牧野富太郎

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牧野 富太郎
1934年
人物情報
生誕 1862年5月22日文久2年4月24日
日本の旗 日本
死没 1957年1月18日(満94歳没)
国籍 日本の旗 日本
学問
研究分野 植物学
命名者名略表記
(植物学)
Makino
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牧野富太郎像(牧野植物園内)

牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日文久2年4月24日) - 1957年昭和32年)1月18日)は、日本植物学者高知県高岡郡佐川町出身。

日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。

生涯[編集]

1862年文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた。幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。

元は「成太郎」という名であったが、2歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名している。その後は祖母に育てられた。 10歳より寺子屋、さらにで学び、その後12歳で小学校へも入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている[1]

酒屋は祖母と番頭に任せ(両親は早くになくなった)、地元の学校の教師などから英語を学び、気ままな生活を送っていた[1]。植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。17歳の頃、江戸時代本草学者小野蘭山の手による「本草網目啓蒙」に出会い、本草学とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信し、書籍顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まった牧野は19歳の時、お供を2人つけられて初めて上京した[1]

22歳の時、東京帝国大学(現東大理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などを自由に使用してよいとされた。やがて25歳で、同教室の大久保三郎田中延次郎染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌[1]を創刊した。澤田駒次郎白井光太郎三好学らも参加している。2014年現在も刊行されており、日本で最も古く権威ある植物学誌となっている。[2]

同年、育ててくれた祖母が死去。

26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりである。かねてより音信のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された。[3]

この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に実家の家産も傾いて行った[1]

27歳で新種の植物を発見、『植物学雑誌』に発表し、ヤマトグサと名をつけた。1890年明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。同年、小澤壽衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えた。しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまった。失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしなかった。[4]

一旦、郷里の高知に帰郷し、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開き、自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、知人らの助力により、駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続けることができるようになり、帰京。

31歳で、矢田部退任後の帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となったが、その時には生家は完全に没落しており[1]、助手の月給で一家を養いつつ[5]、文献購入費などの研究に必要な資金に事欠いていた。その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされず[1]、本人の金銭感覚の欠如もあり、相変わらず経済的にも苦しかった。のちに家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある。[6]また、その後松村とは植物の命名などを巡って対立する。

1900年から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だかこれも松村の妨害により、四巻で中断してしまった。

1926年大正15年)には津村順天堂(現、ツムラ)の協力を得て、個人で『植物研究雑誌[2]を創刊したが、3号で休刊した。以降は津村の協力により編集委員制で現在も刊行されている。

1912年(大正元年、牧野50歳)から1939年昭和14年、77歳)まで東京帝国大学理科大学講師。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、学内から何度も圧力があったが、結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、大学に留任している。


牧野富太郎墓碑

1927年4月(昭和2年) 65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は 「日本植物考察(英文)」 。同年に発見した新種のに翌年亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。

1940年昭和15年)、退官後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。

1949年(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも、回復。

1950年(昭和25年)、日本学士院会員1951年(昭和26年)、89歳のとき、文部省に牧野博士標本保存委員会が設置され、同年設立された文化功労者第1回の対象者となる。1953年(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民。

1954年(昭和29年)頃から病気がちになり、病で寝込むことが多くなった。 1956年(昭和31年)、「植物学九十年」・「牧野富太郎自叙伝」を刊行。同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民。同じく同年、高知県に牧野植物園が設立されることが決定された。

1957年(昭和32年)、94歳で死去、没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章文化勲章を授与された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。郷里の佐川町にも分骨されている。

翌年、高知県に高知県立牧野植物園が開園した。

2009年平成21年)の映画『黄金花』で富太郎をモデルにした”牧老人”を原田芳雄が演じた。

逸話[編集]

  • 植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。
  • 植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産を使ったが[1]、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし、学内には富太郎の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年のあいだ、東大植物学教室になくてはならない講師として日本の植物学に貢献した。
  • 富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわる逸話は多い。しかし富太郎を追い出した松村任三自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。後年、富太郎は松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。
  • 尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採ったため、尾瀬の保護運動の一人者であった平野長蔵が研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。

田中芳男と牧野富太郎[編集]

富太郎は1883年(明治16年)、第2回内国勧業博覧会見学のため上京し、その際、文部省博物局を訪ね、田中芳男と小野職愨に小石川植物園を案内してもらっている。まだ無名の富太郎が、3年後にコーネル大学に留学した東京大学理学部植物学教室の誇り高き教授、矢田部良吉の許しを得て、この教室に出入り出来るようになったのは、田中芳男と田中の師である伊藤圭介の力があった。

博物館行政や多くの勧業殖産に貢献し、後に貴族院議員になった田中と富太郎は本の貸し借りをするなど親しく交友があり、それは24歳年上の田中が亡くなるまで続いた。

発見、命名した植物[編集]

命名は2500種以上(新種1000、新変種1500)とされる。自らの新種発見も600種余りとされる。

発見、命名した植物の例
ムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギラン、スエコザサ

和名については、ワルナスビノボロギクのような、当該植物種の性質を短い言葉で巧く言い表しているものもある一方で、ハキダメギクなど発見場所をつけただけの命名もある。イヌノフグリのように意味を考えると(犬の陰嚢の意ゆえ)、少々破廉恥なものもあるが、この植物の場合、もとは和歌山県における同種の方言からとったものではある。

亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、富太郎のこうした学問の場以外の私情をはさんだ献名は例外的であった。マルバマンネングサの学名にはロシアの植物学者マキシモヴィッチにより、牧野の名が盛り込まれている。

また、生き別れになった愛人・お滝を偲んでアジサイHydorangea macrophylla Sieb. var. otakusaの学名を命名したシーボルトについて、otakusaの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書にのべていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることを突き止めたのも富太郎である。

近年の著書[編集]

1953年
  • 『牧野富太郎植物記』 全8巻、中村浩編、あかね書房、1973-1974
  • 『植物知識』講談社学術文庫、1981 
  • 『牧野新日本植物図鑑』 北隆館、1996
  • 『原色牧野日本植物図鑑』 全3巻、北隆館、2000
  • 『植物一家言 草と木は天の恵み』 小山鐵夫監修、北隆館、2000
  • 『牧野植物随筆』 講談社学術文庫、2002 
  • 『牧野富太郎自叙伝』 講談社学術文庫、2004
  • 『牧野富太郎選集』 全5巻、学術出版会、2008
  • 『植物一日一題』ちくま学芸文庫 、2008
  • 『牧野富太郎植物のはなし』 1、中村浩編、草土文化、2010
  • 『花物語 続植物記』 ちくま学芸文庫、2010

伝記など[編集]

  • 上村登 『牧野富太郎伝』 六月社、1955、『花と恋して 牧野富太郎伝』 高知新聞社
  • 渋谷章 『牧野富太郎 私は草木の精である』 リブロポート シリーズ民間日本学者、1987(のち平凡社ライブラリー)
  • 武井近三郎 『牧野富太郎博士からの手紙』 高知新聞社、1992
  • 俵浩三 『牧野植物図鑑の謎』 平凡社新書、1999

子供向け伝記[編集]

  • 山本和夫 『牧野富太郎 植物界の至宝』 ポプラ社、1953、『牧野富太郎 花に恋して九十年』 講談社火の鳥伝記文庫
  • 中村浩 『牧野富太郎』 金子書房、1955
  • 山本藤枝 『牧野富太郎』 偕成社〈児童伝記全集〉、1959
  • 高橋磌一 『牧野富太郎』 講談社〈世界伝記全集〉、1960
  • 佐藤七郎 『牧野富太郎』 国土社〈少年伝記文庫〉、1962
  • 神戸淳吉 『牧野富太郎』 潮出版社〈ポケット偉人伝〉、1971
  • 氷川瓏 『牧野富太郎』 ポプラ社〈子どもの伝記全集〉、1977
  • 谷真介 『牧野富太郎』 主婦の友社〈少年少女世界伝記全集〉、1977
  • 牧ひでを 『牧野富太郎』 集英社〈母と子の世界の伝記〉、1978
  • 林富士馬 『牧野富太郎 植物を愛し研究しつづけた九十余年の生涯』 新学社・全家研〈少年少女こころの伝記〉、1989

小説[編集]

  • 大原富枝 『草を褥に 小説牧野富太郎』 小学館、2001
  • 池波正太郎 「牧野富太郎」『武士の紋章』 新潮文庫、1994 

関連施設[編集]

高知県立牧野植物園
高知市五台山に、没後1年目の1958年(昭和33年)に富太郎の生前の希望も反映し開園した。敷地は6haに拡張され、1500種、13000株の植物がうえられている。開園当初は牧野の偉業を残し、観光植物園としての色彩が濃かったが、現在は有用植物に関する多くの研究者を擁し、世界的研究機関としての地位を築きつつある。
牧野富太郎資料展示室
高知県佐川町の佐川町総合文化センター内にある展示室で、富太郎の眼鏡や絵の具、所蔵本、手紙や墨書など遺品を多く収蔵している。
牧野富太郎記念館
上記、植物園内の付属施設で、本館と展示館の2つの建物にわかれる。本館には遺族から寄贈された蔵書約4万5000冊、直筆の原稿、写生画等、5万8000点が収められた牧野文庫を始め、植物に関する研究室などがある。展示館では博士の生涯に関する展示などがある。
建築設計は内藤廣による。
練馬区立牧野記念庭園
東京都練馬区東大泉の自宅跡地を一般公開したもの。340種あまりの植物が植えられ、記念館には遺族から寄託されている博士の遺品が展示されている。2010年(平成22年)8月に記念館と講習棟を改修し再オープンした。常設展示に加え企画展示室では関根雲停服部雪斎の植物図展覧会や植物標本の展覧会が開催されている。
首都大学東京牧野標本館
没後、遺族から寄贈された40万点の標本が収蔵され、一部は画像データベース化され一般公開されている。富太郎が90年の生涯を掛けて採集した膨大な植物標本の整理には半世紀の時間を要した。
牧野富太郎句碑
広島県北広島町八幡(旧、芸北町内)の臥龍山麓八幡原公園に1999年、富太郎が詠んだ句碑が建立された。句碑に刻まれた句は、富太郎が1933年(昭和8年)にはじめて八幡を訪れた際、湿地一面に咲くカキツバタの自生地をみて感激し詠んだものとされる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 天野郁夫 『学歴の社会史…教育と日本の近代』 平凡社〈平凡社ライブラリー〉(原著2005年1月6日)、初版、pp. 85-88。ISBN 45827652622009年1月22日閲覧。
  2. ^ 創刊号表紙
  3. ^ マルバマンネングサには牧野とマキシモヴィッチの名前の双方から由来する学名がつけられている。
  4. ^ 矢田部は他にも、伊藤篤太郎(理学部教授伊藤圭介の孫)と新種(トガクシソウ)の命名(先着順)を巡って対立し、伊藤を出入り禁止にしている。破門草事件として知られるこの件については、トガクシソウの項目参照。
  5. ^ 子供は13人生まれ、育ったのは7人。
  6. ^ 妻の壽衛子は子供たちに対し「我が家の貧乏は学問のための貧乏であるので、恥じることはない」と言い聞かせていた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]