馬場信春

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馬場 信春 / 馬場 信房
Baba Nobufusa.jpg
時代 戦国時代
生誕 永正12年(1515年) (永正11年(1514年)とも)
死没 天正3年5月21日1575年6月29日
改名 教来石景政(初名)、馬場信房、信春
別名 信政・信武・氏勝
戒名 龍嶽院殿大法寿山居士
乾嫂白元居士
墓所 山梨県甲州市恵林寺
北杜市白州町自元寺(菩提寺)
官位 民部少輔、美濃守
主君 武田信虎信玄勝頼
氏族 教来石氏馬場氏
父母 父:教来石信保
兄弟 信春信頼
昌房、娘(鳥居元忠室)、娘(真田信尹室)

馬場 信春 / 馬場 信房(ばば のぶはる / ばば のぶふさ)は、戦国時代武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。

生涯[編集]

出生と馬場氏について[編集]

生年に関しては、永正11年(1514年)とも永正12年(1515年)とも言われる。

「馬場家系図」によると馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏源頼光の曾孫の源仲政(馬場仲政)を遠祖とする源姓の氏族。摂津源氏の一派である美濃源氏土岐氏の祖となる源光信(土岐光信)の孫で、美濃国土岐郡に土着した土岐光衡の一族で、甲斐国教来石村に移り教来石氏を名乗る。信春もまた教来石(きょうらいし)景政と名乗り、後に馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名、さらに改名して信春となる。通称ははじめ民部少輔、のち美濃守。

信虎時代[編集]

武田信虎の時代から武田氏に仕える。はじめは現在の山梨県北巨摩郡一帯に分拠していた武川衆の一員であった[1]

武田晴信(信玄)の初陣である海ノ口城攻めに参加し、敵将・平賀源心を討つという功績を挙げたといわれている。天文10年(1541年)の信玄の信虎追放計画に参加していたといわれている。

信玄時代[編集]

信玄が武田氏の当主となり、その直後から諏訪伊那(いずれも信濃国)攻めが始まると、これに参加して武功を挙げた。このため信玄から、天文15年(1546年)に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許された。このとき、同時に50騎持の侍大将となり、名も景政から信房と改めた。

その後も信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げたため、永禄2年(1559年)に120騎持に加増され、譜代家老衆の一人として列せられた。永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任されたと言われている。永禄5年(1562年)には前年に隠退した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名する。

永禄11年(1568年)の駿河攻めにも参加する。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍と戦い、武功を挙げた。元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦にも参加し、信玄から一隊の指揮を任されて只来城を攻略した。三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げた。

最期[編集]

馬場美濃守の最期 (歌川豊宣画)
馬場信房の墓(愛知県新城市)

元亀4年(1573年)4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれたという。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県と共に撤退を進言するが容れられず、代わりの策も勝頼の側近に退けられるといった有様であった。ただし、これは確たる資料に出てくる話ではなく、後世の作り話である可能性が高い。

5月21日の設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。元々、数で劣る味方の攻勢が長続きする訳がなく、次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊。大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。これは同書にて「余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、比類なき御働き」と評された三好義継の最期と同等である。享年61。豊川(寒狭川)沿いの出沢(すざわ、新城市出沢)が戦死の地とされており、石碑もある。

なお墓所は、出沢ではなく長篠城址に近い新城市長篠字西野々の住宅地にある。

人物[編集]

武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため、現代において「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。

甲陽軍鑑』には信春に関する逸話が数多く記され、教来石氏時代に足軽大将山本勘助から城取(築城術)を教授されたという。深志城牧之島城江尻城諏訪原城田中城小山城など各地(特に東海道方面に多い)の武田方の支城を築城したとされ、後代には築城の名手とも評されている。

江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』では「智勇常に諸将に冠たり」と記し、一国の太守になれる器量人であると評されている。

山県昌景と共に武田家の重鎮として語られることが多いが、竜朱印状の奏者であり軍政の中枢にいたことが確認されている山県とは対照的に、信春の発行した竜朱印状は確認されておらず、実際の信春の武田の軍政におけるその地位は不明である。

また他の四天王が20代で100騎持ち、40代で300騎持ちなどに出世しているが、信春は44歳にしてようやく120騎持ちと出世は遅れている。

逸話[編集]

永禄11年(1568年)の駿河国侵攻では先鋒を務めるが、その際に今川氏が収集した財宝・名物が焼失するのを惜しんだ信玄が宝物を運び出すよう指示したことを知ると、すぐさま現場に駆けつけ「貪欲な武将として後世の物笑いになる」として、周囲の面々が止めるのも聞かずに財宝を再び火中に投げ込んだ。信玄はこれを知って、「さすが7歳年上だけある」と後世に名を惜しんだ信春の器量に恥じ入ったと言われている[2]

子孫[編集]

嫡子の馬場昌房は、天正10年(1582年)の甲州征伐で戦死したという。このため、馬場氏の家督は信春の弟の馬場信頼が継いだ。信頼の子(信春の甥)馬場信久は、歌舞伎の「大杯觴酒戦強者(おおさかづきしゅせんのつわもの)」に登場する。

子孫は、江戸幕臣の他、和泉国淡輪大阪府岬町)、越後国松岡(新潟県新発田市)、下野国上三川(栃木県上三川町)の富裕郷士となった。主家武田氏との縁組も何代かにわたり行われたため、武田氏の一族として記される場合も多い。上三川町の馬場氏は江戸期には累代名主職を務めており、一族の家紋は武田菱である。

歴史学者の小和田哲男は母方の先祖が馬場信春であると聞かされて育った、と著書に記している。実際に子孫かどうかはわからない。

妙恩寺の11代目住職日豪上人は末子。しかし、徳川家康が武田軍と対陣の際、家康軍が妙恩寺を本陣に使用することを快諾している。また、三方原の戦いで敗れた家康が妙恩寺に身を隠し、難を逃れたという伝説も残されている。

関連作品[編集]

テレビドラマ
漫画
ゲーム

脚注[編集]

註釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 平山(2008)、p.332
  2. ^ 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P61

参考文献[編集]

  •  平山優「馬場信春」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]