郎藤森成吉を愛読する。同級に俳優植村謙郎昆虫学者朝比奈正二郎社会学者阿閉吉男がいた。苦手科目は物理学化学だった。体操の教師と折り合いが悪く、鉄道自殺を企てたほど悩み抜き、早く六中から逃げようとして、1930年4月、4年修了で旧制浦和高等学校文科甲類(第一外国語として英語を、第二外国語としてドイツ語を必修とするクラス)に入学する。第一高等学校も選択肢にあったが、当時自宅に寄寓していたアイヌ人の知里真志保(同年に一高を受けて8番で合格)の秀才ぶりに遠慮した結果、一高受験を断念した。苦手な作文が入試科目になかったのも、浦高を受けた大きな理由だった。浦高文甲1年の同級生に劇作家福田恆存警視総監原文兵衛がおり、同学年に衆議院議員・伊東正義(文乙)、山口県知事田中龍夫(文丙)、作曲家三木鶏郎こと繁田裕司(文丙)がいた。

入寮の夜、1級上の春日由三(のちNHK編成部長)の「諸君は恋を得よ」という演説に感動し、その影響で4歳下の安西愛子(当時東京府立第五高等女学校1年生)に生涯一度の恋文を送るも、その恋文は愛子の目に触れることなく、代わりに愛子の父安西庫司(小学校長)から懇々と春彦の非を諭した返事が来た。この失恋の件が寮全体に知れ渡り噂になったため、恥ずかしさのあまり学校にほとんど出られなくなり、病気と称して1年生をもう一度やり直すことになった。留年した他の理由は、通常より1年早く4年修了(飛び級)で入学したため自分が人間的に充分成長していないのではないかという不安、倉田百三阿部次郎西田幾多郎の著書に代表されるような旧制高校的教養主義への違和感などである。2年の時に丘浅次郎の『進化と人生』を読み、カントショーペンハウアーといった哲学の非科学性に軽蔑の念を抱く。留年後の同級生である遠山茂樹市古宙三板倉勝正は後にそれぞれ日本史東洋史西洋史の研究者になり、東大で春彦の同僚となった。

金銭的に報われぬ京助の生活を目の当たりにして育ったこと、親の七光りと言われるのを望まなかったこと、学業に関して京助に引け目を感じていたことなどが理由で学者以外の職業に就くことを望んだ末、京助唯一の苦手が音楽であることに着眼して作曲家を志望し、1931年11月に京助の紹介で本居長世の門人となった。なお、同門に藤山一郎こと増永丈夫がいた。安西愛子への失恋体験を題材に、1932年5月の記念祭に際して寮歌「浦和高等学校自治寮音頭」を作曲したこともあるが、本居のピアノ演奏の鮮やかさに接して自らの音楽的才能に絶望したことや、本居から「あれはお父様のあとを継ぐ人だ」と評されたのを人づてに知らされたことが理由となって、同年の夏休みに学者志望へと転じ、京助に向かって「僕もお父さんのような学者になろうと思います」と言ったところ、喜んだ京助から日本語方言のアクセントに関する服部四郎の論文集を渡されて通読し、大いなる感銘を受けた。服部が日本全国の方言のアクセントを明らかにしようと志しつつも満州事変勃発によって蒙語の研究に転じたことを知り、服部がやり残した部分の日本語の方言アクセントを研究しようと計画したが、言語学科を卒業しても就職困難なることを言語学科出身の父から知らされ、国文科志望となった。

1933年、寮を出て浦和市岸町の母子家庭三上家に下宿する。夢精で汚れた下着を始末に困って押入れに隠しておいたところ、下宿先の未亡人が厭わず洗濯してくれたことが契機となって、女性には毎月月経があること、男性は女性をいたわるべきであることなどを未亡人から教えられ、啓蒙を受ける。この家の長女珠江(当時小学校2年生)は、後に実践女学校を中退してから春彦に嫁した。珠江の亡父三上大一郎時事新報記者)は、勤皇の志士三宮義胤男爵の庶子である。

東大時代と軍隊入隊[編集]

1934年3月、旧制浦和高等学校文科甲類を卒業する。優秀な成績で東京帝国大学文学部国文学科に入学が決定し、京助を喜ばせた。同年4月10日、高校生活の最後を飾る意図で吾野(あがの)から越生(おごせ)まで単身徒歩旅行をおこなう。さらに他日、禁欲的な京助の人生に対する疑問から大宮遊郭に赴いて童貞を喪失する。「私は、なんだ、こういうものなのかと思ったが、しかし得るところも確かにあった」(『わが青春の記』北海道新聞社刊、1994年)。同月から杉並の実家に戻り、東大に通学する。当時、東大言語学科で助教授を務めていた京助と共に家を出て学校に行くことがしばしばあった。藤村作久松潜一講義に失望し、橋本進吉の国語学演習に注目したが、個人的に橋本と折り合い悪く、また講義の準備に手間がかかりすぎたため、3年の時にはこの講義に出席することを断念した。父京助によるアイヌ語の講義も受けたが、これは受講生が一人もいなかったら可哀想だと思ったために過ぎず、アイヌ語には特に関心を持たなかった。益するところ最も大きかったのは、邦楽学者・田辺尚雄の講義「日本音楽の理論と歴史」であった。田辺の影響で謡曲を習った時は挫折したものの、音楽(特に邦楽)への学問的関心は生涯失わなかった。さらに、だけ植物同好会に入り、牧野富太郎の謦咳に接した。

当初は方言学の研究を志していたものの、方言学の論文を書いても就職できないことを知り、日本語の歴史的研究に転ずる。1936年4月、満州より帰朝し東大講師に就任した服部四郎から直接指導を受けるようになる。卒論では、平安時代のアクセントを示す好個の資料である観智院本『類聚名義抄』を題材にして、日本語のアクセントを歴史的に研究した。1937年に東大国文を卒えて東大大学院に進み、埼玉県東部方言のアクセントを調査する。東京方言学会で研究成果を発表したところ、東條操教授から高く評価され、学界での評価の礎を築いた。このころ、田辺を慕って東洋音楽学会に入会する。

1938年4月16日、大学院に籍を置いたまま応召して帝国陸軍甲府歩兵第49連隊に入営する。間もなく朝鮮半島に送られ、京城(ソウル)郊外の龍山歩兵第79連隊に移された。学歴を使い幹部候補生に応募する事をせず、通常の徴兵検査を通し入営した為、二等兵として軍隊生活を送る事となった。兵士としては無能であり、新兵に対する激しいしごきに苦しみ、のちにこの時期を自らの人生で最もつらい半年間だったと回想している。7月、マントー氏反応(現在のツベルクリン反応)を見る注射の痕を意図的に掻き毟り、軍医結核と誤診させて[1] 龍山の陸軍病院に入院する。秋に首尾よく除隊となり、半年ぶりに帰京する。このとき、麻布中学校教諭平山輝男九州北陸のアクセント研究を学会で発表していることを知って焦りを持つ。秋に房総半島伊豆半島下田のアクセントをそれぞれ調査する。

1939年4月、東大大学院に再入学。3月には単身伊豆大島に渡り、4月までアクセントを調査する。続いて、静岡県山梨県長野県愛知県近畿地方香川県徳島県愛媛県などを調査する。傍ら、平家琵琶や仏教歌曲を題材に過去の日本語のアクセントを1年間研究する。この時の研究が、後年(1962年博士論文の材料となる。

国語教師からベストセラー作家へ[編集]

1940年、渋々ながら東京府立第十中学校(東京都立西高等学校)の国語教師となることに決定する。本来は旧制高校で教える希望を持っていたが、専門分野の特殊性ゆえに叶わなかった。京助からは更なる学業継続を許されていたが、軍隊生活以後、京助による家庭内支配に息苦しさを感じるようになったため、敢えて大学院生活に終止符を打つことを決意する。3月には、東京の地理に疎い京助のために「十中までの通勤に不便だから」と虚偽の理由を設け、杉並の実家を出て赤坂区表町の三上家に寄寓する。4月から国語教師として十中に勤務する(~1942年)。当時の教え子に実業家堤清二(詩人・辻井喬)、文芸評論家・小田切進作曲家大中恩、建設大臣・水野清がいる。このころ、見坊豪紀の依頼により、三省堂『明解国語辞典』の標準アクセント表記を担当する。

1942年春、橋本進吉の世話で日華学院に移り、終戦まで中国人に日本語を教える。中国人からの質問には「『知っている』の対義語は何故『知っていない』ではなく『知らない』なのか」など、あまり日本人にはない視点からの問いかけが多く、学問的に大いなる刺激を受けた。これと併行して、大西雅雄の世話で国際学友会に嘱託として勤務する。これらの勤めによる俸給の他、『明解国語辞典』による三省堂からの印税で潤ったため、11月6日、当時17歳の三上珠江と結婚。赤坂区表町で所帯を持つ。

1944年4月、実践女子専門学校講師として国文法国語史を担当する(~1946年)。傍ら、寺川嘉四男の世話でフィリッピン協会に勤務する。フィリピン人やビルマ人やマレー人に日本語を教える。10月、空襲を避けて赤坂区表町から世田谷区北沢に転居する。近所の言語学者石黒修と交際する。石黒の勧めで大島正徳『現代実在論の研究』を読み、アメリカの新実在論者たちの言説を知って、哲学に対する従来の侮蔑を翻す。

1945年5月、日華学院が東中野の校舎が爆撃で焼失したため埼玉県下吉田町のに疎開する。8月15日、疎開先の東京都西多摩郡羽村(服部四郎の疎開先の隣家)で終戦を迎える。

1946年4月、日華学院の廃校に伴い無職となったため、釘本久春の世話で文部省国語科嘱託となるも低報酬ゆえに生計立たず、三省堂常務平井四郎に泣きついて『明解古語辞典』の編集の仕事を貰う。同年10月、時枝誠記の世話で東大講師となる(~1948年)。その後も1951年1954年1958年1961年、1962年、1972年1973年に東大講師を務めた。

1947年3月3日、浦高時代の級友館野守男アナウンサーNHK解説委員)の世話でNHK「ラジオ民衆学校」に出演し、日本語アクセントについて話す(永年にわたるNHKとの関係の始まり)。同年12月、NHK「ことばの研究室」の常任講師となる。

1948年3月、秋山雪雄の世話でNHKアナウンサー養成所講師となる(~1977年)。書き言葉中心だった旧来の国語学に対し、話し言葉中心の国語学を構想する契機となる。

1949年2月、国立国語研究所研究員。同年2月、NHKアクセント辞典改訂に外部委員として参加する。

1950年2月、自ら監修に携わった三省堂の中学国語教科書『中等国語』が全国一の売上を記録する。

1951年7月、家主の復員に伴い世田谷区北沢の家から追い立てを受け、訴訟になっていたため、『中等国語』の印税を三省堂から前借りして、杉並区西高井戸一丁目(杉並区松庵二丁目)に土地と家屋を購入し転居する。

1952年11月、ラジオ東京アナウンサー養成所講師となる。当時の教え子に芥川隆行などがいた。同年12月、『中等国語』改訂版が日本全国の中学校の3分の1で採用される。

1953年、三省堂『明解古語辞典』を完成。国立国語研究所を解雇され、4月から名古屋大学助教授となる(~1959年)。6時間を費やして東京から名古屋まで通勤。将来は東京大学教授になることを夢見ていた。

1954年5月、国語学会幹事となる。

1956年1月、国際基督教大学講師となる。

1956年11月12日言語学研究会設立総会で、評議員に選出される。

1957年1月、岩波新書から『日本語』(上・下)を刊行し、ベストセラーかつロングセラーとなる。

1958年7月、東洋音楽学会理事となる。

助教授から教授へ[編集]

1959年3月、時枝誠記が東京大学国語学助教授として春彦より3級下の松村明を採用。東大教授になる夢が潰れ、落胆する。同年4月、名古屋大学助教授に在任のまま東京外国語大学助教授となる。以後、名古屋大学では集中講義のみを担当し、事実上、東京外語大の専任となる。

1961年3月、言語学邦楽学の双方にわたる内容の博士論文『四座講式の研究』を東京大学に提出する。明恵上人作詞作曲と伝える声明の一曲「四座講式」を手がかりに、鎌倉時代の日本語のアクセントを論じた内容の論文であった。同年、東京外国語大学教授となる。入試委員として国語の試験問題を作成する。

1962年2月3日、『四座講式の研究』により東京大学から文学博士号を授与される。審査員は服部四郎であった。同年7月、NHK用語委員となる。

1963年4月25日吉展ちゃん誘拐事件が発生する。自宅のテレビで犯人の身代金要求電話の録音を聴き、何気なく「この発音茨城栃木福島だよ」と呟いたところ、珠江夫人がNHKに電話しこの発言を伝えたため、マスコミから正式に取材を受けることになった。その後、逮捕された犯人が茨城県栃木県に境を接する福島県南部の出身だったため、春彦の的確な分析が話題を呼んだ。

1964年12月18日、『四座講式の研究』が契機となってポリドールから出した真言宗の仏教音楽のレコード『真言声明』(春彦監修)がレコード部門芸術大賞を受ける。

1965年6月、小松清の世話で東京藝術大学音楽学部講師となる(~1971年)。

1966年春、春日由三の出版記念会で安西愛子と再会し、交際が復活する。のちに、愛子主宰の杉の子こども会の後援会長となる。

1968年2月から6月まで、ハワイ大学で客員教授として日本語について講じる。滞在中、自らの不注意から交通事故を起こして罰金刑を受ける。帰国後の12月、学園紛争のさなかに「テレビには出るが、大衆団交には一切出なかった」ことを左翼学生たちから糾弾されたことで辞表を提出するも、このときは不受理となった。

1969年3月、学生運動の活発化にともない、多くの大学が妨害攻勢のため入学試験の実施を中止する中、東京外国語大学の入試を遂行すべく奮闘する。

1970年3月、辞表を再提出。今度は受理され、東京外国語大学を定年前に退職する。

1971年4月、泉井久之助の世話で京都産業大学外国語学部の教授に就任する。京都は気に入ったが、京産大の学生たちの気風には違和感を持ったという。

1972年4月、上智大学講師となる(~1974年3月)。

1974年4月、上智大学教授となる(~1984年3月)。

日本語方言の権威として[編集]

1975年5月、日本琵琶学協会会長となる。8月1日小泉純一郎や桂三枝(現・六代目桂文枝)たちと共に日本テレビ「異色歌手コンクール」に出演し、一等賞を受賞する(10月26日放映)。

1977年4月、池田弥三郎の世話で慶應義塾大学に招かれ、国文科で教える(~1980年)。同年11月18日紫綬褒章を受章する。この年、日本放送協会放送文化賞も受賞する。

1978年東郷学園講師となる(~1981年)。

1983年3月25日、師本居長世の伝記『十五夜お月さん』(1982年12月刊)で芸術選奨評論部に入賞し、文部大臣賞を受賞する。同年11月15日には毎日出版文化賞を、11月19日には日本児童文学会賞を受賞する。

1984年4月、武蔵野女子大学客員教授となる(~1989年3月)。同年、国語学会代表幹事となる。テレビ東京「有名人カラオケ大会」で「人を恋ふる歌」を独唱し、優秀歌唱賞を受賞する。

1986年11月、勲三等旭日中綬章 叙勲

1988年4月、森田一義アワー 笑っていいとも!フジテレビ)の金曜レギュラーに就任する(同年9月まで)。

1989年4月、玉川大学客員教授となる(~2002年3月)。津田塾日本語教育センター主席講師となる(のち顧問)。

1989年、リクルート事件が世間を賑わしている最中、竹下登が主催した総理大臣園遊会に招かれて招待客代表として以下の旨のスピーチを行って新聞などに取り上げられる。「今の日本は文化が発展している。天平文化元禄文化など、日本の歴史上で文化が発展したのはその殆どが悪政が敷かれた時代。現在の文化発展は政府による悪政のおかげ。」

1997年11月、文化功労者に選ばれる。

1998年、歌集『白いボート』を出版する。

2000年10月、『四座講式の研究』で密教学芸賞を受賞する。同年12月、山梨県大泉村(春彦の別荘の所在地)の名誉村民に選ばれる。

2001年東京都名誉都民に選ばれる。6月23日、「長坂メセナの会」の主宰で山梨県長坂町の中央公民館にて金田一春彦作曲の歌を歌う会が開催された。

2004年5月19日午前11時10分、クモ膜下出血のため甲府市病院で死去する。享年91。第46回日本レコード大賞特別功労賞を受賞する。瑞宝重光章追贈。

著書[編集]

単著[編集]

  • 『ことばの四季』(河出新書、1956年)
  • 『話しコトバの技術』(光風出版(話しコトバ新書)、1956年/講談社学術文庫)
  • 『日本語』(上下巻、岩波新書、1957年/新版、岩波新書、1988年3月) - 135万部
  • 『日本古典語典』(正続巻、東峰書院、1959年 - 1961年)
  • 『邦樂古曲の旋律による國語アクセント史の研究 各論(1):四座講式の研究』(博士論文、1961年/三省堂、1964年)
  • 『日本語の生理と心理』(至文堂 (日本文学新書) 、1962年)
  • 『ことばの博物誌』(文藝春秋、1966年)
  • 『新日本語論:私の現代語教室』(筑摩書房、1966年)
  • 『日本語音韻の研究』(東京堂出版、1967年)
  • 『ことばの歳時記』(新潮文庫、1973年)
  • 『国語アクセントの史的研究:原理と方法』(塙書房、1974年)
  • 『日本の方言:アクセントの変遷とその実相』(教育出版、1975年/増補版、教育出版、1995年、ISBN 4316350013
  • 『日本人の言語表現』(講談社現代新書、1975年)
  • 『日本語への希望』(大修館書店、1976年/新装版、大修館書店、1990年4月、ISBN 4469220701
  • 『ことばの四季』(教育出版、1976年)
  • 『話し言葉の技術』(学術文庫、1977年3月)
  • 『父京助を語る』(教育出版、1977年11月)
  • 『日本語方言の研究』(東京堂出版、1977年8月)
  • 『童謡・唱歌の世界』(主婦の友社(Tomo選書)、1978年11月/教育出版、1995年9月、ISBN 4316367706
  • 『垣通しの花』(音楽鑑賞教育振興会、1980年10月)
  • 『日本語の特質』(日本放送出版協会 (新NHK市民大学叢書)、1981年6月)
  • 『金田一春彦・日本語セミナー』(全6巻、筑摩書房、1982年 - 1983年)
  • 『十五夜お月さん:本居長世 人と作品』(三省堂、1982年12月)
  • 『ケヤキ横丁の住人』(東京書籍、1983年11月)
  • 『自然と人生:随筆』(三省堂、1991年10月)
  • 『日本語は京の秋空』(スタジオ・シップ、1993年12月/小池書院、2009年6月、ISBN 9784862254795
  • 『我が青春の記』(北海道新聞社・東京新聞出版局、1994年12月、ISBN 4893637517ISBN 4808305062
  • 『平曲考』(三省堂、1997年5月)
  • 『白いボート:金田一春彦作曲集』(如月社 1998年9月)
  • 『日本語音韻音調史の研究』(吉川弘文館、2001年、ISBN 4642085211
  • 『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川書店(角川oneテーマ21)、2001年4月、ISBN 4047040266
  • 『日本語を反省してみませんか』(角川書店(角川oneテーマ21)、2002年1月、ISBN 4047040665)
  • 『いい日本語を忘れていませんか:使い方と、その語源』(講談社+α新書、2002年10月、ISBN 4062721570
  • 『心にしまっておきたい日本語:忘れられない名文・秀句・子どもの歌』(ベストセラーズ(ベスト新書)、2003年2月、ISBN 4584120536
  • 『金田一先生が語る日本語のこころ』(学習研究社、2003年4月、ISBN 4054019331
  • 『金田一先生が語った言葉とこころ』(学習研究社、2005年10月、ISBN 4054027504
  • 金田一春彦著作集』全13巻別巻1、玉川大学出版局、2003-06

編著[編集]

  • 『日本語の種々相』(大月書店、1955年)
  • 『ことばの研究室』(全5巻、講談社、1978年2月)
  • 『藤井清水歌曲集』(藤井清水歌曲集刊行会、1982年8月)
  • 『学研現代新国語辞典』(学習研究社、1994年4月 - 2002年10月)
  • 荻野知一原著『平家正節:青洲文庫本』(三省堂、1998年7月)

共著[編集]

  • 『変わる日本語:現代語は乱れてきたか』(講談社、1981年11月)
  • 芳賀綏)『古典おもしろ語典:日常「なにげなく使っている言葉」の語源散策ライブラリー』(大和出版、1986年11月)
  • (大栗道栄)『四座講式:声明で語られた釈迦の物語』(新潮社、1992年2月)

共編著[編集]

  • 見坊豪紀山田忠雄)『明解国語辞典』(金田一京助監修、改訂53版 、三省堂、1958年9月)
  • (清水功・近藤政美)『平家物語総索引』(学習研究社、1973年)
  • (三省堂編修所)『新明解古語辞典』(補注版(第2版) 、三省堂、1974年)
  • 鈴木重幸藤井正高橋太郎吉川武時)『日本語動詞のアスペクト』(麦書房、1976年)
  • 安西愛子)『日本の唱歌』(講談社文庫、1977年 - 1982年) 
  • 池田弥三郎)『学研国語大辞典』(学習研究社、1978年4月)
  • 金田一秀穂)『学研現代新国語辞典』(学習研究社、2008年1月 - )
  • 『日本の名随筆 別巻 26 名前』 (作品社)1993.4
  • 『クラウン学習国語百科辞典』
  • 『小学国語辞典』

監修[編集]

  • 『用例学習国語辞典』(学習研究社、1970年)
  • 日本語大辞典』(梅棹忠夫阪倉篤義日野原重明共同監修、講談社、1989年/カラー版、1989年)
  • 『学研全訳古語辞典』(学習研究社、2003年12月)
  • 『小学生まんが語源辞典』(学習研究社、2004年11月)

記念論集[編集]

  • 金田一春彦博士古稀記念論文集 全3巻 三省堂 1983-84

出演[編集]

TV[編集]

CM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 誤診というのは実は勘違いである。十数年間、うまく誤診させて除隊できたと思い込んでいたが、のちに別の医師から「若い頃に結核を患った痕跡がある」との診断を受け、当時の軍医の診断が正しかったことを初めて知ったというエピソードを、「笑っていいとも!」にレギュラー出演していた折、本人の口から披露している。