穴山信友

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穴山 信友(あなやま のぶとも、1506年永正3年)? - 1561年1月1日永禄3年12月16日))は、戦国時代武将甲斐国山梨県)南部の河内地方を治める国衆である穴山氏の当主。父は穴山信風穴山信綱?)で長男と考えられている。母は側室の内藤氏。妻は武田信虎の次女・南松院殿(下山御南殿、晴信(信玄)の姉)。通称は彦六郎(『武田源氏一統系図』では仮名「彦太郎」。受領名は伊豆守。

[編集] 略歴

信友は甲斐国守護武田信虎武田晴信(信玄)の2代にわたって仕え、1542年諏訪頼重との戦いでは武功を挙げている。「伊豆守」は、武田宗家をはじめ同氏の外戚でもあった祖父穴山信懸が名乗っている官名である。信友に関しては天文10年(1541年)から確認されて(天文10年3月21日「穴山信友判物写」)おり、婚姻時期は不明だが、同年には嫡男の信君(梅雪)が誕生しているため、それ以前に信虎の娘婿となり名乗りを許されていたと考えられる。また、子の信君も晴信の娘を正室に迎えており、武田家においては一門同様の親族衆として扱われていた。

永禄元年(1558年)、隠居して家督を信君に譲り、「幡龍斎」を名乗る。1560年12月16日に55歳で死去。墓所は南部町南部の円蔵院で、肖像画(「絹本著色穴山信友画像」)も所蔵されている。法名は円蔵院殿剣江義鉄居士。

穴山氏は信風の代には一族抗争があったが、信友期には下山館(身延町)を本拠に河内領支配を展開し、信君期に次ぐ40通の発給文書が残されている。

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